(――嘘、うそ、うそ、うそ……!)
分厚く積もった雪の上を駆ける。一歩ごとに膝下までが沈み、やたら足を取られるのがもどかしい。山歩きに慣れていなければ、何度転んでいたことか。
千勢屋香墨は必死で逃げていた。情けないところは見せられない、などという思考はとうに掻き消えている。覚悟はしていたはずだったのに、それがしょせん死の恐怖を知らないがゆえの生ぬるいものだったのだと、現実は早々に教え込んだ。
「GRRRRRAAAAAAAAAAARGH!!」
「ひ――あっ!」
天地を揺るがす咆哮が轟く。
香墨は思わず足を竦ませ、とうとう前のめりになって倒れた。ぞっとするほど冷たい雪が、両手を、そして顔を苛む。
だがそんなものは気にならない。そんな余裕すらもなかった。今まさに迫る脅威と比べれば。
「…………」
倒れたままで背後を振り向く。祈るようにゆっくりと。声を出さず急に動かなければ、捕食者の目を欺ける……そう信じる小動物のごとく。
そして再びそれを見た。澄んだ夜空。冴え冴えと輝く月と星。それらを塗り潰すように立つ、山と見紛うほどの黒い巨体。
半ば伝説の存在として、人々が語るものたちがいる。
宇宙からやってくる種々の妖怪。琵琶内海の恐るべきクラーケン。吸血鬼。上杉謙信。
その内の一柱――エゾヒグマ。かつて江戸で見たビルよりも丈高い怪物が、その頭部に炎の眼光を燃やし、招かれざる客を睨みつけている。
「……ぁぁ……」
カチカチと歯の鳴る音がする。大急ぎで用意した防寒具のため、体感の寒さはそう酷くない。恐怖が背筋を凍らせていた。
エゾヒグマが口を開く。凄まじい牙の並ぶその奥に、超自然の赤い光が灯り、徐々に輝きを強めていく。
放射熱線。成熟した個体の放つそれは地形を変えるという。たとえ魔人とて、生身の肉体で受ければひとたまりもない。
ひょっとして熊を殺してしまったから、こうして報いを受けるのだろうか。香墨は見当違いのことを思い、こうした死に方をしても生き返らせてもらえるのだろうかと思い、対戦相手と向き合うこともなく敗れ去る結末を恥じた。
その時。
「AAAAAAAARGH!」
エゾヒグマが再び吼えた。
香墨は身を固くしたが、様子がおかしい。怪物は苦しげに身をよじっている。半端に充填された放射熱線が、夜空に一条の流星を描いた。
見つめるうちに彼女は気付いた。人間で言うこめかみの部分に、何らかの異物が突き立っている。
射手としての視力がその正体を明かした。矢だ。それもただの代物ではない。三本がひとつに束ねられた矢である。
「ええーいっ!」
場違いに幼い声が辺りに響いた。直後、さらにもう一本――否、三本の矢がエゾヒグマを襲う。
かつて初代武田信玄は、一本一本は脆い矢であっても、束ねることで貫通力が飛躍的に増すことを発見した。現代の対戦車弓にも用いられている有名な原理だ。
二射目は一射目と同じ箇所に当たり、既に刺さった矢を頭蓋の内奥へと押し込んだ。
倒れる。
エゾヒグマが。
驚愕に目を開く香墨の眼前で、巨体が仰向けにゆっくりと傾ぐ。地響きが白銀の峰々を揺らし、怪物は二度と動くことはなかった。
「――そ兄ちゃん! 大丈夫!?」
代わって、彼女の前に現れたものがいる。
桃色の着物を纏った少女。年の頃は香墨より少し下。そしておそらくは、たった今の射撃の主。
現実離れした出来事の連続に、香墨はしばし呆として少女を見つめた。
不思議なことはいくつもあった。
矢を放ったのは彼女であるはずなのに、弓が見当たらないのはどうしたことか。街を歩くような格好でこの雪山に居て、まるで寒そうな様子がないのは何故か。
何よりも――平賀稚器。
この試合の対手であるはずの彼女が、どうして自分をエゾヒグマから救い、
あまつさえ風を避けられる洞窟に案内し、焚火などを起こしてくれているのか。
「……そ兄ちゃん? どうしたの?」
この呼び方もそうだ。
はじめは誰かと取り違えているのかと思ったが、彼女は彼女でちゃんと自分を認識していた。千勢屋香墨、すなわち此度の対戦相手と。
「いや、なんでも――……ううん。あの、どうしてわたしを助けてくれたの?」
背中の銃へ、密かに手を伸ばしながら尋ねる。
自分は明らかに絶体絶命だった。あのまま放っておけば自動的に勝利できたはず。自ら手を下さなければ勝利の判定が得られない可能性などを危惧したとしても、こうして労わる必要はやはりない。
対し、
「だって、そ兄ちゃんはチキのそ兄ちゃんだもん」
むしろその問いこそが奇妙だと言わんばかりに、稚器は黒い瞳を瞬かせてみせた。
(……もしかして、この戦いの意味をよく分かってないの?)
得物に伸ばしていた手を、迷いながらも下ろす。
少女は電極火打石を器用に用い、円錐形に積んだ薪に火花を落とした。たちまち炎が芽生えて伸び、黒ずんだ洞窟の内壁を照らす。
その間ずっと、無防備な背中が晒されている。
倒すのならば、間違いなく絶好の機。
しかし香墨は躊躇った。こちらを誘う罠を警戒してではない。彼女は自分を助けてくれたのだ。十五年生きてきた人間としての良心が、それを攻撃するという判断を鈍らせた。
(だったら……話し合いで、解決できるかもしれない)
香墨はそう考える。
自分の目的は、いわば自ら興す流派の宣伝だ。無抵抗の少女を撃ち殺したところで、良からぬ風評に繋がるのは明らか。
ならばここは穏便に事を収めるのが正解ではないか。自分に負けが付いてしまうのは困るが、この少女の目的が賞金ならば、ファイトマネーを渡せば納得してくれるかもしれない。
「ねえ――」
「そ兄ちゃん。寒くない?」
声をかけようとした刹那、稚器が振り返った。
問われて、ふと身震いする。体の反応というのは現金なもので、死の危険を脱した今では、防寒具越しに染み入ってくる雪山の冷気が無視できなくなる。
「……ふふ、そうかも。ごめんね、わざわざ準備してもらっておいて」
香墨は恥ずかしげに笑った。震えて見せてしまったことだけではない。そもそも自分が能力を使えば、もっと簡単に火が点けられた。それをしなかったことへの負い目を、今更ながらに感じて。
しかし、その笑顔は柔らかかった。郷里にいて、両親や友人に見せるのと同じように。死地を覚悟して臨んだ先で、思わぬ優しさに触れた事実が、緊張に固まった彼女の心を解していた。
「わかった。ちょっと待っててね!」
稚器は明るい声で応じて、焚火の向こうへ回り込む。
好奇心と少しの微笑ましさを抱いて、何をするのだろうと香墨が見守る。
稚器は踊る火の反対側に立った。そして袖口に仕込んであったものか、黒い液体を火に吹きつけた。
その液体は油だったようだ。激しく引火したことからそうと知れ、
「――――っ!?」
観察はあまりにも悠長だったが、魔人の身体能力が香墨を救った。
飛び退いた彼女の一瞬前までの位置を、炎の舌が舐め尽くした。
「な、何するの……!?」
「……あれれ。そ兄ちゃん、寒いって言ったのに」
あくまで不思議そうに、稚器は小首を傾げる。
その言い様に、香墨は古い逸話を想起した。初代武田信玄は、物資の困窮に苦しむ敵将の軍へ大量の塩を降り注がせて生き埋めにし、もってこれを葬ったという。
敵に塩を送る――相手が求めるものを過剰に与えて害と成す計略。
稚器の行動はまさにその体現だ。そして、ならば、これは紛れもなく敵としての攻撃――!
(騙すなんて……ううん、今のは、油断してたわたしが悪い)
勝手に侮り、戦わずに済ませられる相手と見誤った。これは手痛い教示だ。勝ち続けねばならない自分への。
今度こそ銃を手に取ると共に、着ていた防寒具を脱ぎ捨てる。武骨ながらも粋な装い、母が用意してくれた一張羅が現れる。
「――負けないから!」
言うが早いか、銃声が轟く。
火縄銃は射撃に手間がかかる。通常であればそうだ。だが香墨にとってはそうではない。朱の鶴は彼女が命じるまでは決して逸らず、命じたならば即座に飛び立つ。万敵を貫く弾丸として。
対する稚器は腕を打ち振った。どのようなからくりか、桃色の袖が舞うのに合わせ、弾は硬い音を立てて弾かれる。
エゾヒグマを倒すだけの力はやはり持っているのだ。だがかの怪物に感じた恐怖を、今の香墨は持っていない。彼女は今度こそ覚悟を決めた!
「即中即仏ッ!」
続けざまの二射。鶴が燃え、弾が放たれ、しかし此度も有効にはならない。
稚器は大きく跳んで回避し、またも空中から油を降らせた。焚火と香墨とを結ぶ軌道。すなわち実質的な火炎放射。
滾った火に遮られ、相手の表情は見えない。
「くっ……!」
香墨は射撃姿勢を解き、横に転がる。燃える油の跳ねた一滴が左腕に落ちる。ひどい熱と痛み。
だが耐えられないものではない。その程度で音を上げるわけにはいかないのだから!
「ふふっ……そ兄ちゃん、かっこいい!」
「お世辞はいいよっ!」
数度の交錯。
香墨が撃ち、稚器が燃やす。生まれて始めての、息詰まる攻防。
しかし。
(……勝てる)
香墨は悟る。
稚器の動きに、目が慣れてきた。防御を掻い潜り、銃弾が当たる。その度に歪められる顔が、罪悪感を刺激する。
だが勝つ。目の前の少女は敵だ。向こうとてそれを分かっている。分かっているから仕掛けてきた。ここで手を止めるのは、侮辱だ。
「いたっ……!」
さらに何度繰り返す頃か。
弾丸を足に受けた稚器が、鈍い音を立てて地面に転がった。
立ち上がろうとした彼女の頭に銃口を添える。艶やかな黒髪が埃に汚れている。敗者の証であるかのように。
「……勝負あり、よ」
香墨は荒い息をする。優雅に、とはそうそう行かない。泥臭い、宣伝としては今ひとつの勝利。
それでも彼女の胸中には、小さな達成感が灯った。
「……うん。すごいよ、そ兄ちゃん。チキ、負けちゃうかと思ったもん」
その火が、穏やかならぬ風に吹かれた。
「――降参して。勝ったのは……わたし、なんだから」
「ううん。やだ」
稚器が顔を上げた。無邪気な笑顔だった。襲われる前とまるで同じ。
硬い音が響いた。自分の手から銃が落ちたのだと、香墨はやや遅れて気付いた。
「え――」
「ここ、空気が溜まりやすい地形なんだよ。知らなかったでしょ」
自慢げな声。
そう言われる間にも、体が傾ぐ。視界が暗くなっていく。
「火、たくさん使ったから……ふふっ、そ兄ちゃんもね! ……だから、苦しくなっちゃうんだよ」
そんなはずはない。
ならば、稚器はどうなのか。窒息の危険は双方に及ぶはずではないか。
答えの代わりに、浮かんだのは最初の疑問。エゾヒグマを仕留めた矢。それを撃った弓はどこにあるのか。なぜ彼女は雪山でも寒さを気にしていなかったのか。
「チキが、子守唄、歌ってあげる。よく眠ってね、そ兄ちゃん」
体が動かされ、何か柔らかいものに頭が乗せられる。言葉の通り、優しく暖かい歌声が包む。
それを最期の記憶として、香墨の意識はひとたび途切れた。