Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1002b」で検索した結果

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  • H1002b
    宋建州の海賈周世昌漂着 1002年(H1002b) 長保4(1002)年、宋建州の海賈周世昌風に逢い漂到する。 寛弘5(1008)年、帰国する(異称本伝) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1002a
    大宰府に高麗人が漂着 1002年(H1002a) 長保4年6月(1002年8月)、大宰府に高麗人が漂着。 参考文献 東京学芸大学編, 2001. 日本史年表. 東京堂出版.
  • H1004a
    高麗芉陵島の人、因幡に漂着 1004年(H1004a) 寛弘元(1004)年、高麗芉陵島(鬱陵島か竹島)の人、因幡に漂着。 Map 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1028a
    高麗耽羅島の人7人、北陸に漂着(H1028a) 長元元(1028)年、高麗耽羅島の人貞一ら7人、北陸に漂着する。その地に命じて送還させる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1036a
    高麗の漂流民11人、本国に送還(H1036a) 長元9(1036)年7月、高麗の漂流民謙俊ら11人、本国に送還する。 漂着時期は不明。ひょっとすると、H1028a、H1019aと同一の可能性もある。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 年表
    ...州の海賈周世昌漂着 H1002b 1002年 大宰府に高麗人が漂着 H1002a 1004年 高麗芉陵島の人、因幡に漂着 H1004a 1019年 刀伊(女真人)、対馬、壱岐、筑前に来襲 R1019a 1019年 高麗耽羅島の人、日本に漂着 H1019a 1028年 高麗耽羅島の人7人、北陸に漂着 H1028a 1036年 高麗の漂流民11人、本国に送還 H1036a 1045年 清原守武の密貿易の発覚 O1045a 1049年 高麗人20名、対馬に漂着 H1049a 1060年 高麗の漂流民4人を送還 H1060a 1066年 宋人盧範漂着 H1066a 1078年 高麗耽羅島の漂流民を送還 H1078a 1079年 高麗人40人を送還 H1079a 1156年 妙音院師長、土佐へ流される O1156a 1156年 源頼朝、伊豆に流される O1159a 1160年 源希義、土佐へ流...
  • H1079a
    高麗人40人を送還 1079年(H1079a) 承暦3(1079)年9月、高麗人安光ら40人を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1078a
    高麗耽羅島の漂流民を送還(H1078a) 承暦2(1078)年9月、高麗耽羅島の漂流民高氏ら18人を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1060a
    高麗の漂流民4人を送還(H1060a) 康平3(1060)年7月、対馬に命じて高麗の漂流民禮成ら4人を送還する。 漂着時期不詳。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1066a
    宋人盧範漂着(H1066a) 治暦2(1066)年、是より先、宋人盧範漂到す。資糧を給して之を帰す。是歳来て恩を謝す。(百練抄) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1019a
    高麗耽羅島の人、日本に漂着 1019年(H1019a) 寛仁3(1019)年、高麗耽羅島の人、漂着する。衣食を給して送還する。 耽羅島とは、済州島のこと。 Map 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1049a
    高麗人20名、対馬に漂着(H1049a) 永承4(1049)年9月、高麗の人金子ら20名、対馬に漂着する。対馬に命じて送還させる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1596a
    サンフェリーペ号土佐に漂着 1596年(H1596a) 1596年7月13日、スペイン船サンフェリーペ号マニラ湾を出航。メキシコのアカプルコを目指す。司令官マティアス・ランディーチョ。 慶長1年8月(1596年10月)、サンフェリーペ号が土佐の浦戸(高知県)に漂着。乗組員フランシスコ・デ・サンタがスペインの植民地政策に言及。 慶長1年(1596年)12月、26聖人の殉教事件。長崎でフランシスコ派の宣教師ら26人が殉教する。サンフェリーペ号乗組員がスペインの植民地政策に言及したことが原因とされる。 慶長2(1597)年7月、フィリピン使節、黒象などを秀吉に献じ、サンフェリーペ号の積荷返還および殉教宣教師の遺骸引渡しを要求する。 外交志稿の既述 慶長元(1596)年、葡萄牙商船風に逢い、土佐吾川郡葛城浦に漂着す。船人多く溺死し僅かに存する者あり。国主長宗我部元...
  • H1813a
    文化10(1813)年10月初め。重吉ら14名督乗丸に乗り込む。 重吉、督乗丸船頭。乗船時29歳。長右衛門、金兵衛とも。尾張国知多郡半田村荒古(半田市半田)出身の百姓。同国幡豆郡一色村佐久島(一色町佐久島)の善三郎次男で、半田村荒古の庄兵衛養子。15歳より船に乗り、文化10年伯父長右衛門に代わって督乗丸船頭。宗旨浄土真宗。菩提寺半田市中村の雲観寺。のち小栗姓を与えられる。叔父の長右衛門は、督乗丸の本来の船頭。この時、船頭は支障があり、重吉が仮の船頭を頼まれた。箱館での文書には長右衛門として差し出している。 音吉、水主。出帆時27歳。伊豆国加茂郡子浦中野町(静岡県賀茂郡南伊豆町)出身。甚太郎次男で伝蔵の弟。18歳頃より船乗渡世。宗旨浄土宗。 要吉、水主。尾張国名古屋矢場(名古屋市中区矢場)出身。 七兵衛、水主。七蔵とも。半田村出身。 藤助、楫取。半田村荒古出身。藤七倅。宗旨浄土真宗。菩提...
  • H1202a
    邦人、宋の定海県に漂着 1202年(H1202a) 建仁2(1202)年、邦人(姓名人員不詳)、宋の定海県に漂着す。宋主詔して米銭を給して養瞻し風波を候して帰らしむ。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1602a
    ポルトガル船、土佐に漂着 1602年(H1602a) 慶長7(1602)年秋、ポルトガルの船1隻、土佐に漂着す。国主山内一豊をして之を守らしむ。既にポルトガル船大砲を発し逃れ去る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1600a
    ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a) 1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。 1588年、メアリ・ヘンと結婚。 1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。 1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。 1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿) 慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。 (外交...
  • H1176a
    邦人100余名、宋に漂着(H1176a) 安元2(1176)年、邦人(姓名不詳)100余名あり。海上風に逢い宋の明州臨安府に漂着す。宋主詔して之を賑恤し、便船に付して我に送還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1610a
    メキシコ船、東国に漂着 1610年(H1610a) 慶長15(1610)秋、新スペイン国の船(案ずるに今アメリカ州メキシコ国是なり)、東国に漂着す。修繕を加え薪糧を給して、其国に還す。(案ずるに、欧南遣使考に曰く。スペイン国人、風に漂うて、我西陲に抵る舳艫悉く壊る。官命じて繕治し薪糧を給して還らしむ。本文と東西地を異にす。孰れ(いずれ)が是なるか知らず) これも、ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)と酷似。「東国に漂着」はサン・フランシスコ号、「西陲に抵る」はサンタ・アナ号とも読める。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1249a
    行衍房嶷浄の漂流 1249年(H1249a) 建長元年(1249)、渡唐の航海中の船が破船し、100人ばかりが小船に乗り換えて漂流した。行衍房嶷浄(嶷はウかんむりが正しい)が観音経を皆で読むことを薦め、読んだところ、大船に助けられた。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社.
  • H1710a
    1710年 サニマ(日本人)、カムチャツカに漂着 宝永6年11月(?)(1709/12月)、サニマ、日本を離れる。紀州出身説もあるが、東北地方南部の出身説も。 1710年4月(?)、サニマ、カムチャツカの太平洋岸、ペテロパウロフスクの北方のカリギル湾ボブロヴォエ海岸に漂着。10人の仲間とともに上陸するが、カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕虜になる。間もなく、カムチャダール人とロシアのコサック兵との戦闘が起こり、その戦闘でさらに日本人2名が死に、残るサマニら4名がロシア人の捕虜となる。ロシア人はサマニらをカムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行き、代官のピョートル・チリコフに引き渡した。 ピョートル・チリコフに引き渡された4名の日本人は、1708年にカムチャツカに漂着した別の日本人(H1708a)で、サマニらは4人がカムチャダール人に殺され、6人がコサックの...
  • H1200a
    邦人、宋の平江に漂着 1200年(H1200a) 正治2(1200)年、邦人(姓名人員不詳)、宋の平江に漂着す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1609a
    ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 1609年(H1609a) ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年生まれ。メキシコ生まれのスペイン人。 1595年、サン・フアン・デ・ウルア城塞守備隊長兼市長となる。 1597年、タスコ市長となる。 1599年、ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官となる。 1608年、フィリピン臨時総督として派遣される。 1608年(慶長13年)、家康の使節であるウィリアム・アダムズ(H1600a)と会見。アダムズを通じて家康に親書と贈り物を託し、間もなくスペインとの交易が始まった。 1609年、メキシコへの召還命令を受ける。 1609年7月25日、サン・フランシスコ号でマニラを出帆。日本人ケン同乗。 ケン:蜂須賀家の雑兵として関ケ原の戦いに参戦し、敗残兵として堺へ落ち延びる。のちに、ルソンへの渡航を果たし、水夫の...
  • H1793a
    1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着 1727年、吉郎次、牡鹿郡小竹浜(石巻市小竹浜)で生まれる。 1744年、津太夫、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)で生まれる。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 宝暦11(1761)年、儀兵衛、陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)で生まれる。姓は奥田、源三郎倅。儀平とも。宗旨禅宗。 1762年、左平(太兵衛とも)、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢出身。長九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 1764/04/08、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれる。 1770、太十郎(太十、太平とも)、陸奥国桃生郡深谷室浜で生まれる。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。 1770、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン|Ivan...
  • H1810a
    1810年 摂津歓喜丸、カムチャツカに漂着 文化7年11月22日(1810/12/18)、歓喜丸船頭平助ら16名、摂津国莵原郡御影村(兵庫県神戸市灘区御影)の加納屋十兵衛の船摂津歓喜丸1100石積に乗り込み、朝、江戸に向かって大坂を出発。 平助 船頭 讃岐国小豆島出身。 好五郎 船親父。権四郎とも。讃岐国小豆島出身。 久五郎 水主。讃岐国小豆島出身。 常吉 水主。讃岐国小豆島出身。 千太郎 水主。善太郎とも。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。 新五郎 水主。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。 新次郎 炊。与次郎、与次とも。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。歓喜丸に乗り込む 武兵衛 賄。讃岐国小豆島出身。 和吉 水主。讃岐国小豆島出身。 与茂吉 水主。出雲国館野井(楯縫、島根県平田市)出身。宗旨禅宗、菩提寺浄光寺(平田市鰐淵の常光寺)。出帆寺36歳。 忠五郎 水...
  • H1783a
    1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 1727年、九右衛門(久兵衛とも)、若松村で生まれる。 1737年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ナイシュロット(フィンランド、当時はスウェーデン領)で出生 1742年、幾八(儀八、義八とも)、若松村で生まれる。 1747年?、小市(幸市、本名長右衛門とも)、若松村で生まれる。 1749年、ラジシチェフ、モスクワの貴族の家に生まれる。 1751年、大黒屋光太夫、伊勢国亀山藩領河曲郡若松村 (現,三重県鈴鹿市若松)で生まれる。大黒屋は実家の屋号。長じて 亀屋四郎兵衛道伯の後家の養子となる。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。 1752年、庄蔵、若松村で生まれる。 1752年ごろ、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)三之...
  • H1634a
    慶尚道の漁民の石見に漂着 1634年(H1634a) 寛永11(1634)年10月、慶尚道の4人の漁民の石見に漂着(朝鮮側資料では1635年)。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1728a
    1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) 享保13年11月上旬(1728/12月上旬)、17人の日本人を乗せた御用船「若潮丸」が薩摩から大坂に向けて出帆。積荷は大坂の薩摩屋敷への御用米のほか紙・絹織物・紫檀など。 ゴンザ 若潮丸の楫取の子で、出帆時10歳(一説11歳)の少年。水主見習の炊役。 ソウザ 商人の子。父の死後跡を継ぐ。出帆時35歳(1693年生まれ)。上乗役。 ほか15名乗船 享保13年11月8日(1728/12/08)、嵐に遭遇 8日間も悪天候の中、風波にもまれる。 享保14年6月7日(1729/07/02)、6ヶ月と8日の漂流の末、カムチャツカ半島の南端ロパトカ岬付近の東海岸に漂着。一行は小船で上陸して仮小屋で過ごしたが、そのうち親船は嵐のため流出してしまう。 1729/07/05頃、コサック50人長アンドレイ・シュティン...
  • H1752b
    1752年 十三夜丸、台湾に漂着 宝暦2年(1752)、陸奥国相馬の船十三夜丸、漂流し台湾に漂着。歓待される。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1728b
    1728年 唐人が宮古島に漂着 享保13年(1728)、唐人が宮古島に漂着 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • H1750a
    1750年 唐人が宮古島に漂着 1750年、唐人が宮古島に漂着 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • H1715a
    1715年 朝鮮人が宮古島に漂着 正徳5年(1715年)、朝鮮人が宮古島に漂着。 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • H1692b
    1692年 備前岡山の漁民、朝鮮多太浦に漂着 元禄5(1692)年5月、備前岡山の漁民13名、朝鮮多太浦に漂着する。朝鮮これを対馬に送る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1708a
    1708年 日本人がカムチャツカに漂着? 1708年、日本人( 4人?)がカムチャツカに漂着(?) 1710年、カムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行かれ、代官のピョートル・チリコフに引き渡された4人の日本人は、一般にはサニマ(H1710a)らとされるが、この日本人とする見方もある。
  • H1637a
    米子の漁師、蔚山に漂着 1637年(H1637a) 寛永14(1637)年、米子の村川市兵衛門仕立てで弥三右衛門、與七郎等36人が鬱陵島での漁を終え帰国に向かう途中で漂流し朝鮮の蔚山魴魚津へ漂着した。当時既に漁の対象はアシカに移行していた。 弥三右衛門等は3月鬱陵島に行き、6月末本国へ向う途中遭難し蔚山に漂着した。 8月、対馬藩に引き渡される。 大谷家と隔年で鬱陵島へ出漁した村川家は「家譜」によると始祖は尾張の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斎である。正斎はある事件で1581(天正9)年切腹している。その子正員は母に従って米子に来住、母の実家が村川姓だったので彼は村川甚兵衛正員と名乗った。正員から3代目が市兵衛正純で大屋甚吉(H1617a)と懇意で共に町年寄であったという。その市兵衛正純が家督を市兵衛正清に譲るのは1656(明暦2)年とされるから村川市兵衛船の朝鮮への...
  • H1694b
    1694年 清国船、甑島に漂着 元禄7(1694)年10月、清国潮州の船主呂寧宮ら105人長崎を発し五島洋中にて暴風に逢い漂流して薩摩甑島に到り破船して9人を失う。明年H1694aと共に之を長崎に送り其国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1541a
    明船1隻、豊後神宮浦に漂着 1541年(H1541a) 天文10(1541)年、明船1隻、豊後神宮浦に漂着す。駕する者280人、之を賑恤す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1741a
    1741年 ベーリング、ベーリング島へ漂着 1681年、ベーリング|Vitus Jonassen Bering、デンマークで生まれる。 1703年、ベーリング、ピョートル 1 世治下のロシア艦隊に勤務。 1724年、ベーリング、シベリアとアメリカ大陸間の海域探検隊の隊長に任命された。 1725年、ベーリング、第1回北太平洋探検(~30) この探検に、ヤコフ・マクシモフ(H1713a)が参加していたとも言われる。 1726年、マルティン・ペトロヴィチ・スパンベルグ、スパンベルグ支隊を率い、13艘の平底舟でヤクーツクを出発。レナ川、アルダン川、マイー川を経てユドマ川へ。 1726年8月末、ベーリング、ヤクーツクを出発。663頭の馬を動員。 1726年10月中旬、ベーリング、オホーツク着。267頭の馬を失う。 1726年11月初旬、スパンベルグ、ユドマ川で氷に閉じ込め...
  • H1541b
    ポルトガル船、豊後神宮寺浦に漂着 1541年(H1541b) 天文10(1541)年7月、ポルトガルの船、1隻380人、台風に逢い、豊後神宮寺浦に漂着する。当時、国主大友宗麟、米薪を与えて之を帰す。案ずるに欧南遣使考、之を天文11年に繋ぐ。この時、鉄砲を大友氏に贈り、互市を乞う。宗麟喜び之を許す云々とあり。洋学年表11年を以って誤となし10年に繋ぐ。通航一覧接蕃年表ともに10年となす。今、之に従う 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1605a
    有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される 1605年(H1605a) 慶長10(1605)年、肥前高来城主、有馬晴信、人を遣わし、交趾に通せんとす。風に逢うて媽港に漂着し、舟楫を整理するの際、土人と争闘し遂に為に悉く殺さる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1713b
    1713年 キスチ(日本人?)、ポロムシリ島に漂着? キスチ 日本人漂流民か?喜助? シャノタイ:アイヌ キスチ、シャノタイの2名が、ポロムシリ島で、サニマ(H1710a)を連れ千島探検中のコジレフスキーに引き渡される。1713年5月にカムチャツカに到着。
  • H1694a
    1694年 清国船、中永良部島に漂着 元禄7(1694)年9月、清国船主周宝舎ら109人洋中風に逢い楫を失い檣を斫り漂蕩半月、南海中永良部島に漂着す。 明年、H1694bとともに長崎に送られ帰国する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1403a
    明船、相模三崎浦に漂着 1403年(H1403a) 応永10(1403)年8月、明船1隻、相模三崎浦に漂着す。鎌倉管領足利利満は伊藤貞次、梶原影貞に命じて、之を検せしむ。船中載する所の宝物を収め、糧食を与えて帰らしむ(北条五代記) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1392a
    大明船、八丈島に漂着 1392年(H1392a) 1392/12/17(明徳3年11月4日)、三百余人乗組みの大明船当島前崎浦に打ち寄す。 同4日夜西風吹きて31人が死亡。 翌4年癸酉46人が餓死または病死。 1393/05/21(明徳4年4月10日)、308人当島に在り。 ろっきい氏の教示による 参考文献 近藤富蔵, (1970). 八丈実記, 5, 340. 緑地社.
  • H1616a
    美保の漁師、朝鮮に漂着 1616年(H1616a) 元和2(1616)年、雲州三保関ノ人七名竹島ニ至リ漁猟シ風ニ逢ヒ朝鮮ニ 漂着ス。朝鮮礼曹参議書ヲ宋(宗)氏ニ与テ之ヲ護送ス(竹島紀事)。漂着地は江原道平海と推察されている。 帰還は元和4(1618)年。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1426a
    島根県長浜に朝鮮人10人が漂着 1426年(H1426a) 応永32年12月(1426年1月)、現在の島根県浜田市長浜町の海岸に朝鮮人平海人張乙夫ら10人が漂着した。按撫使金鱗雨に随って茂陵島(鬱陵島)に向かっていたところ、二艘の内自分等46人が乗っていた船が突風に合い破船し、36人が溺死し船に積んでいた小船に乗り移った10人が日本の石州長浜へ漂着したものである。 その地の領主順都老は彼等を丁重に扱い30日間逗留させた。順都老については中世の日朝交流史の研究者関周一氏は語音から周布殿(すふどの)と解されている。その後順都老は対馬まで護送し対馬の有力者左衛門大郎に朝鮮への彼等の帰国を依頼した。左衛門大郎とは対馬の海賊首の早田左衛門太郎のことで彼もまた丁重な扱いで彼等を無事帰国させた。 当時の朝鮮国王世宗はこの報告に感激し、すぐ順都老と左衛門大郎の所へ礼物を持った使節を派遣...
  • H1601a
    ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 1601年(H1601a) 慶長6(1601)年秋、ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着す。乃ち(すなわち)会て、伊豆加茂郡伊東に於いて唐船に擬し造る所の船を与え其国に帰らしむ。 ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)に酷似。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611a
    ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる 1611年(H1611a) イギリスの海洋探検家ヘンリー・ハドソン|Henry Hudson(生年不詳)は、1607年から 4回にわたり北アメリカ東岸を北上した。最初はバレンツ海を北緯 80°23′まで進んだ。 1609年の第3回にはハドソン川をさかのぼり,河口から 240kmの地点のオルバニーに至る。探検を委託したオランダ東インド会社がその河口に植民地を建設したのが今日のニューヨーク市である。 1610年、イギリス商人の依頼で最後の航海に出て,初めてハドソン海峡を通過,ハドソン湾を発見。 1611年、ハドソン湾で越冬後,部下に置去りにされて行方不明となった。
  • H0862b
    新羅の僧ら、因幡に漂着 862年(H0862b) 貞観4(862)年、新羅の僧、無著普嵩清願ら3人、流民57人とともに因幡荒浜に漂着する。食料を与え、還らせる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1498a
    ジョン・ガボット最後の航海 1498年(H1498a) ジョン・カボット John Cabot|Giovanni Caboto、イタリアの探検家。ジェノバで1450年?(一説に1425年)に生まれるが、1490年ごろにイングランドに行きブリストルに住む。 1497年5月2日、ヘンリー 7 世の勅許を得て18人の乗組員とともにマシュー号でブリストルを出航(セバスチャン・カボットも同行?)。 1497年6月24日、現在のカナダ東南部のケープ・ブレトン島あたりに上陸し、その後、ラブラドル、ニューファンドランド島、ニューイングランド沿岸を航行した。 1497年8月、イングランドに帰還する。 1498年5月、日本をめざして4、5隻の船をひきいて出航したが、以後の消息は正確にはわかっていない。グリーンランド東岸に達し、沿岸を北上したが、きびしい寒さに乗組員が反乱をおこ...
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