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プロローグ:モルペウスの子守唄

 1945年4月29日。
 アドルフ・ヒトラーが死んだ。
 偉大な【総統(フューラー)】は拳銃にて命を断った。

 長きに渡り隆盛を極めたナチスドイツの滅びは誰の目にも明らかだった。
 もうずっと前から濃厚だった敗色は彼の死を以って確定のものとなった。
 もはや無条件降伏は確実だ。
 この状態の国が持ちかける交渉を受けてくれるほどソビエトは甘くない。
 じきにベルリンは赤軍に占領されるだろう。
 民は悲惨な運命を辿り、国は再起までに長い時間を要するだろう。

 しかし、しかし。
 結論から言えば、そうはならなかった(・・・・・・・・・)

 外界と一切の連絡を遮断したドイツ。
 その最大都市へと踏み入った赤軍は、見る。
 路傍に散乱した、夥しい数の死体を。
 壁は赤く染まり臓物が飛び散り磔にされた人体がそこかしこに立ち並ぶこの世の地獄を。

 恐怖に足を止めた彼らの耳を足音が叩いた。
 大勢の、あまりにも大勢の靴の音。
 何かがやってくる。死に体のベルリンの奥から何かが来る。
 根拠はないが、この時不思議なことに、すべての赤軍兵士があることを直感していた。


 これからやってくるのは、人間じゃない。

 もっと別な、もっと恐ろしい――【何か】だ。


 赤軍が撤退に踏み切ったのは足音の発生からわずか数分後のことだった。
 それだけの時間で、ベルリンの町並みに数百の死体が増えた。
 疲弊しきったドイツが、赤軍の猛攻を退けられるはずのないドイツが。
 ……勝利の尽きたナチスが。秘された大隊を以って我が軍を蹂躙したと、地獄より生き延びた兵士は語る。

 ヒトラーが匂わせた最後の大隊、ラスト・バタリオンにしては出現の時期が早すぎる。
 そしてそもそも、かの大隊は人間の集団ですらなかった。
 哀れな赤軍兵が見たのは――無数の影。人の形をし、剣だの槍だの時代遅れな武器を持った影の軍勢。

 影にはいかなる兵器も弾丸も通じなかった。
 戦車で直接衝突しても、たたらを踏ませることすらできなかった。
 ベルリン市街戦の結果は大敗。
 屈辱的な結果と意味不明の報告に混乱するソ連本国に、電話の甲高い呼び出し音が鳴り響く。
 受話器の向こうから聞こえる声に、赤の軍官は覚えがあった。
 その声は不敵に笑って、軍官にこう言ったという。
 冗談としても出来の悪すぎる文句を、勝ち誇るように吐いてのけたという。


 ――【総統(フューラー)】復活せり。我らが闘争、果てることなし。


   ▼  ▼  ▼


 あの人の遺志に僕は応えられなかった。
 あの人の意思をわたしは得られなかった。

 誰よりもあの人を拝していたというのに。
 誰よりもあの人を愛していたというのに。

 僕は、果たせなかった。
 わたしは、愛されなかった。

 ああ、それでも僕は成し遂げよう。
 皮肉にも僕はあの背信を以って人ではない境地に辿り着くことができた。
 あの人が見られなかったイフの歴史を作り。
 あの人が遂げられなかった夢を叶えよう。
 【総統】に死はない。第三帝国を継ぐ誰かがある限り、【総統】は永遠の神として君臨し続ける。

 そう、わたしが冒涜しよう。
 【総統】の死を消し去って、この昏い情念を叶えよう。
 わたしはあの人に愛してほしかった。
 あの人の愛さえあれば、神である【総統】の心さえあるならば。
 それだけでわたしは、まさしく神に抱かれるような夢心地でいられたのに。

 僕が成して、わたしが叶える。
 ロンメルは死んだ。
 ヴィットマンも死んだ。
 ヒムラーは帝国に乖いた。
 ハルトマンとルーデルの心は既に帝国を離れている。
 メンゲレは表舞台を去った。
 もはや残っているのは僕/わたしだけ。
 けれど十分だ。たとえ一人きりでも、この頭に彼の志を継いでいるから帝国は未だ枯れてなどいない。

 僕の、わたしの、第三帝国を続けよう。


   ▼  ▼  ▼


 これは約束された敗北の物語。
 忠義と恋慕が這い上がり、残骸の町で喘ぐ物語。
 【総統(フューラー)】は敗れる。
 第三帝国は歴史通りに潰える。

 ……結末の分かり切った御話。
 それでもあなたは、本の頁を――

+ めくる
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最終更新:2018年05月21日 20:18