――混沌だった。
黄金の魔方陣に囲われた近代都市には、凡そ科学と呼ばれる概念が存在しない。
本来とっくに電気文明が完成され、闇は光で照らし出されていなければいけない筈の時代なのに。
灯りは松明で代用され、指先で描いた陣形が発する魔力反応を燃料として自動車が走っている。
空き地で遊ぶ子供達までもが本来オカルトとして排斥されるべき奇妙な図形を描いて土を隆起させたり、風を吹かせて女子の衣服を捲る悪ふざけに興じている。
これは何の悪い冗談だと、科学文明の世界を知る者ならば口を揃えてそう言うだろう。
されどこの都市でそんな事を口に出そうものなら、忽ち周囲の目は精神異常者を見るそれに変わる事請け合いだ。
此処は科学が別の概念に淘汰された異形都市。
技術革新は起きず、ゼウスの雷霆は人の手に墜ちなかった。
ならばこの都市では、神秘秘匿の観念を捨て去った魔術師がでかい顔をして威張り散らかしているのか。
それもまた、否だ。それどころか、この都市では魔術なんて言葉、科学以上に信じられていない。
科学でも魔術でもない、でもどちらかといえば後者に近いある技術。
正史では科学の踏み台として表舞台から消えていき、魔術と同じく社会の裏に雌伏を余儀なくされた神秘。
言ってしまえばイフだ。あったかもしれない歴史。与太話好きの小説家が好んで妄想するような新文明。
それが冗談でも何でもなく実現してしまった世界が、この街だ。
民は皆幸福な顔をしていた。
このありえざる世界を良しとし、誰もが幸せに暮らしている。
どんな聡明で慈悲深い人間が政を担ったなら、これほど完全な楽土が完成するのか。
貧富の差は至極健全で、社会保障が充実しているから恨みも嫉みもなく、街は街だけで閉じているから戦争もない。
彼らが、仮にこの時代は偽りのそれであると知ったとしよう。
頭の良い誰かが仕組んだ、大きな野望の舞台に過ぎないと理解したとしよう。
……それでも、大半がだからどうしたと笑い飛ばすに違いない。
だって此処は、正しい歴史なんかよりずっと優しくて穏やかな世界であるから。
まるで――とんでもなく精緻で狂いのない数式と理論に基づいて組み上げた積み木の塔みたいに。
誰がどう見ても破綻しかけなのは明らかなのに、絶対に自壊しない。
そういう風に作られていた。この異形都市――『エリュシオン』は。
都市の営みを見下ろして満足げな笑みを浮かべる男が一人。
上等な赤薔薇か、さしずめピジョン・ブラッドか。
息を呑むほど美しい赤の長髪に、美丈夫とも聖女ともいえる中性的な顔立ち。
腹に一物抱えた曲者の定番レシピめいた外見情報を有しながら、然し彼に悪性の類は誓って欠片も存在しない。
彼は、正義なのである。
人の幸福と輝くを愛し、尊重する善性の人。
彼にあるのは衆生を救い、導きたいという願いだけ。
それ以外に私欲は全くないし、不純物もその灰色の脳髄には一片たりともない。
エリュシオンの王として民から敬愛される赤薔薇の王は、正しく人々を救う為にこの地へ降り立ったのだった。
二人の星の開拓者――神の叡智と地の理を掌握した碩学を引き連れて。
その右手には、古の神秘を秘めたる一冊の分厚い古書が握られていた。
邪性ではなく聖性に満ちたるその魔導書は、彼という英霊が成立する基点となった授かり物。
書の頁を捲ったことが、どこにでもいる普通の少年だった薔薇の彼を人類史でも最高級の術者へと変貌させた。
彼は正しく、それを授けた賢者達の想いに応える行いを繰り返してきたといっていい。
人を救い、希望を与え、巨大な力には屈さず、誰もが追い求める悲願にさえ興味はないと背を向けた。
賢者達は、今の彼を見たなら何を思うだろう。
その答えは――決まっている。
嘆き、天を仰ぐ。
自分達は、なんて怪物に法を授けてしまったのか、と。
▼ ▼ ▼
「私は間違った」
少女は言う。
「私は、間違ってしまった」
少女は贖う。
「それが正しいと思っていた。それで多くの人が幸せになれると思ってた。
何かを解き明かして可能性を示唆することはみんなの夢を叶えることだって信じてた」
でも、と続ける。
「違った。なんて――なんて思い上がり。
解いて、貶めて、皆に行き渡らせた結果があれなんだ。
なら……」
その目は――
「科学は、滅ぶべきだ」
――今にも雨が降り出しそうな空みたいに、震えていた。
最終更新:2017年07月17日 22:28