【徳川幕臣人名事典 (竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白根孝胤) 2010.8 抜粋】
石谷貞清 いしがやさだきよ (一五九四~一六七二)
文禄三年(一五九四)に大番石谷清定の三男として生まれる。母は今川義元の家臣久島与平の娘。妻は徳川家康家臣板倉重昌の養女。十蔵・左近将監と称し、致仕・入道して土入(どにゅう)と号した。慶長十四年(一六〇九)に召し出されて二代将軍秀忠に仕え大番となる。慶長二十年(一六一五)の大阪夏の陣に際して、江戸城の留守を命じられたが、従軍を望んで上京を強行し、秀忠から許され戦功をあげた。元和二年(一六一六)正月九日に三〇〇石を与えられ、腰物持役(小十人頭)となる。同四年に二〇〇石を加増され、御徒頭・目付を経て、寛永九年(一六三二)に一〇〇〇石を加増され、すべて一五〇〇石を知行する。同十四年に島原・天草一揆の鎮圧軍へ上使板倉重昌の副使として派遣され、翌年正月の原城総攻撃に失敗し、その責任を問われ逼塞させられた。同十八年十二月十五日に先手鉄炮頭、慶安四年(一六五一)六月十八日に町奉行となり、八月十六日に従五位下左近将監に叙任される。浪人問題から発生した慶安事件の丸橋忠弥や承応事件の別木庄左衛門らを捕縛し、これを契機に問題解決のため数多くの浪人の仕官の世話をしたという。万治二年(一六五九)正月二十八日に老齢のため職を免じられ、七月二十七日に隠居し、寛文十二年(一六七二)九月十二日に死去。享年七十九。法名は土入宗鉄大居士。菩提寺は武蔵国多摩郡泉村の泉龍寺である。 (加藤)
【典拠・参考文献】『
寛永諸家系図伝』第十・一三頁、『寛政譜』第十四・二三三、二三五頁、『柳営補任』、『続徳川実記』第一篇
最終更新:2013年01月20日 13:18