石谷氏・石ヶ谷氏について




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 このページは、石ヶ谷(いしがや・イシガヤ)という名字でネット検索しても、ご先祖様の手がかりがない人のために、作ったものです。

 もちろん、石ヶ谷と言う名字だからといって、総ての方が本ページの石ヶ谷氏に繋がるわけではありません。これは、名字というものの発祥に原因があります。通常、江戸時代の平民は現在のような名字を持っていなかったため、名字をつける制度が出来た際各々が、お寺や付近の実力者から名字を貰ったり、新設したり、勝手に名乗ったりしたためです。


資料


石谷・石ヶ谷 (いしがや)

  遠江国佐野郡西郷石谷(掛川市)に由来する石谷氏がある。藤原為憲流で、二階堂行清が外祖父の西郷氏を称し、子の清長が二階堂氏に復し、その子政清が遠江国石谷に住んで石谷氏を称したという。また、西郷に住んだことから行清が西郷氏を称し、徳川家康に仕えた政清が西郷局に憚って石谷氏に改めたともいう。政清は、今川義元・氏真に仕えたのち、永禄一二年徳川家康から遠江国飛鳥郷一色(掛川市)を与えられた。子孫は旗本として続く(寛政譜)。同国佐野郡上西郷村(掛川市)に石谷明神があり、石谷十蔵の氏神という(遠淡海地志)。

 駿河国安倍郡足久保村(静岡市)に、戦国期の安倍七騎の一つに数えられた石谷氏がある。遠江石谷の石谷氏と同族という。今川氏に仕えたが、重郎左衛門は今川氏滅亡後に武田氏に仕え、のち徳川家康に仕えた。

 駿河国庵原郡袖師(清水市)に、石谷政清の五男清重を祖とする石谷氏がある。清重は海野又太郎と称して幕臣となり、のち一族の住む足久保に閑居した。その孫の清勝の次男清升は朽木家臣となるが病を得て駿河に戻り、子孫は袖師に永住したと伝えられる(静岡県の名字)。

 現在、石谷姓は静岡市・小笠原郡大東町、石ヶ谷姓は清水市に多い。



 このように、静岡県発祥の石谷・石ヶ谷氏が存在します。石谷という名字は、美濃・土佐・九州?など、各地に存在しますが、静岡発祥の石谷氏とはあまり関係がありません。静岡の石谷氏は、最初は二階堂氏を名乗り、次に西郷氏、ついで石谷(西郷)政清の代に石谷氏を名乗るようになりました。

 石谷氏の先祖とされる二階堂氏については、ここにも少し書かれています。ただ、こういった経歴というものは、江戸時代に粉飾が横行したので、本当かどうかは定かではありません。また、石谷氏は西郷氏(遠州の)と縁戚にあり、色々な地点で養子を貰うなどしているため、系図はややこしくなっています。

 ちなみに、私の母方の系図では、石谷政清―清吉―清春―清勝―清升―詳細不明(よく読めませんでした。西郷左衛門?)―女子―五左衛門・・・・・・となっており、清重の部分が違いました。単に私が行書体を読めなかったからか、当時の人間は改名する場合があったせいかはわかりません。

 石谷が石ヶ谷になった地点はよくわかりません。ただ、読み間違え(イシタニ)を防ぐため「ヶ」を挿入した可能性や、本家筋に憚って「ヶ」を挿入した可能性、当て字で石ヶ谷と書いているうちに石ヶ谷で定着したという可能性などもあります。昔の識字率はあまり高くないので、当て字をよく使いますしね。まぁなんにせよ、元々は同じ名字です。

 本文中で出てくる地名は古い呼称ですが、清水市と書かれているところは今の静岡市清水区です。この資料は、清水区の中央図書館で見つけました。題名は亡失してしまいましたが、図書館二階の静岡県の名字の本が置いてある辺りにありました。


資料


Ⅱ-4 懸川城の戦いと徳川氏の支配 懸川周辺を与えられた武士

 懸川城攻めにあたって、家康は今川家臣の切り崩しをはかっているが、たいていの場合は、本領安堵という餌をちらつかせながら誘降工作を行っている。家康に内応し、さきにみたように天竜川の船は橋架橋で奔走した久野城主久野宗能は、「今度忠節については、本地駿州のごとく宛行う所永く相違あるべからず」という家康からの「久野一門同心本知行の事」と題する判物をもらい、垂木のうち50貫文など合わせて二一〇〇貫文を安堵されている(「久野文書」『静岡県史』資料編7)。

 また、本領安堵というだけでなく、戦闘が本格化するにつれ、武将たちからの要求によって新恩給が与えられるというケースもある。一例として、石谷十郎右衛門政清の例をあげておこう(「記録御用所本古文書一」『静岡県史』資料編7)。

   今度行わる知行の事

 右、五石半の飛鳥一色百弐拾俵弐斗俵也、 ならびに前々屋敷分由緒有り、訴訟せしめ候間、新給恩として出し置きおわんぬ、永く相違あるべからず、この旨を守り、いよいよ奉公せしむるにおいては、重ねて扶助を加うべき者也、よってくだんのごとし、

   永禄十二年己

           巳          (徳川家康)

     正月廿六日       御名乗御書判

            (政清)

          石谷十郎右衛門殿

 この石谷政清の例は、恐らく、本領の安堵のほかに、「屋敷分も加えて欲しい」と訴え出たために、新給恩として宛行われたものと思われるが、本領安堵ではなく、今川方にとどまった家臣の所領を取り上げ、家康方となった元今川武将に知行が与えられたというケースもある。例えば、朝比奈十左衛門尉らに対する家康の知行宛行判物(「朝比奈文書」『静岡県史』資料編7)には、 ・・・以下略・・・



 ここについては特に論じることはありません。私には、単位がいまいちわからないですし。ただ言えることは、歴史上では小さな部分ですが、こういった小さな部分ではたまに石谷政清の名前が出てきます。下記のリンク先「風雲戦国史」(HARIMAYA)さんによれば、18人の郷士を従えて仕官したとありますので、その人数を養える1000石前後の石高を持つ、富農あるいは土豪といった身分の者だったのでしょう。

 ちなみに、この資料のように僅かな土地でも欲しいという点で、貧乏臭いと思われるかもしれません。しかし一所懸命という言葉があるように、土地というものが重要な時代です。資料中の『五石半』についてですが、一石がおおよそ人一人が消費する米の量であり、四石もあれば、農民1人分を充分に養える時代です。五石半の場合、多ければ2人養えます。他の大名と比べれば小さな土地ですが、こう考えれば重要さがわかっていただけると思います。

写真


美人ヶ谷城(石谷城)跡は現在の山本神社。こんな感じ。
私には城の縄張りがわからないので、とりあえず上っただけです。

城跡へ上っていくところ (いやもう完全に茶畑ですね)

城跡のてっぺんから見下ろしたところ(茶畑ェ・・・)

名字石(9つとか探すの大変。あるのか・・・?)

名字石の付近の立て看板

石谷氏のリンク


歴史



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最終更新:2011年11月21日 23:40