この街に空は無い。
天は塗りたくられた黒インクのような暗黒で覆われ、そこに輝点が瞬いているのみだ。
それさえも夜空ではなく、星ではない。
この街に空は無い。
あるのはただ、無限にどこまでも続くかに思われる鋼鉄の殻だけ。
摩天楼は大樹の如くそびえ立ち、地面は奈落の奥底へと封じ込められた。
建物と建物を縫うように走るのは、蜘蛛の巣の如きガラス製のチューブの蔦。
ならば行き交う弾丸列車は蛇、飛び交う車は羽虫と呼ぶべきか。
鋼鉄の密林。
いや――神経網で繋ぎ合わせられた、ここは鋼鉄の脳髄。
その頂点とも呼ぶべき、どこまでも高い――そう、"高い城"に、その男はいた。
つなぎ目無く部屋を囲むガラス窓を通して、男は都市の全てを睥睨することができる。
そこに生きとし生けるもの、動くもの、その考えすらも手に取るように理解できる。
しかし今、男の心を掴んで離さないものは、そんな些末な事柄ではない。
歌だ。
この世にこれほどの旋律が、かつてあっただろうか。
音符の連なりが声の抑揚にあわせて漣のように押し寄せ、心を震わせる。
ただその歌あるというだけで、世界の全てに鮮やかな色彩で覆われていくかのようだった。
内殻に灯る電気の煌めきは星か月か。機械の律動は力強い生命の鼓動。
五感に伝わる情報の素晴らしさに、"高い城"に君臨する男は陶然と息を漏らした。
「やはり、良き声をしていらっしゃる。古きが良きとは限りませんが、あなたに関しては別だ。まさに至上といって良い」
男は活動的に洗練された、機能性のみを重視したと思われる礼服を纏っていた。
華美なところは無いにも関わらず、故にこそその佇まいには異様なまでの風格がある。
ただ音楽に聞き入り、賞賛しただけにも関わらず、指先に至るまで一挙一動が堂々たる仕草。
高みに立つべき男だと、誰もがそれを認めるだろう。
天性の――などと軽々しく言うべきではない。
そんな程度ではない。
持って生まれたもの、鍛え抜かれたもの、その両方がなければこうはならない。
「……いえ。わたくしの唄が優れているとすれば、それは使い手と曲あってこそ」
静かに、やはり美しい声が部屋の片隅から応じた。
それは歌声と同じ声であったが、しかしもし男の他に聞くものがいたならば首を傾げたに違いない。
あらゆる生命を賛美するかのように思えた声が、今はただ、叩かれ震える音叉の如くに抑揚が消え失せていた。
娘だった。
細く、今にも折れてしまいそうな華奢な体躯の女。きらきらと煌めく、金髪の娘。
薄い亜麻布で申し訳程度に肢体を覆った――若い娘。
透き通ったような表情には感情が露ほどもなく、動く気配すらない。
故にその陰りが、娘を老婆の如く老成させて見えるのだろう。
「王よ。あなたが嗜まれるフルートの如く、私の歌はあなたの歌に他ならないのです」
王――そう呼ばれた時、男の腰に帯びた剣がかすかに音を立てた。
洗練された、威風堂々たる佇まい、しかしそんな印象を唯一裏切るのが、その佩剣だった。
無骨で、暗い鉄の色をした、血に濡れた重苦しい剣。
男はその柄頭をゆっくりと撫で、先ほどとは違った理由で息を吐いた。
「王と呼ぶのはやめてくれませんか、ライダー。このような立場になったからには、相応しい役で呼んで頂きたい」
「では、セイバー様と……」
そう言って女――ライダーは、無表情のままにゆるりと頭を垂れた。
忠誠を誓う人形ですら、もう少しましな動きをするだろう仕草だった。
しかしセイバーは気にした様子もなく、微かに口元へ笑みを浮かべてみせる。
「して、あなたの言う『曲』の作り手は?」
「旦那様でしたら、また作業部屋を変えると言って荷造りをしておられます。階を移したいと」
「やれやれ。あのロビンソン・クルーソー殿にも困ったものだよ」
セイバーはそう言って、ゆっくりと歩き出した。
ライダーが付き従うと疑っていない――いや、追従するということすら意識していない歩調。
金髪のライダーはその動きを目で追いかけると、しずしずと後に続く。
継ぎ目一つない鋼鉄の床、王と彼女が乗った箇所が円形に沈み込んで下層へと落ちるのにも、慌てた風はない。
この"高い城"を移動するのは、昇降機が欠かせないものだ。
「どうせ部屋は散らかしっぱなしだろう? 空いたら片付けてくれないかな」
「はい。旦那様がおられないと、物を投げられることもありませんから、効率が良いです」
「ははははは。君がそういうことを言うとは、やはり彼も大概だな」
ライダーは少し首を傾げた後に「事実ですから」と短く付け加えた。
「どうせなら使用人の服でも用意させようか? 君もその格好では動きづらいだろう」
「必要でしたら」
「必要ということはないね。必要な行為というもの自体、この世にはないものだ」
「……では、都市の方は?」
「このままで良い。何事につけ、ゆらぎは生じる。それなくして……ああ」
セイバーの返事は短かった。彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、穏やかな声で、斬りつけるように言葉を紡いだ。
「そういう意味では、君の歌は譜面通りだ。奇麗だけれど、面白みがない」
ライダーはやはり少し首を傾げた後、「恐縮です」と静かに答え、頭を垂れた。
この街に空は無い。
天は塗りたくられた黒インクのような暗黒で覆われ、そこに輝点が瞬いているのみだ。
それさえも夜空ではなく、星ではない。
この街に空は無い。
あるのはただ、無限にどこまでも続くかに思われる鋼鉄の殻だけ。
摩天楼は大樹の如くそびえ立ち、地面は奈落の奥底へと封じ込められた。
建物と建物を縫うように走るのは、蜘蛛の巣の如きガラス製のチューブの蔦。
ならば行き交う弾丸列車は蛇、飛び交う車は羽虫と呼ぶべきか。
鋼鉄の密林。
とすれば、そこには鋼鉄の怪物――野獣が潜むものなれば。
「あきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃっ!!!!!」
心底痛快抱腹絶倒。けたたましく甲高い笑い声が木霊して、黒い影がたかだかと宙を舞う。
それを追うように叩き込まれる銃弾は的確にその足場を撃つものの、命中する事はない。
「ちぃっ、ちょこまかぴょんぴょんと飛びやがる……!」
毒づく射手は、この鋼鉄の都市にあって、さらに異様な出で立ちをしていた。
鉄人。
そう呼ぶより他にあるまい。
頭部を鉄で覆い、胸を鉄で覆い、両手を鉄で覆っている。
手にした銃が唸り、飛び跳ねる者は踊るように弾を掻い潜る。
されど鉄の射手が尋常ならざる者であることは、その全身の鋼鉄が証明していた。
傷。弾痕。
幾度も撃たれ、幾度地に伏しただろう。
それでも尚、立ち上がるからこそ男はここにいる。
「そぉいうならさァ? おにーさんは、カタすぎてちょーっとずっこい、よねぇ?」
切れ切れの、甲高く耳障りな、けれど歌うような言葉だった。
ちかちかと瞬く街灯の上に蝙蝠かなにかのようにぶら下がったのは、小さな影だ。
フードつきのマントを羽織っただけの、痩せた貧相な小娘。
白髪の下、爛々と赤い目を輝かせ、彼女はおかしそうに手を叩く。
「でぇも、ちょーっちカッコイイ? か、なぁ」
「うるっせぇなぁ、ガキ。ちょっと静かにできねえのかよ」
「ごめ、んねぇ? あたーしさぁ。楽しぃの、すきぃーだか、ら?」
小娘の声は音程が外れている。鶏の声か、ガラスの割れるような声。
痩せた小鳥が囀るように喚いた娘は、けたけた笑いながらぴょんと数メートルを軽々跳ぶ。
はためいた外套の下、肋骨の浮いた裸身が垣間見える――が、注目すべきはそこではない。
娘の両腕に噛み付くようにして鎖で繋がれた、拷問器具の如き鉤爪だった。
「あ、きゃッ!!」
「効かねえっつの……!」
子猫がじゃれつくように爪が走り、鉄の射手の鎧に新たな戦歴が刻まれる。
男は小動ぎもせず、一歩も退かずに踏みとどまって、手にした銃を無造作にぶっ放す。
またしても火花が散って、娘は弾かれたように空を舞い、ビルの外壁へ鈎爪を食い込ませて着地した。
「テメェが『M』だったらタダじゃおかねえぞ……!」
「ちぃが、うよぉ。あたっしはねぇ、そぉんな……頭文字じゃあ、ないんだなぁ……!」
痩せた小娘は、人では到底不可能な姿勢で壁に貼り付いたまま、げたげたと哄笑する。
そしてふと我に返ったように、きょとりと首を傾げた。
「あぁ、んた……は、アーチャー……。でぇもぉ……。あたっしは、だぁれ、だろー……ね?」
「俺が知るか、バカ」
「あきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃっ! だぁ、よねぇえっ!」
吐き捨てたアーチャーの言葉のどこが面白かったのか、小娘はぱちぱちとまた手を叩いて喜んだ。
と、次の瞬間にはまたしても外壁を蹴って、摩天楼の谷間へと踊るように身を飛び込ませる。
遠く彼方から聞こえた言葉が「じゃあね」だったか「またね」だったか――アーチャーには判別つかない。
「やれやれ……」
深々と溜息を吐いて、銃をホルスターに納めるアーチャー。文句を言いたくなるのも無理は無い。
彼の足元には、今しがた殺されたばかりと見える若い娘の死体が転がっていた。
血はまだ温かく、湯気が出そうなほどに新鮮。
「……こりゃ、まぁた先生に叱られっちまうかね」
この街に空は無い。
天は塗りたくられた黒インクのような暗黒で覆われ、そこに輝点が瞬いているのみだ。
それさえも夜空ではなく、星ではない。
この街に空は無い。
あるのはただ、無限にどこまでも続くかに思われる鋼鉄の殻だけ。
1927年、人類は未来を手に入れた。
もはやこの星に明日は無い。
あるのはただ、無限にどこまでも埋め尽くす、かつてベルリンと呼ばれた都市だけ――……。
最終更新:2017年05月09日 21:24