――その男のことを私がよく知っていたかと問われれば、首を横に振る他ない。
そもそも、彼のことを真に理解していた人間など一体どれほど居るだろうか。
彼と夫婦となり、己をこの世に産み落とした母ですら、それが出来ていたかは疑わしいと私は思う。
それほどまでに、彼は超越した存在だった。
理屈では語れないほど賢明で、欲がなく、善良。優しく愛多き王として、彼は数多の民から敬愛と尊敬を買っていた。
私も、その一人だ。私は彼という父親を心の底から尊敬し、誇りに思っていた。誓って、そこに嘘偽りはない。
父と初めて対面したのは、忘れもしない二十二のある日のことだ。
その日、私はまるで少年の日のように胸を高鳴らせていたのを覚えている。
魔術の王。神託を賜りし大賢者。愛と智慧に溢れ、民をその奇蹟で庇護する偉大な賢王。
彼を讃える声は数え切れないほど耳にしたが、彼を批判する声は聞いたことがない。
それほどの存在に謁見し、教えを受けられるというのだから当然心は躍る。
もちろん、実の父に会えることに対しての人間的な喜びもあった。
大きな期待とそれ以上の緊張を胸に、私は彼の坐す間へと一歩を踏み入れ――
……その時、世界が凍る感覚を覚えた。
そこに居たのは、私と瓜二つの男。
いや、そんなことはどうでもよかった。
顔が似ているなんてことは、あまりに些細すぎた。
私が彼と実際に顔を突き合わせて、最初に抱いた感想は一つ。
『なんだ――この男は』
……驚嘆と、畏怖。
周りの声など耳に入らない。
ただ、私は圧倒されていた。
己の父だという男が持つ、圧倒的な"格"に。
彼の口調は穏やかだった。
彼の物腰は柔らかだった。
彼はただの一度として声を荒げたりはしなかった。
それを人は理想の王、慈悲深き王と讃えたが、私はそんな父の姿に、彼の内に広がる深淵の如き空洞を見た。
それから私は三年間父の下で教育を受け、千の従者と共に祖国へと帰還した。
交わした言葉は数多く、毎日が一生忘れられないような衝撃と驚愕の連続だった。
彼は最後の日、私にまたいつでもおいで、と微笑みを向けた。
私もそれに笑顔で応じたが――結局私は二度と、あの偉大な王の下を訪れることはなかった。
――ただ、恐ろしかったのだ。笑顔と緊張感のない物腰の裏に、底知れない無を飼うその姿が。
三年の月日、千を超える夜を過ごした。
それでも、自分が理解出来たのは彼の表層だけだ。
彼という男が一体どんな存在なのかは、遂に分からなかった。
いや……きっと、"そういうことにしておきたかった"のだろう。
私は彼の空洞に意味を求めた。その奥に魔術王の真実があることを期待した。
だってそうでなければ、あまりにも救われなすぎるから。
悲しむことも憤慨することも剥奪された非人間、それが我が父の真実なんて、酷すぎるから――
想像より何倍も残酷な現実から逃げるように、私は王に背を向け、人として生涯を終えた。
そんな臆病者が目を覚ましたのは、あらゆる時空と因果から隔絶された異空間。
私は空間を抉じ開けることは出来なかったが、血縁からか備わっていた千里眼を用い、その向こうを見つめることは出来た。そこで、私は見る。悍ましき神殿の終点にて、この世から完全に消滅していく父の姿を。
私は叫んだ。然し、届かない。あちらの声も聞こえない。空間の壁は厚すぎて、千里眼の視界さえすぐに薄れていく。
瞳からは血涙が溢れ、慟哭の声は喉を引き裂き、霊核すらひび割れた。
我が父。我が師父。我が賢者。我が生涯で唯一背を向けて逃げ出した、哀れな運命の殉教者。
何故、彼ばかりがこのような目に遭わなければならぬのか。人としてのあらゆる幸福を剥奪された挙句、最後には完全な消滅を迎えて無に至るなど、あまりにもあまりではないか。
赦せない。ああ、赦せるかよこの仕打ちが。
怒りは復讐心を呼び起こし、復讐心は無の世界に有を生み出す奇蹟を引き起こした。
果てなく広がる無限の荒野を地獄で上塗りし、聳え立つは天高き伏魔殿。我が復讐の塔。
全ては、かの偉大な王、その無念を晴らす為。我が怨念は、この世界を粉砕する。
――その御銘、人理粉砕式。彼こそは魔術王の後継、魔術師にして復讐者なる制裁王である。
◇ ◇
さあ、素敵なおままごとを始めましょう。
必要なのは乙女の願いと、汚い泥に粉砂糖。
スパイスに、いつかに抱いた夢のしずく。
後は出来上がるまで捏ねて捏ねて、最後に魔法をかけたら出来上がり。
夢と希望の冒険物語は、主役の到着を以って始動する。
そう、このお話のお名前は――
「――わたしの為の物語」
最終更新:2017年06月03日 21:32