第1節:大蛇を見るとも女を見るな(1)




 視界が明ける。

 瞳が捉えたのは、星明りも疎らな宵の闇だ。
 どうやら、仰向けに転がっていたらしい。

 指を動かしてみる。
 触れたのは、夜に冷やされた空気が沈殿したような、平たく固い地面。
 少なくとも、カルデアの閉じられたコフィンの中ではない。
 レイシフトは無事に成功したらしい。

 ……無防備に屋外に転がされている状態を、果たして無事、と素直に呼べるのなら、だけれど。

 とはいえ、海賊船の甲板や、新宿の上空遥か彼方、なんてこともあったくらいだ。
 無事の度合いは、幾分か上等というものか。

 静かに息を吐いて、ゆっくりと吸い上げる。
 冷えた空気が、肺一杯に溜まる。
 三度ほど繰り返し、状況を確認するため、腕を支えに上体を起こした。

「もしもし、こちら藤丸。ダ・ヴィンチちゃん、聞こえる?」

 通信からの応答はない。

「……マシュ?」

 ふと心細くて名を呼んでも、状況に変化なし。ぐるり、と周囲を見渡してみる。

 石畳の街道。
 広陵な大地を割るように敷かれた道に沿って、碑石のようなものが立ち並んでいる。
 暗夜のためか、道の続く先は見えない。人の気配すら――――


「……! エリちゃん!」

 と、見渡したところで、同伴する少女の背中を見つけた。
 華美な服装と、腰元から延びる竜の尾のためか、夜道でも一目でわかる。

 デミ・サーヴァントとしての力を失ったマシュに代わり、レイシフトにはカルデアからの随伴のサーヴァントが選出されるようになった。
 ……選出、というと聞こえはいいが、今回の場合、その実態はゴリ押しに近い。
 微小特異点の発生地が古代ローマだと知るや否や、自分も行くのだとゴネはじめ、泣くわ歌うわのすったもんだ。
 カルデアの存亡を危ぶんだ司令塔から、不承不承のゴーサインを勝ち取った、というのが正しい。

 とはいえ、心のどこかで、その後ろ姿に安堵している自分もいる。

 エリザベート・バートリー。
 最強の幻想種たる竜種の系譜にして、とある吸血鬼のモデルとしても伝えられる、血の伯爵夫人。

 その(悪い意味で)強烈な信仰の後押しとは裏腹に、偏屈な英霊の多いカルデアにおいては、割合付き合いやすい部類に入る。

 ……多少のコツが必要なのは否めないだろう。
 しかし、外交的で能動的、ムードメーカーでもある彼女が訪れる場所はいつも賑々しく、どこか華やいでしまうのだ。
 彼女がカルデアに召喚されてからというものの、残した悪歴は枚挙に暇がない。
 それでも、眉を顰めるのではなく苦笑で迎えられるのは、彼女自身が持つ底抜けの無邪気さが所以だろう。

 駆け寄る足が、心なしか速くなる。
 慣れたつもりでいたけれど、やはりレイシフト先での孤独は容易に拭えるものじゃない。


「エリちゃん!」

 肩に触れる。 ――――沈黙が返ってきた。


「……エリザベート?」

 本名で呼ぶ。反応はない。

 街道は、静寂に包まれている。
 足音も、衣擦れも、呼びかける声も、すべて自分が発したものだ。
 他には、何もない。
 野犬の遠吠えも。小川のせせらぎも。虫の羽音も。

 なにより、無音という概念からは程遠い彼女が、一言も発さず、

 じわり、と、湿気を孕んだ不安が滲み出る。
 肩を掴んだ指に、力が入った。

「ちょっと、どうしたん」



 びょう、と、耳を風が裂く。

 エリザベートが、街路樹が、地面が、勢いよく遠ざかる、


 拡大する視界、


 衝撃、




「――――――――あ゛っ、……!!!!!」


 堅い地面に叩きつけられ、跳ね上がるたびに、喉が無様な音を鳴らした。

 ざり、と、砂を食む。
 剥き出しの掌が、地面に積もっていた砂埃に削られる。
 衝撃。衝撃。軽やかな音。
 緩やかに、滑って、止まる。

 はっ、はっ、と、犬のような呼気が断続する。
 それが自分のものと自覚したのは、追いついた激痛が鼓動に合わせて収斂するからだ。

「いっ、でェ……、」

 だいじょうぶ、だ。
 大丈夫だ。

 痛みには慣れている。
 痛くないフリにも慣れている。
 死ぬほどの怪我なんて、幾度繰り返したかも知れない。このくらい、なんだってこと。

 痛みを忘れぬまま、脳を働かせる。把握しろ、何が起きた。

「…………子イヌ」
「エリ、ザ、?」

 呟きは、案外と近くから届いた。

 エリザベート・バートリー。
 小公女としての姿で召喚されながら、竜種の力を宿したサーヴァント。
 人間をこれほど弾き飛ばせるのは、その人外の膂力に他ならない。

 たしん。たしん。

 竜の尾がうねるたび、小気味よく地面を叩く。
 靴が砂を食む音が、少しずつ大きくなってくる。


 その指は、縋るように槍の柄を握り締め。

 その瞳は、滴り落ちた血のように赤黒く濁り。

 そして、その表情は、


「ああ、子イヌ……ごめんなさい、マスター、あああ……許して、痛いでしょ、痛かったわよね? でも、アタシ、」


 生まれて初めての悦楽を知った生娘のように、未知への恍惚を浮かべていた。


「アタシ、逆らえなかったの」






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最終更新:2018年12月06日 19:45