Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1676a」で検索した結果

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  • H1676a
    豊前小倉の漁民、朝鮮に漂着 1676年 延宝4(1676)年、豊前小倉の漁民2名、朝鮮に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • O0676a
    麻續王、因幡に流される 676年(O0676a) 天武4(676)年4月18日、麻續王(おみのおおきみ)、罪を犯し、因幡(地図A)に流される。子の1人は伊豆大島(地図B)へ、1人は血鹿島(五島列島, 地図C)に流される。 Map 大きな地図で見る
  • 年表
    ...の漁民、朝鮮に漂着 H1676a 1679年 朝鮮人、薩摩甑島の内瀬に漂着 H1679a 1680年 バタン船、日向に漂着 H1680a 1681年 清国の船、天草に漂着 H1681a 1682年 清船、野間崎で破船 H1682a 1684年 朝鮮の船、対馬に漂着 H1684b 1685年 伊勢国度会郡神社村船、マカオに漂着 H1684a 1685年 清国漁船、長門に漂着 H1685a 1686年 清国泉州の商ら、対馬琴浦に漂着 H1686a 1686年 清国商船、肥後天草に漂着 H1686b 1687年 ルソン船、尾州と紀州に漂着 H1688a 1688年 薩摩の船、広東に漂着 H1688b 1688年 越前坂井郡神浦の漁船、朝鮮に漂着 H1688c 1688年 ポルトガル船、紀伊熊野に漂着 H1688d 1689年 清国商船、日向兒島郡に漂着 H1689a 1690年 朝鮮人死体...
  • H1176a
    邦人100余名、宋に漂着(H1176a) 安元2(1176)年、邦人(姓名不詳)100余名あり。海上風に逢い宋の明州臨安府に漂着す。宋主詔して之を賑恤し、便船に付して我に送還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1616a
    美保の漁師、朝鮮に漂着 1616年(H1616a) 元和2(1616)年、雲州三保関ノ人七名竹島ニ至リ漁猟シ風ニ逢ヒ朝鮮ニ 漂着ス。朝鮮礼曹参議書ヲ宋(宗)氏ニ与テ之ヲ護送ス(竹島紀事)。漂着地は江原道平海と推察されている。 帰還は元和4(1618)年。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1673a
    陸奥国相馬の船、東寧(台湾)に漂着 1673年 1673年、陸奥国相馬の船、東寧(台湾)に漂着し、原住民に捕らえられ奴隷とされていたのを、鄭錦舎が銀を与えて放たせ、延宝2(1674)年6月、長崎に送ってくる。礼として銀20貫目を贈る。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1671a
    播磨飾磨津の漁民、朝鮮巨済島に漂着 1671年 寛文11(1671)年、播磨飾磨津の漁民3名、朝鮮巨済島に漂着する。朝鮮はこれを対馬に護送する 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1672a
    讃岐塩飽島の漁民、朝鮮に漂着 1672年 寛文12(1672)年、讃岐塩飽島の漁民14名、朝鮮に漂着する。朝鮮これを対馬に護送する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1673b
    清船、肥前平戸に漂着 1673年 延宝元(1673)年5月、清船1隻、肥前平戸に漂着す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1679a
    朝鮮人、薩摩甑島の内瀬に漂着 1679年 延宝7(1679)年1月、朝鮮人26名、薩摩甑島の内瀬に漂着し、岩礁に触れて船楫破砕して覆没する。その屍を島中に葬り、対馬に命じてその器物を朝鮮に送る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1666b
    隠岐の漁民、江原道三陟に漂着 1666年 寛文6年7月12日(1666/8/12)、隠岐の漁民1名、江原道三陟にこの日漂着。H1666aと一緒に送還される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1601a
    ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 1601年(H1601a) 慶長6(1601)年秋、ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着す。乃ち(すなわち)会て、伊豆加茂郡伊東に於いて唐船に擬し造る所の船を与え其国に帰らしむ。 ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)に酷似。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1610a
    メキシコ船、東国に漂着 1610年(H1610a) 慶長15(1610)秋、新スペイン国の船(案ずるに今アメリカ州メキシコ国是なり)、東国に漂着す。修繕を加え薪糧を給して、其国に還す。(案ずるに、欧南遣使考に曰く。スペイン国人、風に漂うて、我西陲に抵る舳艫悉く壊る。官命じて繕治し薪糧を給して還らしむ。本文と東西地を異にす。孰れ(いずれ)が是なるか知らず) これも、ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)と酷似。「東国に漂着」はサン・フランシスコ号、「西陲に抵る」はサンタ・アナ号とも読める。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1609a
    ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 1609年(H1609a) ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年生まれ。メキシコ生まれのスペイン人。 1595年、サン・フアン・デ・ウルア城塞守備隊長兼市長となる。 1597年、タスコ市長となる。 1599年、ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官となる。 1608年、フィリピン臨時総督として派遣される。 1608年(慶長13年)、家康の使節であるウィリアム・アダムズ(H1600a)と会見。アダムズを通じて家康に親書と贈り物を託し、間もなくスペインとの交易が始まった。 1609年、メキシコへの召還命令を受ける。 1609年7月25日、サン・フランシスコ号でマニラを出帆。日本人ケン同乗。 ケン:蜂須賀家の雑兵として関ケ原の戦いに参戦し、敗残兵として堺へ落ち延びる。のちに、ルソンへの渡航を果たし、水夫の...
  • H1637a
    米子の漁師、蔚山に漂着 1637年(H1637a) 寛永14(1637)年、米子の村川市兵衛門仕立てで弥三右衛門、與七郎等36人が鬱陵島での漁を終え帰国に向かう途中で漂流し朝鮮の蔚山魴魚津へ漂着した。当時既に漁の対象はアシカに移行していた。 弥三右衛門等は3月鬱陵島に行き、6月末本国へ向う途中遭難し蔚山に漂着した。 8月、対馬藩に引き渡される。 大谷家と隔年で鬱陵島へ出漁した村川家は「家譜」によると始祖は尾張の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斎である。正斎はある事件で1581(天正9)年切腹している。その子正員は母に従って米子に来住、母の実家が村川姓だったので彼は村川甚兵衛正員と名乗った。正員から3代目が市兵衛正純で大屋甚吉(H1617a)と懇意で共に町年寄であったという。その市兵衛正純が家督を市兵衛正清に譲るのは1656(明暦2)年とされるから村川市兵衛船の朝鮮への...
  • H1600a
    ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a) 1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。 1588年、メアリ・ヘンと結婚。 1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。 1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。 1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿) 慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。 (外交...
  • H1667a
    尾張孫左衛門船、馬丹島に漂流 1667年 寛文7年9月(1667/10月か11月)、尾張国知多郡大野村の商人孫左衛門、15人乗りの船に材木を積んで江戸に送る。 寛文7年10月中旬(1667/11月末~12月始め)、江戸着。 寛文7年10月下旬(1667/12月前半)、尾張大納言の品物をはじめ、千賀志摩守、同与八郎の荷物を積み、飯米2石ほど積み込んで、江戸を出船。 寛文7年11月4日(1667/12/18)、下田を出て、三河国沖合いまできたとき、西風が強くなり、尾張国に寄せることができず。11月5日(1667/12/19)、大王崎のあたりで西風がますます強くなり、東へ流される。11月8日(1667/12/22)朝、帆柱を切り捨てる。11月14日(1667/12/28)晩、風が変わる。11月15日(1667/12/29)、帆げたを帆柱にし帆走。西に向かう? 寛文7年...
  • H1634a
    慶尚道の漁民の石見に漂着 1634年(H1634a) 寛永11(1634)年10月、慶尚道の4人の漁民の石見に漂着(朝鮮側資料では1635年)。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1694a
    1694年 清国船、中永良部島に漂着 元禄7(1694)年9月、清国船主周宝舎ら109人洋中風に逢い楫を失い檣を斫り漂蕩半月、南海中永良部島に漂着す。 明年、H1694bとともに長崎に送られ帰国する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1694b
    1694年 清国船、甑島に漂着 元禄7(1694)年10月、清国潮州の船主呂寧宮ら105人長崎を発し五島洋中にて暴風に逢い漂流して薩摩甑島に到り破船して9人を失う。明年H1694aと共に之を長崎に送り其国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611b
    薩摩の商船、媽港に漂着 1611年(H1611b) 慶長16(1611)年、薩摩の商船安南に赴かんとし洋中風に逢い、漂流して媽港に至る。媽港は葡萄牙人のの居留地なり。葡人為に舟楫を理す。 慶長17(1612)年7月、之を肥前五島に送る。島津義久、書を贈て之を謝す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1602a
    ポルトガル船、土佐に漂着 1602年(H1602a) 慶長7(1602)年秋、ポルトガルの船1隻、土佐に漂着す。国主山内一豊をして之を守らしむ。既にポルトガル船大砲を発し逃れ去る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1605a
    有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される 1605年(H1605a) 慶長10(1605)年、肥前高来城主、有馬晴信、人を遣わし、交趾に通せんとす。風に逢うて媽港に漂着し、舟楫を整理するの際、土人と争闘し遂に為に悉く殺さる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1643b
    ポルトガル人、筑前大島に漂着 1643年(H1643b) 寛永20(1643)年5月、ポルトガル人8名、筑前大島に漂着す。之を検するに耶蘇教の徒なり。「ショセイフカウロ」なる者あり。後、我邦、俗に化し改名して岡本三右衛門と称す。小日向の邸に居り天寿を以て終る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1615a
    カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間(H1615a) 元和中(歳月未詳)、柬埔寨国 (カンボジア)の舟、筑後柳川に漂着す。藩主、田中吉政、其の臣、三宅弥治左衛門に命じ、送って其の国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1637b
    ポルトガル船、琉球に漂着 1637年(H1637b) 寛永14(1637)年8月、ポルトガル船1隻、バテレン6人、琉球に漂着す。在番の薩摩士人捕えて長崎に送る。鎮台之を検して其宗教を弘めんとするを知り之を獄に下す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611a
    ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる 1611年(H1611a) イギリスの海洋探検家ヘンリー・ハドソン|Henry Hudson(生年不詳)は、1607年から 4回にわたり北アメリカ東岸を北上した。最初はバレンツ海を北緯 80°23′まで進んだ。 1609年の第3回にはハドソン川をさかのぼり,河口から 240kmの地点のオルバニーに至る。探検を委託したオランダ東インド会社がその河口に植民地を建設したのが今日のニューヨーク市である。 1610年、イギリス商人の依頼で最後の航海に出て,初めてハドソン海峡を通過,ハドソン湾を発見。 1611年、ハドソン湾で越冬後,部下に置去りにされて行方不明となった。
  • O0676b
    筑紫太宰三位屋垣王、土佐に流される 676年(O0676b) 天武5(676)年9月12日 、筑紫太宰三位屋垣王(つくしのおおみこともちさんのくらいやかきおう)、罪によって土佐国に流される。 参考文献 宇治谷孟, 1988. 全現代語訳 日本書紀 下. 講談社. 坂井太郎ほか, 1993. 日本古典文学大系 日本書紀 下. 岩波書店. 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
  • H1643a
    オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けて...
  • H1617a
    大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)...
  • H1666a
    米子船、朝鮮国慶尚道に漂着 1666年 寛文6(1666)年、竹島(鬱陵島)から帰る途中で大屋九衛門勝實(米子)の仕立船が朝鮮国慶尚道長鬙に漂着した。船団は全部で3艘であったが1艘21名のみ漂着し他の2艘は行方不明となった。 対馬藩に引き渡される 寛文7年2月22日(1667/03/16)、大阪で鳥取藩側へ引き渡される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省. 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1669a
    阿波国勘左衛門船、無人島に漂着 1669年 寛文9年閏10月28日(1669/12/21)、阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門、水主の安兵衛、彦之丞、三右衛門等を雇い、11反帆船で浅川浦を出帆。 寛文9年11月初旬(1669/12/下旬)、宮崎に着き、同地の藤代長左衛門の蜜柑を積み入れ、運賃銀830目で江戸に廻漕すべき約を定める。 寛文9年11月15日(1670/01/06)、勘左衛門、長左衛門共々都合7人(?)乗り組み宮崎を出帆。宮崎を出帆して7、8日を経て伊勢国阿濃津に着船し、12、3日日和をまつ。 寛文9年12月6日(1670/01/27)、早天に阿濃津を出帆するが、内海をでたところで暴風にあい漂流する 寛文9年12月28日(1670/02/18)、糧米をすべて食べつくす。のちは蜜柑を食べて食いつなぐ 寛文10年1月中旬(1670/03/上旬)、風が東北に変わる 寛文10年1...
  • 石井研堂. 1892
    石井研堂. 1892. 日本漂流譚 1. 学齢館. 越前の人韃靼に漂流し、明韓を経て故郷に帰る H1644a 阿紀の人無人島に漂流し、一板に縁りて故郷に帰る H1669a 尾張の人馬丹嶋に漂流し、土人を欺きて故郷に帰る H1677a 志摩の人、台湾島に漂流し、清国船に因りて故郷に帰る H1757a 筑前の人保爾尼に漂流し、万死を出でて故郷に帰る H1764a
  • 荒川秀俊, 1962
    荒川秀俊, 1962. 異国漂流記集. 吉川弘文館. 異国物語 H1644a 尾張国知多郡大野村孫左衛門船漂流帰国之事 H1677a 漂人談話 H1712a 浙江漂流帰帆 H1752c 宝暦7年丑9月志州鳥羽浦船頭漂流一件 H1757a 異国漂流人之次第 H1764a 異国江漂流仕候陸奥国の者4人口書 H1793a 能州羽咋郡塵浜村清兵衛異国漂流口書写 H1830b 呂宋国漂流記 H1841c 漂客談奇 H1841a 漂流奇談 H1841a 栄寿丸漂流口書 H1841b 漂流記 H1850a 無人嶋ヨリ帰国之者御調書上留 H1719a, H1739a, H1785a 無人嶋漂流記 H1785a
  • H1686a
    1686年 清国泉州の商ら、対馬琴浦に漂着 貞享3(1686)年7月、清国泉州廈門の商陳昂ら128人、対馬琴浦に漂着す。藩主之を長崎に護送す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1696a
    1696年 朝鮮人、蝦夷に漂着 元禄9(1696)年、朝鮮人、蝦夷に漂着する。松前、これを長崎に送り、対馬に致して本国へ送還する 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1644a
    越前国の廻船、韃靼に漂流 1644年(H1644a) 竹内藤右衛門(越前国三国浦新保町の船頭) 、竹内藤蔵(竹内藤右衛門倅)、国田兵右衛門ら総勢58人で3隻の船に分乗して、寛永21年4月1日(1644/05/07)、越前三国浦を船出。能登舳倉島着、15日ほど日和待ち。それより佐渡着。20日余り日和待ち。 (寛永21年4月29日(1644/06/04)、李自成が北京を退去する。このとき、北京に火を放つ。) (寛永21年5月2日(1644/06/06)、睿親王ドルゴン、満軍を率いて北京に入城する。) 寛永21年5月10日(1644/06/14)、佐渡出帆。その夜から大風に遭い漂流。 寛永21年6月1日(1644/07/14)ごろ、日本海北岸の無人境(第一漂着地)に漂着す。爾来10日余りこの地に滞留し、船底および船具の破損を修理す。 寛永21年6月15日(1644/07/...
  • H1704a
    1704年 アレクサンダー・セルカーク、無人島に漂着 アレクサンダー・セルカーク(1676-1723):ロビンソン・クルーソーのモデル。1704-1709年までの4年4ヶ月を無人島で暮らす。 1657年、ジョン・セルクレイグ(アレクサンダー・セルカークの父)、この年、ユーファン・マッキーと結婚 1661年、ダニエル・デフォー(ロビンソン・クルーソーの著者)、生まれる。 1676年、アレクサンダー・セルカーク(ロビンソン・クルーソーのモデル)、スコットランド、ラルゴで生まれる。 1695年、アレクサンダー・セルカーク、教会内で暴力をふるう 1695/08/25、アレクサンダー・セルカークの暴力事件について、長老会は本人の召還を決定。出頭を命じた。 1695/08/27、アレクサンダー・セルカーク、長老会の召還に対して出頭せず。船乗りとなる。 参考文...
  • H1036a
    高麗の漂流民11人、本国に送還(H1036a) 長元9(1036)年7月、高麗の漂流民謙俊ら11人、本国に送還する。 漂着時期は不明。ひょっとすると、H1028a、H1019aと同一の可能性もある。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H0776a
    777年 渤海使09 宝亀7年12月22日(777/02/04)、渤海国が献可大夫(こんがだいぶ)・司賓少令(しひんしょうりょう)(外交を司る司賓寺の次官)・開国男(げこくなん)の史都蒙(しつもう)ら187人を遣わして、光仁天皇の即位を祝い、あわせて渤海国王の妃の喪を伝えてきた。一行はわが国の海岸に到着する頃、突然暴風に遭遇して、柁が折れ帆が落ちて、溺死者を多く出した。生存者を数えるとわずかに46人であった。それで越前国加賀郡に丁重に収容して衣食などを供給した。(続日本紀) 宝亀8年1月20日(777/03/04)、使者を遣わして渤海使の史都蒙らに問わせた。 さる宝亀4年(6月24日)の烏須弗(うすふつ)らが本国に帰るに際して、太政官は処分を下して「渤海の入朝使はこれからは古例(高句麗時代)にしたがってまず大宰府に向かうようにせよ。北の航路(日本海横断コース)をとってはならない」...
  • H1066a
    宋人盧範漂着(H1066a) 治暦2(1066)年、是より先、宋人盧範漂到す。資糧を給して之を帰す。是歳来て恩を謝す。(百練抄) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1566a
    安南船、三河渥美郡片浜浦に漂着 1566年(H1566a) 永禄9(1566)、安南船1隻、三河渥美郡片浜浦に漂着す。徳川家康奉行、高力直次、本多重次、天野康景をして、船中を検せしめ、異毛を得たり。人皆知る者なし。唯、僧(龍海院住職)、物外之を知り曰く、是唐頭なりと。船主に物を賜て放還す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1765c
    1765年ごろ 陸奥住吉丸漂流 1765年ごろ、陸奥住吉丸(6人乗り)小名浜から漂流した。うち3名は姫宮丸(H1765b)の6名合流。姫宮丸の2人が死亡。残った2組7人が1767年長崎に帰国。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H0776b
    776年 高麗の使者が越前に漂着 宝亀7(776)年、高麗の使者30人が溺死し、越前国の江沼・加賀2郡に漂着した。(続日本紀:宝亀9年4月30日の条)(H0776aの第1報か?)
  • H1765b
    1765年 常陸姫宮丸、安南(ベトナム)に漂着 明和2(1765)年11月、常陸の船姫宮丸(6人乗組み)銚子沖で遭難。安南(ベトナム)に漂着。漂着先で働き、賃金を得て生活。その後、会安(フェフェ)に送られ、そこで小名浜から漂着した陸奥住吉丸(6人乗り)(H1765c)の3人と合流。姫宮丸の2人が死亡。残った2組7人が長崎に帰国。 1767年、4人が、住吉丸の3人と長崎に帰国。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館.
  • H1596a
    サンフェリーペ号土佐に漂着 1596年(H1596a) 1596年7月13日、スペイン船サンフェリーペ号マニラ湾を出航。メキシコのアカプルコを目指す。司令官マティアス・ランディーチョ。 慶長1年8月(1596年10月)、サンフェリーペ号が土佐の浦戸(高知県)に漂着。乗組員フランシスコ・デ・サンタがスペインの植民地政策に言及。 慶長1年(1596年)12月、26聖人の殉教事件。長崎でフランシスコ派の宣教師ら26人が殉教する。サンフェリーペ号乗組員がスペインの植民地政策に言及したことが原因とされる。 慶長2(1597)年7月、フィリピン使節、黒象などを秀吉に献じ、サンフェリーペ号の積荷返還および殉教宣教師の遺骸引渡しを要求する。 外交志稿の既述 慶長元(1596)年、葡萄牙商船風に逢い、土佐吾川郡葛城浦に漂着す。船人多く溺死し僅かに存する者あり。国主長宗我部元...
  • H1426a
    島根県長浜に朝鮮人10人が漂着 1426年(H1426a) 応永32年12月(1426年1月)、現在の島根県浜田市長浜町の海岸に朝鮮人平海人張乙夫ら10人が漂着した。按撫使金鱗雨に随って茂陵島(鬱陵島)に向かっていたところ、二艘の内自分等46人が乗っていた船が突風に合い破船し、36人が溺死し船に積んでいた小船に乗り移った10人が日本の石州長浜へ漂着したものである。 その地の領主順都老は彼等を丁重に扱い30日間逗留させた。順都老については中世の日朝交流史の研究者関周一氏は語音から周布殿(すふどの)と解されている。その後順都老は対馬まで護送し対馬の有力者左衛門大郎に朝鮮への彼等の帰国を依頼した。左衛門大郎とは対馬の海賊首の早田左衛門太郎のことで彼もまた丁重な扱いで彼等を無事帰国させた。 当時の朝鮮国王世宗はこの報告に感激し、すぐ順都老と左衛門大郎の所へ礼物を持った使節を派遣...
  • H1695a
    1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 伝兵衛(デンベイ):父は大坂の商人ディアサ。伝兵衛は同じ大坂商人のアワスディヤ(淡路屋?)マタヴィン(又兵衛?)の店に出入りする2人の子を持つ妻帯者。大坂谷町あたりに在住。淡路屋又兵衛の上乗役として乗船した。15人乗船。なお、伝兵衛は日本に帰らなかったため、日本側には一切記録はない。すべてはロシア側の記録である。 1695年8月、ウラジミール・アトラソフ、アナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された 元禄8年11月初め?(1695/12/初め?)、12艘(一説に30艘)の船団で、大阪を出帆し江戸に向かう。難破し帆柱を切り倒したとき、2名が海に落ちて死ぬ。 伝兵衛の供述(1702年1月)の中に、「彼、伝兵衛が大阪を出版してから今、7年目である」(А как он, Ден...
  • H1786a
    1786年 サポジニコフ、アムチトカ島で座礁 1769年、イヴァン・プロトジャコノフ(イワン・ホロシヒチ・テカノフ, ヤクーツクの商人)、水夫長ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフら39名のロシア人を率いてウルップ島に渡来。 1770~1771年、択捉島アイヌと衝突 1771/9月、プロトジャコノフ、サポジニコフら生き残った18人がカムチャツカに帰着 1786年7月、サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。アムチトカ島に上陸し大黒屋光太夫(H1783a)らと会う。 1787年春、アムチトカ島で船の建造にとりかかる。 1787/07/29、作った船キリル・アレクサンドロスキー号で大黒屋光太夫らとアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウ...
  • H1467a
    朝鮮人、筑前に漂着 1467年(H1467a) 応仁元(1467)年、朝鮮人、筑前に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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