二回戦第八試合その1


「ふぅーむ……」

 日内環奈は細い顎に手を添え、闘技場とやらの内部を見回した。
 金網で囲まれた戦場はごく狭く、特別気を配るべき要素もないように思える。彼女の興味を引いたのは、むしろその外側の光景だった。

「あとらんちす、とか言われたのだったか。妙な響きの土地だと思ったが……どうやら随分、貧しい暮らしをしているのだな」

『がんばれー……』
『そこだー……』
『……やっちまえー……』

 生気のない応援が飛ぶ。
 栄養状態が良くないのか、観客はみな顔色が悪い。客席自体も古びてみすぼらしく、落石でもあったかのように陥没している箇所すらある。
 天井を覆うドームはひび割れ、亀裂の周囲には黒い染み。ぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、リングの内外に水溜まりを作っている。

「――お前もそう思わんか」

 背後に生じた気配を感じ取り、環奈はゆっくりと振り返る。
 果たして、そこには対手の姿。可愛らしい着物を纏った、年端も行かない一人の童女。黒く澄んだ瞳を瞬かせ、そっと小首を傾げてみせる。

「んー……? チキ、よく分からない」
「そうか」

 環奈は苦笑する。
 彼女は平賀の名を知らない。ゆえに目の前に現れた相手が、見た目以上のものとは思われなかった。しかも――この武闘会の案内人とやらの話によれば――最初の試合で負けたからこそ、こうしてここに立っている。
 ……自分と同じように、だが。

「時間の前に、一つ聞いておこう。お前が戦いたくないと言うのであれば、降参を受け容れても構わないが?」

 自嘲する思考を振り払い、尋ねる。

「ううん」

 返った答えは否定。緩やかに頭が振られるのに合わせ、束ねられた黒髪が尾のように揺れた。

「チキは、勝つよ」
「そうか」

 環奈は頷き、この童女への評価を改めた。彼女も彼女なりに、確固たる意志があって戦に臨んでいるのだと。
 ならば、もはや迷うことはない。それならそれで、ひとえに敵。鍛錬に身を置き続けたがゆえの、至って明快な思考の切り替え。
 目を細める。宿る眼光は、抜き切られる寸前の刃物の輝きに似た。

「日内流師範代、日内環奈だ」

 腰に佩いた銃に手をかける。呼吸に等しく馴染んだ動きは、たとえ目の前にいようとも、あるいは見落としかねないほどに自然だ。

「チキは、チキ」

 対する童女はぺこりと頭を下げた。甘い匂いの香水が、数歩離れた環奈の鼻腔に届く。

「……」
「……」

 両者睨み合うこと、しばし。



 ……ゴォ――――ン……



 荒れ寺の鐘めいた開戦の銅鑼が、地下闘技場を震わせた。

「観客もいることだ。悪いが早々に勝たせてもらう――!」

 そうと言い終わらぬうちに、環奈は稚器の眼前にまで迫る。
 既に腰に銃はない。既にそれは手の内にある。そして、既に振り下ろされている。

「え……?」

 童女の喉が戸惑いの声を漏らす。
 ――殺った。結果の確信。現実がそれに追いつく。銃床の無慈悲なる鉄槌が、小さな頭に喰らいつき――

 そして、リングの床を砕いた。

「何」

 咄嗟に数歩退く。反撃はない。彼我の位置は。変わっていない。先程そうと見定めた通りの場所に、環奈の対手は立っている。蜘蛛の巣状の亀裂が入った床は、その稚器の目と鼻の先にあった。

(外した? 馬鹿な。外されたのだ。どうやって? 敵は動いていない。それは確実だ。ならば何らかの能力か。立ったままで、こちらの攻撃を逸らせるような――)
(――待て。立ったままだと? 今もだ。どこを見て……あの声は、私の攻撃に驚いてのものではなかったのか?)
「……そ兄ちゃん」

 堰を切ったかのごとき思考の渦は、おそらく数秒にも満たなかっただろう。
 その間ずっと稚器の視線は、客席を不思議そうに彷徨っていた。環奈の疑問を肯定するがごとく。

「……どうした」

 環奈は促す。呼称に不可解なものはあったが、彼女の声が届く場所には自分しかいない。そして環奈に通信機の知識はない。
 だが、今回に限っては問題とならなかった。稚器は真実、環奈に呼びかけていたのだから。

 童女は問うた。

「観客って、どこにいるの?」

 ――僅かに一瞬、環奈は銃の構えを忘れた。

「何を……いや、いるだろう。さては妙な質問で私の気を散らす腹か? そうは行かんぞ」
「違うもん。ほんとにいないもん」
『がんばれー……』
『そこだー……』
『……やっちまえー……』
「馬鹿を言うな! ほら、声援だって飛んでいる!」
「聞こえないよ……? そ兄ちゃん、ひょっとして、お化けでも見てるんじゃないの?」
「な――」

 環奈は目まぐるしく首を動かした。客席のあちらを見、こちらを見、対戦相手からも意識を逸らさぬよう努めた。
 確かに――確かに、観客はみな顔色が悪いし、体は青白くて半透明だし、腰から下にはあるべき足もない。
 だがまさかそれだけで、幽霊だなどと。御伽噺ではないのだから。

 環奈の精神は必死に否定する。

 けれど。

 ……もし本当に、本当だったら?

「…………なら、お前には、何が見えているんだ?」
「ぼろぼろのおっきい部屋、だけ。闘技場っていうんだっけ」

 長い沈黙が降りた。

「……や」
「や?」





「やだ――――――――――――――――――――っっっ!!!!!」





 環奈は叫んだ。とても大きい声で叫んだ。

「やめろ! そんな……そんなわけあるか! 許さんぞ! そういう話はお前……私はな! おまえ! そういう話を聞くと一人で厠に行けなくなるんだぞ! わかっているのか!!」
「そ、そ兄ちゃん?」

 環奈は稚器に指を突きつけた。その眦には涙が浮かんでいる。謂れのない非難を受けた童女の側は、ぱちくりと目を瞬かせるばかり。

 読者諸君は既にご存知であろう。
 ここはアトランティス地下闘技場。しかして、先の一戦で起きた不幸な事故により全壊し、多数の死者を出した曰く付きのスポットである。
 徳川家の涙ぐましい急速な復旧作業により、なんとか闘技場の形だけは戻った。だが観客はどうにもならない。凄惨な死を覚悟してまで殺し合いが見たいものなど、暗黒管理社会にも多くはない。
 だが矛盾する現実として、観客は集った。第一試合で死亡した者たち――すなわち、華々しい戦闘を目に焼き付けることだけを末期の願いとした亡霊たちが!
 そして当然、ロボットには霊を観測できない!

「やだやだ! 帰る! もう私おうちかえるー!」
「お、落ち着いてそ兄ちゃん! 深呼吸! ほら、一回深呼吸しよ?」
「わ、わ、わわ分かった……すぅー、はぁー……すぅぅぅううううわああああああああ!」

 促されるままに大きく息を吸う。稚器の甘い香りが再び感じられ、少しばかり落ち着きが与えられる――と思ったのも束の間!
 おお、見よ! 亡霊たちが立ち上がり、リングへと徐々に近付いてくるではないか! まさか生者への恨みを発露させ、二人を仲間に引き込もうとでも言うのか……!?

「そ、そうだ! おまえ! おまえを倒せば勝って出られる! そうだろ? そうだって言え!」
「う、うん。それは間違ってないけど――」
「じゃあ死ねぇええ!」
「きゃああ!?」

 銃を振りかざし子供に襲いかかる環奈! もはやゾンビに囲まれた洋館内で精神の糸を張り詰めさせすぎ仲間への凶行に及ぶ映画の登場人物じみている!
 稚器は危うく回避! 足の裏に仕込まれたローラースラスターが急な攻撃に対応!

「だ、駄目だよそ兄ちゃ――も、もうっ!」

 暴れまわる環奈に対し、稚器は腕部の種子島バルカンを展開した。右腕の肘から先が脱落し、輪状に連なった銃身が露わになる。
 すぐさま放たれる秒間六発の弾丸。それが暴徒鎮圧用のゴム弾であるのは、彼女なりの情けであろうか。――しかし!

「効かん! そんなもの私には効かんぞ! だって日内流砲術の師範代だし!」

 環奈の体に届く直前、弾丸は叩き落されたかのように床へ墜落する。
 ――飛鳥落地穿! こんな口上と共に発動される日が来ようなどとは、お天道様とて予見しなかっただろう!

「だから死ね! 死んでってばー!」
「う、わ――」

 稚器は、発射の反動で隙を生じさせていた。
 対して飛鳥落地穿は、いわば念じるだけで発動できる能力。自身は踏み込みつつ、迎撃の射撃は無効化する。そういった運用が成立する。

 よって、今度こそ。
 環奈が槍のように突き出した銃身は、稚器の心臓を捉えた。

 はずだった。

「――え?」

 手応えがない。
 確かに、銃身は敵の体を貫いているのに。
 驚いた顔をしていた稚器は、その胸から鉄の筒を生やしたまま、表情をゆっくりと微笑に変えた。
 環奈は瞬きをした。すると稚器の姿は消えた。
 銃身の突く先からも、このリングの中にも、視界の届くどこを見ても。

「なん――なん、だ。なんで」

 環奈は後ずさった。
 既に亡霊たちの先頭のものが、リングを囲む金網をすり抜け始めていた。
 亡霊の顔はひどく乾いて萎び、その眼窩はただの暗い空洞となり、もはや用を成すはずもない喉から、掠れた苦しげな呻きを漏らし続けていた。

「や……やめろ。来るな」

 さらにもう一歩下がった背中が、ひどく冷たいものに触れた。
 恐る恐る横に目をやると、息のかかる距離に死人の顔があった。
 肩に、首に、腕に、足に、氷のような手が巻き付きはじめていた。





「……そ兄ちゃん、大丈夫かな?」

 稚器はリングの上でしゃがみ込み、横たわった環奈の寝顔を見ていた。
 額に浮かんだ汗粒の数と、時折上がる拒絶の声が、その夢の穏やかならぬことを表していた。

 香水にも似た香りの幻覚ガスの作用によって、環奈が昏倒してより数分。
 もうじき戦闘不能の判定が下り、システムは稚器を勝者とするだろう。

「わたしはかわいくならなきゃいけない。かわいくなるには――」

 頭痛を覚えたように、彼女は表情を歪ませる。
 当然、からくりには本来有り得ないことだ。電子的錯覚はすぐに流れ去り、自律脳は正しい命令を思考回路基盤に送る。

「――たけだを、ほろぼす、こと。……でも、約束は守らなきゃいけないし」

 ごく最近、重要人物として登録された顔を思い出す。
 そして再び、環奈の顔を見下ろす。よく眠っている。判定は是と下される。

「これなら危なくないよね。お姉ちゃん!」

 そうして、少女は晴れやかに笑った。
 舞台を取り囲む観客席では、彼女には見えぬ観衆たちが、音のない拍手を贈っていた。
最終更新:2016年07月10日 00:03