※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。
※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。
※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。
※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。
※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。



桑原政重(くわばら まさしげ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】權左衛門、次郎左衛門(新訂寛政重修諸家譜)、清吉(石ヶ谷家家系図
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】松平忠輝の配下、徳川頼宣の配下、紀州藩士(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図
【子息】?桑原清氏(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】
【略歴】
徳川忠輝に仕えた後、徳川頼宣に仕えた。(新訂寛政重修諸家譜
紀州徳川家に仕えた際に桑原氏を称した。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



桑原清氏(くわばら きようぢ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】九兵衛、權左衛門(新訂寛政重修諸家譜
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士(新訂寛政重修諸家譜
【実父】?桑原政重(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】?桑原時清(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】
【略歴】
【備考】



桑原時清(くわばら とききよ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】權左衛門(新訂寛政重修諸家譜
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士(新訂寛政重修諸家譜
【実父】?桑原清氏(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】一徳(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
【備考】



桑原長清(くわばら ながきよ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】權左衛門(新訂寛政重修諸家譜
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】紀州藩士(新訂寛政重修諸家譜
【実父】?桑原時清(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】石谷清全の妻(新訂寛政重修諸家譜
【養子】石谷清全(娘婿)(新訂寛政重修諸家譜
【法名】
【略歴】
紀州藩士岡本作之丞の息子である石谷清全を娘婿として養子にした。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清全(いしがや きよのり)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】權左衛門、桑原清全?(新訂寛政重修諸家譜
【生年】寛文5年(1665年)(逆算)
【没年】延享3年6月4日(1746年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】82歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】500石(下野国都賀郡500石)、廩米300俵(新訂寛政重修諸家譜
【官位】布衣、従五位下豊後守(新訂寛政重修諸家譜
【役職】小納戸、先手銕炮頭、西ノ丸留守居、寄合(新訂寛政重修諸家譜
【属性】紀州藩士(新訂寛政重修諸家譜)、御家人、旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】岡本作之丞(紀州藩士)(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】桑原長清(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】桑原長清の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】海野治部右衛門(紀州藩士)の娘(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】
【子息】石谷清昌、高井兵部少輔信房の妻、亀井清永(桃之助、内記、平三郎。亀井平三郎忠亮の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】日豊(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
紀州藩士桑原長清(石谷政清後裔)の娘婿として、その養子になった。(新訂寛政重修諸家譜
享保元年(1716年)、紀州藩士時代は徳川吉宗に使えていたが、徳川家重が二ノ丸に入った際にこれに従い御家人となる。(新訂寛政重修諸家譜
享保元年10月6日(1716年)、小納戸となり下野国都賀郡に領地500石を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
享保元年12月18日(1717年)、布衣を許された。(新訂寛政重修諸家譜
享保10年7月28日(1725年)、先手銕炮頭となる。(新訂寛政重修諸家譜
享保13年4月(1728年)、徳川吉宗の日光社参に従う。(新訂寛政重修諸家譜
元文4年1月11日(1739年)、西ノ丸留守居となる。(新訂寛政重修諸家譜
元文4年12月16日(1740年)、従五位下豊前守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜
元文4年12月16日(1740年)、姓を石谷氏へ改めた。(新訂寛政重修諸家譜
寛保3年12月20日(1744年)、職を辞し寄合に入った。(新訂寛政重修諸家譜
延享元年11月20日(1744年)、致仕。この際養老料廩米300俵を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
死後は、丸山浄心寺に葬られた。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
石谷清全の子孫は丸山浄心寺を菩提寺とした。(新訂寛政重修諸家譜



石谷清昌(いしがや きよまさ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】左内(新訂寛政重修諸家譜
【生年】正徳5年(1715年)(逆算)
【没年】天明2年11月10日(1782年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】68歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】800石(下野国都賀郡)(新訂寛政重修諸家譜
【官位】布衣、従五位下備前守、豊前守、淡路守(新訂寛政重修諸家譜
【役職】小納戸、小姓、西ノ丸小姓?、寄合、西ノ丸小十人頭、西ノ丸目付、佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行、田安徳川家家老、留守居、寄合(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清全(新訂寛政重修諸家譜
【実母】海野治部右衛門(紀州藩士)の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】新見但馬守正言の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】大奥の侍女 森野の養女(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】石谷清昌、高井兵部少輔信房の妻、亀井清永(桃之助、内記、平三郎。亀井平三郎忠亮の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】多門、磯野播磨守政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻(新訂寛政重修諸家譜
【養子】菅沼主膳正虎の娘(新訂寛政重修諸家譜
【法名】日壽(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
享保16年11月23日(1731年)、将軍徳川吉宗に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
享保18年12月16日(1734年)、小納戸となる。(新訂寛政重修諸家譜
享保18年12月18日(1734年)、布衣の着用を許された。(新訂寛政重修諸家譜
徳川吉宗の鷹狩りに従い、鳥を射落として褒美を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
元文5年8月18日(1740年)、小姓となる。(新訂寛政重修諸家譜
元文5年12月21日(1741年)、従五位下備後守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜
延享元年11月20日(1744年)、家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
延享2年9月1日(1745年)、西ノ丸に勤仕した。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦元年7月12日(1751年)、徳川吉宗薨去に伴い、役目を解かれ寄合に列した。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦2年5月26日(1752年)、西ノ丸小十人頭となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦3年3月15日(1753年)、西ノ丸目付となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦6年1月11日(1756年)、佐渡奉行となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦9年10月4日(1759年)、勘定奉行となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦12年6月6日(1762年)、長崎奉行を兼務した。(新訂寛政重修諸家譜
明和4年12月26日(1768年)、長崎より江戸に戻る際、摂津国、河内国の水害地域を巡検し、畿内の収納の事を沙汰をしたことで、褒美として時服3領を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
明和7年6月17日(1770年)、長崎奉行の兼務を解かれ、下野国都賀郡の内に300石の加増を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
安永4年9月20日(1775年)、徳川家治の日光社参に関連し、宿場道の監視するために同地に赴いた。(新訂寛政重修諸家譜
安永4年11月4日(1775年)、田安徳川家の家老を兼務した。(新訂寛政重修諸家譜
安永5年4月(1776年)、徳川家治の日光社参の際、街道の監視を請け賜って先導を勤めた。(新訂寛政重修諸家譜
安永5年6月27日(1776年)、日光社参先導の褒美として、時服3領と黄金5枚を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
安永8年4月15日(1779年)、留守居となった。(新訂寛政重修諸家譜
天明2年10月27日(1782年)、職を辞して寄合に入った。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
父の石谷清全は紀州藩士岡本作之丞の息子であり、母は紀州藩士海野治部右衛門の娘であるため、石谷氏との血縁関係は不明。(著者図書助論考)



石谷清定(豊前守)(いしがや きよさだ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】左門、次郎左衛門、左衛門、清貞(新訂寛政重修諸家譜
【生年】延享3年(1746年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】800石(新訂寛政重修諸家譜
【官位】布衣、従五位下豊前守(新訂寛政重修諸家譜
【役職】小姓組、西ノ丸小姓組?、小納戸、西ノ丸小納戸?、寄合、小納戸、西ノ丸小納戸?、本丸小納戸?、徳川家治の養女種姫の用人、西ノ丸小納戸(新訂寛政重修諸家譜)、小納戸頭取格、小納戸頭取(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清昌(新訂寛政重修諸家譜
【実母】新見但馬守正言の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】新見豊前守正則(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】高井兵部少輔綽房の養女(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】多門、磯野播磨守政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻、菅沼主膳正虎の娘(義妹)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】石谷清豊の妻、阿部駿河守正簡の妻、十作清常、女子(新訂寛政重修諸家譜
【養子】石谷清豊(田沼意誠の5男)、亀井鍬五郎清絹の妻(亀井平三郎清亮の娘)(新訂寛政重修諸家譜
【法名】
【略歴】
宝暦10年4月28日(1760年)、15歳の時、徳川家重に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦12年9月28日(1762年)、小姓組に入る。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦12年12月15日(1763年)、西ノ丸に勤仕する。(新訂寛政重修諸家譜
明和3年2月27日(1766年)、小納戸となる。(新訂寛政重修諸家譜
明和3年3月27日(1766年)、西ノ丸に入る。(新訂寛政重修諸家譜
明和3年12月19日(1767年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜
安永8年4月18日(1779年)、徳川家基の薨去に伴い寄合に入る。(新訂寛政重修諸家譜
天明元年4月21日(1781年)、小納戸に復帰する。(新訂寛政重修諸家譜
天明元年5月28日(1781年)、西ノ丸に仕える。(新訂寛政重修諸家譜
天明2年12月24日(1783年)、家督相続(800石)。(新訂寛政重修諸家譜
天明6年閏10月7日(1786年)、本丸に入る。(新訂寛政重修諸家譜
寛政4年12月24日(1793年)、徳川家治の養女種姫の用人となる。(新訂寛政重修諸家譜
寛政6年3月31日(1794年)、種姫逝去により勤めを解かれた。(新訂寛政重修諸家譜
寛政7年6月8日(1795年)、西ノ丸小納戸となる。(新訂寛政重修諸家譜
寛政9年1月31日(1797年)、小納戸頭取格となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
寛政9年11月18日(1798年)、従五位下豊前守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜
寛政10年2月27日(1798年)、小納戸頭取となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
享和元年9月6日(1801年)、職を辞去する。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】



石谷清豊(いしがや きよよし)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】直三郎、式部(新訂寛政重修諸家譜
【生年】明和8年(1771年)(逆算)
【没年】天保3年6月24日(1832年)(寛政譜以降旗本家百科事典
【寿命】62歳(逆算)
【知行】800石(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】布衣、従五位下周防守(新訂寛政重修諸家譜)、備後守(寛政譜以降旗本家百科事典
【役職】小納戸、小姓、小納戸、小姓、使番(新訂寛政重修諸家譜)、駿府目付代、火事場見廻、西ノ丸目付、本丸目付、田安徳川家家老、大目付分限帳改(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】田沼意誠(新訂寛政重修諸家譜
【実母】新見但馬守正言の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】石谷清定(豊前守)(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】石谷清定(豊前守)の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】堀八郎右衛門直安の娘(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】石谷清豊(田沼意誠の5男)、石谷清豊の妻、阿部駿河守正簡の妻(義妹)、亀井鍬五郎清絹の妻(亀井平三郎清亮の娘。義妹)、十作清常(義弟)、女子(義妹)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】女子、石谷清香、直三郎、直五郎(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】
【略歴】
天明4年11月18日(1784年)、14歳の時、小納戸となる。(新訂寛政重修諸家譜
天明4年12月16日(1785年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜
天明5年9月21日(1785年)、小姓となった。(新訂寛政重修諸家譜
天明6年閏10月7日(1786年)、徳川家治薨去に伴い小納戸に復帰した。(新訂寛政重修諸家譜
天明8年4月1日(1788年)、小姓となる。(新訂寛政重修諸家譜
寛政3年12月16日(1792年)、従五位下周防守に叙任された。(新訂寛政重修諸家譜
寛政6年2月25日(1794年)、使番となった。(新訂寛政重修諸家譜
寛政9年7月13日(1797年)、駿府目付代となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
享和2年1月21日(1802年)、火事場見廻を兼務した。(寛政譜以降旗本家百科事典
享和2年10月8日(1802年)、西ノ丸目付となった。(寛政譜以降旗本家百科事典
享和3年12月23日(1804年)、本丸目付となった。(寛政譜以降旗本家百科事典
文化6年4月29日(1809年)、田安徳川家家老となった。(寛政譜以降旗本家百科事典
文化14年1月11日(1817年)、大目付分限帳改となった。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】
実父は田沼意次の弟である田沼意誠ではあるが、記録上は田沼意次失脚(1786年)に伴う石谷清豊への処置は見当たらない。(著者図書助論考)
石谷清豊の家督は、石谷備後守の惣領息子である石谷左内が相続した。『寛政譜以降旗本家百科事典』に拠ると、石谷清豊も備後守を称していたようである。(著者図書助論考)



石谷清香(いしがや きよか)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】直吉(新訂寛政重修諸家譜)、淡路守(寛政譜以降旗本家百科事典
【生年】寛政2年(1790年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】300俵(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】御伽、小姓、本丸小姓(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】石谷清豊(新訂寛政重修諸家譜
【実母】石谷清定(豊前守)の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】女子、石谷清香、直三郎、直五郎(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
寛政10年8月26日(1798年)、9歳の時、徳川家慶の御伽となる。 (新訂寛政重修諸家譜
享和4年1月26日(1804年)、徳川家慶の小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
文化2年5月(1805年)、本丸小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
家督を相続しないまま没した。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】



石谷左内(いしがや さない)(寛政譜以降旗本家百科事典

【呼称】市正、讃岐守(寛政譜以降旗本家百科事典)、清足(石田家資料)
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】800石(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】小納戸、小姓、西ノ丸小姓、西ノ丸小納戸(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】石谷清豊(寛政譜以降旗本家百科事典
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】女子、石谷清香、直三郎、直五郎(新訂寛政重修諸家譜)、?石谷左内(寛政譜以降旗本家百科事典
【子息】石谷金之丞(寛政譜以降旗本家百科事典
【養子】
【法名】
【略歴】
文政8年12月7日(1826年)、新規召出にて小納戸となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
文政10年12月14日(1828年)、小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
天保8年4月2日(1837年)、西ノ丸小姓となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
天保12年3月23日(1841年)、西ノ丸小納戸となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
天保12年5月12日(1841年)、御役御免となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】
新訂寛政重修諸家譜』には石谷清豊の子として、女子、石谷清香、直三郎、直五郎の、4名の記載があるが、『寛政譜以降旗本家百科事典』の別称の中に当該の名前は無いため、左内が直三郎・直五郎・もしくはそれ以外、のいずれかは不明である。(図書助論考)



石谷金之丞(いしがや きんのじょう)(寛政譜以降旗本家百科事典

【呼称】
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】800石(下野国)(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】小普請、小姓組(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】石谷左内(寛政譜以降旗本家百科事典
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷金之丞(寛政譜以降旗本家百科事典
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
弘化3年10月6日(1846)、家督相続。小普請となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
安政5年5月29日(1858)、小姓組に入る。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】



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最終更新:2022年11月08日 01:46