【0】
幸福な日常は、これからも続いていく。
そう思っていた矢先に、この平穏は崩壊した。
吉備の国に忍び込んだ男が、俺達百済の民の存在を、時の朝廷に密告したのだ。
俺達のお陰で豊かになった吉備の国を、奴等は恐れていたのだろう。
すぐさま俺達を排除しようと、吉備津彦命を派遣したのだ。
吉備の国の王にまでなっていた俺は、最初こそ和平を求めた。
この国の民は善人ばかりで、そんな彼等を戦わせるのはあまりに痛ましい。
何より俺自身が、痛みばかりが増える戦争などもうしたくなかったのだ。
『大丈夫だ、奴等も話せば分かってくれるだろう』
そう言って、不安がる仲間達を宥めていたのを覚えている。
あの頃の俺は、話し合えば丸く収まると本気で思っていたのだ。
奴等とて怪物ではない。同じ人間なら、俺達の言い分を理解してくれるだろう、と。
だが、朝廷の連中は――吉備津彦命の野郎は!
和平の申し出を一蹴し、容赦なく吉備の国に攻め込んできた!
奴等は俺達百済の民を、"吉備の国を恐怖で支配する鬼"だと糾弾してきた。
事実無根だ。この国の民が幸せになる為に、俺は努力を惜しまなかった!
持っていた百済の技術は、彼等が幸福に生きていく為だけに使っていたというのに!
にも拘わらず、朝廷の連中は俺達が発展させた街を、無情にも破壊していく!
悪しき鬼が支配した証だと、何の躊躇いもなく壊し続けていく!
圧倒的な物量で押し寄せてくる朝廷の軍勢を、吉備の国は押し返す事が出来なかった。
俺達を信じてくれた民が、俺と共に海を渡った仲間達が、次々に死んでいく。
吉備の王を生かす為に、俺を生き残らせる為に、ことごとく戦地で散っていく。
追い込まれた俺の前には、吉備津彦命が立っていた。
まるで、この戦いはこちらに正義があると言わんばかりの表情だった。
奴は俺に言った、『鬼の身で人らしく生きるなど、紛う事なき罪であろうに』と。
違う!違う違う違う!
鬼の証など、お前らが押し付けただけだろうに!
俺は人間だ、ただ平和に暮らしたかっただけの、ごく普通の人間でしかない!
何度叫んでも、幾度否定しても、吉備津彦命は考えを改めなかった。
人の肌を持つ俺を鬼だと信じて疑わず、刃を俺に振るったのだ。
吉備津彦命は恐るべき手練れだった。
それこそ、俺の抵抗がまるで意味を為さない程度には強かった。
だから、俺に出来たのはせいぜいみっともない悪あがきくらいで。
結局最期には、無残に首を刎ねられるという終わりを迎えたのだった。
こうして、俺は、温羅は、百済の民は滅んでいった。
何もかも奪われた。領土も民も命も、人である証さえも。
あれだけ沢山の命を握っていた掌には、何も残ってなど――。
『鬼め、人ならざるおぞましき二本脚め』
ああ、違う。確かに俺にはまだ残っているものがある。
"吉備の国を脅かした鬼"という後付けの怪物だけが、唯一残っていた。
人々から恐れられる人外の風評が、この掌に残ってしまった!
時代は移り変わり、それでもなお纏わりつく偏見が消えることはない。
吉備津彦命の武勇は「桃太郎」という物語となり、なおも俺を苦しめる。
桃太郎を鵜呑みにした大和人は、一様に俺が悪鬼だと信じて疑わない!
『東洋の友人から聞いたぞ、"温羅は鬼ヶ島の鬼だ"と!』
『知ってるよ!温羅ってすっごく悪い鬼なんでしょ!?』
『悪い事をしたら、鬼ヶ島の鬼に喰われてしまうよ!』
『温羅といえばアレだ、桃太郎に討伐された鬼だろう?』
『犬に噛まれ、猿に引っ掻かれ、雉に啄まれる!惨めな鬼め!』
誰も否定しない、誰も訂正しない、誰も修正しない!
「温羅が鬼ヶ島の鬼」だという空想が、さも現実のように拡散される。
風評は常識となり、常識は事実となって、俺の魂をも変容させた。
「無辜の怪物」。人々の願いによって在り方を歪められるスキル。
こんなふざけた力のせいで、俺の身体は史実から大きく逸脱した。
図体はより巨大になり、額からは二本の角が生え、肌は鋼鉄の如く堅くなり。
振るった拳は大地を砕き、口からは灼熱の火炎を吐き、手を翳せば稲妻を呼び寄せる。
その姿は、鬼という名の"おぞましき二本脚"そのもので。
気付けば俺は、正真正銘の人外に成り果てていた。
どうしてだ、俺が一体何をしたというんだ。
ただ平穏に生きたかっただけなのに、それが数百年も苦しむ罪だとでもいうのか?
人の身体さえ奪い取る罰を受ける咎が、この身にどこにあるというのだ?
教えてくれ。どうして俺が、こんな目に遭わなければならない?
『化物め!』『悪役め!』『悪鬼め!』『邪悪め!』
耳を塞いでも聞こえてくる、俺への罵声と嘲笑が。
目蓋を閉じても見えてくる、俺への偏見と侮蔑が。
どこに逃げても、俺は張られた呪いから逃げられない。
それでも、これを見ても、なお俺を化物と呼ぶのか。
忌むべき者と俺を疎み、憎むべき者と俺を弾圧するのか。
お前にまだ、人を憐れむ心があるというのなら。
俺を、ただ人でありたかった男を、"人間"と呼んでくれよォ!
【1】
「だがお前は、やはり化物だ」
温羅の叫び声を、牛若丸は躊躇なく一蹴した。
歪であろうと、彼の言葉は祈りだった。二度と化物と呼ぶなという懇願だった。
されど彼女は、情けをかけることなくそれを両断した。
「……なん、だと。今、なんて、言った」
温羅の身体が、わなわなと震え始める。
こめかみに青筋が立ち、息が更に荒くなっていく。
怒りを滾らせているのは明白、しかし牛若丸は口を休めない。
「貴様に事情がある事は承知した。なるほど、憎しみを滾らせる理由に相応しいだろう。
武士の情けをかけるというのなら、貴様を人間として扱うべきなのかもしれん」
もし何も知らない者であれば、温羅に同情をしたのかもしれない。
化物と蔑まれる彼を憐み、彼を人間として扱ったかもしれないだろう。
けれど牛若丸は、東京で起きた全てを知っている。
「だが貴様は、この世界で何人の血を流した?何人の日本人を殺した?
貴様が殺した無数の命が、貴様自身の苦悩に釣り合うと本気で思っているのか?」
牛若丸は、この地で何が行われたのかを把握している。
大和の血を引く者が、屍となって山を作っている事を。
人としての権利を剥奪され、玩具のように弄ばれている事を。
「理解できないならもう一度言ってやる。
確かに貴様はかつてこそ人間だった、それは揺らがぬ事実だろう。
だが貴様は人の善性を捨て去り、ただの悪鬼に成り果てたッ!」
あくまで温羅は、虐殺に組した万博の一味だ。
罪の無い多くの命を奪い取った、憎まれるべき邪悪でしかない。
だからこそ牛若丸は、人理の護り手として彼を否定するのだ。
「私利私欲の為に虐殺を成す者は、最早人ではないッ!今の貴様は、ただの血濡れの怪物だッ!」
牛若丸の糾弾が、温羅の魂に深々と突き刺さる。
最早それは、彼の精神の緒に決定打を与えるものに他ならず。
完全な暴走を齎すのに、これ以上ない一撃であった。
「そうか、そうかよ」
地の底から響くような、憎悪の声であった。
骨の髄まで染みるような、怨讐の声であった。
交じり気のない憎しみが、大気をも振動させる。
「そんなに、テメェが、俺を鬼扱いしてぇなら……ッ!」
温羅の総身が灼熱を帯びていく。
元より巨大だった肉体の体積が、更に増していく。
四肢や背中に、牙に似た突起物が次々と生えていく。
上半身のスーツが裂け、赤銅色の肌が白日の元に晒される。
「望み通りッ!!!"鬼"としてッ!!!」
牛若丸のいるカルデアにも、たしかに鬼はいた。
酒呑童子と茨城童子という気まぐれで残酷な鬼を、彼女は知っている。
けれど目の前にいる怪物は、彼女ら二人とはまるで違う。
それは、極限まで純度が高められた殺意の結晶。
害する事に特化しすぎた、破壊と殺戮の為の霊基。
「牛若野郎ッ!!!テメェを殺してやるよォォォッッ!!」
最後に、巨大な二本の角が温羅の額に生え揃う。
折れていた鬼の証が、完全に元の在り方を取り戻す。
「鬼ヶ島の鬼」の温羅が、今まさに完成したのであった。
赤銅色の肌、頬まで裂けた口、極めつけは額の二本角。
今の温羅を見た十人中十人が、彼を邪悪な鬼だと慄くに違いない。
最早擁護しようもない程に、温羅という人間は怪物になり果てた。
「ば、化物……!!化物……ッ!!」
温羅の変異を目にした兵士の一人が、思わずそう零した。
雑兵が発したその言葉、本来ならば宙に消える筈の独り言。
けれども、鬼と化した温羅はそれすら聞き逃さなかった。
そう、そのたった一言はあまりに致命的だった。
完全な鬼と化した今の温羅は、狂化によって理性が掻き消えている。
「自分を鬼と呼んだ者」への憎悪だけが、今の彼を衝き動かしているのだ。
そんな状況で彼を化物と呼べばどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
温羅は瞬く間に、兵士達の列へと突っ込んでいく。
そこから始まったのは、見るも悍ましき大虐殺である。
その剛腕を以てして、次々に兵士達の息の根を止めていくのだ。
ある者は顔を殴られた衝撃で、そのまま首が千切れ飛んだ。
ある者は天高く殴り飛ばされ、そのまま墜落死した。
ある者は足先と頭部を掴まれ、真っ二つに引き裂かれた。
「化物」と零した兵は一人だけ。しかし恩羅は、兵を無差別に殺していく。
かつて、兵士達が嗤いながら民間人を殺してきたかのように。
彼はただ消費するかの如く、兵士を殺戮していくのだった。
「お、俺達仲間だったんじゃ――――ッ!」
「来るな、来るなァーーーー!!」
「たすけ、助けて……助けてくれェ!!」
蜘蛛の子を散らしたかの様に、兵士達は逃げ惑っていく。
されど温羅は、背中を見せる弱者にさえ容赦をすることはない。
彼は頬まで裂けた口を開き、大きく息を吸い込むと――――。
瞬間、灼熱が空間を真昼の太陽の如く照らし出した。
温羅の口から、高熱の火炎が放射されたのである。
扇状に広がる火炎は、兵士達を悉く灰燼に帰していく。
肉が焼き焦げる悪臭が、牛若丸の鼻腔にまで届くほどであった。
「嫌だ嫌だ何とかしてくれよコロンブスさぁん!!」
「殺される、殺されるっ!こんなの、話が違う!」
「こ、こっち来るんじゃねえ化物!!!」
「ああ、あ、悪魔!悪魔がいる!!助けて神様ァ!!」
過剰なまでの暴力を見せつけてなお、温羅は手を緩めない。
火炎から逃げおおせた兵士達に顔を向けると、彼の体が光を纏い始めた。
「バチリ、バチリ」と音を鳴らす光は、叫び声と共に兵士達に向かって行く。
その光とは、即ち稲妻である。本来天より降り注ぐ筈の雷光が、生き残りたちに降り注ぐ。
雷に撃たれて平気な人間などいない。当然のように、兵士は焼け焦げた屍骸と化した。
「▆▆▅▅▆▂▅▆▇▅▆▅▅▆▂▅▆▇▅▆▄▇▇!!!!!」
温羅の咆哮が、再び大気を大きく揺らした。
それは、勝鬨を上げんとする巨獣の咆哮のようにも聞こえ。
しかし同時に、その姿は泣き叫ぶ子供の様にも見えた。
誰もが思ったのだろう、鬼とはこうあるべきなのだと。
力持ちで、火を吐き、雷を操り、それでいて残虐に"決まっている"と。
故に、温羅は"望まれた通りの姿"に成り果てた。
火炎と雷の化生。鬼ヶ島に巣食う悍ましき邪悪。
誰もが思い描く普遍的な"鬼"が、そこにはいたのであった。
(よもやこれほどとは……!)
蹂躙を続ける温羅の姿に、牛若丸は冷や汗が滲むのを抑えられなかった。
鬼種の強大さは理解していたつもりだった、何しろ同種が同僚にいるのだから。
しかし、鬼という種が殺意を極限まで滾らせた時、これほど凄まじい力を見せるとは。
味方同士で同士討ちをしてくれたのは、牛若丸からすれば思わぬ幸運だった。
如何に雑兵であろうと邪魔な存在なのだから、身内で潰し合うのはむしろありがたい話ではある。
けれど問題はその後。彼女はたった独りで、あの強靭な鬼に挑まねばならない。
兵士達を殺し尽くした温羅が、牛若丸に身体を向けた。
強烈な殺意が彼女を射抜く、さながら「次はお前だ」と言わんばかりに。
一方の牛若丸は、それに応えるように刃を構える。
「……ぅシ…………わカァ…………!!」
「来るか、温羅……ッ!」
悪鬼と相対してもなお、牛若丸の身体は震えを見せることはない。
それもその筈、恐怖を見せるような弱さなど、当の昔に捨て置いてしまった。
けれどそれ以上に、今の彼女には"敗けるものか"という信念がある。
何しろ、マスターに「ここは任せろ」と言い放ち、そして彼も任してくれたのだ。
かような期待がかかった場面で、負けれる筈もないのである。
それに、この四肢に流れるのは、多くの怪異を討ち滅ぼした源氏の血。
自分も源氏の武士であれば、目前の妖怪を叩き斬れない訳がない。
この血と己の才、そして薄縁が揃えば、勝てぬ"魔"などあるものか!
「いくぞ悪鬼ッ!この身に源氏の血が流れる限り、貴様を討てぬ筈がないッ!」
「▂▂▅▇▅▇▃▇▆▆▅▅▆▂▅▆▇▅▆▆▄▇▇▅▇▃▂▅▆▇▅▇▇▅▅!!!!!」
武士が吼え、悪鬼が轟く。
牛若丸の鬼退治が、その幕を開けるのであった。
最終更新:2018年07月30日 02:04