拠点と呼ぶにはあまりにも不格好であった。
どちらかと言えば、野営という呼称が正しいだろう。
空間だけは広いが真に安らげるかというと怪しい。
尤も、この魔境である程度の安全性が保証される時点でありがたいのだが。
しかし一歩足を踏み入れた瞬間、立香はふっと体が楽になるのを感じる。
特にコンディションが悪かったわけではないが、まるで質のいいマッサージでも受けた後のような感覚。
この状態でゆっくり体を落ち着かせることが出来るのなら、下手をすれば私室のベッドよりも効率よく体力を回復できそうだ。
見ればジークフリートも酒呑童子も、一般人(?)であるところの盛時さえも変化を知覚しているらしい。
そんな様子を見て、謙信はふっと笑ってみせた。
「言っただろう? 私の本丸には毘沙門天の加護が降り注いでいる。
だから外を彷徨く蛇共もまず寄り付かない。神に砕かれてしまった方は、もっと強い護りだったのだがね」
「みたいやねえ。お陰様で動きにくくて敵わんわ。多聞天の爺様に一言言っといておくれやす」
「その割にはケロッとしているじゃないか。大江山の鬼を本丸に招くんだ、少しくらいは枷を嵌めさせてくれ」
立香とジークフリートは加護の恩恵に預かれているようだが、逆に酒呑は歓迎されていないらしい。
それを若干気の毒には思うが、酒呑童子ほどの鬼にしてみればほんの僅か動きにくくなる程度のようだ。
謙信の言うことも分かるし、此処は折れておくべきだろう。酒呑には申し訳ないが。
「謙信公!」
「――皆、心配をかけたね。だが安心してくれ、傷はない」
謙信はジークフリートとの試合においても、一度として傷を受けなかった。
あれほどの激戦であったにも関わらず、双方無傷で試合を終えたというのだから彼らの武錬の程が窺える。
手傷を負った身の謙信が単身外に出るというのだから、彼の家臣達も当然心中穏やかではいられない。
将を出迎えた彼らの顔はいずれも焦燥しており、謙信の無事を確認すると共に明るさを取り戻した。
だが次の瞬間には、立香達に向けて警戒の視線が降り注ぐ。
謙信の連れてきた客である手前鯉口を切る真似はしないが、如何せん身なりが身なりだ。
立香の着ている戦闘服だってこの時代の人間からすれば十分奇矯と呼べるだろう意匠の服装であるし、ジークフリートは異国の鎧姿。
酒呑童子など語るまでもない。普通の人間が一体どうして、頭に角の付いた娘をすんなり信用出来ようか。
「なあ立香くん、僕らめっちゃ警戒されてない? 魔境から針の筵に環境が変わっただけ説ない?」
「まあまあ、安心して寝たり食べたりできるアテが出来たんですから」
ひそひそと囁いてくる盛時を嗜める立香の言葉は本心だ。
彼は、そこらの武士よりも遥かに寝食の大切さを知っている。
とはいえ針の筵という表現は決して間違いではない。
変に皆の気分を害さなければいいけどな、と立香は懸念を抱いたが――そこは人望厚き戦国武将、上杉謙信。
「皆、聞きなさい」
ぱんと彼が手を打ち鳴らすと、一気に空気が冷水でも浴びせたかのように引き締まる。
部外者である筈の立香ですら思わず背筋を正してしまいそうなほど、その声は良く響いた。
単純な声の大きさではない。声に力があるのだ。人の心に滲み入り、想いを伝える"力"が。
「皆が懸念している通りだ。こちらの方々は、二人を除いて人ではない。
遠い異国の英雄と、皆も名に覚えがあるだろう古の大鬼。されど、恐れることはない。彼らは総司や歳三と同じ"サーヴァント"だ」
総司。歳三。その名前に――立香の眉が動く。
「なんと……沖田殿達と同じ?」
「そうだ。総司達の強さは皆もよく知っているだろう?
剣を振るわば蛇を断ち切り、"妖"とさえ鎬を削ることができる。私のようにね」
「おお……!」
警戒と猜疑心に満ちた空気が、一気に期待の籠もったざわつきへと変じ始めた。
沖田総司と土方歳三。この時代でその名前を知る者は居るまいが、立香達の時代では誰もが知る名前だ。
動乱の幕末を生きた彼らは、立香とも面識のあるサーヴァント。というか、カルデアに居る。
にも関わらずこの川中島に彼らが居るということは、つまり"座"から直接召喚されたということか。
「……ですが、本当に大丈夫なのでしょうか。酒を持って歩く鬼と来れば、某にも覚えがあります」
「よく勉強しているね」
「ありがたきお言葉。かの鬼……大江山の酒呑童子は他ならぬ伊吹大明神――八岐大蛇の血と因子を引き継いでいるという伝説もあった筈。
恐れながら、味方に引き入れるにはあまりに危険な存在かと思います。もし予期せぬ事態が発生してからでは遅い」
もしここに酒呑を心から尊敬する茨木童子が居たのなら間違いなく激怒し、険悪な空気を作り出していただろうが――
そこは流石に酒呑童子。「ほんま、よく勉強してはるなあ」と可笑しそうに酒を呷りながら、事の行く末を見守っている。
軍神と呼ばれた男のお手並拝見、とでも言いたげだ。この状況でその胆力、恐るべし。
「私はね、人を見る目はあると自負しているんだ」
上杉謙信は義に生きる人間だが、しかし決してお人好しではない。
行く宛のない立香達をすぐには招き入れず、見極めの試合から入った辺りからもそのことは読み取れる。
その彼が実力を認め、何よりも"信用できる"と判断したのだ。謙信の凄さを誰より理解している上杉の兵達にとって、それは無視のできない事実であった。
たとえ異様な装いの者や、古の鬼を連れていようと。上杉謙信がこの連中を認めたことは、確かなのである。
「確かに彼らが獅子身中の虫となったなら、私達は今度こそ終わりだろう。
私もいよいよ腹を切るより他になくなる。だが――そうはならないと私は確信している」
「……謙信公をしてそう言わしめるほどとは。そんなにも気に入られたのですか、その連中を」
「彼らは強靭だ。身も、心もね。
蛇鱗の犇めきに怯えず、蛇の吐く毒に震えず、奴らの邪悪な蜷局から目を背けない。……皆には足りないものだ。分かるだろう?」
「ッ」
正直な話。立香がこの地を彷徨く蛇を恐れているかというと、否であった。
単純に見慣れているのだ、蛇など。今まで特異点で、そしてシュミレーターで何百体倒してきたか分からない。
ジークフリートと酒呑童子に至っては言わずもがな。彼らの心胆を寒からしめるには、それこそ巨いなる神を持ち出す以外にあるまい。
いや――それでも恐れ慄き足を止めることはないだろう。
人理を救った英雄と世界に召し上げられた勇者/鬼人を侮っては困る。
彼らはただ立ち向かうのみだ。人理を脅かし、多くの喪失を生もうとする荒ぶる神に。
これを希望の光と言わずして何と言うのかと謙信は思う。軍神の言葉に、一切の世辞はない。
そして謙信は、兵達の心に根を張る恐怖の存在も見抜いていた。
刃を弾く蛇。それを統率する妖達。憎き武田も忠を誓った上杉も、全てを握り潰した大蛇神。
彼らは仏僧ではない。修験者でもない。ただの人間なのだ――剣と鎧という鍍金で自らを覆っただけの、ただの人間。
聖なるものも邪悪なものも薄れた世に生まれ落ちた彼らに、この状況で気概を保てと言うのは酷だ。そんなこと、謙信も承知している。
だが、仕方ないでは済まないのだ。
それではただ死に絶えるだけ。
この川中島は心の折れた人間が生きていけるほど生温い世界ではない。
生き地獄。そう形容しても誰も異論は唱えないだろう、最悪の崩壊絵巻。
故にこそ謙信は、立香達の"眼"を買ったのだ。恐れを知りながら、尚も全てを直視する強き者の眼を。
いつかこの輝きが――必ずや、愛すべき臣達を奮い立たせる光になると信じて。
「私を信じなさい。彼らの到着を以って、我々の駒は揃ったんだよ」
……最早、異論を唱えられる者は誰一人居なかった。
心の中の恐れを看破された挙げ句、信じた大将にこう言われてまだ言い返せる人間がどれだけ居るだろう。
居るとすれば、そんな人間はそもそも蛇の脅威など恐れないに違いない。
強き者の瞳で、勇気を持って、あの神とその眷属共に怒りの火を燃やすことができる。
そんな、"強き者"である筈だ。
「……さ、もういいようだ。ついておいで、立香くん達。話をしよう」
ぺこりと遠慮げに一礼して謙信を追う少年。
それに付き従う異国の剣士と、古き時代の鬼。
恐らくこいつは例外だろうが、辺りをキョロキョロと挙動不審に見回しながら彼らに付いて行く武田武士。
その姿を見送った上杉武士達の誰かが、「畜生」と呟いた。
「俺達はいつから……あの人にあんなことを言わせるような腑抜けになっちまったんだろうな」
その問いに答えられる者は誰一人居なかった。
誰もが、その答えを知りたいと思っていた。
彼らはどうしようもなく平凡な人間で。
恐怖に打ち勝てず、されど折れることもできず。
中間で己の弱さに煩悶する――哀れな虜囚達なのであった。
◆
「……いいんですか? オレ達、あんまり歓迎されてないみたいでしたけど……」
「構わないよ。彼らとて、君達が仲間に加わることの意義を頭では理解しているんだ。
ただ……少しだけ臆病になっているのさ。どうか憎まないでやってほしい。将としての頼みだ」
「憎むだなんてそんな」と立香が手を振り否定すると、謙信は「ありがとう」と言って微笑する。
元を辿れば自分の不覚が兵達の士気を落とした要因だと、そう自覚しているのだろう。
だからこそ、自分のせいで彼らが悪く思われるのはあまりに忍びない。
そんな将としての意思を……透き通った誠実な心を、立香は微笑みの向こうに見た。
「急かすようですまないが、状況が状況だ。あなたの知っていることを全て、俺達に教えてほしい」
ジークフリートが切り出す。
今、立香達にはとにかく情報が不足していた。
この川中島がどんな状態にあるのかこそ把握できたものの、それ以上のことについてはさっぱりという有様。
これでは今後、神の打倒を目指して動くにあたり心許なすぎる。
故にこそ、此処で謙信から得られる情報は肝になる。そう思っての一言だった。
当然謙信もこの期に及んで何か隠し立てするつもりはない。
あの試合で自分を下した時点で、軍神にとってカルデアは信の置ける仲間と位置付けられた。
彼は包み隠すことなく全てを語る。立香達のため、そして彼らと共に戦う自分達のために。
「さて。今更だが、この戦場で何が起きているのかについては大体把握しているね?」
「はい。盛時さんから聞きました」
「……大まかなことは教えた。僕の知ってることは全部伝えたよ、謙信公」
「助かるよ。話がいくらか早くなった」
ふう、と一息ついて。
謙信の瞼が一度落ち、またゆっくりと開かれる。
次の瞬間、そこから柔和なものは消え失せていた。
あるのは甲斐の虎を幾度となく苦戦させ、風林火山の猛威を受け止めた越後の龍としての貫禄。
今、彼は神殺しの指揮者として自分達に向かい合っている。
そう思うと立香の背筋も自然と引き締まった。一言一句とて聞き逃さないぞと、小さく頷く。
「幸いなことに、八岐大蛇本体が姿を見せたのは最初の一度きりだ。
少なくとも私の知る限り、あの蛇神はどこぞに引き籠もったきり盤面に干渉していない」
「……ナーガ――蛇の魔物を山ほどばら撒いて、か」
「そうだ。正確な数は分からないが、恐らく推測することに意味はないだろうね。神が健在である限り無限に湧いて出るんだろう」
立香にとっては最早この手の理不尽は慣れたものだが、普通はこの時点で既に絶望的な戦況と呼んでいい。
こちらは頭数も資源も有限なのに、相手には果てというものがないのだ。
いちいち相手などしていられない。ナーガは無視して、頭を叩くのが最善か。
「とはいえあの蛇達は、そこまで強いわけではないからね。
私なら普通に斬り伏せられるし、一介の兵士でも当て所さえ理解していれば倒すことはそう難しくない」
「え……そうなの? 僕、てっきり倒せないもんだと思ってた」
「目や口の中は柔らかいからね。そこを狙えば、人を斬るのと変わらないよ」
恐らく戦いの中で、兵達のために自ら試したのだろう。
どんな人間にでもできる、蛇の殺し方を。
そしてその結果、手段は確立された。
単純明快、鱗に覆われていない部分を狙えば奴らは斬れる。
「問題は――蛇を率い、操る妖の存在だ。君達なりに言うなら、"サーヴァント"だったかな」
『詳しい説明は省くが。人類の歴史で名を残した人物を霊体として引っ張り出したようなものだよ、ミスター・ケンシン』
「ほほう、そこまでは知らなかったな。ありがとう、ホームズ殿」
盛時とは違い、謙信はあっさりとカルデアの通信に順応している。
この柔軟性もまた、軍神の頭脳を支える要素の一つなのだろうか。
立香としては余計な説明が要らなくなるため、実に助かるのだったが。
「我々が確認しているサーヴァントは、現状三……いや、四体だな。
未だ見ぬ戦力が存在する可能性は勿論あるが、ひとまず分かっているぶんだけ説明させて貰うよ」
「お願いします」
此処からは、絶対に聞き逃がせない。
謙信やその臣達が、文字通り命を懸けて集めた貴重な情報だ。
持ち帰って共有するまでに、何十人もの犠牲があったことだろう。
無駄にはできない。きっちり頭に叩き込んで、これからの戦いに活かさなければ。
「まず最初に、赤と青の髪を持つ双子の少女だ。非常に強力な毒を使い、その猛毒は我々の甲冑を易々と貫通する。
そればかりか刃のように振るい、おまけに抜群の連携で攻撃してくる。一度相見えたが、厄介な敵だったよ」
私の兵を最も多く殺したのはこの二人さ、と言う謙信の顔には苦いものが宿っていた。
鎧を貫通する毒に、立香の時代で言うところの水流カッターのような応用形。加えて、謙信をして抜群のものと言わしめる連携。
確かに人間が相手取るには些か手に余る相手だ。だからこそ、最も多くの屍を築くに至ったのか。
「双子のサーヴァントって……アンとメアリーみたいな?」
『断言はできないが、彼女達のような二人で一騎のサーヴァントかもしれないね。オーケイ、記録した。謙信公、次を頼む』
ダ・ヴィンチに促されて、謙信が次の英霊について語り始める。
「次のサーヴァントは、件の双子を侍らせて行動している」
「嫌味な奴だな。生かしておけん」
「盛時さん、黙っててください」
真面目な話、ただでさえ抜群の連携と鎧貫きの強毒を併せ持つ厄介なサーヴァントが更に別な英霊と同行しているというのは実に恐ろしい。
どんなサーヴァントであるかにもよるが、場合によっては個の武力に秀でたジークフリート達でも苦戦を余儀なくされるだろう。
「頼むからあんまり強い奴であってくれるなよ」と立香が祈ってしまうのも詮無きことである。
「家紋付きの甲冑を纏った、凶暴極まる顔立ちの男。
そして――独眼だ。自らを竜と自称し、双子を遥かに上回る暴威を振り撒いている。
その家紋は既知のものだったが、どうもかの家の武将達とは特徴が結び付かなくてね。大方、今よりも後の時代で大成する英傑なのだろう」
謙信の話を聞いた立香は思った――分かりやすい。あまりにも、分かりやすすぎる。
立香ですらそう思うのだ、カルデアの面々も一人残らずその真名を察したことだろう。
独眼の戦国武将。おまけに、竜を名乗る。これらの特徴に該当する英傑など日ノ本二千年の歴史の中でも一人しか居ない。
「独眼竜――伊達政宗……!」
天然痘にて片目を失い、尚も燻らず竜と呼ばれるまでに至った男。
成程確かに、彼ならば英霊になっていてもおかしくはない。
……残念ながら、祖国を脅かす荒神に同調して暴れているようだが。
「竜を自称するだけなら良かったのだがね。奴は確かに、竜の特徴と力を併せ持っていた。
あの戦い方は局所的な災害に等しいよ。幸いなことを挙げるとすると、直情的で分かりやすいことくらいだ」
『……独眼竜というのはあくまで二つ名で、伊達政宗に竜に纏わる縁があるなんて話は聞いたことがありませんが――』
マシュの疑問も尤もだ。
伊達政宗という武将は、決して華々しい戦果を連打した人物ではない。
むしろ悪評や奇行の方が遥かに多い、言うなればパッとしない英傑。
謙信に災害の評を下させるような力などあるとは思えない。……通常ならば、だが。
『無辜の怪物かな。少なくとも日本人にとっては、独眼竜の名はかなり有名な筈だからね』
「まあ、一回聞いたら忘れないよね。それで竜の力を扱えるようになってるのか」
『先入観は捨てて掛かるべきだね。あのスキルは容易くこっちの想定を上回ってくる厄介者だ』
歴史だけを見るなら、政宗がそれほど強力なサーヴァントであるというイメージは湧かない。
だが無辜の怪物によって言葉通りの独眼竜と成っているのならば、話は大きく変わってくる。
その上本人の気質も非常に荒い直情型と来た。与し易くも与し難くもなる相手だなと、立香は生唾を呑み込む。
分かっていたことではあるが――今回の敵もまた一筋縄では行かなそうだ。心して挑まねば。
「それで、私の知る最後の英霊だが……正直なところを言うと、このサーヴァントに比べれば先の二体は脅威度で大分劣ると私は思う」
双つの猛毒と災害の独眼竜を上回る、脅威。
他ならぬ上杉謙信が言うのだ。その重みは推して知るべし、である。
と、その時。不意に謙信が己の衣をはだけさせ、立香達にその肉体を露出した。
いきなりどうしたのだと思う立香であったが、次の瞬間にはまた生唾を呑む羽目になった。
さらけ出された謙信の胴には、おぞましい印が刻まれていたのだ。
知識がなくとも一目で呪詛の類と分かる、蛇の刻印が。
「へぇ……えらい深く呪われとるねえ。それどうなってるん? 複雑過ぎて見当も付かへんわ」
「私が聞きたいな、それは」
それは、ドス黒い蛇鱗状の紋様だった。
身を捩りながら這う蛇の姿を、立香はそこに見る。
酒呑童子は複雑過ぎて分からないと言った。
鬼の中の鬼、鬼種の頂点と言っても言い過ぎではないだろう彼女をしてそうなのだ。
仮に立香が呪術について知識を深めていたとしても、まるで理解はできなかったろう。
「その英霊は"黒い巫女"。狐の面で素顔を隠し、白が黒で、赤が紫で塗り潰された異様な巫女装束に身を包んだ女」
そして、と一呼吸置いて。
「――私にこの呪を刻み込んだ張本人だ。前以て自分に施しておいた加護は全て何の意味も成さなかった。
技も、呪の濃度もそこいらの妖術師とは次元が違った。呪毒という概念が服を着て歩いているのかと思ったよ」
謙信はそう語った。
黒い巫女。手練れの呪術師というだけでは飽き足らず、越後の龍すら認めざるを得ない武技の持ち主。
確かにこれまでに聞いた二騎と比べて、話を聞いているだけでも明らかに上の異様さを持つサーヴァントだった。
なんというか、不気味なのだ。恐ろしいというより、気味が悪い。
それこそ背中と衣服の間に蛇を入れ、這わせているような。
叫び出したくなるような不安感が、どこからともなく沸き起こってくる。
「黒巫女は常に十人前後の巫女を連れている。
これもまた彼女ほどではないにしろ、優れた呪術の使い手だ。腕が立つところまでよく似ている……こっちにも注意するようにね。
特に立香くんと盛時殿にとっては、巫女達の呪でも容易く致命傷になるだろうから」
うえ、と露骨に嫌な顔をする二人。
確かにこれは、謙信が特段危険とするのも分かる。
呪詛という曖昧なプロセスで人を殺す巫女達の恐ろしさは、蛇のそれに容易く勝る。
触れなくてもいい、というのはやはり大きな利点なのだ。
この場合は利点ではなく、脅威と呼ぶべきであろうが。
「……私の知ることはこのくらいだ。未だ一体のサーヴァントも討てていないのは不甲斐ないが――」
「あ、あの~……一ついい? 結局僕、なんで此処まで連れてこられたの?」
「そう、それだよ。武田武士の盛時殿」
武田武士、という単語を強調された盛時は思わず体をびくつかせる。
盛時としてもある程度の安全が確保された、少なくとも蛇の奇襲には怯えなくていい拠点を得られたのはありがたい。
だが、謙信が言った"どの道君は連れて行くつもりだった"という台詞がずっと引っ掛かっていたのだ。
何しろ上杉は腐っても敵陣。一体何をさせられるのかと、戦々恐々としていたのである。此処までずっと。
「君には、散り散りになった武田武士を見つけられる範囲でかき集めてきて貰いたいんだ。
信玄を連れて来いとは言わない。出来る限りの数でいい。今は少しでも多くの戦力と情報が欲しい」
「は……はあ!? 僕が!? いや無理だよ、僕はこの魔境で堂々と歩き回れるほど強い武士じゃない!」
「その反応も無理はない。酷なことを頼んでいる自覚はあるよ。だがね、君にしか出来ないんだ――盛時殿」
謙信は呪われた体である。
それに、ただでさえ不安定な状態にあるだろう武田の武士が、腐っても敵の大将である彼に心を開くだろうか?
例外はあるかもしれないが、大体の場合で否だろう。それどころか無用な流血を生みかねない。
「今はお互い睨み合っている場合じゃないんだ。手を取り合って少しでも犠牲を少なくしつつ、神の石垣を崩していく必要がある。
何も一人で行けとは言わないさ。今は外に出ているが、私の抱えているサーヴァントを護衛に付けても構わない。
君が望むなら、そして立香くんが許すなら、彼らと共に行くのもいいだろう」
「う……」
「駄目、かい?」
盛時は弱虫ですぐ逃げ腰になる、武士としては些か以上に問題のある男だったが――しかし凡庸故に人並みの良心は持っていた。
だからこそ謙信の言葉は彼の胸を打つ。自分が行かなければ、同じ釜の飯を食った連中が無残に死ぬかもしれない。
気に入らない奴だったとしても、こんなところであんな蛇共に貪られるのは忍びない。
けれど自分はあまりに弱いし、何よりあの魔境を歩き回って誰かを探すなど恐ろしくて堪らない。
葛藤があった。そして確信もあった。恐らく自分が嫌だと断ったなら、謙信は無理強いすることはないと。
上杉謙信はそういう男だ。軍神を誰より追い詰め、同時に誰より追い詰められた英傑・武田信玄から直接聞いたのだから間違っている筈もない。
「盛時さん。オレ達も付いていきます」
恐怖に屈するか、それとも我が身の安全を捨てるか。
家に帰るために安牌だけ切り続けるか、それとも博打を打つか。
思案に暮れる盛時の肩を、ぽんと誰かが叩いた。藤丸立香であった。
「立香くん――」
「盛時さん一人だとその、出ていって三歩歩いたら死んでそうなので……」
「失礼すぎないかね君!? 僕武士だけど! これでも武士なんだけど!?」
張り詰めていた気が抜ける。
それと同時に、仕方ないかとも思えるようになった。
感謝の言葉を述べるなど癪なので絶対にしないが、心の中でだけちょっと礼を言っておく。
……そうだ、仕方ない。此処で少し怖い思いをした結果帰れる確率が上がるなら、是非もなし――だ。
――神など知るか。
――僕は帰る。生きて帰るんだ。
そのためなら多少の損はしよう。泥も被ろう。もしも信玄公とこの軍神を共闘させることが出来れば、僕の生存確率はきっと一気に跳ね上がる。
「……分かったよ。此処であんたの頼みを蹴っ飛ばしたら、あんたの家臣に蹴り出されそうだ。僕も寝床を失いたくはない」
「そうか――ありがとう。感謝するよ盛時殿。こればかりは、私には出来ないことだから」
しかし。
請け負ったはいいものの、どこを探したらいいものか。
それに、もう一つ問題もある。
「でも、いいのか? 武田の連中なんて連れてきたらそれこそ険悪どころじゃ済まなそうだけど」
「そこは二つ目の本丸を作ることでなんとかしよう。急ごしらえで多少見た目は悪くなってしまうが、加護の強さはその分上げておく」
あくまで武田は武田、上杉は上杉。
されど、手を取り合うことはできる筈だ。
今は人と人でいがみ合っている場合ではない。
人と神でいがみ合わねばならない、そういう状況なのだから。
「これで今度こそ話は終わりだ。今日はゆっくり休むといい、立香くん達も盛時殿も。夜には総司も歳三も戻ってくるだろう」
そして、日が落ちる。
日が落ち、夜が来る。
生き地獄の川中島にも等しく、時間だけは流れているのだった。
最終更新:2018年04月15日 04:34