童子は先ず、絵本の中で世界を知る。
色とりどりの彩色で描かれた理想の世界。
決して現実たり得ない夢物語を通じて世界の姿を垣間見る。
絢爛豪華なお姫様に勇猛果敢な王子様、悪い怪物は必ず倒されて最後は必ず愛が勝つ───誰もがこれを当たり前に信じ、歳を重ねる中で忘れていく。踏み出した足は井の外の土を踏み締め、純真な信頼は薄汚れた空気に汚染され煤けて朽ちる。
いつかいつか、後ろを振り返って笑うのだ。思うのだ。
ああ、あんな時代もあったなあ───と。空寒い現実に適応するため態々削ぎ落とした心を震わせて、力なく幼心の時に思いを馳せる。
戻りたい、と考えたことのない人間など居ないに違いない。英雄であれ凡愚であれ、ヒトは誰もが過去を回想する。それ自体を、ではない。現実を識ることなく夢と楽に耽溺出来ていた時代をこそ夢に見るのだ。
かつて、己がそれを確かに小さな手の中に納めていたにも関わらず。
時を経るにつれ、自ら成長という名の自傷行為によってそこから弾き出してしまったにも関わらず。
素知らぬ顔で宣うのだ。返せ、と。戻してくれ、と。そんな世迷言を通じて過去への回帰を、全能への願望を吐露する。
なればこそ。
その願望さえ叶えられたのなら、人類の救済という有史以前より続く永遠の難題はいとも容易く解決の時を迎えることになろう。
己は特別で凡人とは隔絶されたものを持っていると信じているから、それを誇示して悦に浸りたい?
否、もうそんな謙遜をする必要はない。
おまえはこれより正真の特別になれるのだから見栄を張る必要などあるまいよ。
好きなだけ狂人として振る舞い、これからは存分に行動で凡愚を圧するが佳い。
罪には禊が必要だから、己の人生をいつになっても始められない?
否々、潔癖症の片輪など放っておけ。
そんなに無垢が好きならば湧き水相手にでも腰を振っていればよいのだ。
案ずるな、罪は灌がれた神が許す。これからは過去を捨て、新たな己として歩むが佳い。
過去は尊く代え難いものであるから、新しいものはそれに従い縛られ続けるべきだ?
否々々、埃塗れのガラクタを神棚に飾って如何するよ。
おまえは現在を生きる光の種だ。それ以上ということはあっても、以下ということは決してない。
さあ、目障りな過去を踏み潰そうぞ。おまえはおまえなのだから、先人などという蛆に倣って這い回る必要などありはせぬ。
演じるな、縛られるな、恥じるな。
おまえたちはおまえたちであり、他の何物でもないのだから阻む者など遍くすべて斬り捨ててしまえば佳い。
神はそのすべてを喝采し、礼賛している。封じられた森羅の奥から、抹消された鳥居の奥から。すべてを曖昧に歪める霧の境を、燻らせて。
【其れは封印された歴史】
【或いは、空白からの蔓延】
【黄金郷の禍津星、凶に狂いて天狗に堕つ】
【───人理定礎値:EX 位相不定聲界“江戸”───】
◇◇
「はあ? 今度は江戸ぉ?」
藤丸立香がレオナルド・ダ・ヴィンチに対して顔を顰め、そんな問いかけを投げたのは至極当然の話であった。
これまでに立香が解決してきた亜種特異点は数あるが、やはりどうしても脅威度の差というものは存在する。
立香の認識では───新宿、アガルタ、セイレム、SE.RA.PH。この辺りが抜きん出て命の危険を感じた、言うなれば特大の厄ネタだ。
そして厳密には亜種特異点ではないのだが、そこにひとつ。『亜種並行世界』下総国が付け足される。
今でも忘れないし、何なら時々夢にだって見る。
鏖殺の英霊剣豪に、流浪の天才剣豪・新免武蔵と共に立ち向かったあの日々。
衆合地獄こと酒呑童子に荒療治どころではない処置を施されたこととか、印象深い出来事を挙げようと思えばキリがない。
「いやあ……日本はどうにも荒事の絶えない国だねぇ。天草四郎の次は徳川家康でも何か企んだのかな」
無論、立香が今此処に居り、カルデアが存続しているということは戦いの結末は勝利に終わったということになる。
だが───今日この日彼を管制室に呼び出したダ・ヴィンチが告げたのは、またしても立香の祖国・日本……それも件の下総では特段の憎悪を買っていた徳川幕府のお膝元、江戸で特異点反応が観測されたという旨の報せであった。
さしもの立香もこれには呆れる他ない。加えて、何と時代も前回と全く同じ。1639年/寛永16年であるというのだ。
「もしかして……前回やり残したことでもあったのかな。そうでもないのにこれだけ色々符合するって、ちょっと考え難いと思うんだけど」
「その辺りは現状不明と言うしかないね───申し訳ないんだけど。
あるかもしれないし、ないかもしれない。我ながら天才らしからぬ無責任な発言で嫌になるが、例の如く情報は絶無に近い。
ただそこに特異点があるらしいということと、あとひとつを除いてはね」
「あとひとつ?」
実際にレイシフトするまで、特異点の仔細はわからない。
これは毎度のことであり、立香も今更驚きはしない。
しかしダ・ヴィンチの言葉によれば、そこにひとつ例外があるらしい。
「江戸を中心にした関東地方の一帯が、何やらドーム状の霧で覆われているんだ。
言うなれば霧の壁。中で何が起きているのかは分からないけど、神秘の薄い時代には似つかわしくない超級の事象が起こっていると見ていい」
「霧の壁……? 嵐、とかじゃなくて?」
「ううん、霧だ。多分魔力を帯びたものなんだろうが、それ以上のことは分からない。
もっともこれは───レイシフト先の安全もいつも以上に保障されないということだ。
だから強要は出来ない。君が少しでも危険を感じるなら、こちらでもう少し解析に取り組んでみるよ。全力を以ってね」
関東地方全域を覆う霧の壁。これだけでは剣呑さすらない、ただ漠然とした不気味さがあるだけだ。
が、特異点を放置していいことは何一つない。基本的に、時間を掛ければ掛けるほど危険性は増していくものと見ていい。
誘拐された子供の生存率が、時間経過と共にどんどん下がっていくように。
だからこそ立香は、ダ・ヴィンチの慮る言葉に頷くことは出来なかった。
誰よりも人理の行方を憂い、守ろうと身体を張ってきた彼だからこそ。
我が身可愛さに致命的な事態の進行をのさばらせることは、出来なかった。
「いや、そんな悠長にはやってられないだろう。行くよ、すぐにでも」
「いつものことながら頼もしいな。その姿勢はありがたいけど、くれぐれも無茶はしちゃいけないよ」
「分かってる。俺はレイシフトするまでに、マシュから寛永時代のことを色々学んでおくよ」
以前に行ったことがあるとはいえ、あの時は学んで攻略するというより殆ど体当たりでどうにかしていた形だ。
今度はきちんと準備をしてから行けるのだから、知識を詰め込んでおくに越したことはない。
その一方で先入観は排し、頭の中の知識と目の前の現実に上手く折り合いを付ける必要があるから、特異点修復は難しい。
さあ───今日も世界を救う時間だ。藤丸立香は、三画の令呪が刻んである右手を強く握り締めた。
◇◇
レイシフト───敢行。
慣れた感覚があって、視界が消えて、意識再覚醒。
ぐー、ぱーと拳を開いて閉じて。
……無問題。行動は引き続き可能であると、この身体が告げている。
「お身体に異状はありませんか、先輩?」
「ああ、問題ないよ。危険なレイシフトって聞いて正直身構えてたけど、今のところはむしろ安定してる方だと思う」
「そうですね……あの空を除けば、ですが」
吸い込む空気の匂いは現代のそれとは明らかに違っていて、此処が過去の時代なのだということを実感せずにはいられない。
此処は寛永16年の江戸。徳川家光が征夷大将軍として君臨し、並行世界においては復讐者の憎悪の矛先となった都。
だが意外にも、都の様子自体は以前見たものと何ら大きく変わっていない。
違うのは───空だ。カルデアの観測によれば、江戸を中心に関東全域が霧のドームに覆われているという話だった。
見上げてみると、まさにその通り。空は霧で覆われ曇り空。光の射す隙間などわずか一寸ほどもない。
「魔力の反応は感じません。かと言って平常な自然現象の賜物だとは思えませんが……」
「どんな異常気象だよって話だしなあ。第一江戸時代だろ? こんな天気がいつまでも続いたらヤバいだろ、農作物とか」
「現代でも気候の煽りを諸に受けるのが農業ですからね。十中八九、有益な影響は及ぼさないでしょう。
出来る限り早くなんとかしたいところですが、そのためにもあの霧の解析は急がなければなりませんね」
唇に手を当てて考え込み、そこでマシュはもうひとりの“同行者”へと意見を求めた。
「茨木童子さんはどう思いますか?」
「鬼術の類でないことは確かだな。似て非なるものと見える。
どちらかと言えば陰陽道、神道───その衆合か。何れにせよ、随分とけったいな術式よ。
その癖して肥大化だけはしている。術の主は相当な屑であろうな」
「なるほど……」
茨木童子───大江山の首領と呼ばれた大鬼の少女。
彼女こそが、此度のレイシフトで立香に同行したサーヴァントであった。
無論、霊格でならば彼女以上のサーヴァントは幾体か存在する。
だがこの江戸は現在進行系で不明な結界らしき術に覆われた未知の魔境。
あまり立香のリソースを食い潰すような、兇悪なまでの性能を持つ英霊を同伴させるべきではないというダ・ヴィンチの考えだった。
もっとも、だからと言って茨木童子は弱いと高を括って掛かったなら……痛い目どころでは済まないだろうが。
時に。
「早く済ませるぞ、藤丸。この穢土は臭くて敵わん」
「あれ……茨木の生きた時代って江戸よりずっと前じゃ?」
「応、訪れるのは初めてだ。だが、同じ匂いがする」
「どことさ」
「───京だ。頼光の阿呆がのさばっていたあの都と、近い」
驚いたのはマシュも立香も同じだった。
言うに事欠いて、京。
茨木童子達が生きた時代の京と言えば、神秘とそれを殺す者が跳梁し合う鉄火場の都だ。
江戸の世にそうした存在が零だったと言えば嘘になるだろうが、それでもかの平安時代ほどとは考えられない。
だというのに……その常識はどうやら崩れているようで。
「でも、だとしたら酒呑達も居るかもしれないね」
「むッ」
あからさまに不機嫌オーラを全開にしている茨木に、立香はそれとなくこんなことを言う。
茨木童子は泣く子も黙る恐るべき鬼だが、しかしコントロールはしやすい。
それに───まるきり当てずっぽうというわけでもなかった。
茨木ほどの鬼が平安の匂いをこの江戸に見出したというのなら、必然、かの時代に由来する英霊が召喚されている可能性は存在する。
酒呑や頼光、金時などともし合流出来たなら、事は解決に向けて大きく進展するだろう。
「……ふん。嫌気の差すような場所であることに変わりはないが、まぁ、酒呑が居るかもというのは確かにこう、分からなくもないな。
そういうことなら吾も手を抜くわけには行くまい……うむ。酒呑に不甲斐ないところを見せるわけにはいかぬしな!!」
「その意気です、茨木童子さんっ」
さて、光景としては微笑ましいが……これからどうしたものか。
見知った英霊が居るかもしれないというのは明るい情報だが、行動の指標としては朧気だ。
ひとまず我らが指揮官、ダ・ヴィンチちゃんに意見を求めてみよう。
立香はそう思い、なるだけ人目に付かない裏通りを歩くようにしながら、ダ・ヴィンチとの通信を開始した。
「───そういうわけなんだけど、ダ・ヴィンチちゃん、ぶっちゃけどうすればいいと思う?
家光公が将軍をやってるってんなら、いっそ直接話を通しにでも行ってみるべきかな」
『大胆だが、それはやめておいた方がいいだろうね。
何せ時代が時代だ。引っ捕らえられて、問答無用で打首獄門なんてことにもなりかねない』
「……それもそうか。じゃあ、地道に聞き込みでもしていくしかないかな」
『これまた例の如く、だね。こっちも例の霧の解析に早速取り掛かっているが、進捗は芳しくない。分かっちゃいたが謎だらけの───』
通信の向こうの、天才。
その声が、途中で途切れる。
通信が途絶したのではない。
ダ・ヴィンチが自ら何かに気付いて、言葉を途中で止めたのだ。
『……気付いているかい』とダ・ヴィンチが語り掛けた相手は、茨木童子。
それに対し茨木は、「───」と無言、無反応だった。
……否。
彼女は気付いていないのではなく、気付いている。
気付いた上で、何のアクションも示さずにじっとその一点を見つめているのだ。
まるで、それは───仇敵にでも出会したように。
剣呑な、鬼ならではの殺意と敵意を溢れさせた両眼で、裏通りの向こうから現れた武士風の出で立ちの男を睥睨していた。
「先輩、下がってください」
『今は君もだよ、マシュ。
ふたりとも茨木童子の後ろに下がって、身の危険に備えるんだ。
あの男は───どうやら人間ではない。私達と同じ、サーヴァントのようだからね』
烏の濡羽色、というのだろうか。
艷やかで美しく、しかし華美ではない黒髪を一本に結んだ、非常に精微な顔立ちの男だった。
腰から提げた刀は彼が武士であることを示しているが、しかし江戸の様式とは些か異なって見える。
平安武士、と呟いたのはマシュだった。立香には一目でそう看破出来るほどの知識はなかったが……よく見ると確かに、頼光と似た鎧に見える。
貌は冷たく、瞳は鷹のよう。そんな彼に、茨木童子が歯を剥いて悪態をついた。
「は。だからけったいな都と言うたのだ。
よもや真っ先に出逢う英霊が、汝のような腰巾着とはな」
「否定はしない。だが、肯定も出来かねる。
少なくとも……お前が言えたことではないだろう茨木童子。大江山の首領とはよく言ったものだ」
「相変わらず、汝は吾の感情を逆撫でするのが上手いようだな。えぇ? ───綱よ」
「……!!」と、立香達は反応を示さずにはいられなかった。
もっとも、茨木が名を口にせずとも二人は気付いただろう。
マシュだけでなく立香でも、少し考えればその名に行き着ける。
平安武士で、茨木童子と因縁のある男となれば……件の頼光を除いてはひとりしか居ない。
かつて酒呑童子亡き後の京で、彼女の片腕を斬り落としたという“神秘殺し”のひとり───その名を、渡辺綱。
真名判明
江戸のセイバー 真名 渡辺綱
「そういうお前も息災なようで何よりだよ。今度は足でももぎ取ってやろうか?
……と、いや───違うな。いけ好かない顔が出てきたものだから剣呑な言葉を使ってしまったが、そうじゃない。
退け、茨木童子。俺はお前ではなく、お前の雇い主にこそ用があるのだ」
「なに?」
「……俺に?」
それはつまり、暗に彼……渡辺綱がカルデアの敵ではないということを示していた。
もし敵であるならば、茨木童子との交戦を避ける理由がそもそもないからだ。
神秘殺しらしく鬼を狩り、それからゆっくり用とやらを済ませばいい。
そうしてこないという時点で、あちらが何らかの理由から立香の素性を知り、対話を求めて来ているのは明白だった。
そこまで考えて、立香は茨木の前に出る。
茨木は未だ訝しげな顔をしており、少しでも綱が妙な行動をしたならば、一秒以下で殺しに掛かりそうな様相だ。
「お初にお目に掛かる。俺は渡辺綱、頼光四天王が一角だ」
「あ、どうも。藤丸立香、カルデアのマスターです。詳しい説明は要りますか?」
「無用。手短に行こう」
話が早くて助かると、立香は思った。
あの頼光の部下だからなのか、会話までも効率的であるらしい。
「単刀直入に言う。この江戸は今、火急の危機に曝されている。
仮に捨て置けば半月……どう永く見積もってもそれだけの時間で、確実に人理定礎崩壊級の災厄が溢れ出すだろう」
「な───」
「俺はある御方の命を受け、このことをお前達カルデアの者らに伝えるべくこうして推参した。
先の無礼は許されよ。生前からの職業病でな、妖魔の類と出会すと殺意を抑えられんのだ」
本当にばつが悪く思っているのだろう。
綱は表情は変えることなく、困ったようにこめかみを掻いてみせた。
逆に言えば、その職業病を無視してでも急がねばならないほどの事態が進行しているのか。
立香は彼の口から放たれた剣呑極まるワードを反芻し、背筋に寒いものを覚えずにはいられなかった。
そんな彼をよそに───茨木童子が不遜に鼻を鳴らし、綱へと言い放つ。
「頼光か」
「察しが良いな、鬼」
「ならば当然、酒呑も居るのだろう」
「──────」
それはある種、当然の帰結だった。
特異点において、生前の因縁は不思議と英霊達を引き付け合う。
源頼光が居るのなら、彼女の宿敵である酒呑童子が喚ばれている可能性は非常に高い。
元々“平安臭い”ことから浮上していた話だが、最早それは確定的となっていた。少なくとも茨木は、そう思っていた。
それに対して綱は、沈黙。
数秒そうした後に、彼は相変わらず動かぬままの鉄面皮で、茨木童子へこう返した。
「死んだよ」
───世界が、凍った気がした。
「……え」というマシュの声。
通信の向こうではダ・ヴィンチが目を見開いている。
藤丸立香などという凡人が、その例外である筈もない。
「……おい、小僧。吾は寛大だ。その戯言を撤回する機会を与えよう」
「すべて、事実だ」
「───有り得んッ! 汝、吾を謀ろうとしているのか!? 言うに事欠いて酒呑が滅ぼされただと!?」
「ああ。酒呑童子は死んだ。我が主の手によってではなく、嘶き嗤う魔王の手によって。
そして」
酒呑童子が、死んだ。
その事実に覚えた驚愕が消え去るのも待たずに。
渡辺綱は淡々と語る。信じ難い事実を、次々と羅列する。
「坂田金時が死んだ。彼に呼応して召喚されていた風魔小太郎も死んだ。
残っているのは俺と卜部と、流浪の人斬りがひとりだ。
端的に言って既に八分ほどは詰んでいる。戦力の殆どが、とうに失われている」
「ま……待て、よ」
酒呑童子。坂田金時。風魔小太郎。
いずれも立香の時代では考えられないような魔性英傑揃いだ。
殺しても死なないような彼ら彼女らが滅びたという事実はそう簡単に受け止められるものではない。
そして───更に、おかしなことがあった。
今しがた綱が口にした生存者、もとい残存兵力の中に……彼の主であり、平安最強と謳われた女の名前が無かったのだ。
数多の怪異を屠り、酒呑童子の首を取った最強の神秘殺し───源頼光。彼女に該当する呼称を、綱は一切用いなかった。
「───頼光さんは?」
「死んだ」
綱は答えた。
相も変わらぬ、色のない貌で───藤丸立香達の心の城壁を、無遠慮に突き崩していった。
「皆、死んだんだ。俺達だけが生き残った」
そう。
この江戸は、江戸にあって江戸に非ず。
───穢土。
穢れが集い、化生が集い、生きとし生けるものが蹂躙される地獄の一丁目。
穢土の大地は人を喰う。穢土の魔霧は魂を喰う。これはすべてを逃さぬ鳥の籠。並び立つ王達のための生贄祭壇。
歌え、歌え、神を讃える神楽の音を。
奏でろ、奏でろ、救いに続く道への行進曲を。
太鼓を鳴らせ。笛を鳴らせ。喇叭を吹いてギターを弾け。
ありとあらゆる音で祭り、祀り、奉り奉れ───
「我らに力を貸してくれ───藤丸立香。お前が、俺達の最後の希望だ」
最終更新:2018年11月27日 00:22