二回戦 第二試合 松姫カナデ対平方カイ コロッセオ
平方カイは、悠久の時を刻んだ石造りの円形闘技場に吹きすさぶ風の中、かつて確かにこの地で流された血の息吹を感じていた。
戦い、傷つき、そして斃れていった者たち。
剣闘士、猛獣、哀れな奴隷……そして、数学者。
かつて16世紀のイタリアで行われていた数学者同士の決闘は、敗者の一門は一人残らず始末されるほどの過酷なものであったという。
だが、その制裁を掻いくぐったものがただ一人だけいた。
男の名はジェロラモ・カルダーノ。
彼はその目でしかとみた敵の秘技をあまさず禁書にしたため、己が物とした。
その書の名を「アルス・マグナ」……意味するところは「偉大なる法」という。
死の間際に瀕しても、男は結局その書のありかを漏らすことは無かった。
そうして数学秘術のすべてを収めた禁書は歴史の闇へと消えていった。
ここまでは数千年の歴史を見守ってきた数学者であれば誰もが知っている事実である。
だが、先の対戦相手、古太刀六郎がカイにもたらした情報は、彼女にとってもまったく新しいものであった。
「……数学オリンピック」
カイはその忌まわしき名を呟く。
実況者の間で語り継がれているという闇の数学闘技。
詳細は六郎も知ることはなかったが、必ずそこには「偉大なる法」の影があったという。
カイの父、平方コンがそれを追っていたとするならば――。
皿廻音姫は正しかった。
この闘いの先は、必ず亡き父のもとへと続いている。
だからこの戦も……必ず勝たねばならない。
カイの視線の先には、若々しい肉体には不釣り合いなほど熟練の戦闘者としての風格を漂わせる少女がいた。
「それじゃ……いっくよー!」
松島カナデと名乗った金髪の少女は、勢い良く地面を蹴ると一直線にカイの元へ突進してくる。
工夫も何もない、単純な直線軌道の攻撃。
「『波動方程式』『蛇の補題』」
カイのノートから紙片が舞う。
紙片が落た地点を中心として、闘技場の硬い石敷きがまるで水面のように波打った。
地を揺るがす波の山はやがて一つに重なった孤立波(ソリトン)となり、隆起した壁となってカナデの進路を塞ぐ!
と同時に別の紙片が連結し、意思を持つ蛇のように鎖となってカナデの動きを封じようとする!
「へー!それがキミの能力?面白いね!」
カナデは心底楽しそうに笑うと、スピードを落とさずそのまま直進する!
鎖をくぐり抜け、壁を……蹴る!
壁を破壊することはかなわなかったが、カナデはそのまま高く跳躍し、頭上からカイを狙う。
「これでどうだーーーーー!」
高空で宙返りし、そのまま重力に任せて飛び蹴りを繰り出す!
「……『場合分け』。Y>0の場合は……『鳩の巣原理』」
カイは上空から迫り来るカナデの姿を認めると、イプシロンノートの紙片をその場に残し後ろに飛び退く。
瞬時に、空中を漂う紙片は絡み合う鳥の巣のような投網へと姿を変えた!
熊野古道のジャングルに潜む猛禽の急降下攻撃を凌いできたカイには、その攻撃に対する『証明』は済んでいる!
「わ……っぷ!きゃー!何これ!とれないーーー!」
空中で方向転換する能力を持たないカナデはなすすべなく網に捕らえられる。
場合分けは済んだ。
あとはこのまま動けない『命題』を『証明』するだけ――
そう考えることができたのは、ほんの束の間であった。
「うわー本当にとれない!やだー!とれ……あ、でも、やっぱり、」
「とれ…………たーーーーーーーー!」
カイは力任せに数式の網を引きちぎるその腕を見た!
その声は確かに松島カナデのものである!
だが、何かが違う!
破れないはずの原理が破れた!カイは己の犯した証明の過ちを瞬時にみとめた!
然り……金髪の少女の姿はいつの間にか黒髪の大人の女性へと変わっていた!
「『サンドリヨン・ゴーヴァン』!3分間、全力で行くよーーーーー!」
あどけなさを残していた細足は、いまや引き締まった健脚へ!
再び地面を踏みしめ、直進!
バカの一つ覚え……だが、スピードが桁違いだ!
「スピード」×「重さ」=破壊力……単純故に強力な、数式とも言えぬ数式がカイに襲いかかる!
「……!」
数式を紡ぐ暇もなく、カイに突き刺さるカナデの拳。
なすすべもなく吹き飛ばされ、闘技場の壁にたたきつけられる!
壁一面全体に、ペンローズ・タイルのような不規則なひび割れが生じた。
少女の体が地に伏すと同時に、壁面はばらばらに砕け散り彼女へと降り注いだ。
「あっ……ごめんごめん!ついついおもいっきりやっちゃった!これで終わりじゃやだよーー!」
闘技場の中心で、大人びた姿の松島カナデが無邪気に声をかける。
「だから、ね。もっとやろー!」
瓦礫の中の少女へと近づく足取りは、その言葉に反して死神のそれのようであった。
「『場合分け』……間違ってた」
しかし、瓦礫の中から小さな影が立ち上がった。
「だから……まだ。『証明中』……。オレ、倒れない」
カイの闘志はいまだ尽き果ててはいなかった。
それどころか、その目は決死の意思をたたえていた。
カイはポケットから黒褐色の粒を取り出し、噛み砕いた。
呑み下した瞬間、その身体がどくんと震えた。
松島カナデはその様子をいぶかしんだ。
その目に映っていたその固体は、ただの――焙煎されたコーヒー豆であったからだ。
だが、しかし、数学者にとっては。
『ナンバー・ゼロ』――始祖ポール・エルデシュは次の言葉を遺している。
「数学者はコーヒーを定理に変える機械である」と。
カイの体内に違法量のカフェインが駆け巡る。
脳髄は潜在能力を超えて高速回転し、新たな定理を紡ぐ!
「普通じゃ、『証明』……難しい。奥の手、使う」
カイは荒い息を吐きながら、ノートにごく短い数式のようなものを刻む。
無数の紙片が舞い、カイの両手足が数式で纏われる!
「『四則演算』」
手足の数式が、鋭い爪へと姿を変える。
カナデの目には、カイの全身を覆う守護数式がわななき打ち震えたかのように見えた。
――それはおおよそ数式とは呼べぬ、原初の数学。
まさに、『算数』そのものの姿であった。
「ウォォォォォ…………オオオオオオオーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
算数の獣と化したカイがカナデに飛びかかる!
「へえ……!まだ戦えるんだ!嬉しいよ!」
獣の突進を臆すことなく正面から迎え撃つ松島カナデ。
彼女の脳にはもとより後退の選択肢はない!
右爪の足し算を左手で払う!
左足の割り算を右手で受ける!
カナデの鋭い蹴りを宙返りで躱し、左手の引き算が襲いかかる!
隙を突いたカナデのアッパーを回避し右足掛け算回し蹴り!
+!-!×!÷!
算数の獣は休むことなく、『命題』の項を一つ一つ確かめていく。
もはやそれはノートすらも使うことは無い。
振るうのは、己の脳と肉体のみ。
原初の姿に立ち戻ったそれは――すなわち、『暗算』!
「……ふふっ。楽しいね!あたし、今すっごく楽しい!」
獣の猛攻を凌ぎ、反撃を繰り出し、松島カナデは笑っていた。
それは戦闘とも言えぬ原始的な殴り合い。
いつ終わるとも知れない戦いは、しかし確実に終わりに向かっていた。
「……楽しかったけど、もうそろそろ『3分』経っちゃうな……」
『サンドリヨン・ゴーヴァン』の時間切れが迫っている。
両者の強烈な蹴りがぶつかり合い、距離が離れる。
「それじゃ、これでラスト!いっくよーーーーーーーーーーー!」
「ガルルルル…………オオオオオオオーーーーーーーーン!」
同時に地面を蹴る。
闘技場の中心でカナデのストレートとカイの足し算がぶつかり合い、
カナデの右手が、カイの腹部を貫いた。
「うん。楽しかったよ!ありがと
「『矛盾』」
貫かれたカイが無数の紙片へと変わる。
「『カイはカナデには勝てない』」
「『故に』」
「――くおど・えらと・でぇもんすとらんだむ」
カイが証明終了を告げるチャントを唱えると、紙片は無数の剣へ変化し、カナデの身体を貫いた。
「偽の仮定で論理を捻じ曲げる、背理の法。カナデ、強かった。これしかなかった」
どちらが剣闘士で、どちらが獣だったのか。
答えるものは居ない。
「たった2戦で600万円……悪くない、悪くないわ……!」
少女の壮絶な死闘を横目に、熊野古道ベースキャンプに留まるDJ皿廻音姫はただ己の卑近な欲望だけをその目に見ていた。
「そろそろ潮時……ではあるんだけど」
状況を考えるならば、このあたりで手を引いて行方をくらますが得策である。
だが、彼女にとっても六郎から得た情報は大きかった。
それに、と音姫は口には出さずにこう付け足した。
(あの子には、もう少しきれいな世界だけ見ていてほしいのよね)