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新撰姓氏録によると、諸蕃のうち、大半が百済で、高句麗・任那、漢呉と続き新羅は1%程度
最後の古代年号(九州年号)の大長9(712=続日本紀の和銅5)年に、九州王朝滅亡と考えられる。
  翌年4月、日向国を分け大隅国を置く。7月、隼賊討つ将軍士卒たち1280余人を授勲。(続日本紀※)
↓  このときは、元明女帝。
68
九州王朝畿内出張所は、九州王朝系の天武に滅ぼされました。

※この授勲に対応すべき戦闘記事がない(←例によって九州王朝かくし)。前年で九州年号終了が傍証と考える。
古賀達也さんが 古代に真実を求めて第11集(2008)に書いている。(←好き嫌い関係なく読むべし)

なお、こののちの熊襲の反乱は、後九州王朝の抵抗と見る。
例えば、大伴旅人の活躍(日本書紀成立720前後)


   ~ジョーダンないし軽蔑のつもりかも知れぬが、真実に近そうだ

   大阪・百済寺跡
   百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土
   http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60411a.htm
   壊した後に建立

125 のんびりひまじん [[email protected],jp] 2008/11/03(月) 13:30:09 ID: Be:
   >>118 >>121 >>122 で(奇妙な仮説として)言うところは;
   ○百済王=日本天皇
   ↑
   ↓
   >>124 の資料の言うところは;
   ○百済王=日本の高級官僚 
唐年号(を新羅が使った時期の)竜朔3(663)年8月、白村江勝利直後部分の新羅側記録。

(新羅の)大王[文武王]は、倭人に語って、
「考えてみると、われわれとお前の国とは、海をへだてて境界を分かち、いまだかつて交戦した
ことがなかった。ただ、交誼を結び、和を講じて、訪問し交通してきた。それにもかかわらず、
どうして今、百済と悪事をともにして、わが国を欺こうとするのか。今、お前の兵士は、わが掌中に
ある。これを殺すのに忍びない。お前は、国に帰ってお前の王に報告せよ。」と、言った。(そして)
その思うままにさせた。(王は)軍隊を分けて(残る百済の)諸城を攻撃し、降伏させた。
   ~三国史記 列伝 金ユ信 (岩波文庫 佐伯有清編訳 〔88〕P123)

日本列島と新羅の関係は上記のごとくであった(その後以上の双方の関係はこの基本路線・・・重要!)。
118 >>128 ←なんぞの妄想しているのでないかい?

注)わざわざ、ここまで引用したのは、ここに掲げる文武王のことばとして示される、

新羅の重臣:金ユ信の偉大な構想(=日本と朝鮮との相互不可侵)を伝えたかったから。

金ユ信こそは、(近代日本の伊藤博文と山県有朋を兼ね備えたほどの)古代極東の偉大な英雄!

その後の1300年以上、現代に至る 日本列島と朝鮮半島との政治上の関係が、この
白村江の戦後処理で決まった。←金ユ信の構想



講談社学術文庫 古代朝鮮(井上秀雄)くらい読みなさい。三国史記のダイジェスト説明だ。
その当時の朝鮮半島事情を理解するためには、中央の貴族集団ばかり見ていてはダメと書いている。

  • 660年、百済滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。
地方の在地豪族たち(=遺臣)が、百済から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。
  • 663年、白村江で百済遺臣援助(さらに高句麗にも野心)の倭軍(と言っても貴族の私兵)大敗
  • 668年、高句麗滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。
地方の在地豪族たち(=遺臣)が、高句麗から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。

百済や高句麗の在地豪族たちの、抵抗拠点となったのが、現在でも半島に百以上残る、山城。

倭国の場合、この建設が遅れたようだ。←608年使者が来た隋の記録は「城郭なし」(隋書 イ妥国伝)
  あわてて建設始めたらしいのが、斉明2(656)年の記事、狂心の溝、多武の峰 (日本書紀)

  • 670年以降、唐 VS 新羅 戦争。>>109 >>112 も参考。

  • 668(天智7)年9月、新羅からの使者に金ユ信あてに船一艘(分のプレゼント)を
中臣鎌足が委託とある。 金ユ信と鎌足は、>>129 の相互不可侵の精神で一致したと考える。※

※三国史記 新羅本紀では、このとき、高句麗ピョンヤン落城寸前なのだが、若い文武王が指揮、
老人の金ユ信は新羅の首都(慶州)で留守を守った(なんと日本書紀と対応)。日本列島へ状況を伝えて、
(高句麗戦後の新羅は、唐と対立見込みにつき)協力 ないし せめて中立を依頼しておかしくない。
このために5年前、恩を売った(=日本列島の兵を捕虜としなかった。)

(まとめ)
日本列島に残っている朝鮮式山城は白村江以前に建設された。
文献の筑紫都督府なるものは機能しなかった。唐と新羅は戦争する。日本列島に手出しどころでない。
新羅と日本列島の政府はその後も相互交通を続けた。唐は結局677年朝鮮半島から撤退。

  • 670年代、唐VS新羅 の戦争は、派手なことはない。新羅の中央貴族の私兵は何度も負ける。
それでいながら全体として新羅は勝ってゆく。
歴史は、中央貴族たちが書くので、記録されることのない地方の在地豪族の活躍であろうと井上秀雄さんは書く。

なお、古田武彦さんは白村江のとき、近畿の天智は、母・斉明の死を口実に九州王朝を裏切って
動員した兵を朝鮮へ送らなかったと書く。そうだとしたら、日本列島には残存兵力があったので、
占領されるなどは考えられないはずなのだが、今度は占領されたなどと言い出す。
(マッカーサー世代の人らしい恐外国軍病から抜け出せない。)

(この異常さを見なされ!)
531年、安蔵王死。<梁書に526年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀)
↑
531(辛亥)年、高麗その王安を殺す、また 日本天皇太子皇子ともに死。(日本書紀に引用の百済本紀)
↓
こういう外国の記録があるので、(おそらく日本国内の)別の書物では、534年とあるが、531年に継体は死んだことにする。(日本書紀⑰ 継体紀)
↑
        • (有名な3年のズレ:2年の空位)
↓
534年、継体天皇が死んで、即日、安閑天皇が即位。(日本書紀⑱ 安閑紀)  

日本書紀の記事の異常のはなはだしさを、高句麗の記録ぶりと比較認識すべし。

140 日本書紀の記事の異常さを認識できますか?     成立年は
  • 梁書   629年
  • 日本書紀 720年
  • 三国史記1145年

(異常さ認識のため、もう一例)
545年、安原王死。<梁書に548年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀)
↑
545(欽明6)年、高麗大乱、国香岡上の王死。546(欽明7)年、高麗大乱、およそ戦いて死ぬる者二千余。(日本書紀 欽明紀)

外国(高句麗)の対外極秘事項を知っていることを暴露している。
現代のきむじょんいる戦国時代の武田信玄など生死安否の情報が極秘となることがある。
他国の極秘事項を知っていることまでもが極秘のはず。(上記で中国側に誤伝したことも極秘を示す)
その一方で 自分の国の天皇の死を変てこな年代記事にしている。>>140

6世紀時代の自国の一番基本のこと(天皇の生死年)ですら、
かくし事をしていることミエミエの日本書紀。

このような異常な書物・日本書紀には、五王の倭、卑弥呼壱與の邪馬台国、金印の倭奴国もすべて
真実を隠したと読めないのかい?

日本書紀:不思議な隠し方です。
おんな であることは
おんな じですが
卑弥呼(独身)・壱與(独・婦不詳)の二人 と 神功(亭主持ち)一人 が同じ年代と言うだけ。
↓
別国の別人と読めなかったらどうかしてる。→本居宣長のクマソ女酋説も(差別語を抜けば)説得性あり。


(稲荷山鉄剣という金石文)
  • 杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。
  • 佐治・・・・魏志倭人伝にあり。
↓
辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ)
↓
さては >>90 裏切り集団共謀のウソ歴史書・日本書紀。有名な卑弥呼壱與の邪馬台国は神功同時代と示しつつ、
真相知ったうえで、とぼけて隠したに相違ない。(一方で 高句麗機密に暴露能力 >>140 >>141 )

   ~日本書紀の中途半端な隠し事ぶりと執筆者たちの能力をテーマしたいところ・・・

   隅田八幡鏡銘文の作者が明確に書かず、日十大王(=武烈天皇)と
   など、他で聞いたこともないような大王名になってるのは、天皇が
   人間虐待をやってると直接書けば作者が殺されてしまう。そういう
   利害があって分からないように真相を書いているわけ。 

148 ローガン [] 2008/11/06(木) 16:42:14 ID: Be:
   >>145
   > (稲荷山鉄剣という金石文)
   > ・杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。
   > ・佐治・・・・魏志倭人伝にあり。
   > ↓
   > 辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ)

   「杖刀立直」蜀志馬超伝裴松之注引用山陽公載記ですね?
   裴松之没が451年かな? えらい速く日本の関東迄来たものですな。 

こういう年号はどうなんだ??
賢接とか鏡當とか勝照、瑞政、従貴、煩転とか、こいうのはどこの国
(妻をいも妹と読ぶことを不思議だという不思議)
雄略天皇が皇后(中帯姫の皇女)に
「吾妹(わぎも)・・・」と語りかける。(雄略紀即位前期)ここに、

「妻を称えて妹とするはけだし古の俗か」という注釈が付いている。

(中学生以下という不思議)
親しい男性を背(せ)
親しい女性を妹(いも)   って高校一年くらい、古文常識の最初に教わる。

この注釈については、森博達さんが、ここの箇所の分担執筆者が中国人一世で日本語常識を
持たないために書かれたものと解明なさった。(日本書紀の謎を解く)

その解明にもかかわらず、不思議に思う。
日本書紀には、
  • トビトビに
  • 建元(はじめて年号を立てる表現)でなく、改元(既存年号を改める表現)で、改元理由も乏しく
  大化 白雉  朱鳥 の三年号が出現する。何も説明なしに廃止される。←これを異常と感じない鈍感ならハンシになりません
続日本紀には、
 大宝 年号が建元 として出現(理由も付記・対馬で金)。その後は、改元 表現。(以後 平成に続く)

 ここで変なことに、聖武天皇は、白鳳 朱雀 の二年号の存在を勅語中に出現。 
百済には、武寧王墓の金石文があった。

7世紀に大寺院が林立していた都
↑
なぜ、7世紀という 遅さ なのか説明する仮説を進呈する。

618(九州年号の倭京元)年、首都・倭京を大宰府に建設
649(九州年号の常色3)年、副都・難波の建設開始※(九州王朝が半分東遷)・・・>のち九州王朝関西派
652(九州年号の白雉元)年、副都完成(記念に改元)
661 に改元:九州年号の白鳳元年(この年・辛酉)
↑
このころ、副都を中心に、九州から続々寺院が移転<・・・これが7世紀の関西に寺院が林立した理由。また、
白鳳年号は23年も続き、白鳳年間の寺院創建伝承は多すぎて消しがたく白鳳文化というコトバだけ残った。

※この副都建設の詔は、日本書紀 天武12(683・九州年号の白鳳23)年に変形記載されたと考える。
まず金印の漢倭奴国王名がある。これは畿内の国王ではない。これ
は57年当時九州に国王がいたということだな。まだ王朝までには
至っていないが、その50年後の帥升もそのへんか将軍クラスか
だろう。これも九州だ。帥升当時、畿内には孝昭天皇が統治して
るし、九州だな。ついで卑弥呼の女王国。これも推古の世まで畿内
に女王国はない。男王たる天皇ばかりだ。天皇を差し置いて記紀にも
独立して載って卑弥呼のことがか書かれてはいない。つまりこれも
九州だ。そして倭の五王、これも天皇ではないし、九州の将軍級
だということだ。さらに倭人伝にも多数の小国があった記述が
あるし、それを掌握したのが女王卑弥呼だということだ。このように
九州には王クラス、準王クラスが当時うんといたわけだ。
なると戦国大名の中から徳川政権が出て270年ばかり朝廷と幕府の
2極での日本の歴史があるように、卑弥呼の時代からも九州に王朝の
始めたる女王国があってその後身が数百年、畿内の朝廷とともに
2極の状態だったということだ。これが正解だぜ。
さらにこれは確定というわけにはまだまだだが、神武以前に九州には
ウガヤ朝数十代の記述が古史古伝にもある。これもまた九州だ。

「白鳳以来、朱雀以前」とは聖武天皇のことば(続日本紀 神亀元(724)年10月)

日本書紀 と違って、続日本紀 には天皇のことばにウソや間違いは見当たらぬ。(と先回りして断っておく。)

つい4年前 :養老4(720)年に成立した 日本書紀 に、 白鳳 朱雀 という二つの年号がない!
日本書紀の異常さ、不調和乱雑 と何度も繰り返してきたことはこうゆう矛盾をいうのじゃ。
奈良時代の当時の官人たちの歴史書への関心は、自分の氏族の先祖偽装にあった。
下書きとして古事記が作られ、(ひょっとすると回覧して)内容を利害関係者へ
確認して、内容補正した(正式の)日本書紀完成後廃棄するはずだったものが
執筆者:太安万イ呂が持ち帰っておって後に世に出てしまったと思います。

少しの時期差で、先行した古事記が、残ったので日本書紀のウソの解明に役立つ。
古事記・日本書紀ともに、ウソだらけ。(古事記のウソのほうが困った性質)
↓
つくり話(造作)なので、辛酉年に革命的事件があったということにした。
初代神武は辛酉年に即位(ハツクニシラスA)。それから10運600年後は
第10代崇神38年に相当したのでハツクニシラスBらしくなる話を作った。
A=創業;武力で関西(~全国)を制圧
B=守成:文治で全国を教化
ここで、A,Bともに天武が持っている(と造作した)人物像を二人にコピーしたのです。
次の10運600年後は、欽明2年でこの治世中、準革命的事件=任那喪失が欽明23(562)年(これは事実)。

辛酉革命説:辛酉の年に革命が起きるという思想(革命が起きたか検証などしない時代)
↓
辛酉の年に革命が起きると考えて、それに対応する思想、よって
対応①辛酉の年(を治世した天皇の御世)に革命的事件を造作した。←歴史造作が可能だった
対応②辛酉の年には、改元。

(例題)
欽明13(552)年:仏教伝来受容の対立
↑
(13年つながりで、①天皇②蘇我③物部:①~③それぞれ親子、難波堀江、百済仏像・・・という共通)
↓
敏達13~14(584~585)年:仏教伝来受容の対立

崇神10~12(BC88~86)・・・崇神紀に珍しく記事が多い(混んでる)
↑
↑共通する説話:四人の臣下を各地へ派遣、戸口調査・公平課税、外国使が祝福、百姓平穏・・・
↑
天武10~12(681~683)

※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって
ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に
           天武を指している。
262壬午(神功62)年、任那=加羅王の妹 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207340005/191-
↑
↑この間5運=300年(関連記事。変形がある:例えば大伴狭手彦→葛城ソツヒコ)
↑
562壬午(欽明23)年、新羅が任那の官家を滅ぼす(これは重要事実。が周辺記述少ない) 
563癸未(欽明24)年、まったく記事がない(ここで反撃して新羅を降伏させ復旧したい・・・執筆者の空想)
↓
↓この間、1運=60年・・・よく読むとわかるのだが、空想願望が記事になってゆく
↓
623癸未(推古31)年、記述したかった60年前の願望が記事に変形。

(兄弟の相続争い・譲り合い)
BC50辛未(崇神48)年、兄と弟の相続の説話・・・・前後に記事ない。(何故この年か説明しよう)
↑
↑この間12運=720年(下の有名な場面に取材した造作)
↑
671辛未(天智10)年、天智病気、弟の大海皇子に位を譲ろうとする・・・有名な説話
672壬申(天武元)年、有名な壬申の乱
↓
↓6運=360年(こちらにも有名場面をヒントにした)
↓
312壬申(応神41)年、ここでは兄と弟が相続譲り合い説話

※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって
ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に
           天武を指しているという論拠の二番目。
(朝鮮半島へ出兵直前に挫折中止)
600庚申(推古8)~603癸亥(推古11)朝鮮半島(任那回復目的)出兵。(新羅降伏までは>>241そっくり。)
↑           (再度の遠征のため)兵25000、指揮官来目皇子死。後任当麻皇子の妻死。挫折→遠征中止。
↑
↑この間1運=60年(変形 転写 を疑いましょう)
↑
660庚申(斉明6)~663癸亥(天智2)朝鮮半島(百済回復目的)出兵。←有名な白村江の敗戦(その裏面)
             遠征軍27000。伊勢の王死。中大兄の母(斉明)死。→これを口実に遠征取りやめ(備中風土記※)

※日本書紀には記述がないが、遠征中止で助かった人びとの記録。

同一干支60年を隔てて、経過がそっくりの事件があったと記述。
  • 朝鮮半島への出兵(任那   VS百済)
  • 皇子の死    (来目皇子 VS伊勢の王)
  • 皇子親族女性の死(当間皇子妻VS中大兄母)   どちらも遠征中止

241 と合わせて、6世紀はじめ推古朝の「任那復興企図」はマボロシとしか見えません。

日本書紀に たった二回だけの記録が
①欽明13年(親の天皇の13年)  と
②敏達13年(子の天皇の13年)  という13年つながりの同じ年紀に

①では(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方親) 
②でも(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方子) 

①②どちらも百済からの仏像が来て
①②どちらも天皇の命で蘇我が仏教を受容しようとして
①②どちらも諸国に疫病が流行して
①②どちらも物部が仏像を難波の堀江に投げ捨てた。

いくら将棋の記録が似るといっても
たった二回だけの記録が、基本的にほとんど同じ棋譜で
246 欽明13年、立会い:欽明天皇、対局者:先手蘇我親VS物部親 →物部親が投げた
248 敏達13年、立会い:敏達天皇、対局者:先手蘇我子VS物部子 →物部子が投げた 

454
「法興」は、  兄王の年号
「倭京」系列は、弟王の年号 と九州王朝説者の多くが理解し始めている。

のんびりひまじんさんは、いつも的を得たことを書いているのに、
これは逆だよ。
兄王は夜の王、すなわち伝統的宗教の最高地位にいるものである。
弟王は昼の王、仏法を以て統治する実務政治の最高地位にいるものである。
「法興」は「法を興す」で、弟王にピッタリの年号だ。
法興を兄王の年号とすると、兄王は伝統的宗教と仏法のダブル統治をすることになる。
これは兄弟王の2王政治がなかったことを意味する。
ところが、隋書俀國伝には、夜の兄王(天王)と昼の弟王(日王)の2王が役割分担をしているとあり、隋皇帝は「此太無義理」あると書かれている。
多利思北孤は隋と外交をしているので昼の弟王(日王)である。

私年号でしょう。養老律令第十八儀制令公文条に「皆用年号」と見えますね。
(養老令は大宝律令を継承したものだとして)それ以前のものは使っても使わなくても構わない…つまり私年号というくくりで良いと思います。

延喜式(907年~)については、今のところ読む気もないのだが、ただ一点村上節太郎という人が、

延喜式の諸国貢進果実のうち柑橘類の献上を調べたところ、
相模、駿河、遠江、加賀、若狭、近江、伊勢、山城、大和、摂津、河内、因幡、讃岐、阿波
という14カ国があっただけという。(中島洋 埋もれた古代史 1978 圭文社 P139)
岡山県愛媛県山口県とか九州がまったく出てこないそうだ。


   中国・朝鮮から見て倭人伝を編纂するとして、絶対に無視できない場所だろ。
   しかも日本でおそらく一番古代の中国系移民が多い。俺は宮崎か大分南部が
   怪しいと思ってるんで、阿蘇は邪馬台国ではないと思うけど。このへんが
   モヤモヤしてわかんねw 

701 日本@名無史さん [] 2009/02/14(土) 01:57:34 ID: Be:
   >些末な違いはあるとはいえ
   これが問題なんだな。例えば隋書の「二百余騎」と「飾馬七十五匹」。出迎えの
   騎数など普通は記録に残すことではない。隋書が書いているのが珍しければ、同
   じく日本書紀が書いているのも珍しい話だ。となれば、これは日本書紀が隋書の
   「二百余騎」を見てわざと「七十五匹」と書いたということだな。一見、同じこ
   とを書いているように見えるが、数を違えることで「実はちがうんだ」と明示し
   ている。そこを読み取らんとアホだな。 
   新羅についての記述は次のようになっています。
    新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海,西接百濟,
    北鄰高麗。東西千里,南北二千里。
   南が海というのですから、朝鮮半島の南端まで新羅国であったことはまちがいあ
   りません。そして、北は高麗、西には百済です。当然のことながら、新羅は縦長
   の国です。あなたの読み方では、朝鮮半島の形と合致しないと思いますが?

712 老眼 [] 2009/02/15(日) 23:51:36 ID: Be:
   >>711
   『新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海,
   西接百濟,北鄰高麗。東西千里,南北二千里。 』
   上記は、隋書からの引用ではありませんね。
   上記は、何の文献ら引用されたものでしょうか?

   上記は7世紀初頭の半島情勢ではありません。
   6世紀までの、強力化期新羅以前、弱小化百濟以前の半島情勢の様に読めます。
   532年(新羅金官伽耶占領)以降6世紀中頃までの半島南部情勢を表現しています。

   >当然のことながら、新羅は縦長の国です。
   あなたの勘違いです。
   新羅が縦長の国になったのは、新羅が551年ソウルを支配下に入れてからです。 

713
532年百濟新羅連合軍がソウルの高句麗を北に押し返し、
新羅がソウル近辺を一時的に支配地としたが、
その後、ソウル近辺は又高句麗の占領地に戻っています。(高句麗対新羅・百濟の紛争地化)
この時から百濟東方の半島中央部の山地の東側は新羅の占領地です。

百濟の北が旧百濟領の高句麗占領地(紛争地)、百濟の東の山地の東は新羅領、百濟の南は新羅領。
以上が6世紀初頭の半島南部情勢です。

旧唐書『北鄰高麗 東西千里 南北二千里』は、
紛争地を考慮し、「北接高麗」としないで「北鄰高麗」としていますね。
隋も唐も高句麗と紛争中でしたから、両国はこのソウル近辺の紛争地を楽浪郡とし、
新羅王を楽浪郡公としています。
又、旧唐書東夷伝は、隋書東夷伝の短里表示に対して、長里表示に変っています。

隋代の新羅は、北は漢江流域上流中流部から南は半島西南部まで領土としていたので、
南部を西に張り出した、縦長の領域です。
漢江下流部は、高句麗と新羅の紛争地域になります。
辞書を編纂した先人の学者先生方はそれに気がつかなかったのでしょう。
もしくは、それを指摘すると学者生命上都合が悪かったのでしょうね。
7世紀まで(唐代初期まで)の漢籍では、東西の境線の長さを示し、
8世紀頃以降(唐代後期)の漢籍では、東西の境間の長さを示しています。
唐代に中国語が変わったようです。

済州島は中央に火山がある。南北といったところで、直線に歩けるわけではない。
大きく迂回することになるんだ。出発点とコース、終点の取り方では南北の方が長く
感じたとしても不自然ではないんだよ。
百濟から海行三月の距離を船で済州島に行っていますから、
船で済州島を一周すれば、南北に短く東西に長い楕円の島であると認識できます。


   7世紀の初めの史書らしいのですが百済について「東西四百五十里南北九百餘里…」とあると聞いています。
   聞くところによると、これが書かれた史書の責任者は、どうも隋書と同じらしいのです。とすれば上記の百済についての記述は貴説に従うと、隋書と同様に…
   「国の東と西にある国境線の長さが450里。南と北にある国境線の長さが900余里」と読まなければならない訳ですね。
   現実の地形とそぐわないような気がするのですが。単なる気のせいでしょうか…? www 

734 日本@名無史さん [] 2009/02/19(木) 11:11:59 ID: Be:
   >>733
   そうです。
   百濟は横長で900里×450里(70km×35km)の国です。
   隋代には錦江中下流域だけの小国に縮小しています。
   魏書東夷伝風に表現すれば方可六百餘里というところでしょうか。 

∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵
∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵     『 随書の半島世界 』
∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ 
∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~
┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~
~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~
~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里
~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~
~~~~~~~~~~┃∵∵∵∵∵││∵∵┃~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~┣┓∵∵∵∵│↓∵∵┗┓~~~~~~~~~~~~
『 随書の半島世界 』 ~│┗━┳──┴┴┐∵∵┃~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~├←1000里→┤∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地
~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~┃∵旧百濟領│∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~
~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里
~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~
~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~
其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~
有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~
羅國~~~~│~~┏┛∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~
~~~~三月行~~┗┓∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~│~竹島○┓∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~
~~~~~~│~~~~┗━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~
~~~~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~
~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~


735の地図の楽浪郡が、其の文献では高句麗領となっています。
上記地図の百濟領北東部に熊津城(公州)があります。
(居抜城の位置については議論があります)
その文献は、百濟の南は海となっていますから、
新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、
唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。
「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か?

周書です。

その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。

え~と出来たのは、貞観2年(628)だったと記憶してます。(違ったらごめんなさい)百済滅亡は確か餘豊2年…唐高宗の龍朔3年(663)

「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か?

隋書成立の8年前、隋書と同じ総監房玄齢。

   その縦長の地形をさして「東西四百五十里南北九百餘里」と隋書とほぼ同時期の史書に書いてあるという事です。
   よって隋書倭国伝の「東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が五ヶ月で南北は三ヶ月…と普通に読めばいいのです。簡単な事ですね。 

743 九州王朝大好き [] 2009/02/20(金) 20:05:57 ID: Be:
   >>742
   結論を急がないで。
   「北周書」についてもっと検討しなければなりません。

   隋書百濟國伝の「其南海行三月有tam[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里」もありますから。
   同一史書の読法に従えば「其境東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が三ヶ月で南北は五ヶ月…と普通に読めますよ。簡単な事ですよ。
   同一史書間の方が信頼性が高いと思いますが。 

   ∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵       『 随書の半島世界 』
   ∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵
   ∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ 
   ∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~
   ┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~
   ~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~
   ~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里
   ~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~
   ~~~~~~~~~┏┛←1000里→┤↓∵∵┃~~~~~~~~~~~~~
   ~~~~~~~~~┠──────┴─┐∵┗┓~~~~~~~~~~~~
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   ~~~~~~~~~~~~┗┓∵∵∵∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~ 

786 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y [] 2009/03/20(金) 15:58:12 ID: Be:
   『 随書の半島世界 』 ~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地
   ~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~
   ~~~~~~~~~~~~┃(旧百濟領) │∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~
   ~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里
   ~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~
   ~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~
   其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~
   有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~
   羅國~~~~│~~~┃∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~
   ~~~~~三月行~~┃∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~
   ~~貊國●~│~竹島┃∴∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~
   ~~~●~~│~~●┗━━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~
   貊國●~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~
   ~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國=耽牟羅國(発音同一)~~~~
   ~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~ 
日本古代の研究を一番阻害しているのは「日本書紀」ではないでしょうか。私は九州王朝説を信じる者ですが、では近畿の状勢はと言えば九州を上回っていたことは考古学からも歴然としている。
そんな中、九州王朝が東遷できる状況があったとは思えません。日本書紀の信用性が全くなければ頼るのは外国の史書になります。
もう一つ、朝鮮半島の南部に倭国があったこと、邪馬台国は朝鮮半島何から九州北部の海峡国家であったと思われる。諸先生方、自説を通そうと色々のこじつけを卒業して、白紙に帰り議論しましょう。
補足
東夷の7ヶ国の冒頭記事
 1.「夫余伝」 省略  2.「高句麗伝」 省略  3.「沃沮(よくそ)伝」 省略  4.「挹婁(ゆうろう)伝」 省略  5.「濊貊(わいはく)伝」 省略
 6.「韓伝」
韓は、帯方の南に在り。東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。
  三種有り。   ①馬韓   ②辰韓   ③弁韓    其の瀆廬(とくろ)國、倭と境を接す。
   ※茫曄(はんよう)撰の『後漢書』(「韓伝」)には次のように記されている。
    韓には、三種有り。1を馬韓と曰い、2を辰韓と曰い、3を弁韓と曰う。
馬韓は、西に在り。54国有り。其の北は楽浪と、南は、倭と接す。
辰韓は、東に在り。十有二国(十二国)有り。その北は、濊貊と接す。
弁韓は、辰韓の南に在り。亦、十有二国。其の南は、亦、倭と接す。
  ※なお辰韓の項に
    「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆従いて之を執る。」
定説では「したがいて」と約されていたが、どうしても意味の通じる文章になっておらず、   疑問視されていた。
   漢和辞典を読めば
    ①したがう    ②ほしいまま。きまま。    ③はなつ。ほしいままにさせる。    ④まかせる。ゆるす。    ⑤たて(縦)と同意語
   「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆ほしいままに之を執る」倭は狗邪韓国にて製鉄していたと思われる。  
「國出鐵 韓濊倭皆從取之」
国では鉄を出す。韓濊倭の皆が鉄を取ることに従事している。

倭人も製鉄の技術を持っていたのだよ。
なおこの鉄原料はリモナイト(褐鉄鉱・沼鉄鉱・ベンガラ原料)です。
赤鉄鉱や磁鉄鉱(砂鉄)が製鉄の原料ではありません。

対馬海峡の南北に居住する女王國連合倭は弁辰に鉄を求め、
卑彌呼に敵対する九州中部の狗奴國連合倭は阿蘇に鉄を求めた。


周書の記載内容には信頼性に欠けるところがあります。
周書は唐・宋の時期及び北宋代に散逸し、後世に北史などによって補っています。
周書のこの部分は、
『故其地界東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 東西四百五十里 南北九百餘里』又、
北史のこの部分は、
『其國東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 處小海南 東西四百五十里 南北九百餘里』
とあります。
上記はこの部分も周書の散逸部分で、周書は北史をほぼコピーしたもの、と見られます。

周代においては百濟南側の内陸部は既に新羅領となっているのに、
上記では百濟の南は大海となっているからです。
磐井の乱で倭が弱体化し、新羅は倭人の地を占領するだけでなく、
新羅が百濟南部の内陸部に進出していたのです。
百濟の旧百濟領の新羅への反攻もありましたが、一時的なものです。

よって周書は隋書と異なる新しい文法(表現方法のルール)で書かれたものとなります。
周書:「東西四百五十里」は東西方向の距離が450里。「南北九百餘里」は南北方向の距離が900餘里。
隋書:「東西四百五十里」は南北方向の距離が450里。「南北九百餘里」は東西方向の距離が900餘里。
となります。

上記「表現方法のルール」は
周書:長里
隋書:短里

そのような500年以上にわたる文物を全て証拠隠滅する事が果たして可能なのか?っちゅう話や<
↑
708(慶雲5→和銅元)年正月11日、改元大赦の詔中、「禁書」というコトバがある。(続日本紀)
その禁止文書が何であった推測できる記事もある。
769(神護景運3)年10月10日、大宰府が「五経あるが三史ない。列代歴史を欲しい」と言上。
→詔(=称徳天皇の許可)により、「史記、漢書、後漢書、三国志、晋書」各一部を賜う。

☆このような基礎的な歴史書まで禁止しておいて、
日本書紀という公式歴史書が創作されたに違いない。

九州王朝は、7世紀なかば、副都:難波宮を建設し東遷を始めたという最新仮説に
有力な展開があったようです。



「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)
「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、
北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」

九州王朝たって、畿内に覇をとなえていたニギハヤヒの王朝にくらべれば
どうみても弱小王朝だよね。なぜかどっちの王朝もアマツカミの子孫である
証拠をもっていたというんで、九州王朝も畿内王朝も正当性においては甲乙
つけがたい、ということになってしまうのだが、記の記述からすると。

新撰姓氏録の研究報告では
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html
仁徳(第16代)~武列(第25代)の10名の天皇の子孫という氏族がありません。
架空の天皇と知っている有力氏族たちが先祖と主張する対象外とすると納得ですが、
相当に深刻な指摘でして、
のんびりと、倭の五王と比定などしている場合ではなさそうです。

これら10名の天皇全員が架空なのではありませんか?

それとも、武列が横暴だったので皆殺されたとでも言うのでしょうか?


そもそも、九州王朝説は、古事記日本書紀のほとんど全部を架空とする
前提をしています。
たまたま、当該10代は余りにもひどい内情を、近畿王朝内でも共有
していた ことが判明しただけでしょう。

動機については、
九州王朝を抹殺し、これに負けない伝統があったことに捏造した
近畿王朝の歴史書全体の動機に帰属しましょう。



太国氏の言ってる年号は奇妙な年号だ。慶事・祝い事という感じがしない。
遊牧民の五胡の年号ではないか。特に前燕、後燕、西燕、南燕、北燕が怪しい。
最終更新:2010年01月31日 15:39
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