第零節:神の蜷局

 ―――我が生涯に悔やむことがあるとすれば、たった一つであった。


 そう恵まれた人生でなかった自覚はある。
 きっと一般的な価値観に当てはめたなら、私の云十年は不遇と評すべきなのであろう。

 だが私は、少なくとも私自身は、そうは思っていない。
 確かに山より谷が多く、それどころか山肌を転げ落ちるようなこともあった。
 常に理不尽に囲まれた人生であったと自分でも思う。

 しかしそれもまた運命。
 神仏が私に定めた道が苦難のそれであったというだけであり、過ぎたことに文句を言うのは不毛以外の何物でもあるまい。

 最早私も老体だ。
 私の道がどこまで続いているかは定かでないが、この鼓動が絶える時もそう遠くないだろう。
 刀を振るって武威を磨き、馬に跨がり野山を駆け、斬り伏せた敵の数に酔う年頃は過ぎた。
 後は奇跡のような幸運で繋いだこの生に感謝しながら、天が与え給うた役目に殉ずるのみだ。

 床の上で死ねるとは思っていない。
 平穏な死を迎えるには、この身は罪を犯しすぎた。
 世を狂わせ、人を狂わせすぎた。

 ……寂しく苦痛に満ちた死こそが我が最果てだ。
 そうでなければ、あの御方があまりに報われないではないか。


 あの御方。
 そう、あの御方だ。


 今となっては振り返って見つめるだけとなった私の生涯。
 思い出せば別に何ら面白くもない云十年だったが、ただ一つ。
 ただ一つだけ悔恨の根が存在する。
 私の奥深くまで根を張り、引き千切っても引き千切っても絶えることのない後悔。

 私がかつて忠を誓い、そして裏切った御方。
 あの御方は私に数々の理不尽を押し付けた。
 私がそれをこなしても、果たして素直に褒めたことが何度あったか。

 ああ、けれど。
 それでもだ。
 私は時が経った今でも、時折あの御方の勇姿を思い出す。
 戦場を駆け、敵をあっと言わせ、鎧袖一触に薙ぎ払う絶対の覇者。

 ――我が手で滅ぼした栄華のことを、夢に見るのだ。


「……して、▇▅よ。
 儂は貴殿に、この杯を預かって貰いたい」

 そう言って主君が私に差し出したのは、黄金に輝く杯であった。
 即物的な考えを切り捨てるべき身分ではあるが、これを前に平静を保てる者が一体どれだけ居よう。

 思わず、息を呑んだ。
 平静を装えている自信がなかった。
 それほどまでに、杯の輝きは眩く、魅力的で。

 ……同時に、これまでに見たどんな輝きよりも恐ろしい光だったからだ。

 私はその輝きに奈落を見た。
 欲に駆られた者が堕ちる地獄を見た。
 恐ろしい鬼共が手招きし、下衆な笑いを浮かべる姿を見た。

 これは、断じて常世にあっていいものではない。
 私程度の僧が触れていいものでもない。
 出来るなら生涯人の手に触れることのないように、遥か土中にでも埋めてしまうのが望ましい魔性の品だ。

 ――よもや、こんな代物を手にする時が来ようとは。
 生唾を呑み、私は渇き切った喉からどうにか言葉を絞り出す。

「よいのですか。失礼ながら、これは如何なる黄金にも勝る至上の宝物であると思われますが……」
「分かっておる。……だがな、▇▅よ。貴殿も気付いているだろう。これはな、儂などが持っていい宝ではないのだ。
 いっそ割ってしまおうかとも考えたが、如何な祟りがあるか分からん。僧にでも預けねば安心出来ぬ。
 これの妖力に誑かされることのない、心より信の置ける僧にな……そして儂にとって、それは貴殿よ。▇▅」

 そう言って、主君は私の前に杯を差し出した。
 こうまで言われては、僧侶に受け取る以外の選択肢は存在しない。
 ありがたきお言葉と頭を下げてから、私はその黄金杯を自分の側へと寄せた。

 主君の顔に安堵が宿るのが分かる。
 数多の戦、数多の政争、数多の謀略に打ち勝ったこの方にさえこんな顔をさせるのだ。
 これは至上の宝だ。
 同時に、魔性の宝でもある。
 人を狂わし、世を狂わす妖魔の器。

 あるいは基督の教えを信ずる伴天連か切支丹にでも見せたなら、この素性も分かるだろうか。
 その答えは定かではなかったが――私の腹は、既に決まっていた。

 我が主君。
 都を統べ、世を統べる将軍たる御方。
 私は彼に欲を出してほしかった。
 この輝きを自分の糧とする、そう豪語する愚かしさを見せてほしかった。
 そうやって、私の中に生まれた仏敵を嘲笑ってほしかった。
 ――私を、止めてほしかったのだ。
 どうしようもなく救われぬこの罪深き魂に、更なる罪を犯させないでほしかった。

 だが最早止まらぬ。
 誰にも止められぬ。
 我が手に杯は収まった。
 それを法螺貝の音と錯覚したか、私の中にずっとあった黒い炎がごうごうと噴き上がる。
 あの時と同じ、抗いがたき衝動の炎が。

 私の祈り、私の贖罪。
 そういった何もかもを焼き尽くしながら、黒き熱は我が手足を突き動かす。
 今度こそ取り返しの付かぬ過ちの方へ。
 世を燃やし熱を引き出し何かを成す禁忌の方へ。

「必ずや公のご期待に添えてみせましょう。この妖杯は、私が責任を持って封印いたします」

 そう口にすると共に、私は心底思ったものだ。
 今私の前に、鏡の類がなくて良かったと。
 生涯二度目の不忠を犯すこの身が――この面が、一体どんな醜さで歪んでいるのか。

 せめて己だけはそれを知りたくなかった。
 見たくなかった。目を反らしたままでいたかった。
 お前はあの時から何も変わっていないのだと笑う仏敵の声から、耳を塞いでいたかったのだ。




 空には鉛のような雲が立ち込めていた。
 今にも降ってきそうな空を見上げる余裕は、生憎ない。
 一瞬でも目の前の敵から目を離したなら、刹那ほどの猶予もなくこの身は袈裟に切り裂かれるだろう。

 旗色の悪い戦いだった。
 とはいえ、それは大局における話ではない。
 あくまで僕、この鉄火場に集った何千人の内の一人にとっての問題だ。
 後世に名の残ることもないだろう、ちっぽけな武士の生き死にの問題だ。

 刀と刀がぶつかり合う。
 火花が散るその度に肝が冷える。
 せめて敵には気取られぬようにと必死に刃を振るうが、一体どこまで誤魔化せているのやら。
 甲冑の下は既に汗でぐっしょり濡れていて何とも情けない。

 ――けれど、仕方ないだろう?
 僕は公のように雄々しく、恐れ知らずな男じゃないんだから。

 ただ武士の家に生まれただけ。
 運良く此処まで生き延びてきただけ。
 どこまで行っても、ただそれだけの男。
 戦場を楽しむ心も、死を恐れず果敢に戦う覚悟もない半端者。
 それが僕だ。益荒男なんて言葉には程遠い、情けない人間だ。

 全てはたまたま。
 必然性なんてありゃしない。
 生まれ直せるなら今度は百姓でいい、こんな世界はまっぴらだ。
 いつだってそう思いながら刀を振るい、敵を斬り倒してきた。
 不格好な勝利ばかり重ねて、時に陰口を叩かれながらも、知ったことか僕は生き残れればいいんだよと開き直って生きてきた。

 ……でも、ひょっとするとそれも今日までかもしれない。

 一向に攻めに転じられない。
 何かをしようとしても、先んじて動作そのものを潰される。
 相手だって、別に優れた武士ではない筈なのに――くそ、なんでだ! 僕は半ばやけっぱちに刀を振るうが、やっぱり決め手になってくれない。

 敵の顔は鬼気に溢れていた。
 目は血走り、口端からは泡が溢れている。
 死にたくないのか、それともそれだけ強く戦功を挙げたがっているのか。

 判別は付かないが、確かなことがひとつ。
 それは、僕はこの男に気合いで負けているということだ。

 武芸の出来云々じゃない。
 それ以前の、もっと抽象的な部分で劣っている。
 戦に懸ける想いも、名を上げたい欲も、生きたいという願いでさえも、僕はこいつ以下なんだ。

 だから当然勝てない。
 僕は武士としては落第の部類だけど、腐っても名のある家の出だ。
 そのくらいのことは、なんとなく分かる。
 そして戦場で"勝てない"ということが何を意味するかは、今日び百姓でも知っているだろう。

 ――死ぬのだ。

 冷たい刀にバッサリやられて、ろくに弔われもしない屍の一つになる。
 僕も今まで散々築いてきた"犠牲者"に。
 飢えた連中やら鴉やらに群がられ、肉片の一つ一つまでしゃぶり尽くされる戦死者に。

 ……ああ、僕は死ぬのか。
 振るった刀が弾き飛ばされ宙を舞う。
 ……親父殿には、顔向け出来そうにないな。
 愛刀が地に突き立つのを視界の端に捉えながら、僕は眼前で刀を振り上げ鬨の声をあげる名前も知らない敵を茫然と見ていた。
 走馬灯らしいものが見え始めて、ゆっくりと銀閃が押し迫ってくる。
 ……とはいえ、そんなに悪い人生でもなかったか。贅沢も出来たし、楽しいこともそれなりにはあったし。まあまあ満足かもしれないな。
 それでも、それでも、どうしても未練を挙げるとするならば。


 ――僕の生涯に悔やむことがあるとすれば、たった一つだった。


「―――」

 置いてきた名前。
 遺していくことになる名前をなぞって口が動く。
 声は出なかったから、動かすだけだ。
 ……けれど結論から言うと、それは僕の不格好な辞世の句とはならなかった。
 敵の振り上げた銀閃が僕を袈裟に斬り伏せるよりもわずかに早く――大地が揺れた。

 一閃の軌道は大きく逸れて、上杉武士がたたらを踏む。
 刀は僕の右肩よりも外側に振り下ろされて、大きく空を切った。
 好機。一気に戻ってきた武士としての脳が、突き刺さったままの刀を驚くほどの素早さで引き抜かせる。
 不味い。敵の顔が焦りに歪んで刀を真横に構えようとするが、そう来ることが読めない武士はいない。

 僕は構えられた刀の真上を、そのまま横一文字に一閃する。
 上杉武士の首が飛んで、源泉を思わす勢いで鮮血が溢れ出した。
 糸の切れた人形のように崩れ落ちたそれを僕は一瞥だけして、刀を鞘に納める。

 ……悪いけど、罪悪感はなかった。
 そんなものを抱ける余裕がなかった、という方が正しい。

 身体が震えている。
 はっ、はっ、はっ――息が乱れて止まらない。
 死ぬところだった。本当に、死ぬところだった。
 悔いは一つしかないとか格好つけても、所詮助かってみればこんなもの。
 だから僕は凡人なのだ。死の淵にいる間は恐怖を麻痺させて逃げておきながら、いざ這い上がれば思い出したみたいに震え上がる。
 公やにっくき上杉の軍神のように図太くはどうもなれそうにない。
 器が違うんだよと、誰かに笑われている気分になる。

 それはそうと――だ。
 さっきの揺れは何だったのだろうと、ふと思い当たる。
 順当に考えるなら地震なのだろうが、それにしては短すぎる気がしないでもない。

 乱れた呼吸を整えながら、僕は顔を上げ。
 周囲を見回して、"それ"を見た。


「――小さい戦争だな。赤子に木の棒でも持たせているのかと思った」


 丘の上に蛇が居た。女の形をした蛇だった。
 人の身体を持っているのに、その背中から九尾の狐よろしく蛇の体が何本も生えている。
 背筋が凍るほどおぞましい姿。でも幸いだったのは、蛇は別に、僕を詰っているわけではなかったことだ。

 こいつは僕のことなんて見ていない。
 こいつは、きっと誰のことも見ていない。
 この川中島という戦場と、その上で行われている合戦そのものを見ている。

 その上で、言ったのだ。 
 この大合戦を見て、小さいと。
 児戯のようだと、心底つまらなそうに。
 蛇の瞳はやはり人のものだったけれど、人がする目付きはしていなかった。
 僕達が地を走る蟻を見つめる目は、多分あんな感じなんだと思う。
 根本から違う、敵うとか敵わないとかそういう次元にすら居ない、圧倒的な"格下"を俯瞰する目。

 歯の根が合わない。
 なんだ、こいつは。
 こんな奴が、人の世に居ていいわけがない。 
 妖だ。妖が出た。……いや――

「この鱗が、視えるか。
 この瞳が、視えるか。
 この声が、聴こえるか」

 ――これは、そういうものですらない気がする。

 山とか空とか海だとか、そもそも意思を持つものであってはならないような。
 手を伸ばしても届かない存在であるからこそ皆が正気を保てている、そういう存在だと僕は感じた。

 祈り、頼み、真偽を疑いながらもご利益を信じて縋りつく相手。
 人がもてなし、時に価値を捧げて機嫌を取る目には見えない絶対者。
 武田信玄も上杉謙信も、この乱世の誰だって並び立てない世界の高み。


「―――そう。余こそは高みにて見下ろす者。お前達が神と呼び、畏れる者。
 星を囲い、蜷局を巻く者。人界を俯瞰し、贄を喰らい、災いを統べる八百万が一。
 嵐神に斬り伏せられ、肉体を失い幾星霜。ようやく神威の根を地に下ろすことが出来た。此処まで辿り着くには、難儀したぞ」


 ――神、だ。
 神が、見ている。
 遥かの高みから、一切無価値と見下ろしている。
 僕はほんの僅かさえ動けずに、それを見上げることしか出来ない。
 目も動かせないからわからないが、きっと他の武士達も同じだろう。
 川中島に集った誰もが、降りた神に釘付けになっている。
 例外があるとすれば甲斐の虎、越後の龍くらいのものに違いない。
 まともな人間が跳ね除けるには、この視線は(おお)きすぎる。あまりに、偉大すぎる。


「我が真名は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)――人の子よ。貴様らの全てを喰らい、貪る者だ」


 蛇が片手を振り上げた。
 途端に体が自由を取り戻す。
 僕はその場から駆け出すより先に、空を見上げた。
 曇天が裂けていく。いや、散らされているんだ。
 雲を散らすほど大きな何かが、空に割り込んできたから。

 空に腕が浮かんでいた。
 引き裂かれた雲の向こうには当然青空が広がっているが、その青空が、手の形を描いていたのだ。
 今、あそこには見えざる手が振り上げられている。
 人間を何万人といっぺんにすり潰せる、巨大過ぎる手が。

 ――人の姿を取って現れた神の本当の姿、その大きさを無理矢理引き出すが如く。


 崩壊の時は一瞬だった。
 見えない腕が、暴風を伴って地に墜ちる。
 空が嘶いた瞬間、僕は正気を取り戻したように駆け出していた。
 もう戦なんて関係ない。武士の誇りなんて投げ捨てろ。

 アレには――アレには、勝てない。
 人が神を撃ち落とすなんて、出来るわけがないのだから。

 ……川中島が砕け散った。
 そう錯覚するほどの衝撃が、炸裂する。
 同時に生ずる、局地的な大地震。
 即死即殺の腕撃と、二次災害の大魔震。
 神はただの一手と伴う余波でもって、僕達の戦場の、僕達の全てを破壊した。

 全て、全て壊された。
 磨いた技も、宴で酌み交わした酒も。
 何もかも、何もかも関係ない。
 神にとってそんなもの、蟻の睦み合いの域を出ないのだから。

 ――ああ、くそ。ちーちゃん、僕は――

 生きては、帰れないかもしれない。
 振り向いて、踵を返す蛇の威容を目に焼き付けながら。
 僕は、置いてきた最愛の人へと思いを馳せるのだった。
 それしか、出来ないのだった。

 人の子で、落第生の武士でしかない僕には――その程度が、関の山だった。




 川中島の戦い・第四次合戦。

 武田上杉両氏による四度目の激戦は、しかし人の手による幕切れを迎えることはなかった。
 女人の身に大蛇の身を生やした異形の神。須佐之男に斬り刻まれて消え去った古の蛇神、八岐大蛇。
 脈絡もなく降り立ったそれは、ただの一撃にして両軍を粉砕。川中島を死屍累々の地獄絵図へと変貌させた。

 されど、一撃にして死ねた者は幸福であった。
 痛みなど感じる間もなく全身を潰され、この世を去れたのだから。

 毒に犯され身を溶かされる苦しみ、呪いに犯されじわじわと絞め殺される痛み――
 蛇化生の恐怖に慄く屈辱、鍛えた剣が通らない絶望、仲間が惨死する哀しみ――
 出口の消えた川中島を彷徨い続ける徒労、神の威容を二度目の当たりにする悍ましさ――
 それら一切を味わうことなく、この地獄から退場出来たのだから。

 これを幸福と言わずして何とする。
 生き残った者こそ、愚鈍であったのだ。
 真に逃れたいと思うなら死が手早かった。
 そうすれば――迫り来る死に震える必要などなかったというのに。


 川中島は地獄と成った。
 出口の存在しない、神の蜷局に囚われた。
 血塗れの大地、蛇這う大地、魔獣集う大地。
 活路の見えない八方塞の戦場に、最後の希望たる風が吹き込むまで、あと――


 人理救済の英雄、泰平の世から生まれた益荒男。
 カルデアのマスター・藤丸立香がサーヴァントと共に踏み入るまで、あと――。


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無し 円環蛇神祭壇 川中島 第一節:川中島地獄変(1)

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最終更新:2018年04月09日 03:29