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*遣唐使12 752-754年(H0752a) 天平勝宝2(750)年9月任命、752年出発、大使藤原清河、副使大伴古麻呂、吉備真備(天平勝宝3(751)年11月追加任命)、同行者藤原刷雄ら、753年、754年帰国。 天平勝宝4(752)年閏3月、遣唐使12、難波津を発す 天宝11(752)年夏、遣唐使12入唐し、明州に着く。 752年、帰路第1船安南に漂着(帰国中止)。 天平勝宝5年1月1日(753/02/08)、唐の宮廷での百官有司・諸外国使臣の朝賀に古麻呂参列し、席順について抗議し、第1席を得る。 天宝12年(753)10月、[[鑑真>H0743a]]に渡日を懇請する。 天宝12年10月19日(753/11/18)、[[鑑真>H0743a]]ら一行、竜興寺を脱し、蘇州黄泗浦に向かう。 天平勝宝5年11月15日(753/12/18)、4隻に分乗し、蘇州黄泗浦(こうしほ)を出発。 -第1船:大使藤原清河 -第2船:副使大伴古麻呂、[[鑑真>H0743a]] -第3船:副使吉備真備 -第4船:舵取り川部酒麻呂(かわべのさかまろ) **第1船 天平勝宝5年11月15日(753/12/18)、第1船は沖縄島から奄美島を指して出発するが、逆風に遭って遠く島の驩州(ベトナム、ビン付近)に漂着し、乗員はすべて土地のものに殺され、清河だけが逃れて長安に戻ることができたという。その後、清河は名を河清(かせい)と改め唐庁に仕え特進秘書監という官職に就いた。 大暦5(770)年5月、藤原清河、唐にとどまっている間に75歳で没する。73歳とも。 **第2船 天平勝宝5年11月21日(753/12/24)、阿児奈波(あこなわ)島(沖縄島)に着き、しばらく停泊。 天平勝宝5年12月6日(754/01/07)、多祢島(種子島)に向けて出発。 天平勝宝5年12月7日(754/01/08)、益救島(やくしま、屋久島)に到着。 天平勝宝5年12月18日(754/01/19)、益救島(やくしま、屋久島)を出発。 天平勝宝5年12月20日(754/01/21)、風雨に苦しみながら薩摩国阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら、鹿児島県川辺郡大浦町秋目)に着く。 天平勝宝5年12月26日(754/01/27)、大宰府安着 **第3船 天平勝宝5年12月7日(754/01/08)益救島(やくしま、屋久島)に到着(第2船と同日)。ここを出てから漂流し、紀伊国牟漏埼(むろのさき、和歌山県潮岬付近か)に漂着。(翌年1月17日(754/02/17)に大宰府が報告) **第4船 第4船の舵取りは川部酒麻呂(かわべのさかまろ)。 酒麻呂は肥前国松浦郡の人である。天平勝宝4年に遣唐使の第4船の舵取りとなった。帰途、海上で順風が盛んに吹きつけていた時、突然、船尾で火災が起こった。炎は艫をおおって飛び火し、人は皆恐れ慌ててどうしていいか分からなかった。その時、酒麻呂は舵を回して船首を風上に向けた。すぐ傍らから火が出ていて手が焼け爛れたが、舵を取ったまま動かなかった。そのために、ついに打ち消すことができて人や物は無事であった。 >注 ここでは、遣唐使は菅原道真が中止させたものを第20次としている。 **参考文献 -荒川秀俊, 1995. [[異国漂流物語>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4390106775/qid=1117849789/sr=1-2/ref=sr_1_10_2]]. 社会思想社. -大林太良編, 1995. [[日本の古代3 海をこえての交流>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4122025001/qid%3D1120375461]]. 中央公論社.
*遣唐使12 752-754年(H0752a) 天平勝宝2(750)年9月任命、752年出発、大使藤原清河、副使大伴古麻呂、吉備真備(天平勝宝3(751)年11月追加任命)、同行者藤原刷雄ら、753年、754年帰国。 天平勝宝4(752)年閏3月、遣唐使12、難波津を発す 天宝11(752)年夏、遣唐使12入唐し、明州に着く。 752年、帰路第1船安南に漂着(帰国中止)。 天平勝宝5年1月1日(753/02/08)、唐の宮廷での百官有司・諸外国使臣の朝賀に古麻呂参列し、席順について抗議し、第1席を得る。 天宝12年(753)10月、[[鑑真>H0743a]]に渡日を懇請する。 天宝12年10月19日(753/11/18)、[[鑑真>H0743a]]ら一行、竜興寺を脱し、蘇州黄泗浦に向かう。 天平勝宝5年11月15日(753/12/18)、4隻に分乗し、蘇州黄泗浦(こうしほ)を出発。 -第1船:大使藤原清河 -第2船:副使大伴古麻呂、[[鑑真>H0743a]] -第3船:副使吉備真備 -第4船:舵取り川部酒麻呂(かわべのさかまろ) **第1船 天平勝宝5年11月15日(753/12/18)、第1船は沖縄島から奄美島を指して出発するが、逆風に遭って遠く島の驩州(ベトナム、ビン付近)に漂着し、乗員はすべて土地のものに殺され、清河だけが逃れて長安に戻ることができたという。その後、清河は名を河清(かせい)と改め唐庁に仕え特進秘書監という官職に就いた。 大暦5(770)年5月、藤原清河、唐にとどまっている間に75歳で没する。73歳とも。 **第2船 天平勝宝5年11月21日(753/12/24)、阿児奈波(あこなわ)島(沖縄島)に着き、しばらく停泊。 天平勝宝5年12月6日(754/01/07)、多祢島(種子島)に向けて出発。 天平勝宝5年12月7日(754/01/08)、益救島(やくしま、屋久島)に到着。 天平勝宝5年12月18日(754/01/19)、益救島(やくしま、屋久島)を出発。 天平勝宝5年12月20日(754/01/21)、風雨に苦しみながら薩摩国阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら、鹿児島県川辺郡大浦町秋目)に着く。 天平勝宝5年12月26日(754/01/27)、大宰府安着 **第3船 天平勝宝5年12月7日(754/01/08)益救島(やくしま、屋久島)に到着(第2船と同日)。ここを出てから漂流し、紀伊国牟漏埼(むろのさき、和歌山県潮岬付近か)に漂着。(翌年1月17日(754/02/17)に大宰府が報告) **第4船 第4船の舵取りは川部酒麻呂(かわべのさかまろ)。 酒麻呂は肥前国松浦郡の人である。天平勝宝4年に遣唐使の第4船の舵取りとなった。帰途、海上で順風が盛んに吹きつけていた時、突然、船尾で火災が起こった。炎は艫をおおって飛び火し、人は皆恐れ慌ててどうしていいか分からなかった。その時、酒麻呂は舵を回して船首を風上に向けた。すぐ傍らから火が出ていて手が焼け爛れたが、舵を取ったまま動かなかった。そのために、ついに打ち消すことができて人や物は無事であった。 >注 ここでは、遣唐使は菅原道真が中止させたものを第20次としている。 **参考文献 -荒川秀俊, 1995. [[異国漂流物語>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4390106775/qid=1117849789/sr=1-2/ref=sr_1_10_2]]. 社会思想社. -宇治谷孟,1992. [[続日本紀(上)全現代語訳>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590308/evergreenf07a-22]]. 講談社. -大林太良編, 1995. [[日本の古代3 海をこえての交流>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4122025001/qid%3D1120375461]]. 中央公論社.

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