無人となって久しいであろうビル内部の温度を一定に保つための空調設備が、微かに音を立てながら稼働し続けている。
業務用のパソコンやコピー機なども同様だ。所々を赤黒い液体に染め上げられながらも、停止を余儀なくされている様子はない。
だが管理する人間がおしなべて〝処分〟されている以上、このような現象はいずれ消失してゆくだろう。
であれば後はポスト・アポカリプスへと一直線。ただただ滅びを待つのみである。
「燕青! 疲れすぎたらフォローに切り替えてけ! 無理しすぎることないぞ!」
「重々承知してるさぁ!」
そのような異様極まりない舞台の上で、五騎の英霊は休むことなく踊り続けていた。
既に建物内は弾痕や血液で汚されているというのに、彼らが通った場所は更に傷つけられてゆく。
それはまさしく、戦いが激化の一途を辿っているという何よりの証左だ。
でなければ、床や壁などに蜘蛛の巣状のヒビや一直線の切り傷など、その他諸々が刻まれるはずがなかろうという話である。
「エスカレーター昇るのをしんどく思える日が来るとか……お、思わなかったな……!」
総勢五騎のサーヴァント達は今、息も絶え絶えに愚痴を漏らす立香をよそに、鎬を削りながら上へ上へと向かっていた。
別にレースをしているわけではない。屋上に辿り着いたところでゴールテープが待っているわけでもない。
彼らはただ、頭上の有利を保つためにそうしているのだ。故に階段やエスカレーターなどを見つければ、積極的に昇る。
そして相手を見下ろし、得物を振るうのである。いつかのどこかで行われた聖杯戦争で、無名のアサシンが騎士王へと迫ったようにだ。
現に今、奇しくもその〝無名のアサシン〟に対して、階段の上を取ったライダーが煌めく剣を振り下ろしていた。
一人マラソン状態故に疲弊している立香の目では軌道を追いきれないが、どうやら迫り来るライダーの剣は無事に捌かれたらしい。
その一方で逆に上を取ったケツァル・コアトルに対しては、ランサーが手摺りの上を躊躇いなく疾走することで肉薄していた。
ルチャやプロレスではコーナーポストから飛び降りる技がいくつも存在するが、そうされては仕掛けられるものも仕掛けられない。
あっさりと追いつかれてしまったケツァル・コアトルは攻撃を諦め、回避に専念する。
代わりに攻撃役を買って出たのは燕青だったが、間合いの差が徒となったか、危うく手痛い反撃を受けかけていた。
最初に二騎を相手取って時間稼ぎをしてくれていたツケを、ここに来て一気に支払う羽目となったのだろう。
背を思い切り反らすことで、薙刀による素早い突きを紙一重で避けた燕青は、肩を大きく上下させて動きを止めてしまった。
「悪い、姐さん、小次郎。チェイテなんちゃらのときみたいに、マスターの乗り物になるわ、俺」
「解ったわ。後はこちらで上手くやっておくから」
「主殿の護衛役も欲していたところだ。恩に着る」
頼みを聞き届けたケツァル・コアトルと小次郎は、燕青を捨て置き再び戦闘に集中する。
そうして再び剣呑に過ぎる鬼ごっこが始まり、壁や床、そして互いの得物に刃がぶつかり合う音が遠ざかっていく。
時折ライダーが壁などにぶつけられる音が激しく響き渡るが、すぐさま反撃に移る辺りは本当に恐ろしいと思うばかりだ。
発汗による不快感を強引に押さえつけながらエスカレーターを走っていた立香が燕青へと声をかけられたのは、このタイミングであった。
「話、聞こえてたけども……何? 背負ってくれんの? マジなら助かる……」
「遅いぞマスター。そんでもってマジのマジだ……ちょっと休んでからだけどな……」
「っつーか……傷、その傷を治させてくださいよ浪子さん……ランサーに付けられたやつ、全然ふさがってないじゃんか……」
「あぁー、妙に痛いとは思ってたが……そうだったなぁ、忘れてたなぁ……必死だったもんでなぁ……」
壁に片手をつけ、中腰の姿勢でぜぇぜぇと息を吐き出しながら、立香は礼装によって回復魔術を発動する。
その間、燕青は改めてライダーがいかに恐ろしく見えたかを報告しながら、塞がってゆく傷を眺めていた。
「騎士野郎だが、どう考えても骨が折れたり陥没するような攻撃を受けたとしても、すぐに反撃かましてきやがる。
それ自体は前からの話だが、反撃に移るまでが明らかに速くなってんのが問題だ……あそこまでたぁな。予想を簡単に上回りやがる」
「やっぱ、前の戦いでは実力を隠してたって感じか?」
「もしくはあの薙刀娘をぶっ飛ばされたことがよっぽどトサカに来てるのだろうよ……。
だからだろう……意地でも俺らを殺してやる、って目で睨んで来やがる。しかも冷静ときたもんだ」
「頭上の有利は?」
「しっかり取ってきてやがるよぉ? ついでに言えば、さっきランサーが下になってたのは初めてのケースだ。多分、次はねぇなありゃ」
燕青の報告を聞き終えた立香が、ふっと笑みを浮かべる。呼吸はようやく正常なものへと近づいていた。
一方の燕青も、傷が塞がったことと立ち止まっていたことが効いたのだろう。既に万全の状態まで一歩手前といったところまで来ている。
そうなれば動き出さぬ理由はない。立香は燕青からの「踏ん張れるか?」という問いに頷くと、
「んじゃ、頼んだ。悪いけども、皆に追いついたらまた戦いの方で活躍してくれ!」
「当然!」
相手の背におぶさり、眼前を指さす。
その瞬間、両の鼓膜が甲高い音を捉えた。どうやらガラスで出来た何かが粉砕したようだ。
場所は遠く、まさに上階から聞こえたように思える。近くの窓を開くと、サッシごと落下していく窓が視界に入った。
これは俄然急がねばなるまい。手をこまねいている時間はないと改めて実感したか、燕青は合図もなしに疾走を始める。
親切にも「酔うなよ!」と声をかけてくれたが、瞬く間に廊下から階段のゾーンへと到着し、急上昇する彼の動きはさながら絶叫マシンのそれ。
酔う以前に目を回した立香は「お、おう」と情けない声で言葉を返し、這々の体で「だ、ダ・ヴィンチちゃ~ん……」と通信を開いた。
ARモニター越しに『日本には〝高飛車〟という名の半端ない絶叫マシンがある、と日本人の職員から聞いたことがある』と返事が返ってきた。
どうにか「あぁ、はいはい、富士急のね」と答える立香は、続いて「ライダーとランサーは?」と低い声で問うた。
返ってきたのは〝常に上を取って戦っている〟という旨の報告だった。そして〝依然小次郎達が不利な状況下である〟とも付け加えられる。
マシュが僅かに震える唇で『このままでは……』と言葉を濁したため、余程の状態なのだろう。こちらが更に速度を上げなくてはならない程度には。
しかし立香は「だ、大丈夫だ。それは大丈夫! 乱入とかがなかったら……!」と右手の親指を立てた。
そしてそのまま、胃から何かがせり上がってくるような感覚を抱きながら、どうにかこうにか大丈夫な理由を通信先の二人に説明する。
だが全てを話し終えたところで情けない声色に戻ってしまった立香は、
「だから、まぁ、うん。大丈夫なはずだから……それと、これ以上喋ると映像にキラキラ処理が必要になるんで、通話切りま~す……」
『君が一番大丈夫じゃなさそうなんだよな。ああ、それと残り数階で屋上だからね』
「はい、サンキューです……切りま~す……」
このように宣言して話を終えると、次は一生懸命に耳を澄ませた。
何かが叩き付けられたり、割られたりといった穏やかではない音が段々とはっきり聞こえてきたのだ。
それが意味するのは、立香と燕青が剣呑な現場へと到着する時が近いということである。
ならば足手まといになるわけにはいかないと、立香は自分を下ろして先に現場に向かうように指示を送った。
当然「いいのかい?」と問われるが、耳元で「大事なときに喋ろうとして吐く俺、見たいか?」と返す。
シュールすぎる脅しにすぐさま首を横に振った燕青は、鼓膜を振るわせる戦闘音をバックに踊り場へと立香を優しく下ろすと、
「ま、敗北感を与える役目を背負ってるのはマスターだしな。適当に体調整えながら上がってきてくれよ」
人間一人を下ろしたことで軽くなった身体でもって、眼前の階段を数段とばしで昇っていった。
まるで嵐のようだ。いや、前世は嵐だったのかもしれない。そこまで考えて、立香はあの男が魔星の生まれ変わりであることを思い出した。
前世、星じゃん。そんなことを心中で呟きながら、静かに階段を一歩一歩昇っていく。どうやら職員用の通路らしく、随分と狭い。
だからこそ余計に戦闘音が響いているのだろう。どんな状態になっているのかと想像するだけで恐ろしい、そんな轟音が。
しかしそれらに鼓膜を揺らされ続けている内は、戦いは終わっていないということ。即ちこちらの陣営もまだ敗北していないということだ。
手摺りをしっかりと握って昇る内に、少しずつ体調が戻ってきた。次にケツァル・コアトルによる気合いのこもった声を耳にし、笑みを浮かべる。
心身共に少しずつ健やかになってきた。魔術師としては下の下なガキがひねり出した策のためにと、皆が頑張ってくれている。それが嬉しい。
吐き気は消えた。三半規管の機能も正常になりつつある。その証拠に、手摺りを使わなくても進めるようになった。
のど仏辺りを右手で優しく触れながら「あー、あー」と声を出す。問題なし。そのまま深呼吸をする。問題なし。
「行きますかね」
いつまでもゆっくりしている暇はない。立香の動く速度が上昇する。
そして階数を示すプレートを五回程流し見た直後、
「陣地の取り合いは終わりよッ!」
ケツァル・コアトルの強烈なドロップキックが、ランサーを庇うライダーへと直撃する……という光景が目に焼き付いた。
耳鳴りを誘発させるほどの破壊音が轟く。ライダー達が、背にしていた鉄製の狭いドアへと衝突したのだ。
一瞬で歪んだ蝶番がはじけ飛び、ドアはライダー達と共に後方へと吹き飛ばされていく。
その先に見えたのは、天井や壁がない深紅の世界。
そう、立香を含めた全員は、上取り合戦の果てに屋上へと到着したのであった。
「あれだけやって、まだお日様沈んでないのかよ……」
乾いた笑みを浮かべてこう発言したのは立香だ。
相当時間経ってたと思ってたんだけどなぁ……とため息をついた彼は、続いて「これで頭上の有利はなくなったぜ!?」と相手を煽る。
ランサーの容態を確かめながらゆっくりと立ち上がるライダーからの返答はない。そして反撃もない。
ならばと立香も屋上へと踏み込んだ。そして周りを見渡し、周囲には落下防止用の柵以外に邪魔をする物が存在しないことを確認する。
再び視線をライダーに戻すと、彼は立ち上がったランサーに付着したらしい塵を払い、くしゃりと崩れた黒髪をも整えてあげていた。
得物の柄を握りしめて俯いている彼女にも、大したダメージはなかったようだ。
またもライダーに庇わせてしまったことに対する謝罪の念……といった精神的な負担はありそうだが、それを闘志に変えられては困る。
「これでいよいよ、対等以上といったところかしら?」
「ガキ共は呼ばなくていいのかい?」
「いやいや、ここまで来て呼ばれても困るのだがな」
ケツァル・コアトル、燕青、佐々木小次郎が前に出たので、立香は逆に数歩下がる。当然の処世術だ。
そしてライダー達が構えを取る前に、三騎の英霊が一斉に床を蹴り攻撃を放つ。当然の戦法だ。
しかし、ここまでしたというのに、
「頭上の有利など、もはや不要です。むしろ何にも邪魔されない場所であれば、皆さんの敗北感もより重くのし掛かるでしょうから丁度いい」
剣と薙刀による息の合った防御によって、相手に死が訪れるという〝当然〟だけは発生しない!
遂に衝撃すら食い止めたライダーと、彼の手が届かない場所へと巧みに薙刀を添えたランサーの瞳に、これ以上無い力が宿る。
その瞬間、二騎の一振りによってケツァル・コアトル達は後方へと弾かれ、強引に距離を取られた。
そして三者三様に構え直したところで、ライダーが迫る。否、ライダーだけではない。ランサーも動いている。
小柄故にライダーの背後に隠れられたのだろう。姿を現したときには既に、ケツァル・コアトルと燕青のどちらにも攻撃出来る位置に到達していた。
かつて前者には無責任に投げられ、後者には不作法に蹴り飛ばされている。その恨みがそうさせたのだろうか? 立香には判断が出来ない。
だが、どちらにしろ選ぶ道は決まっている。
「ケツァ姉!」
「ええ! 解ってる!」
結果、動いたのはケツァル・コアトルだ。
立香の声を聞き、彼女は燕青へと向かっていた薙刀の柄を左手で掴むと、右手のマカナをランサーへと突き出した。
身長差の関係で顔面へと迫ったマカナだったが、その一撃は避けられる。
先の戦闘で学習したのか、薙刀から手を離したランサーがその場で横を向き、顎を反らしたのである。
そして突如片膝を折って低い姿勢を取ると、左の掌を屋上の床に優しく押し当てる。
その瞬間、ケツァル・コアトルの眼前で間欠泉を思わせる激しい水柱が生み出された。
瞬時の対応を迫られたケツァル・コアトルは数歩下がるが、その内に薙刀へと手を伸ばされる。
避けることに集中して握力がお留守になっていたのであろうケツァル・コアトルは、抵抗することが出来なかった。
こうしてランサーの手元に得物が戻ると、未だに立つ水柱越しに薙刀の刃が迫り来る。
清水にも似た変幻自在な奇襲をどうにかマカナの腹で受け止めたケツァル・コアトルは、
「確かに、評価を改めるべきだわ……」
と、かつてのライダーの言葉を受け入れ、力任せに刃を押し返した。
水柱は姿を消し、遂にケツァル・コアトルとランサーの視線がぶつかり合う。
二人に会話はない。ただ、確実に闘志は衝突している。闘いの素人であるはずの立香にも理解出来るほどの激しさだ。
やがて力任せの突破を諦めたか、即座に後退したランサーはケツァル・コアトルを睨み付けたまま下段の構えを取った。
その隣では燕青が寸勁を放つことでライダーを下がらせると、体勢を立て直しつつある相手の元へと小次郎が動く。
振るわれた備中青江の刃が叩いたのは、ライダーのこめかみだ。衝撃が伝わるのならばと、容赦なく急所を狙ったのだろう。
しかし平衡感覚は失われなかったらしく、一撃を受け止めたライダーは姿勢を崩さぬまま「無駄だと思い知っているでしょうに」と呟いた。
「それに皆さんは、僕をランサーから引きはがそうとお考えなのでしょうが、そちらも無駄であるとお伝えしておきます。
何故なら今日、この屋上こそが貴方方の墓場となるからです。申し上げたはずですよ? 少しばかりお付き合いしましょう、と」
やっぱ見破られてるか。立香は心中でそう呟くと、即座に退いた小次郎に「大丈夫か?」と尋ねる。
彼は刀身を眺めて「仔細無い」と答えたものの、やはりライダーの頑丈さに納得がいかないようで、僅かな皺が眉間に刻まれていた。
確かに、その背負っている盾――サーフボードを思わせるような楕円形だ――は飾りか? とでも言い放ちたくなる立ち居振る舞いである。
「しかし、だからと言ってランサーに攻撃を集中させるのもいただけない。怒りが湧きます。
更に敢えて付け加えるならば、断じて僕はその隙を突かぬほど愚かな騎士ではありません。
騎士として失格であるとは重々承知しておりますが、その上で……彼女のためならば、僕は迷わず皆さんの背を斬りましょう」
「ポリシーを曲げるほどご執心なのね! 一体全体どうしてなのかしら!?」
清廉が服を着て歩いているような英霊が躊躇いもなく〝不意打ちをも辞さない〟と宣言した。
その異常性が引っかかったのだろう。ケツァル・コアトルはランサーから目を離さぬまま問いかける。
ならばと立香も追従するように「異常だよ、お前」と吐き捨てる。
くっきりと脳裏に浮かぶのは、かの第六特異点で出会った太陽の現し身だ。
「いつかのガウェインの方がマシに思える程度には異常だ。その力はどこから捻り出してる? 俺達を何度も屈服させてきた、その力の源は何だ?」
左手で相手を指差し、三白眼で睨み付ける。どう考えても質問をする人間の態度ではない。
しかし相手が敵の精神状態を心配するほどの優しさをも併せ持つライダーであるならば、むしろこの態度がベストだと考えたのだ。
相手は確かに冷静沈着だが、それでいて実のところは感情で動いている節がある。
そうでなくては、戦場で女性の身だしなみを――いくら相手が大事な相棒とはいえ――整えるような馬鹿な行動をするものか。
本当に理性のみで動いているのならば、いくら清廉なる騎士といえども〝それくらい〟は相手に任せるはずだ。
繰り返すが、ここは戦場なのだ。異常な空間とも言い換えられるのだ。そんな中で、そこまで異様な立ち居振る舞いを続けるものだろうか。
もしかするとマシュもそうしてもらいたかったのだろうか? 自分が女心を理解出来ていないだけなのだろうか?
これで相手が感情的でないのならば理解不能だ。別に理解出来ないからといって、己の策謀に不備が発生するというわけではないが、単純に不気味だ。
と、そんなことを考えていると……ライダーの右手に収まっている白銀の剣に、純白の輝きが生まれ始めた。
日没前の太陽が放つ夕焼けの光をも塗りつぶす、圧倒的な白。通信を開くと、ダ・ヴィンチが『魔力が集中している!』と教えてくれた。
その直後、
「愛です」
はっきりとそう口にしたライダーが、無造作な動きで横一文字に剣を振る。
すると異様な感覚が立香を襲った。暴風の塊が直撃したかと錯覚する程の〝圧〟が、立香の身体を後方へと吹き飛ばしたのである。
背にしていた階段に転がり込んでしまうことはなかったが、仰向けになった身体を起こすのにはしばしの時間がかかりそうだ。
首をあげると、ケツァル・コアトル達も各々で防御の構えを取っていた。
立香のように無様な姿を晒すことこそなかったが、微かに彼女達の膝が笑っているのが解る。
何が起きたのかと問いかけようとしたが、その前にダ・ヴィンチが『魔力で生み出された剣圧だ。あの程度の動きでここまでとは……』と呟いた。
確かにあれは〝いい感じの棒を見つけた男児がそれを振り回す〟程度の軽い動きだった。決して、断じて、本気のそれではない。
能ある鷹は爪を隠すというが、果たして彼はどこまでこちらを欺いているのだろうか。
恐怖からか、冷や汗が顎まで伝う。令呪が刻まれた右手の甲でそれを拭うと、ライダーは再び口を開いた。
「愛、ですよ。愛の前には、人は誰しも無力なのです」
そしてまた、輝く剣が適当に振られる。
「そう、貴男も、貴女も、貴男も、貴男も!」
一度は耐えれども、即座に二度目を撃たれたのはたまったものではなかったらしい。
ケツァル・コアトル達の身体が下がる。両足で踏ん張っているにも関わらずだ。
愛が源と言ったか。愛だけで、ここまで人は強くなれるというのだろうか?
化生の類でもない限り、そんなことなどあり得えるものか。
片膝を着きかけた三騎の英霊達を見て、立香は拳を振るわせた。
そんな光景を眺めたライダーは腕を下ろし、剣から白を消す。
魔力の消費を抑えたいのか、それともあまり敵に見せたくはない技だったのか。
ライダーの身体が弛緩する。
「……そして、他でもないこの僕も」
そして聞き取れるか否かというギリギリの声量でこう呟いたライダーは、目を細めて白い歯を見せた。
自嘲だ。自嘲の笑みだ。立香は一瞬でそれを理解した。
何故なら彼は孤独を感じたとき、魔術師としてはあまりにも普通すぎる己に向けて、時折こんな笑みを浮かべているからだ。
救えるはずの命を取りこぼした記憶などが不意に思い起こされる度に、そうするしかなくなってしまう。
己の無力さを感じたとき、必ずしも人は沈痛な面持ちを浮かべるわけではない。哀しげに、嗤うこともあるのだ。
ようやく身体を起こすことに成功した立香は「えらくおセンチな顔じゃんか」と嘲笑う。当然、これも煽りだ。
「何か気になる言い方だったけども、何? バツイチとかそんな感じなワケ?」
目を見開き、力を抜いて口を開けた立香がライダーへと問いかける。
デリカシーの欠片もない、相手の領域に土足で上がり込む所行である。
するとその瞬間、相手が床を蹴った。解りやすいほど真っ直ぐに、立香の元へと向かってゆく。
その姿を見て「初めて見る顔だ」と呟いた立香は、燕青と小次郎の名を呼んだ。
リクエスト通りにマスターの前へと立った二人が防御の構えを取ると、夕焼けを移す白銀の剣が振り下ろされる。
金属同士がぶつかり合い、比喩でなく本当に火花が散った。
「いいねぇ! 感情が乗ってる、ってやつか!? 俺としてはそっちの方が好きだぜライダー!」
内心では酷くビビり散らしながらも、立香は更にイキる。
命が惜しくないわけではない。死にたくないからこそ、相手の隙を生み出すために口を開き続けるのだ。
マスターの援護とは強力無比な魔術や巧みな指示のみにあらず。言の葉にて翻弄するもまた立派な援護なのである。
「キャスター曰く〝将を射んと欲すれば先ず馬を射よ〟とのことでしたが、気が変わりました。将から片付けます」
「来るぜ燕青! リーチの差が怖いからスピード勝負だ! 小次郎は刀を歪められないようにな!」
魔術礼装の力で燕青の力を底上げした立香は、足手まといにならないようにと数歩下がる。
直後、後方へと弾き飛ばされた挙句に床を転がる羽目になったライダーの姿が視界に入った。
阿吽の呼吸で燕青が痛烈な突きを放ったらしい。立ち上がったライダーは「並のサーヴァントではひとたまりもありませんね」と呟く。
そこへ突撃したのは小次郎だ。相手が構えを取るまでの時間を長引かせるために動いたのだろう。
事実、幾度となく首から上を打たれるライダーは、羽虫を追い返すかのごとく剣を振った。
その隙を狙って、燕青が上空からの飛び蹴りを放つ。果たしてライダーは再び床で転がされることとなった。
とはいえやはり肉体的なダメージは全くの無。すぐに立ち上がると、刀を手に迫る小次郎を迎撃するかのように構えを取った。
「さらばだ」
だがその素早い行動は無駄に終わる。
何故なら別れの言葉を告げた小次郎が、突如として進行方向を変化させたからだ。
猪が遮蔽物を避けるような浅いカーブではない。ほぼ直角と言っても差し支えのない、急激な曲線を描いていた。
突然のことではあったが、それでもなおライダーの視線は小次郎の動きを捉えたのであろう。
彼が目を剥いたことを、立香はしっかりと目撃した。
「ランサーッ!」
ライダーが、肺の空気を使い切ったのではないかと錯覚するような声量で叫ぶ。
そう。小次郎の進む先には、マカナによる斬撃と鮮やかな徒手空拳を織り交ぜる相手に苦心するランサーが立っていたのだ。
宣言通り、背中を切りつけるつもりか……ライダーが動き出す。しかしそれを見越していない立香達ではない。
群青色の籠手でライダーの顔を掴んだ燕青が、相手の後頭部を床に叩き付ける。そして馬乗りになると、今度は思い切り喉を締めた。
そうなればライダーとて、立ち上がるまでにはかなりの時間を要するであろう。
「なんてことっ!」
振り下ろされるマカナをするりと避けたところで、横合いから現れた剣豪を見たランサーが声を上げた。
だが悲鳴を上げてそれまでなどという人物は、決して英霊などにはなり得ない。
なんとランサーは即座に構えを切り替えるやいなや、首に迫る備中青江の刀身を弾くことで捌ききった。
佐々木小次郎を名乗るに相応しい剣聖の一撃を、彼女は華麗に防いで見せたのだ。
しかし、そこまでだ。かの剣聖による攻撃を防ぐために費やしたリソースは、決して少なくなどない。
なれば当然、隙が生まれる。そしてその隙を突くのは他でもない、神たるケツァル・コアトルだ。
避けられる道理などあるものか。
「さぁ、終わりの始まりよ!」
まずケツァル・コアトルが選んだのはラリアットだ。
見慣れぬ技に驚愕したか、ランサーはいとも容易く首に腕をめり込まされ、声なき悲鳴を上げる。
そして相手が倒れ込む前に、ケツァル・コアトルはランサーの両足をがっしりと掴むと、その場で回転を始めた。
多大な遠心力が襲いかかっているためか、ランサーは反撃に移ろうとしない。その間にも、回転速度は上昇していく。
この辺りで、ライダーが燕青による拘束を解き放った。意趣返しとばかりに燕青の首を締め上げ、彼の力を緩めさせることで窮地を脱したのである。
立香が「大丈夫か!?」と声を上げる間に、ライダーはケツァル・コアトルの元へと一直線に向かってゆく。
しかしあと少しで彼の手が届くかという間際で、ケツァル・コアトルは両手を離した。
彼女自身の膂力に遠心力が加わったことで、ランサーは砲丸よろしく放物線を描いて飛んでいく。
高さは充分。こうなればもはや落下防止用の柵などあってなき物に等しい。
だがそれでもケツァル・コアトルは止まらない。彼女はクラウチングスタートの体勢を取り、ランサーの元へと疾走したのだ。
そして背後からライダーが迫るのも気にしない様子で両足に力を入れ、ランサーに向かって跳躍すると、
「本番はこれから! 楽しみにしてちょうだい!」
意地でも薙刀を離さない右手を後ろ手に回して押さえ込み、己が両脚で相手の片膝を固めることでがっちりと密着した。
身体を固定するだけではなく、痛みをも与える様にと考案した即席の固め技だ。
実際に身体が悲鳴を上げているのか、ランサーは「ぐうぅうぅううっ!」と単語にならない呻き声を上げている。
こうなれば燕青を吹き飛ばした技を使う程の集中力は発揮されないだろうし、運が良ければ宝具の解放をも防げるかもしれない。
芋虫のように蠢き、どうにかして拘束から解き放たれようとしているランサーを見て、ケツァル・コアトルは僅かに口角の端を上げた。
そしてこのまま大地へと落下した際の衝撃を防ぐため、自身の姿勢を整えようとしたそのときである。
「本番など……始めさせてたまるものですかぁッ!」
喉が潰れるのではとつい心配してしまうほどに叫んだライダーが屋上の端に辿り着き、剣を鞘に収めてから即座に右腕を伸ばした。
そしてなんと、ケツァル・コアトルの拘束から唯一外されていた左腕の手首を握り、己の身体を柵に押しつけることで落下を防いだのである。
ライダーの異常な膂力によって、密着した女性が宙吊りになっている。下手をすれば彼は、敵ごとランサーを引き上げるかもしれない。
否、かもしれない……ではない。彼の力をもってすれば、確実に成し遂げられるだろう。
現に今、左腕をも使ってランサーの手首を握りこんだライダーは、漁師が網を引き上げるような動きを取りつつある。
相手からいくら攻撃を受けようとも傷つかず、疲弊する様子も見せないライダーならば、時間をかけて完遂出来るのはほぼ間違いない。
たった一つ、ある要素を無視すれば……という条件付きではあるが。
「あぐっ! ぐ、あぐぁああっ!」
「ら、ランサー……っ!」
「いっ! ぎ、いっ! き、気にしないで、ライ、ダー……これくらい、痛く、なん、てぇ……っ!」
ランサーの口から、可憐さの消え去った痛々しい悲鳴が発される。
そもそもランサーは、大柄なケツァル・コアトルにかきつかれたままの状態で片腕を握りしめられているのだ。
その苦しみたるや如何ほどのものか。それを想像出来ぬ薄情者は、この場に一人として存在しないだろう。
滲む脂汗を止められぬまま声を上げるランサーを見続ける内に、己を罪深き存在であると考えたのか、ライダーの顔色が青白く染まってゆく。
その様子を眺めていた立香は三日月を描いていた口を歪ませて目を細めると「成った」と声を発した。
「これぞ日本の列王記、大岡裁きは子争い!」
成った。遂に立香の企みは〝成った〟のだ。
高層ビルに突入する直前、燕青達に……そして階段を昇っている最中にマシュ達へと伝えた策が、遂に二騎のサーヴァントへと牙を剥いたのだ。
狙っていたのはまさにこのシチュエーション。その為だけに彼は敵を煽り、燕青達に上手く動いてもらうことで屋上へと移動したのである。
手を掴んだまま引き上げればランサーは助かるに違いない。しかし大事な大事な少女は苦痛に苛まれる。しばし武器を持てるかどうかも怪しいだろう。
しかし苦痛を与えぬようにと手を離せば、ケツァル・コアトルの宝具が発動する。確実に、ランサーはただでは済まない。
おまけに後者を選べば、遂にライダーとランサーは引き離されることとなる。実に、実に迷いどころだ。
内心でも立香は、同じような状況でマシュの腕を握り続けられるだろうかという疑問を浮かべてしまうが、そこはまず棚上げするとして。
今はただ、敗北感を与えるだけが己の仕事だ。
「さぁ、どうするライダー……愛の前には、人は誰しも無力なんだろ?」
更に関節を決められたのか、もしくは手首が限界なのか、ランサーの悲鳴が大きくなる。
ライダーの呼吸の間隔が速まり、彼自身は目を見開いて「僕は……僕は……っ」と幽鬼の如く独りごちる。
そんな男女の間に割って入ったのは、これまで二騎から〝世話になった〟燕青だ。
彼は「はぁい、時間切れ」と言ってひとしきり笑うと、四白眼でライダーを睨み付けて背後から片手を伸ばした。
そしてライダーの首を掴んで力任せに引っ張り込むと、姿勢を崩されたライダーは、遂にランサーから手を離してしまった。
別れが訪れる。心が耐えきれなかったか、ライダーは柵の向こうへと腕を伸ばす。
そこにはもうランサーがいないことなど、とうに理解しているであろうにだ。
やがて首から手を離され、床に倒れ伏した彼は「なんという、ことを……」と声を震わせ呟いた。
「飛び降りたいなら好きにしな。どうせ無事なんだろう? だが、それは全力で止めさせてもらう。天巧星の名に賭けて」
「雅さは欠片もないが、これも実戦故……覚悟してもらおう、騎士殿」
眉間に皺を刻み、これまでにないほどに厳しい表情を浮かべたライダーが立ち上がるのを見て、立香の面持ちは真剣なそれに変わった。
これ以上性悪な顔で煽る必要など皆無。ここからは、どのようにして二騎の再会を防ぐか……そのための指示と策を考えるのが仕事だ。
加えてライダーを注視し、モードレッドに情報を送り続けなければならない。まさに本番はこれからなのである。
心中で「頼んだぜ、二人とも」と呟いた立香は、これから一対一でランサーに挑むケツァル・コアトルの無事を祈るのだった。
一方、急速に落下するケツァル・コアトルは炎をまとっていた。
理由は単純にして明快。彼女が必殺の宝具を発動させたためである。
固め方の都合上いつも通りの脳天落としにはならないが、それでも充分なダメージは約束されている。
出来ればこの一撃で決まるとまではいかなくとも、勝負にならないというところにまでは行ってほしい。
彼女はそう願いながら流星と化し、間もなく地上へと到着するところにまで至っていた。
だが、相手にも矜恃があるのだろう。遂に悲鳴も上げなくなっていたランサーが、不意にケツァル・コアトルの鼓膜を激しく揺らした。
「宝具、真名解放……ッ!」
危うい発言だった。もしや共に心中するつもりでは、とケツァル・コアトルは一抹の不安を覚える。
このランサーが密着した状態から相手を吹き飛ばす水術を用いることは知っている。
加えて彼女の名が明らかになっていない以上、果たしてどのような効力を持つ宝具が発動するのかは予測不可能なのだ。
だがここまで来て相手から身を離しては、せっかくの策謀が全て水泡に帰してしまう。
故に己の宝具が発動したまま大地に辿り着くのが先であることを祈り、ケツァル・コアトルは相手と密着し続けることを選んだ。
リスクは承知の上だが、ここで退いては立香や燕青達に申し訳が立たないではないか!
「『炎、神をも灼き尽くせ』(シウ・コアトル・チャレアーダ)ッ!」
精神を全集中させ、あらん限りの魔力を用いて炎の勢いを強めながら、ケツァル・コアトルは吠え猛る。
そして遂に互いの身体が地上へと激突するか否か……という、その一瞬、
「『紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)』っ!」
ランサーの絶叫が再び耳朶を叩き、破砕する大地の悲鳴によって瞬時にかき消された。
最終更新:2020年02月22日 23:26