Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1596a」で検索した結果

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  • H1596a
    サンフェリーペ号土佐に漂着 1596年(H1596a) 1596年7月13日、スペイン船サンフェリーペ号マニラ湾を出航。メキシコのアカプルコを目指す。司令官マティアス・ランディーチョ。 慶長1年8月(1596年10月)、サンフェリーペ号が土佐の浦戸(高知県)に漂着。乗組員フランシスコ・デ・サンタがスペインの植民地政策に言及。 慶長1年(1596年)12月、26聖人の殉教事件。長崎でフランシスコ派の宣教師ら26人が殉教する。サンフェリーペ号乗組員がスペインの植民地政策に言及したことが原因とされる。 慶長2(1597)年7月、フィリピン使節、黒象などを秀吉に献じ、サンフェリーペ号の積荷返還および殉教宣教師の遺骸引渡しを要求する。 外交志稿の既述 慶長元(1596)年、葡萄牙商船風に逢い、土佐吾川郡葛城浦に漂着す。船人多く溺死し僅かに存する者あり。国主長宗我部元...
  • H1592a
    山科勝成、紅村頼成、安南に漂着し殺さる 1592年(H1592a) 文禄元(1592)年、蒲生氏郷、戦艦を製し朝鮮に渡らんと欲し、其の臣、山科勝成、紅村頼成を西洋に遣わし船工を求めしむ。船長崎を発し風に逢い安南に漂着し土人のために殺さる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1566a
    安南船、三河渥美郡片浜浦に漂着 1566年(H1566a) 永禄9(1566)、安南船1隻、三河渥美郡片浜浦に漂着す。徳川家康奉行、高力直次、本多重次、天野康景をして、船中を検せしめ、異毛を得たり。人皆知る者なし。唯、僧(龍海院住職)、物外之を知り曰く、是唐頭なりと。船主に物を賜て放還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 年表
    ...リーペ号土佐に漂着 H1596a 1600年 ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 H1600a 1601年 ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 H1601a 1602年 ポルトガル船、土佐に漂着 H1602a 1605年 有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される H1605a 1609年 ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 H1609a 1610年 メキシコ船、東国に漂着 H1610a 1611年 ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる H1611a 1611年 薩摩の商船、媽港に漂着 H1611b 1615年ごろ カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間 H1615a 1616年 美保の漁師、朝鮮に漂着 H1616a 1617年 大屋甚吉、鬱陵島に漂着 H1617a 1634年 慶尚道の漁民の石見に漂着 H1634a 1637年 ポルトガル船、琉球に漂着 H1637b 1637年...
  • H1553a
    リチャード・チャンセラー白海に漂着 1553年(H1553a) イギリス人船長リチャード・チャンセラーは1553 年白海に漂着して西ヨーロッパとロシアの北方交易路を開いた。
  • H1541a
    明船1隻、豊後神宮浦に漂着 1541年(H1541a) 天文10(1541)年、明船1隻、豊後神宮浦に漂着す。駕する者280人、之を賑恤す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1543b
    ポルトガル船、豊後に漂着 1543年(H1543b) 天文12(1543)年8月、ポルトガル船5艘、風に逢い又、豊後に着す。案ずるに欧南遣使考に、天文13年葡萄牙人6大船に駕し着たり。珍宝を餽遺す。宗麟厚く之に酬い、麾下斉藤源助をして其の国に至って答礼せしむ。病んで死す。其の墓、今尚国都に存す云々。本文と1年の差あり。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1570a
    ポルトガル船1隻、肥前に漂着、長崎を視察 1570年(H1570a) 元亀元(1570)年、ポルトガル船1隻、肥前に漂着す。長崎の地勢、湾環港内深奥なるを以て、互市場と定め明年を約し去る。(外交志稿) 元亀2(1571)年、大村純忠、長崎を開港し、マカオから定期船が来るようになる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1566b
    明船5隻、相模三浦に漂着 1566年(H1566b) 永禄9(1566)年3月、明船5隻、相模三浦に漂着す。北条氏康守護代、横井越前に命じてその船を検し修理を加え帰帆せしむ(中古日本治乱記漂流年表)。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1541b
    ポルトガル船、豊後神宮寺浦に漂着 1541年(H1541b) 天文10(1541)年7月、ポルトガルの船、1隻380人、台風に逢い、豊後神宮寺浦に漂着する。当時、国主大友宗麟、米薪を与えて之を帰す。案ずるに欧南遣使考、之を天文11年に繋ぐ。この時、鉄砲を大友氏に贈り、互市を乞う。宗麟喜び之を許す云々とあり。洋学年表11年を以って誤となし10年に繋ぐ。通航一覧接蕃年表ともに10年となす。今、之に従う 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1696a
    1696年 朝鮮人、蝦夷に漂着 元禄9(1696)年、朝鮮人、蝦夷に漂着する。松前、これを長崎に送り、対馬に致して本国へ送還する 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • O1159a
    源頼朝、伊豆に流される(O1159a) 平治の乱(1159)でやぶれた源義朝(よしとも)の子、源頼朝(よりとも)は伊豆に流された。 参考文献 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
  • H1543a
    鉄砲伝来 1543年(H1543a) ポルトガル人アントニオ・ダ・モタ, フランシスコ・ゼイモト, アントニオ・ペショット, 牟良叔舎(一説), 喜利志多孟太(一説)ら、利益の高い商売のために明国人五峯の船でシャムから中国に向かう。台風に遭って操船不能になったため、種子島西ノ村に漂着する。時に天文12年8月25日(1543年9月13日)。 このとき、初めて欧州の鉄砲が伝来した。欧州側史料では 1542 年のことという。このとき伝えられた鉄砲はエスピンガルダと呼ばれた南欧系の先込め式火縄銃で,口径 18mm前後,最大射程 200m,有効射程 40 ~ 50mくらいのものであった。 五峯は、別名王直(おうちょく)と称し、平戸や五島の福江島に屋敷を構える倭寇の有力な頭目であった。大友宗麟(大分)や大内義隆(山口)など大名とも親しく、すでにこのころ東アジアに広く進出していた。同行...
  • O0796a
    796年 流人が京へ戻ることを許可 延暦14年12月19日(796/02/02)、流人が京へ戻ることを許可した。 参考文献 森田悌, 2006. 日本後紀 上. 講談社.
  • H1036a
    高麗の漂流民11人、本国に送還(H1036a) 長元9(1036)年7月、高麗の漂流民謙俊ら11人、本国に送還する。 漂着時期は不明。ひょっとすると、H1028a、H1019aと同一の可能性もある。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1066a
    宋人盧範漂着(H1066a) 治暦2(1066)年、是より先、宋人盧範漂到す。資糧を給して之を帰す。是歳来て恩を謝す。(百練抄) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1176a
    邦人100余名、宋に漂着(H1176a) 安元2(1176)年、邦人(姓名不詳)100余名あり。海上風に逢い宋の明州臨安府に漂着す。宋主詔して之を賑恤し、便船に付して我に送還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1616a
    美保の漁師、朝鮮に漂着 1616年(H1616a) 元和2(1616)年、雲州三保関ノ人七名竹島ニ至リ漁猟シ風ニ逢ヒ朝鮮ニ 漂着ス。朝鮮礼曹参議書ヲ宋(宗)氏ニ与テ之ヲ護送ス(竹島紀事)。漂着地は江原道平海と推察されている。 帰還は元和4(1618)年。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1426a
    島根県長浜に朝鮮人10人が漂着 1426年(H1426a) 応永32年12月(1426年1月)、現在の島根県浜田市長浜町の海岸に朝鮮人平海人張乙夫ら10人が漂着した。按撫使金鱗雨に随って茂陵島(鬱陵島)に向かっていたところ、二艘の内自分等46人が乗っていた船が突風に合い破船し、36人が溺死し船に積んでいた小船に乗り移った10人が日本の石州長浜へ漂着したものである。 その地の領主順都老は彼等を丁重に扱い30日間逗留させた。順都老については中世の日朝交流史の研究者関周一氏は語音から周布殿(すふどの)と解されている。その後順都老は対馬まで護送し対馬の有力者左衛門大郎に朝鮮への彼等の帰国を依頼した。左衛門大郎とは対馬の海賊首の早田左衛門太郎のことで彼もまた丁重な扱いで彼等を無事帰国させた。 当時の朝鮮国王世宗はこの報告に感激し、すぐ順都老と左衛門大郎の所へ礼物を持った使節を派遣...
  • H1609a
    ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 1609年(H1609a) ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年生まれ。メキシコ生まれのスペイン人。 1595年、サン・フアン・デ・ウルア城塞守備隊長兼市長となる。 1597年、タスコ市長となる。 1599年、ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官となる。 1608年、フィリピン臨時総督として派遣される。 1608年(慶長13年)、家康の使節であるウィリアム・アダムズ(H1600a)と会見。アダムズを通じて家康に親書と贈り物を託し、間もなくスペインとの交易が始まった。 1609年、メキシコへの召還命令を受ける。 1609年7月25日、サン・フランシスコ号でマニラを出帆。日本人ケン同乗。 ケン:蜂須賀家の雑兵として関ケ原の戦いに参戦し、敗残兵として堺へ落ち延びる。のちに、ルソンへの渡航を果たし、水夫の...
  • H1600a
    ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a) 1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。 1588年、メアリ・ヘンと結婚。 1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。 1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。 1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿) 慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。 (外交...
  • O1156a
    妙音院師長、土佐へ流される(O1156a) 保元元(1156)年、 保元の乱。後白河天皇と崇徳上皇の皇位をめぐっての対立、関白藤原忠通と弟の左大臣頼長との摂関の地位を争う抗争がもととなり、これに源平両氏の武力が加わって爆発した事変。 崇徳上皇方と後白河天皇方とにわかれての対戦は天皇方の勝利に終わり、上皇方の主な人々は処罰された。 崇徳上皇は藤原頼長とはかって源為義・為朝(ためとも)父子・平忠正らを味方にひきいれていたが、上皇は讃岐に流され、為義は斬られた。上皇方の首謀者頼長は戦いの最中に傷をうけて死んだ。妙音院師長(みょうおんいんもろなが)は頼長の子で、父の罪に連座して土佐の畑(幡多)へ流された。 師長は幼少のときから聡明で、14歳で参議となり、やがて権中納言兼左近衛中将という高官にすすんだが、土佐に流されたときは19歳であった。師長は幡多に流され、有井川村(幡多郡大方町)の宮地山にいた...
  • H1786a
    1786年 サポジニコフ、アムチトカ島で座礁 1769年、イヴァン・プロトジャコノフ(イワン・ホロシヒチ・テカノフ, ヤクーツクの商人)、水夫長ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフら39名のロシア人を率いてウルップ島に渡来。 1770~1771年、択捉島アイヌと衝突 1771/9月、プロトジャコノフ、サポジニコフら生き残った18人がカムチャツカに帰着 1786年7月、サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。アムチトカ島に上陸し大黒屋光太夫(H1783a)らと会う。 1787年春、アムチトカ島で船の建造にとりかかる。 1787/07/29、作った船キリル・アレクサンドロスキー号で大黒屋光太夫らとアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウ...
  • H1615a
    カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間(H1615a) 元和中(歳月未詳)、柬埔寨国 (カンボジア)の舟、筑後柳川に漂着す。藩主、田中吉政、其の臣、三宅弥治左衛門に命じ、送って其の国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1666b
    隠岐の漁民、江原道三陟に漂着 1666年 寛文6年7月12日(1666/8/12)、隠岐の漁民1名、江原道三陟にこの日漂着。H1666aと一緒に送還される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • O0866a
    応天門の変にかかる遠流 866年 (O0866a) 貞観8(866)年3月、応天門の変。大納言の伴善男(とものよしお)が子の中庸(なかつね)とともに、左大臣源信(みなもとのまこと)を失脚させるために応天門を焼いた事件。 同年8月、応天門の変の真相が明らかになり、伴善男、中庸、事件に関係していた紀豊城(きのとよき)の3人はそれぞれ流罪となる。豊城の異母兄の夏井も罪はないのに縁座の制によって土佐に流される。 夏井は土佐に流されてから香美郡佐古(野市町)の亀山地方に住んだと言われている。医薬の心得があったので、土佐の野山を歩いて薬草を取り、多くの病人をすくった。 参考文献 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
  • O0756a
    大伴古慈悲、池田親王 、土佐に流される 756年(O0756a) 大伴古慈悲(おおとものこじひ)、性質剛健で学才があり、藤原不比等の女を妻とし、考謙天皇につかえ、一時権力をのばしたが、藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の怒りにふれ、朝廷をそしった罪で淡海三船(おうみのみふね)とともにとらえられ、土佐守に左遷された。ところが同族の古麻呂の廃立の陰謀に連座して、天平勝宝8(756)年、任国の土佐に流された。 池田親王(淳仁天皇の弟)、皇太弟となっていたが、天平勝宝8(756)年、天皇が孝謙天皇のために退位させられて淡路にうつり、いわゆる淡路廃帝となったとき、多くの馬を集めて謀反を企てたとの理由で土佐に流された。親王は土佐へ下向してから、香美郡皇子(香我美町徳王寺)に仮寓されたと伝えられ、現在同地にある若一王子宮は相殿に親王をまつっている。 宝亀元(770)年、大伴古慈悲...
  • H1727a
    1727年 小笠原貞頼、小笠原渡航を目指すが帰らず 文禄2(1593)年、小笠原民部大輔貞頼、小笠原諸島を発見(伝説)。 享保12(1727)年、小笠原貞任、小笠原貞頼の子孫と称し、幕府に小笠原渡航を願い出て許され、一族の者を行かせたが、それらはついに帰らずじまいであった。
  • H1813a
    文化10(1813)年10月初め。重吉ら14名督乗丸に乗り込む。 重吉、督乗丸船頭。乗船時29歳。長右衛門、金兵衛とも。尾張国知多郡半田村荒古(半田市半田)出身の百姓。同国幡豆郡一色村佐久島(一色町佐久島)の善三郎次男で、半田村荒古の庄兵衛養子。15歳より船に乗り、文化10年伯父長右衛門に代わって督乗丸船頭。宗旨浄土真宗。菩提寺半田市中村の雲観寺。のち小栗姓を与えられる。叔父の長右衛門は、督乗丸の本来の船頭。この時、船頭は支障があり、重吉が仮の船頭を頼まれた。箱館での文書には長右衛門として差し出している。 音吉、水主。出帆時27歳。伊豆国加茂郡子浦中野町(静岡県賀茂郡南伊豆町)出身。甚太郎次男で伝蔵の弟。18歳頃より船乗渡世。宗旨浄土宗。 要吉、水主。尾張国名古屋矢場(名古屋市中区矢場)出身。 七兵衛、水主。七蔵とも。半田村出身。 藤助、楫取。半田村荒古出身。藤七倅。宗旨浄土真宗。菩提...
  • 荒川秀俊, 1962
    荒川秀俊, 1962. 異国漂流記集. 吉川弘文館. 異国物語 H1644a 尾張国知多郡大野村孫左衛門船漂流帰国之事 H1677a 漂人談話 H1712a 浙江漂流帰帆 H1752c 宝暦7年丑9月志州鳥羽浦船頭漂流一件 H1757a 異国漂流人之次第 H1764a 異国江漂流仕候陸奥国の者4人口書 H1793a 能州羽咋郡塵浜村清兵衛異国漂流口書写 H1830b 呂宋国漂流記 H1841c 漂客談奇 H1841a 漂流奇談 H1841a 栄寿丸漂流口書 H1841b 漂流記 H1850a 無人嶋ヨリ帰国之者御調書上留 H1719a, H1739a, H1785a 無人嶋漂流記 H1785a
  • H1793a
    1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着 1727年、吉郎次、牡鹿郡小竹浜(石巻市小竹浜)で生まれる。 1744年、津太夫、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)で生まれる。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 宝暦11(1761)年、儀兵衛、陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)で生まれる。姓は奥田、源三郎倅。儀平とも。宗旨禅宗。 1762年、左平(太兵衛とも)、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢出身。長九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 1764/04/08、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれる。 1770、太十郎(太十、太平とも)、陸奥国桃生郡深谷室浜で生まれる。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。 1770、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン|Ivan...
  • H1783a
    1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 1727年、九右衛門(久兵衛とも)、若松村で生まれる。 1737年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ナイシュロット(フィンランド、当時はスウェーデン領)で出生 1742年、幾八(儀八、義八とも)、若松村で生まれる。 1747年?、小市(幸市、本名長右衛門とも)、若松村で生まれる。 1749年、ラジシチェフ、モスクワの貴族の家に生まれる。 1751年、大黒屋光太夫、伊勢国亀山藩領河曲郡若松村 (現,三重県鈴鹿市若松)で生まれる。大黒屋は実家の屋号。長じて 亀屋四郎兵衛道伯の後家の養子となる。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。 1752年、庄蔵、若松村で生まれる。 1752年ごろ、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)三之...
  • H1686a
    1686年 清国泉州の商ら、対馬琴浦に漂着 貞享3(1686)年7月、清国泉州廈門の商陳昂ら128人、対馬琴浦に漂着す。藩主之を長崎に護送す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1610a
    メキシコ船、東国に漂着 1610年(H1610a) 慶長15(1610)秋、新スペイン国の船(案ずるに今アメリカ州メキシコ国是なり)、東国に漂着す。修繕を加え薪糧を給して、其国に還す。(案ずるに、欧南遣使考に曰く。スペイン国人、風に漂うて、我西陲に抵る舳艫悉く壊る。官命じて繕治し薪糧を給して還らしむ。本文と東西地を異にす。孰れ(いずれ)が是なるか知らず) これも、ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)と酷似。「東国に漂着」はサン・フランシスコ号、「西陲に抵る」はサンタ・アナ号とも読める。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1676a
    豊前小倉の漁民、朝鮮に漂着 1676年 延宝4(1676)年、豊前小倉の漁民2名、朝鮮に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1666a
    米子船、朝鮮国慶尚道に漂着 1666年 寛文6(1666)年、竹島(鬱陵島)から帰る途中で大屋九衛門勝實(米子)の仕立船が朝鮮国慶尚道長鬙に漂着した。船団は全部で3艘であったが1艘21名のみ漂着し他の2艘は行方不明となった。 対馬藩に引き渡される 寛文7年2月22日(1667/03/16)、大阪で鳥取藩側へ引き渡される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省. 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1756a
    1756年 陸奥国津軽郡石崎村治右衛門船朝鮮に漂着 宝暦6年(1756)、陸奥国津軽郡石崎村治右衛門船、朝鮮に漂着。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • O0676a
    麻續王、因幡に流される 676年(O0676a) 天武4(676)年4月18日、麻續王(おみのおおきみ)、罪を犯し、因幡(地図A)に流される。子の1人は伊豆大島(地図B)へ、1人は血鹿島(五島列島, 地図C)に流される。 Map 大きな地図で見る
  • H0786a
    渤海使12、出羽に漂着 786年(H0786a) 延暦5(786)年7月、渤海国使(渤海使12)李元泰ら1船65人、出羽の夷地に漂着し、刧畧せられ24人を失う。元泰、入朝して之を愬う。越後に令し、船及び柁手を備えて之を遣帰せしむ。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H0686a
    防人の遭難 686年(H0686a) 天武14年12月4日(686/01/06)、筑紫に遣わした防人らが、海上で難破漂流し、みな衣服をなくした。衣服にあてるため布458端を筑紫に発送する。 参考文献 宇治谷孟, 1988. 全現代語訳 日本書紀 下. 講談社. 坂井太郎ほか, 1993. 日本古典文学大系 日本書紀 下. 岩波書店.
  • H0756a
    楊貴妃が山口県長門市に漂着(伝説)(H0756a) 唐の天宝15年(756年)、空艫船(うつろぶね)に乗った楊貴妃が向津具半島唐渡口(山口県長門市 旧油谷町)に漂着したが、まもなく死亡し、里人が寺院に埋葬した。(伝説) 久津地区にある「二尊院」に「楊貴妃の墓」がある。 玄宗皇帝は夢で妃が日本で死んだことを知り、追善のために、家来に弥陀、釈迦の二尊像、十三重の大宝塔を持たせ、日本へ遣わした。だが、妃が漂着した場所が分からず、京都の寺に二尊仏を預けて帰った。その後、漂着地が久津とわかり、一体ずつを二尊院との間にわけて安置することになった。 ニ尊院には楊貴妃の追善のために送られたと言い伝えられる阿弥陀如来像と釈迦如来像(いずれも重文)が現存する。 参考文献 古沢要, 2006. 山口県・向津具半島 楊貴妃伝説 美人の里. 読売新聞, 2006.11.7.
  • H1617a
    大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)...
  • H1601a
    ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 1601年(H1601a) 慶長6(1601)年秋、ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着す。乃ち(すなわち)会て、伊豆加茂郡伊東に於いて唐船に擬し造る所の船を与え其国に帰らしむ。 ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)に酷似。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1498a
    ジョン・ガボット最後の航海 1498年(H1498a) ジョン・カボット John Cabot|Giovanni Caboto、イタリアの探検家。ジェノバで1450年?(一説に1425年)に生まれるが、1490年ごろにイングランドに行きブリストルに住む。 1497年5月2日、ヘンリー 7 世の勅許を得て18人の乗組員とともにマシュー号でブリストルを出航(セバスチャン・カボットも同行?)。 1497年6月24日、現在のカナダ東南部のケープ・ブレトン島あたりに上陸し、その後、ラブラドル、ニューファンドランド島、ニューイングランド沿岸を航行した。 1497年8月、イングランドに帰還する。 1498年5月、日本をめざして4、5隻の船をひきいて出航したが、以後の消息は正確にはわかっていない。グリーンランド東岸に達し、沿岸を北上したが、きびしい寒さに乗組員が反乱をおこ...
  • H1715a
    1715年 朝鮮人が宮古島に漂着 正徳5年(1715年)、朝鮮人が宮古島に漂着。 参考文献 松島駿二郎, 2002. 異国船漂着物語. JTB.
  • H1637a
    米子の漁師、蔚山に漂着 1637年(H1637a) 寛永14(1637)年、米子の村川市兵衛門仕立てで弥三右衛門、與七郎等36人が鬱陵島での漁を終え帰国に向かう途中で漂流し朝鮮の蔚山魴魚津へ漂着した。当時既に漁の対象はアシカに移行していた。 弥三右衛門等は3月鬱陵島に行き、6月末本国へ向う途中遭難し蔚山に漂着した。 8月、対馬藩に引き渡される。 大谷家と隔年で鬱陵島へ出漁した村川家は「家譜」によると始祖は尾張の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斎である。正斎はある事件で1581(天正9)年切腹している。その子正員は母に従って米子に来住、母の実家が村川姓だったので彼は村川甚兵衛正員と名乗った。正員から3代目が市兵衛正純で大屋甚吉(H1617a)と懇意で共に町年寄であったという。その市兵衛正純が家督を市兵衛正清に譲るのは1656(明暦2)年とされるから村川市兵衛船の朝鮮への...
  • H1644a
    越前国の廻船、韃靼に漂流 1644年(H1644a) 竹内藤右衛門(越前国三国浦新保町の船頭) 、竹内藤蔵(竹内藤右衛門倅)、国田兵右衛門ら総勢58人で3隻の船に分乗して、寛永21年4月1日(1644/05/07)、越前三国浦を船出。能登舳倉島着、15日ほど日和待ち。それより佐渡着。20日余り日和待ち。 (寛永21年4月29日(1644/06/04)、李自成が北京を退去する。このとき、北京に火を放つ。) (寛永21年5月2日(1644/06/06)、睿親王ドルゴン、満軍を率いて北京に入城する。) 寛永21年5月10日(1644/06/14)、佐渡出帆。その夜から大風に遭い漂流。 寛永21年6月1日(1644/07/14)ごろ、日本海北岸の無人境(第一漂着地)に漂着す。爾来10日余りこの地に滞留し、船底および船具の破損を修理す。 寛永21年6月15日(1644/07/...
  • H0836a
    遣唐使19 836年(H0836a) 延暦13(794)年、円仁=慈覚大師。下野国都賀郡で生まれる。 808年、円仁、最澄の弟子となる(15歳)。 承和元年1月19日(834/03/06)、藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)、遣唐使19の大使に、小野篁(おののたかむら)、副使に任ぜられる。 承和2年(835年)、円仁、入唐の詔を拝する(遣唐使19に参加)。 承和3年5月14日(836/06/05)、遣唐使19、通例に従い、4隻の遣唐船を一団とし、難波津(大阪)を出発(1度目の出発)し、瀬戸内海を通って九州に向かう。出港直後暴風雨に遭うが、大宰府に到着する。 第1回出帆 承和3年7月2日(836/08/21)、遣唐使19、4隻の遣唐使船(651人)が博多津から中国に向かって出発。 承和3年7月6日(836/08/25)、逆風に遭い第1船(大使藤原常嗣乗船)が肥...
  • H1079a
    高麗人40人を送還 1079年(H1079a) 承暦3(1079)年9月、高麗人安光ら40人を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1401a
    明船、漂着する 1401年(H1401a) 応永8(1401)年、海島漂着の者を、捜尋して之を明に還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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