視界が明ける。
瞳が捉えたのは、星明りも疎らな宵の闇だ。
どうやら、仰向けに転がっていたらしい。
指を動かしてみる。
触れたのは、夜に冷やされた空気が沈殿したような、平たく固い地面。
少なくとも、カルデアの閉じられたコフィンの中ではない。
レイシフトは無事に成功したらしい。
……無防備に屋外に転がされている状態を、果たして無事、と素直に呼べるのなら、だけれど。
とはいえ、海賊船の甲板や、新宿の上空遥か彼方、なんてこともあったくらいだ。
無事の度合いは、幾分か上等というものか。
静かに息を吐いて、ゆっくりと吸い上げる。
冷えた空気が、肺一杯に溜まる。
三度ほど繰り返し、状況を確認するため、腕を支えに上体を起こした。
「もしもし、こちら藤丸。ダ・ヴィンチちゃん、聞こえる?」
通信からの応答はない。
「……マシュ?」
ふと心細くて名を呼んでも、状況に変化なし。ぐるり、と周囲を見渡してみる。
石畳の街道。
広陵な大地を割るように敷かれた道に沿って、碑石のようなものが立ち並んでいる。
暗夜のためか、道の続く先は見えない。人の気配すら――――
「……! エリちゃん!」
と、見渡したところで、同伴する少女の背中を見つけた。
華美な服装と、腰元から延びる竜の尾のためか、夜道でも一目でわかる。
デミ・サーヴァントとしての力を失ったマシュに代わり、レイシフトにはカルデアからの随伴のサーヴァントが選出されるようになった。
……選出、というと聞こえはいいが、今回の場合、その実態はゴリ押しに近い。
微小特異点の発生地が古代ローマだと知るや否や、自分も行くのだとゴネはじめ、泣くわ歌うわのすったもんだ。
カルデアの存亡を危ぶんだ司令塔から、不承不承のゴーサインを勝ち取った、というのが正しい。
とはいえ、心のどこかで、その後ろ姿に安堵している自分もいる。
エリザベート・バートリー。
最強の幻想種たる竜種の系譜にして、とある吸血鬼のモデルとしても伝えられる、血の伯爵夫人。
その(悪い意味で)強烈な信仰の後押しとは裏腹に、偏屈な英霊の多いカルデアにおいては、割合付き合いやすい部類に入る。
……多少のコツが必要なのは否めないだろう。
しかし、外交的で能動的、ムードメーカーでもある彼女が訪れる場所はいつも賑々しく、どこか華やいでしまうのだ。
彼女がカルデアに召喚されてからというものの、残した悪歴は枚挙に暇がない。
それでも、眉を顰めるのではなく苦笑で迎えられるのは、彼女自身が持つ底抜けの無邪気さが所以だろう。
駆け寄る足が、心なしか速くなる。
慣れたつもりでいたけれど、やはりレイシフト先での孤独は容易に拭えるものじゃない。
「エリちゃん!」
肩に触れる。 ――――沈黙が返ってきた。
「……エリザベート?」
本名で呼ぶ。反応はない。
街道は、静寂に包まれている。
足音も、衣擦れも、呼びかける声も、すべて自分が発したものだ。
他には、何もない。
野犬の遠吠えも。小川のせせらぎも。虫の羽音も。
なにより、無音という概念からは程遠い彼女が、一言も発さず、
じわり、と、湿気を孕んだ不安が滲み出る。
肩を掴んだ指に、力が入った。
「ちょっと、どうしたん」
びょう、と、耳を風が裂く。
エリザベートが、街路樹が、地面が、勢いよく遠ざかる、
拡大する視界、
衝撃、
「――――――――あ゛っ、……!!!!!」
堅い地面に叩きつけられ、跳ね上がるたびに、喉が無様な音を鳴らした。
ざり、と、砂を食む。
剥き出しの掌が、地面に積もっていた砂埃に削られる。
衝撃。衝撃。軽やかな音。
緩やかに、滑って、止まる。
はっ、はっ、と、犬のような呼気が断続する。
それが自分のものと自覚したのは、追いついた激痛が鼓動に合わせて収斂するからだ。
「いっ、でェ……、」
だいじょうぶ、だ。
大丈夫だ。
痛みには慣れている。
痛くないフリにも慣れている。
死ぬほどの怪我なんて、幾度繰り返したかも知れない。このくらい、なんだってこと。
痛みを忘れぬまま、脳を働かせる。把握しろ、何が起きた。
「…………子イヌ」
「エリ、ザ、?」
呟きは、案外と近くから届いた。
エリザベート・バートリー。
小公女としての姿で召喚されながら、竜種の力を宿したサーヴァント。
人間をこれほど弾き飛ばせるのは、その人外の膂力に他ならない。
たしん。たしん。
竜の尾がうねるたび、小気味よく地面を叩く。
靴が砂を食む音が、少しずつ大きくなってくる。
その指は、縋るように槍の柄を握り締め。
その瞳は、滴り落ちた血のように赤黒く濁り。
そして、その表情は、
「ああ、子イヌ……ごめんなさい、マスター、あああ……許して、痛いでしょ、痛かったわよね? でも、アタシ、」
生まれて初めての悦楽を知った生娘のように、未知への恍惚を浮かべていた。
「アタシ、逆らえなかったの」
最終更新:2018年12月06日 19:45