【掛川市誌 (静岡県掛川市) 昭和43年12月1日 抜粋】
P1008~
八、西郷地区
西郷の石ヶ谷 掛川北在二十町程隔て西郷村と言う村の内に石ヶ谷と云処有り。小高き所に御紋石と云亦名字石とも云名あり。石数九ッ有り何れも一々名目有て其の村の土民言ひはやす事なり。所謂兜石、烏帽子石、目付石、碁盤石、御先石、御供石 此両石二ッ宛有 丸石 此の石一ッ一ッ一町程離れ西の人の屋敷の裏に有 都合九ッ有り。九曜の紋所に擬したり。此の石の今存在せし其の由来を尋ぬるに由緒あり住古此処に郷士住けり。其の名を石ヶ谷将監と号す。其の子孫断絶せずして今に西郷村に代々村の庄屋となりて住す。名を石田平八と云ふ、先祖石ヶ谷将監の霊を祭り霊永大明神と号し屋敷の入口の左の方に宮を建て前に華表有り。抑も此石ヶ谷殿の系図は八幡太郎義家の末葉にして今に江戸表に旗本に有り。名を石谷重蔵と言う(二千五百石)。則石谷重蔵より平八二人扶持貰うて住居す代々九曜の紋を付る故に御紋と云所を石ヶ谷と云。此の先祖石谷将監は神君御存在の時軍功有りし人也。天正二年四月十五日卒す。右石ヶ谷の御紋石の有土地は陰地にして古木生茂り誠に古跡と見ゆる也。前に沢川有て小流有。此処屋敷にて庭の居石を堀出して積置く物ならんと俚人の談に言ひならはす。石田平八の云、此所に住古平八先祖の屋敷ありけるを今の屋敷へ引越し住す由と云。将監殿より拝領の石と云ふ。此の石の脇に桜の大木有て満花の躰至って気色好有之よし。今は其の桜枯てなし。杉の木柿の木二本前に掩ひて生茂り極日蔭の陰地なれば石も苔むして滑かなり。人の住還する道側に有。昔は石ヶ谷平八と申しけれども今は石田平八と云古き家柄の百姓也、石の姓は活石に非ず。子持石にして黒石也。丸石は半分埋れたり。(遠江古跡図絵)
二階堂観音霊顕 上西郷村美人ヶ谷入口殿垣戸の二階堂は山にありしが霊験あらたかにして遠く掛川を眼下に見下し、掛川の往還を馬上にて往復するもの、堂前真向に到れば落馬すること多きにより、中腹に堂を降したるも尚鹿島、方の橋辺を通行する者馬乗ずれば落馬するにより、又々山下に堂を建てたる由、古老の言に伝へあり。(山崎常磐、報告)
P1291
二階堂美啓 鎌倉将軍頼朝より五代源頼嗣の落城の節三家の侍、二階堂民部大夫美啓は御用側人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月十日遠江国遠江国佐野郡掛川在上西郷村に落着き、美啓は六十一才老年に及び仏法に帰依し、持合せの金子もあったから、庄屋右京の取持により堂を建立、出家剃髪して庵主となり二階堂と名付けた。
P1293~
鶴見因幡守栄寿 「掛川城郭中中西と云ふ所の木戸口の内に鶴見氏の屋敷跡と呼ぶ所あり。相伝ふ昔遠江に三十六衆と云う小士あり。其の中鶴見因幡守栄寿と云し人父子三代五十余年此処に居りしと云ふ。又栄寿の城跡今榛原郡質侶(志戸呂)の横岡にあり、此人明応五年倉真村松葉の城主河合宗忠を襲ひ討たれ死す。鶴見氏の掛川に住せしは掛川築城前のことなり。」 (
掛川誌稿)
後醍醐天皇の元弘元年鎌倉討伐の恩賞として足利尊氏に従い、よく戦った今川範国が駿河、遠江両国を賜り、袋井市の堀越に館を築いて遠江を領した。次いで吉野朝時代に入ると南北両朝に別れ入り乱れて戦った。宗良親王を奉ずる井伊、奥山、天野氏等南朝方と今川氏に属し北朝方に従う者とが所々に戦ったが南朝方は振わず、元中二年宗良親王も井伊谷城に薨じ、ことごとく足利側に降り今川の掌中に帰した。室町時代遠江国は今川氏に依って支配され各地の豪族、武将はこれに従った。遠江三十六人衆がそれで、
柳園雑記に、
初馬 河合宗忠 本郷 原氏 平川 赤堀至膳
西郷 西郷殿 原谷 孕石 小山 増田周防守
倉真 松浦兵庫助 増田 松浦治郎右衛門
掛川 鶴見因幡 袋井 堀越殿
とあり、掛川に住んでいた豪族は鶴見因幡守栄寿で、応永の頃から応仁の頃まで三代が掛川中西に居館を建て砦を掛川城の城山に置いた。この間凡て三代五十余年で、後金谷町五和の志戸呂に横岡城を築いて玆に移った。五年勝間田氏と組んで倉真の松葉城主川合成信を襲い城を陥したが、自らも戦死してその家も今川氏に憎まれ衰え明応た。 (山崎常磐稿による)。
P1295~
松浦兵庫助 今川家の麾下の士と云う。倉真村里在家に松浦氏の古城趾があり、明応六年十一月十三日卒すという。同時代河合宗忠が同じく今川氏麾下として同地に居城した。明応五年敵の為に敗られ城を棄て、自殺した。世楽院記に、「倉真村字里在家に一町四方の高丘あり。昔松浦兵庫守の古城址なり。明応六年多勢の敵に囲まれ城陥り、主従玆に自尽す。後年寺を此に移して世楽院という云々。」とある。掛川誌誌永江院の条に「開基を松浦兵庫助と云い明応六年十一月十三日卒す。寺後の墳基を開基松と云う。その大なること数抱えなるべし云々。」又いう、「五明村松浦五兵衛、領家松浦惣太夫という百姓は共に兵庫助の後なりとて今両寺(世楽院、永江院)の旦那頭なり。古く民家となりしと見ゆれど或は兵庫助の一族の後なるべし。」と。永江院寺記にいう、「明応六年松浦兵庫頭殿へ願立所地負税諸免除に相成云々。」と。
永江院にある松浦兵庫助位牌には左の如く記されている。
全金吾竜穴院大再成功大居士
華雪院月窓栄心大姉
P1296~
五名 掛川誌稿によれば、文化二年当時、五名の一統は次の如くである。
○松浦五兵衛世々上組九十三石の庄屋で末家七軒あった。
○山本孫兵衛 中組百廿八石を預る。孫兵衛の後を八兵衛と云い末家十一軒あった。
○佐藤利兵衛 山本と共に中組を預る。後を孫右衛門と云い末家十件余あった。
○小沢藤右衛門 下組百十四石を預る。後を九衛門と云い末家六軒あった。
○中村彦左衛門 小沢と共に下組を預る。彦左衛門が家は今断絶し末家六軒あった。
P1297~
石谷十蔵貞清 「西郷石ヶ谷に左馬之助清長の子、西郷十郎右衛門政清と云う郷士住みたり。郷士十八人の長にして今川氏に仕へ、永禄三年今川氏没落の後西郷十郎右衛門政清の子十右衛門政信五郎大夫清定等と共に永禄十一年初めて徳川家康公に奉仕せり。永禄十二年正月二十六日軍功に依り五十石の禄を賜る。天正二年二代将軍秀忠公の御母堂を西郷殿と称するに由りて同名を名乗るは畏れ多しと居宅前にある九曜石を以て氏を石谷と改めたり。これによりこの九曜石を名字石と称う。其の後五郎大夫清定に二人の子供ありて兄を友之助清政と云い、成人して父と同じく徳川家康公の臣となり重要なる役職を勤めたり。弟は文禄三年生れ十蔵貞清と称す。十蔵貞清も成人し慶長十四年十六才の時、兄友之助清政等と共に江戸に居を移し徳川家康公に奉仕せり。土岐定義の組に列し二代将軍秀忠公の大御番役相勤む。十蔵貞清は剛勇無双にして忠義一途の武士なれども身分低き者として、上司より時折退けられしが容易に屈する者にあらず。元和元年大阪城を攻むる時江戸城の留守居を命ぜられしが、これを不服として軍に従はんことを上司に請へども許されず、貞清意を決し夜中一人城を脱出して長途急ぎ軍に追着き秀忠公の許を得て軍に合流せり。大阪城攻撃の際抜群の働きを秀忠公に認められたり。この時二十二才なり。元和二年正月九日三百石を下直く賜り、元和四年二百石の加増を賜る。元和八年秀忠公日光に詣る折御供して行きたる時、帰路の際乗馬の故障に依り野州宇都宮より三十里程の道を健歩敢て遅れず。無事江戸城に帰りしという。又この頃か、人の口伝に依れば三河の国深溝の領主板倉内膳正重昌と共に其の鎮圧を命ぜられて奮戦し、武名を天下に轟かしたる事は能く世人の知る所なり。
島原より凱旋してしばらく休養の後、目付け役を勤む。慶安三年由比正雪謀反を企てし時、其の同士丸橋忠弥を捕えしといはれる。慶安四年一千石の御加増を賜る。慶安四年六月町奉行に任ぜらる。」(古記録)
貞清は町奉行として万治二年正月までの在職九年間に職のない浪人を七百人も就職させ、又町奉行をやめて隠居してから十三年間に三百人の浪人を就職させたと云う。
江戸の人々に親の如く慕われた貞清も寛文十二年秋病に罹り同年九月十二日七十九才を以て安らかに永眠した。法名を空照院殿居士と云う。墓地は西郷の北袋観音寺にあるが今は合祠され、又一説には墓地は武蔵の国多摩郡泉龍寺とも云う。霊は元石ヶ谷に霊栄大明神社があったので神として合祠され、江戸の石谷家より祭粢料として毎年米一石を賜り祭礼は厳かに執り行われたと云う。明治初年頃西郷中島の石田平八宅西に遷座今同宅西にある霊栄大明神社がそれで、毎年四月十五日が例祭日に当る。
中祖石谷十郎右衛門政清 文亀三年生 天正二年十五日卒 七十一才法号和光院殿盛山道隆居士
石谷十右衛門政信 元和五年十月八日卒 法号関捜良石居士
石谷五郎大夫清定 慶長六年二月卒 法号泉竜寺殿参捜道無居士
石谷友之助清政明暦三年十月十三日卒 法号正眼院殿朴翁宗淳居士
石谷十蔵貞清 左近将監 文禄三年生 寛文十二年九月十二日卒 法号空照院殿居士
P1299~
戸塚孫左衛門 戸塚家の祖先は蒲の冠者源範頼より出る。相模の戸塚氏の娘が侍女として任えていたが範頼の子を懐し、範頼の死後、女は子供をつれて佐野郡佐野郷に来て郷長のもとに身を寄せた。子供が成長するに及び母の姓戸塚を号し戸塚家の祖となった。その十二代の孫を検校大夫、その子を検校左衛門といい、父と共に原野を開拓し住民の繁栄の為に農事に励んだ。専務した。その子の孫左衛門の時この地方に甲斐の武田氏が侵入して荒らしまわり、佐野郡も兵火に罹り住民も悉く離散したが、孫左衛門は独力で東奔西走して住民を呼び集めて遂に村を旧状に復した。その子を孫右衛門と称し慶長九年の遠江国総検地の時、領主松平隠岐守定勝は孫右衛門の先祖の功労を讃え年貢の半分を免除した。以来戸塚家は倉真にあって今日に続いている。 (戸塚系図より)
P1299~
戸塚五郎大夫忠春 先祖は清和源氏為義流。遠州戸塚に住むにより戸塚を家号とする。忠春は万松院足利義春に任えて都に登ったが、後遠江国に帰り大森城に住んだ。妻は西郷弾正左衛門正勝の女、夫忠春の死後簑笠之助正尚に再嫁し、後に営中に召された。長男を四郎左衛門忠家といい、はじめ今川義元に属し後に三河国におり、徳川家康に拝謁、松平薩摩守忠吉に付属、天正十八年関東に移り、忍城城代をつとめ、文禄四年六十才で歿し、牛込天竜寺に葬られた。
二男は出家して心翁といい、滝ノ谷村法泉寺の住職であったが、家康が関東に入国の時、江戸に召され牛込に方八町の土地を賜わり天竜寺の住職となった。
娘に西郷局がある。
P1300~
西郷氏 藤原南家から出二階堂氏の一族である 代々佐野郡西郷に住したから、行清の時西郷に改めたと云う。けれども寛永の家伝には「外祖父西郷が家号を用し。」とあるという。
P1300~
西郷氏と西郷局 以貴小伝にいう、「於愛の方は西郷局と云ふ。西郷の戸塚と云ふ所に住せし戸塚五郎大夫忠春の女として生る。忠春西郷弾正左衛門正勝の女にそいて局をまうけたり。西郷氏は世々三河にありしが西郷の地に何時の頃より移居せしか詳ならず。西郷と云う地名も西郷氏の知行なればなるべし。天文二十三年忠春遠江国大森の軍に討たれければ内室は再び服部平大夫正尚に嫁し、於愛殿も継父正尚のもとに在りしを外祖弾正左衛門正勝の孫右京進義勝にめあはせて女一人男一人を産み玉ふ。元亀二年の春右京進義勝甲斐武田の手の者に討たれたれば、於愛殿は継父のにもとにかえりておはせしを、外舅なりし西郷左衛門佐清真己が娘にして天正六年の春東照君に参らせしかば、西郷局と呼ばれて明くる七年四月七日第三の御子長丸君(台徳院秀忠)を産みまいらせ、次の年九月二十四日第四の御子薩摩守殿をまうけり。初の義勝がもとにてまうけられし女は清真の子四郎新太郎宗員に嫁し、男子は西郷孫兵衛勝忠と名乗り、後に紀伊殿(頼宣公)に仕ふ。天正十七年五月十九日局失せ玉ふ。御年三十八才にてありと云う。駿府にありし為駿府の竜泉寺に於て葬式を営み、宝台院殿と申せしなり。台徳院御所の御時、宝永五年の七月従一位を贈らせ玉い、勅使駿府に下向せらる。此の時勅号を賜はり竜泉寺を改めて宝台院といふ。宝泉寺文書に、正徳四年総寧寺英峻和尚御朱印を請奉る状として曰く、西月祐泉居士、玉窓妙全大姉之尊霊牌安置此精舎今有之処歴然也。」とあれば、此の二木牌は即ち西郷斎宮と云伝ひし人の夫婦にて、西郷局の双親なるにより慶安年の御朱印をも賜りしか、寺僧等相伝へて御朱印開基と云ふ。
P1300~
お国 昔構村(西郷)に富塚五郎太夫という人があった。その女である。嘗て紀州の藩主頼宣の乳母であったが、その後旧里に帰りここにいたという。当時のお国の願書の稿本が二通ある。元和九年将軍上洛の時掛川博労町で石谷十蔵が披露してお目見えをした。藤枝まで来るように御沙汰があったが大井川満水で叶わなかったという。又正保二年紀州候下向の時嘆訴した願書の中に、「宝台院様御出被成候御屋敷守に罷在候者。」とあって、その翌年には新坂宿で銀子を多く賜わったという。これ等の事より考えると紀州候の乳母とも見えず、恐らくは西郷局に奉仕した老婆で台徳院をはじめ頼宣にも年頃側近として仕えたものであろう。
お国の覚書(正保二年家光の時)
正保二年乙酉三月二十一日坂宿御泊りの紀州侯徳川頼宣に対し依頼状を奉行に差出す。御宿主片岡金右衛門に委細御尋ね成さる。
お国の古文書
乍恐以書付申上御事
一、上西江村御あいこ様御先祖御屋敷守に被仰付候間未罷有申候今様は御慈悲の御天下様に御座候間御先祖様御氏神五社大明神様に弓箭八幡様両宮は御あいこ様の御氏神に御座候亦曹渓山法泉寺は御いはい所の寺にて御座候並上西江村は高千六百五十九石四斗二升の所にて御座候惣百姓下に之者迠我等に恨み申候故に申上候又御尋に御座候口上にて委細可申上候御事(此の間文字読み難きものあり)
遠州佐野郡上西江村 お国
御奉行所
この書を紀州侯に出し翌年銀子拝領、寛文四年甲辰(家綱の時)お国より大納言様御用人に次のような訴訟申し述べている。
二十年前下向に訴訟申上げ翌年御銀拝領金むざと罷在間敷との旨金右衛門申戻しに付御礼も不申御金にて田地を買い無事なりしも近来村の者共邸内を荒し狼藉を為し無念なり私老年につき明日とも知れず願くば忰共兄弟餓死せね様奉願との事。
上西郷村四人の庄屋 「上西郷村の庄屋は寛永十九年迄は粕谷善左衛門と云ふもの一人なりしが、其翌年より四組に分れ、庄屋を粕屋善左衛門、岩清水惣兵衛、佐藤喜左衛門、石山三左衛門と云し。今も中島の平八、中村の善左衛門、石谷の善兵衛、石畑の平大夫と云ふもの庄屋にして村中四組に分れたり。」
最終更新:2016年05月22日 20:28