黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒。
黒に喰われた文明の残響を聞きながら三人の女が歩いている。
悍、悍、悍、悍、悍、悍、悍、悍、悍、悍。
悍ましく歪んだ人影を視界の端に見送りながら人理の旅人が歩いてゆく。
死んだ町、終わった都市。異形が犇めく人理終末の出発駅。
黒い炎が笑う声はもはやオルガマリーの耳には聞こえない。
果たしてあれは苦境に立たされた自分の耳が生み出した幻聴だったのか。
明確な答えも出ないまま、アニムスフィアの落とし子は人類の希望と盾の少女に付いて行く。
「此処が――」
「ええ。わたしのお家」
その先にあったのは、茨が生い茂りやはり所々に黒い炎が灯った庭園と気品溢れる大屋敷だ。
当然在りし日のそれとは様変わりしてしまっているが、それでも元は相当に上等な邸宅だったのだろうことが窺える。
生まれのよいオルガマリーは特に驚いた様子もなく、マシュは新鮮そうに辺りをきょろきょろと見回していた。
「すっかり変わり果ててしまって、恥ずかしいのだけどね。ガーデンは……まあ、これはこれで見応えがあるけれど」
黒い炎を歩みのひとつで水に絵の具を溶かし入れるが如く払拭しながら天使のような少女は先頭を歩む。
恐れるものなどなにもないかのような歩みを見ていると、現状が超特級の異常事態であるということさえ忘れてしまいそうだ。
と、そこでマシュはあることに気が付いた。口に出すかどうかで少し逡巡しつつ、おずおずと愛歌に問いかける。
「あの……愛歌さん。言いにくいのですが――愛歌さんのご家族は?」
「うーん、そうね。死んでしまったんじゃないかしら、この様子だと」
マシュは思わず言葉を失った。
デザインベビーであるマシュには当然ながら産みの親だとか姉妹だとか、そういった存在はいない。
だがそれでも人間は家族の繋がりを大事にするということは知識として知っていたし、愛歌にも思うところがあるのではないかと考えた。
その上で発言を躊躇した。でも状況の発展に繋がるかもしれないと思い、結構な緊張と共に問いを投げかけたのに。
返ってきた答えはあまりに淡白。「まあ、仕方ないか」程度の感慨しかない回答で、あっさりと切り捨てられてしまった。
何を口にするべきか分からないマシュの肩を、見るに見かねたのかオルガマリーが肘で小突く。
「気持ちは分かるけど、今は重要なことではないわ。人の心配をする暇があるなら自分の心配をしておくこと。いいわね」
「は……はい。そうですね、オルガマリー所長」
オルガマリーに窘められ、マシュも今は深く考えないようにしようと思い直す。
もしかしたらあの人間離れした少女には、自分の及びもつかない深く複雑な事情があるのかもしれない。
だとするとそこを土足で踏み荒らされて快くは思わないはず。少なくとも、会って一時間も経っていない自分が何を言っても余計なお世話だろう。
考えて反省しつつ、無理矢理に生まれた疑問を割り切るマシュとは裏腹に、オルガマリーはある根本的な疑問を抱いていた。
「(……確かに、愛歌ほどの実力者なら環境次第ではカルデアの援助なき英霊召喚も不可能ではないでしょうけど)」
沙条愛歌という少女は一言、規格外である。
魔術回路の量以外に欠点らしい欠点が見当たらない。
仮に件のアクシデントがなければ、あのキリシュタリア・ヴォーダイムとさえ肩を並べただろう。
本来ならば、特異点における英霊召喚の実行にはカルデア本館の援助が必要不可欠だ。
しかし今、オルガマリーたちは愛歌という才者のスペックと沙条家という然るべき土地に任せて道理を覆そうとしている。
今頃はカルデアでてんてこ舞いを繰り広げているだろうロマニ・アーキマンやレオナルド・ダ・ヴィンチが見たなら無謀だと立ち上がるだろうか、それとも妙案だと手を叩いたろうか。
わからないが、上手く行くのならば確かにこれ以上の回答はない。ただオルガマリーには一握の懸念があった。
代案がない故反論は口にできなかったが、ともすればこの強引な英霊召喚は我々の首を絞めることになるかもしれないとすら思っていた。
果たしてこの歪み狂った東京という異空間で、正常な召喚が成立してくれるのか?
召喚の儀式そのものは成立したとして、呼び出される英霊は果たして“まとも”なのか?
オルガマリーには断言できないし恐らく愛歌も同じだろう。そしてもしもまともでない英霊が喚ばれたなら――状況はさらなる最悪に墜ち得る。
「(いざとなったら、多少強引な手段を使ってでも――)」
オルガマリーは間違いなくこの三人の中で一番の足手まといだ。自分自身それは自覚している。
だが、カルデアの権限を一手に担う所長としての自覚も然りである。もし沙条愛歌とマシュ・キリエライトを失えば、人理修復はまず不可能だ。
だからこそ彼女たちが死ぬような事態だけはなんとしても避けねばならない――ひとりの魔術師としての矜持が、オルガマリーにはあるのだった。
◆
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
どこかで知識でもあったのか、沙条愛歌はオルガマリーに教えられるまでもなく召喚の詠唱を笑顔さえ浮かべて紡ぎ上げていく。
声は明朗で緊張など一切していないことが傍目にもわかる。見ている側にさえ、儀式の成功を直感させるような言葉は聞いていて心地良い。
さもそれは妖精の歌う唄のよう。ルイス・キャロルがアリス・リデルに見たのは、こうした魔境の愛らしさだったのか。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者」
場所は沙条家の地下。魔法陣は埃を被っていたが、電子機器ではないのだからこの程度の汚れは改めて退かさなくても支障はない。
触媒なんて上等なものはもちろんない。仮にあったとして、果たして使い物になったかどうかは怪しいだろう。
固唾を呑んで見守るマシュと、彼女とは別な懸念を抱きながら同じく見守るオルガマリー。
「汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――」
三人六つの瞳に見守られながら、辛うじて炎の汚染を免れていた沙条家地下書斎を翡翠色の極光が満たしてゆく。
網膜を焼く勢いのそれはとてもではないが直視できるものではなく、愛歌だけがその中で平然と佇んでいた。
やがて光が晴れ、埃や本を巻き上げる勢いで吹いた暴風も嘘のように綺麗さっぱり消えてなくなる。
そしてそれらが消えた先には、麗しの妖精を思わす沙条愛歌が立っていて。
彼女と向かい合わせになるように――陣の真ん中にはひとりの英霊が立っていた。
「おやおや。これはまた、ずいぶんとすごいところに喚ばれてしまったみたいだな」
その英霊はどういうわけか、当代風の服装をしていた。
紫のパーカーを着用して興味深そうに薄い笑みを浮かべる少女。背丈はマシュより少し高いくらいで、突出して高くも低くもない。
伸ばした茶髪も相俟って、渋谷なり秋葉原なりの街並みを歩いていたとしても誰も不審には思わないだろう。
ただ――そんなありふれた外見の中で、腕に抱いた古めかしく分厚い書物だけが浮いている。
その本は素人目にも分かるくらいに禍々しいものを纏っていた。禍々しいという表現も正しいのかどうか判然としない、そんな一冊。
少なくとも当代の少女が持っていていい代物でないのは確かだ。無辜の少女はもちろん、時計塔の"ロード"レベルでも持て余そう。
そんな魔導書を悠々と抱えているのだから当然彼女は平常ならざる存在。時の彼方よりこの異空に招来された古の英霊に他ならない。
「おまけにマスター……でいいのかな、君は? だいぶ反則スレスレな気がするけれど」
「ええ、その認識で問題ないわ――はじめまして、わたしのサーヴァント。
よかったらクラスと、あと名前を教えてもらっていいかしら。こっちの二人にも聞こえるように」
「構わないけど、僕の名前は多分二人とも知らないと思うよ?
僕ってほら、あんまりよろしくない英霊だからさ。善悪どうこうじゃなくて、こう、世界の均衡的に?」
肩をすくめて話す英霊にオルガマリーの眉が顰められる。
初めて見た瞬間から思っていたが……どうやら自分の懸念は当たってしまったらしい。
あれはどう見てもまともな英霊ではない。最低でも反英霊、ともすればその手のカテゴリに分類さえされない何者かだ。
おまけに本人もそれを認めている。捨て置けばいつ寝首を掻かれるか分かったものではない――!
「じゃ、三人とも初めまして。僕は"キャスター"。真名はエイボンっていうんだけど――はは、ほら見ろ。やっぱり知らないじゃん」
エイボン――その名前に、マシュとオルガマリーは少なくとも覚えがない。
否、彼女たちだけではなく。規格外の魔術師である沙条愛歌さえもが、エイボンの名に小首を傾げた。
人理を救う機関に属する二人と人類最後のマスターをして名前も聞いたことのないサーヴァントが、まともな手合いのはずがない。
ぐ、とオルガマリーは拳を握った。それから愛歌の方へと歩み寄り、肩を掴んで彼女に促す。
「愛歌――こいつは駄目よ。恐らくだけれど、そもそも正しい人類史に刻まれた英霊じゃない」
「オルガ、落ち着いて」
「ははは、いや~嫌われてるなあ。こうも露骨に嫌われるとモルギの奴を思い出すよ」
「^へ^」←こんな顔をして笑うエイボンの様子は、まるでオルガマリーの神経を逆撫でするかのよう。
ただでさえ気の長い方ではないオルガマリーはこののんきな態度に案の定こめかみをひくつかせ、ビシッとエイボンを指して口角泡を飛ばした。
「貴女に比べれば反英霊だって可愛いものだわ。
……滲み出てるのよ、性根の邪悪さが! 貴女はむしろ、人理を――」
「う~ん、当たらずといえども遠からずってとこかな。
僕は確かにいわゆる人倫には悖ったことをする魔術師だけれど、人理どうこうなんて小さいことにはあんまり興味がないんだけど……」
「それより、マスター」と愛歌に向き直るエイボン。
「気付いてる?」とエイボンが言えば、愛歌は笑って答えた。
「もちろん」と。
「さすが」とエイボン。彼女はにこりと笑って、オルガマリーに言う。
「今はそれどころじゃない。――――来るよ」
◆
「――――所長っ!」
叫んで、動いたのはマシュ・キリエライトだった。
デミ・サーヴァント……シールダーとなったことで得た巨大な盾を構えてオルガマリーの前に躍り出て、上から降り注いだ破壊から彼女を守る。
天蓋が崩れる。その向こうから殺到した莫大な衝撃波は愛歌、オルガマリー、マシュ、そしてエイボンを一切の例外なく襲った。
巻き上げられる粉塵を切り裂きながら地下書斎に降り立つ影、ひとつ。
七尺近い長身の影は、自分の身の丈ほどもあるこれまた巨大な一本槍を携えていた。
「見つけたぜ、虫けら共。そんでもって諦める時間だ」
騎士のような鎧を纏っているのに、口にする言葉はお世辞にも騎士のそれではなくて。
「てめぇらに世界は救わせねえ。此処で去ねや、褥に狂ったクソ売女が」
吐き捨てるような言葉に満天の殺意を載せて――汚染都市のランサーは女たちを力強く睥睨した。
最終更新:2018年09月18日 22:07