「――『ハムサンドイッチの定理』」
コロシアム。イタリアに存在する巨大な円形闘技場。
その中心でハムサンドイッチをかじる少女が一人。
丈の長いローブ。褐色の肌。空中に浮遊する謎のノート。
そう。彼女こそ武闘会の参加者の一人。
父の仇を追い求め未開の地からやってきた“数学者”――平方カイその人である。
「グルルル……!」
肉厚のハムの匂いに誘われてライオンが寄ってくる。
カイはどうか。見向きもしない。黙々とサンドイッチを頬張るだけだ。
――ライオン?何故ライオンが?
不思議な事ではない。かつてコロシアムでは様々な戦いが行われたという。
騎士vs騎士。
剣闘士vs剣闘士。
そして、奴隷vs猛獣。
そう、猛獣。
趣向をこらした今回の戦いでは、かつてのコロシアムの猛者達に敬意を表し、無数の猛獣が放たれているのだ!
「グルッ、ガオオオッ!」
ライオンが跳びかかった!
鋭い爪、そして牙が迫る!
平方カイよ。君はこのままライオンのエサになる運命なのか……!
……否。ライオンよりも早く平方の手は動いていた。
傍らに浮かぶノートに――己の血で、なんらかの文字を刻む。
「うるさいぞ、オマエ。 ……『ヘビサイドの展開定理』」
「――ガウッ!?」
刹那、横合いから巨大なものが飛来した。
ライオンの動きが止まった。
腹をすかせた獰猛なライオン。その動きを止めるものとは何か。飛来したのはいったい何か。
ああ、見よ!にわかには信じがたい光景!
『シュゥゥーッ……』
それは巨大なヘビ!ちょっとした家ほどの大きさもあるヘビがライオンに巻き付いている!
数学。とうの昔に滅び去ったはずの古代呪術。
平方カイの能力、《イプシロンノート》はまさに数学そのものであった。
超自然のノートに血で数式を書きこむ事で、方程式の解を導くための理論武装を生み出すのだ。
理論武装――巨大なヘビを展開することもまた、容易い!
「潰せ」
ゴキゴキゴキ。
鈍い音がした。哀れなライオンはヘビに全身の骨を折られ絶命したことだろう。
――だが、平方カイの目は依然として別の方向に注がれている。
このコロシアムで暴れているもう一人の魔人に注がれている。
「おっ、最後はお前かあ!よし!勝負だ!」
「ガオオオーン!」
よく通る声が円形闘技場に響く。
金髪のポニーテールがキラキラと輝く。
どこかの女子校の制服。控えめな胸。すらりと伸びた脚。
平方の視線は、真正面からクマと相撲を取り、投げ飛ばしている少女――松姫カナデの方に注がれている!
「でりゃああっ!」
「ガオオオーン!」
クマが地面に叩きつけられ、気を失った!
コロシアムに放たれていた猛獣は100匹。
信じがたい事だが――平方カイと松姫カナデは、これをたった二人で退けたのだ!
戦いの前哨戦。ただのウォーミングアップとして!
「……」
平方が松姫カナデに歩み寄っていく。
途中、平方の手が動き、ノートに何かしらの公式を書き込んだ。
「準備運動、終わったか」
「うん!平方……カイさん?
あなたの戦いも見てたよー!すごかった!」
「そうか」
平方カイは父の仇を討つべく、未開の地からやってきた。
こうして数学を真正面から褒められるのは故郷ではそうそう無い経験であり、こそばゆかった。
(多分、コイツは違う)
頭では分かっている。
(コイツはバカすぎる。数学者でもない。
父ちゃんを殺した難問、こいつに使えるワケがない)
――それでも聞かねばならない。
平方カイは数学者だ。あらゆる命題を証明する者だ。
聞かねば証明はできない。
「――オマエ。松姫、カナデだったか。
「うん」
「オマエ……オレの父ちゃん。平方コンを殺したやつか?」
「お父さん?」
「そうだ。平方コン。殺したの、お前か」
「ううん、違うけど」
「……そうか」
予想通りの答えではあった。
ならばこいつと戦う意味は無いのではないか。
戦いを放棄するべきか、一瞬迷う。
だが――あの日、乙姫は平方にこう言っていた。
『戦いに出場して、勝ち抜いて、お父さんの敵を取れ』
そうだ。もしここで負けて、それで戦いが終わってしまったらどうするのだ。
なにより、目の前に対戦者がいる。『命題』がある。
たとえコイツが父の仇でなかったとしても――数学者として、証明を放棄して逃げ出す事だけは、許されない!
「……口ではなんとでも言える。
違うならば、証明してみせろ。戦って!」
平方カイの傍らに浮かぶノートが発光した。
魔人能力――《イプシロンノート》の発動!
先ほど書き込んだ文字が効果を発揮し、理論武装を生み出す!
「『胡蝶定理』『擬軌道尾行性の補題』」
――松姫カナデ VS 平方カイ。
その初手は、平方の攻撃から始まった!
「『胡蝶定理』『擬軌道尾行性の補題』」
現れたのは無数の幾何ミサイルである!
幾何ミサイルをご存じない人もいるかもしれない。分かりやすく書けば、それはピンク色に発光する無数の蝶。
それが一斉にカイの周囲を羽ばたき――
「いけ」
――カナデに向かって、猛烈な勢いで突撃する!
「!」
回避!咄嗟にカナデが走った!
短距離ランナーのように円形闘技場の外周を駆け、そのまま壁を蹴り、壁面を走る。
背後では幾何ミサイルが着弾。そして爆発!
まるでチーズか何かのように、石造りの闘技場に穴が穿たれていく!
(すごい……!これは、直撃したら超マズい!)
弾幕の切れ目を狙ってカナデが跳んだ。
カナデはあまり頭を使って戦うタチではない。しかし、これまでの動きから平方カイの弱点はある程度察する事ができた。
そう。彼女は、おそらく――
(接近戦に弱い!)
ヘビの召喚。そしてこの爆発するチョウチョミサイル。
ロールプレイングゲームで言うところの魔法使いのような魔人なのだろう。
ならば話は単純だ!接近し、己の距離で戦う!格闘戦で一気に仕留める!
決意と共に、カナデが思い切り地を蹴った!
みるみるうちに両者の距離が詰まり、格闘戦の間合いに入る――!
「さあッ!これでッ!」
「……」
「あたしのッ、距離だあああッ!」
強烈な踏み込み!
コロシアムの地面が抉れる!
カナデの正拳突きが平方の鳩尾に迫る!
彼女は格闘向きの魔人ではない。当たればひとたまりもない――。
“はず”だった!
ガ ッ !
「!?」
次の瞬間、目を剥いたのはカナデの方であった。
渾身の力で放った正拳突きが、同じ正拳突きで相殺されている。
――平方カイが、空手の構えを取っている!
「違うぞ。ここもまた、数学者の距離だ」
「……てやああッ!」
密着距離からカナデのハイキックが放たれた。
平方も同じだ。反例のハイキックを繰り出し、相殺する!
「遅い。見える、ぞ!」
「これなら、どうだッ!」
ローキック。そして掌底、回し蹴り。
下段で気を引いてからの中段二連攻撃。カナデが得意とするコンビネーション――これも相殺!
同値!相殺!
同値!相殺!
同値同値同値!相殺相殺相殺!
カナデの格闘術の尽くを、平方カイが否定していく!
「魔法使い……じゃない!?」
「フン」
これはどういうことか。いかな数学者と言えど――いや。
頭を使う数学者だからこそ、“肉体戦はその本領ではない”はず。
否!そんな事はない!
考えてみてほしい。数学者にもっとも必要な身体機能は何か?
――それは強靭な脳だ!
数学者の脳は常人のそれよりも遥かに大きく、密度があり、重い。
常人の肉体では『脳を支える事すらできない』!
最大の武器である脳を全身で支えるべく、数学者の肉体は鍛えられ、強靭なものとなっている。
強靭な肉体で格闘戦が出来ぬ道理は、無い!
しかも平方カイは事前に、“自らの肉体に対して”定理を仕込んでいる……!
(――『ゲーデルの加速定理』そして)
(『カラテオドリの定理』)
肉体の反応速度を大幅に加速させる定理。
そして、自身の格闘センスを何倍にもブーストする定理!
『あらゆる理論武装を生み出す数学』――当然、己の身体を武器とすることも出来ておかしくない!
今や平方カイの近接戦闘能力は松姫カナデと同等。
否、あるいはそれ以上!
「ちょっと面白いな。オマエ、この定理についてこれるとは」
「だが」
平方カイの身が沈み、真上へ飛んだ。美しいカージオイド曲線を描く蹴りがカナデに叩き込まれる!
「ぐッ……!」
吹き飛ばされるカナデ。平方とカナデの距離が、離れた!
平方カイは追撃の為に距離を詰めない。それどころか、むしろ一歩後退した。
何のために?……決まっている。彼女が持ちうる最強の定理でトドメを刺す為だ!
「これで、終わりだ――――『六球連鎖の定理』!」
平方の傍らに浮くノートが光り輝く。
そして、コロシアムに巨大な影が落ちた。
「う…………っわ…………!」
平方の手元に召喚されたのはあまりにも巨大な鈍器だった。
モーニングスターのようなシルエット。長い柄はいい。その先についた鉄球もいい。
だが、その大きさはなんだ。鉄球は軽トラックかそれ以上の大きさがあり、
叩き潰されればどんな人間も生きてはいられまい。
しかも!その鉄球が何故か、六個もついている!
「オレの最強武器のひとつ。
ここまで展開させた事を、誇りに思いながら、」
「……眠れ!松姫、カナデ!」
「――――ッ!」
ブ ン !
――強化された数学者腕力に任せ、巨大質量兵器が振り下ろされた!
カナデは何か回避行動を取ろうとしたが、叶わなかった。カナデは質量兵器に叩き潰された。
コロシアムの地面が抉れた。風圧で観客席にまで被害が及び、天井の一部が崩落した。
「……」
あまりにも圧倒的な破壊。だが、平方カイにとっては何の感慨もない。
数学者とはこういうものだ。数学とはこういった力を持つ、絶対的な存在だ。
「……ふん」
証明終了――くおど・えらと・でぇもんすとらんだむ。
平方カイが、そう宣言しようとした矢先だった。
「す、」
「すごかったあ……死ぬかと思った……!」
瓦礫の中から、傷一つない松姫カナデが現れたのは。
――無傷!
ありえない事だった。『六球連鎖の定理』は父、平方コンが好んで使った定理である。
当然、カイ自身もその威力は知っている。
これは受けて生きていられる人間――いや、生きていられる生物など、知らない!
「なんで生きてる」
「わからないよ。絶対……うん。死んだと思った。ふああ……」
眠そうな目をこすり、カナデが欠伸混じりに答えた。
「ふざけているのか、オマエ……!」
……百歩譲って生きているのは良い。
だが、その態度はどういう事か!
あくびだと!対戦者への敬意がまるで感じられない!
奥義を打ち破られた驚愕。
そしてカナデのナメくさった態度。
その二つが平方カイの攻撃をより苛烈にさせたのは、当然と言えるだろう!
「――『カット除去定理』!『分裂補題』!」
ノートに書き込む。
今度の定理はヘビも、武器も、蝶も現れない。
『カット除去定理』で召喚するのは真空波。その威力はコンクリートのビルすらやすやすと切り裂く。
しかも『分裂補題』の力で無数に分裂し、文字通り真空波の雨となってカナデに襲いかかる!
「あっ」
まだ眠たげな目を擦っていたカナデは、何のリアクションも取らなかった。真空波が直撃した。
「これならば――!」
もうもうと土煙が立ち上り、……そして。
先ほどと同じように、無傷の松姫カナデが現れる。
「なんか分からないんだけど……
それ喰らうと……すっごく……ふあ」
欠伸を噛み殺しながら、カナデは信じがたい事実を告げた。
「ねむく……なるんだよね……」
「……………………はあ!?」
――そう、松姫カナデはバカである。
彼女にとって、数学の授業というのは睡眠時間であり、数学教師の声は心地よい子守唄だった。
体育の授業だけが楽しくて学校に行っているようなものだ。数学の時間はいつも眠っている!
つまり?
つまり……彼女の低レベルな脳味噌にとっては……どんな高等な定理も、等しく同じ“催眠術”に過ぎない!
物心ついた頃から、いや、生まれた瞬間から数学と共にあった平方カイには信じがたい事実だった。
バカには、数学が、効かない!
野生の動物にも効くのに!
ふざけているのか!
「ふざ、ける、なッ!」
……頭に血が上りそうになるのを堪える。
数学の可能性は無限だ。数学者たちが証明してきた命題もまた無数。
こういう手合いに対する定理も、当然存在する――!
「ならば――これならどうだ」
平方の手が動き、ノートに次の一手を書き込んだ。
目が憤怒の形に吊り上がる。
「オマエ、数学をバカにしたな……見せてやる!」
「『三平方の定理!』」
発光する巨大三角形が高速回転し、カナデに突き刺さった!
平方カイのアンサーは“術式のレベルを落とす”事であった。
彼女は知らぬ事だが、松姫カナデの実年齢は17歳。学年で言えば高校2年生。
『三平方の定理』は中学校で習うものだ。ならば効かぬはずがない――!
もうもうと土煙が立ち上り、……そして。
「ねむっ……くない!眠くない!」
――効いていない!
「ふざけるなァ!」
今度こそ平方カイは激昂した。
なんだ、こいつは!数学を侮辱するにも程があるだろう!
だがアプローチは変えない!オレは数学者だ。絶対にこのバカを証明してみせる――!
「『二等辺三角形の底角は等しい』!」
術式のランクを更に落とす。無名の低級定理!
低級定理であるからこそ、知性の無いものにも一定の効果を発揮する――はずだ。
カナデの足元が光輝き、無数の二等辺三角形が飛び出す。三角形がカナデの肉を裂き、骨を砕く!
さあ、これならばどうだ!
もうもうと土煙が立ち上り、……そして。
「うおりゃあーッ!」
裂帛の気合と共に、カナデが頬をつねっている――効いていない!
「くそッ! 『底辺×高さ÷2』!」
術式のランクを、更に落とす!
全ての三角形が面積はこの術式のもとに形作られている。
これまでの定理で使用した三角形に再び光が宿る――破壊力の再エンチャント!
再起動した三角形が一斉収束し、爆発する!
「うおおおッ!眠る、もんかああああッ!」
――効いて、いない!
「オマエエエエエッ!
眠れ眠れッ、いい加減に眠れッ!」
術式のランクを更に更に更に落とす!
「これでどうだッ!
『ににんがし』! 『ごっくしじゅうご』!」
算術――定理にも満たない下等な術!
あらゆる術式の基本。加・減・乗・除の四則属性からなる単純な攻撃!
乗属性を帯びたエックス型光弾が無数に召喚され、天から降り注ぐ!
「ねむっ……てません!
起きてます!大丈夫です!」
――無傷!
もはや眠気で朦朧としながらも、しかし、松姫カナデが無傷で立っている。
そして恐ろしいことに――少しずつ――こちらに距離を詰めてきている――!
(どうすればいい。父ちゃん、オレはどうすればいい!
数学が効かない。こんな奴、戦ったことがない!)
松姫カナデがぶんぶんと頭を振った。
眠気を振り払い、地面を蹴る。
懐に潜り込む!
平方カイの眼前に迫った松姫カナデが、光に包まれた。
金髪が黒髪に変わる。
体つきが少女のものから大人のものに変わる。
『全盛期の自分』を呼び出し身体能力を超絶ブーストする《サンドリヨン・ゴーヴァン》発動!
いくぶん理知的に見える美女が拳を振り上げる!
「これで……お、わ、りッ、だァァァァッ!」
「ううううおおおおおおおおおおッ!
『いちたすいち――――』」
迎撃の原始呪術を放つ事は叶わなかった。
平方の攻撃よりも早く、《サンドリヨン・ゴーヴァン》で強化された松姫カナデの拳が平方の鳩尾にめり込んだ。
「ぐッ……ああ、あああああああッ!」
凄まじい衝撃だった。視界の中、コロシアムの光景が飛ぶように流れていく。
そして、背中に衝撃。
平方カイは『XIII(14)』と刻まれた石造りのアーチを粉砕し、壁に叩きつけられた。
「そんな……こんな、事が……」
呻き、平方カイは地面にばたりと倒れた。
倒れた際にウラムの布で編まれたローブがめくれ、腕や脚、下腹部が一部露出した。
――褐色の肌。
そこにびっしりと刻まれているのは何か。
ああ、それは間違いなく親の愛。一族がカイに残した愛。
平方一族に伝わる伝説の守護公式――――『フェルマーの最終定理』である。
全身を埋め尽くす謎の守護公式はこう締めくくられている。
『この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる』
一族の守護公式。これは、実際に身を守る加護があるもの“ではない”。
事実、ここまで平方カイが追い込まれていながら何の呪術的効果も発揮していない。
守護公式は祈りであった。
――健やかなれと。
成長せよと。
これを証明するだけの余白を生み出せるほどに、大きく育てよと。
遠い昔から、父から子へと受け継がれてきた祈りであった。
平方カイは世間を知らぬ。
数学以外の世界を知らぬ。
そして、彼女はまだ若い。
この戦いを経た事で……彼女はより強く、より大きく育つであろう。
「……証明、未完、か」
「だが……」
「いつか、必ず……」
それだけを呟き、平方カイは気を失った。
直後、『XIIII(14)』と書かれた石のアーチが彼女の上に落下した。