女が居た。
蝋燭の灯りのみが頼りとなる、人工的な洞穴の奥底で、一人体を抱えてうずくまっている。爪が肌にくい込み血が滲み、脂汗は止むことを知らず、唇は部外青の色に染まっていた。目は焦点が合わず、歯をがちがちと鳴らしながらひたすらに何かに堪えていた。
―――全ては私が招いたことだ。私が情などを抱いたばかりに、このような事になったのだ。だからこそ、私は彼女を護り護った。彼女に与えた聖杯諸共に、私は汚染から護り続けた。だが、それも直無為に帰すだろう。これ程までの狂気を、力を失った私に押し止めるすべは、もうない。最後の抵抗と共に、私は消滅する。今よりここは更なる地獄になるのだろう。それは全て、私の罪である。
ああ、消えていく。私の全てが無くなっていく。最早、今私の中に発生したこの感情が何であるか考察する余地もない。だが、それでも、彼女にこの言葉を―――
女は、ゆっくりと立ち上がった。そして二度、三度と自身の体を眺め、触れ、確かめた。そして、
「くふ、ふっふふふふ、あはははははは!!」
洞穴内に高らかと響く程に笑った。疎ましい何かをようやく排除出来たことへの歓喜に染まった声は、狂気を孕み洞穴内を反射し続けた。
どれ程経ったであろう。ひとしきり笑った女は、先程までとは違い静かに、乱れた衣服や髪を整えた始めた。その姿に安堵したからか、それとも偶然か、男の軽い声が女に掛けられる。
「随分と楽しそうだったじゃないか、君。もし良ければ私も混ぜてはくれないかな」
灯りに照らされたのは、イギリス製の軍服姿であった。声の様子から、ややキザな中年男性の印象を与える。女は男を一瞥し、何事もないかのように身嗜みを整えながら言葉を掛けた。
「貴方の軽口はとうに聞き飽きました。それよりも、戦況はどうなっていますか」
「いやいや、我々も身を粉にして働いているのだよ。そんな中、君だけが楽しい思いをしているというのは不公平ではないかね。何より、我々は」
「アサシンよ。その命を聖杯に捧げたいならそう言うがよい。回りくどいのは好かん」
ぴしり、と場の空気が凍った。女の怒気がアサシンにも伝わるほどに膨れ上がったのだ。しかしアサシンは、気付いていないかのように肩をすくめ困ったように首を左右に振り、現状についての報告を開始した。
「ライダーとアーチャーにより領地は更に拡がっている。が、それにともない防衛用の陣地作成や兵が間に合わない状態が続いている。陣地に関しては私の領分の為置くとして、問題は兵だ。敵にサーヴァントが居る以上、キャスターの使役するデビル達だけでは守りきれんし、ライダーの機動性を用いても限界だ」
アサシンは淡々と報告を行っていく。だが、女はそれに対し特に意見することはなく、好きにしたらいいと告げるばかりであった。アサシンも、それが変わらぬ対応であるがためか、文句を言うことなく報告を続けていく。と、
「さて、ここからの報告に関してだが、貴女の意見を聞かせていただきたいのだが、よろしいかな」
アサシンの語調が先程までよりも強く、険しくなった。それほどまでに真剣かつ重要な問題なのだであろう。しかし女は態度を一つとして変えず、アサシンの言葉を待った。流石のアサシンもこれは想定外だったのだろう。眉根ををしかめ女を睨み付けた。しかし、それも無意味に終わり、溜め息を吐きながら話を続けた。
「内容は二つ。どちらもキャスターによる報告だ。山岳を軸に切り離されたこの異界が、外界、即ち実際の世界と繋がり始めている。もう一つは、それにともないカルデアにここが観測された可能性が浮上している。早急に手を打つべきだと考えるが、どうかね」
「好きにするがよい」
「……正気かね? 君の一配下として苦言を呈させてもらうが、それは愚考の極みだろう。特に外界との繋がりは宜しくない。君の言う都に知れてしまうのは事なのだろう」
「確かに以前はそうでした。ですが、女心は秋の空が如し。都へ通ずる道は計画の次なる段のためと考えなさい」
女は凛としてそう告げると、それで終りと言うかのようにアサシンに背を向けた。アサシンはその姿に一度首を傾げるものの、一礼と共に去っていった。
「仰せのままに、ロクジョー」
アサシンが去った後、女の含み笑いと独り言が響いた。
「待っていてくださいまし、我が君。私は間も無く都へ戻りましょう。貴方様と共に居られる幸せのためであれば、どのような艱難辛苦も一呑みにしてさしあげましょう」
狂気と執念と情念を混ぜ合わせた醜い笑みを浮かべながら、女は己の腹をさする。その一瞬、チカリと何かが光りを放っていた。
2017年のカルデアにて、新たな特異点が、聖杯の反応と共に観測された。時は962年、場所は日本の内陸部。山岳に囲まれた地、現代で言うところの長野県のある一地方を指し示していた。
最終更新:2017年07月04日 18:33