Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1690a」で検索した結果

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  • H1690a
    1690年 朝鮮人死体が、長門阿武郡須佐浦に漂着 元禄3(1690)年、朝鮮人死体2体と船具が、長門阿武郡須佐浦に漂着する。これを長崎に送り、本国に帰す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1694a
    1694年 清国船、中永良部島に漂着 元禄7(1694)年9月、清国船主周宝舎ら109人洋中風に逢い楫を失い檣を斫り漂蕩半月、南海中永良部島に漂着す。 明年、H1694bとともに長崎に送られ帰国する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1694b
    1694年 清国船、甑島に漂着 元禄7(1694)年10月、清国潮州の船主呂寧宮ら105人長崎を発し五島洋中にて暴風に逢い漂流して薩摩甑島に到り破船して9人を失う。明年H1694aと共に之を長崎に送り其国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 年表
    ...阿武郡須佐浦に漂着 H1690a 1692年 薩摩の漂流民、長崎に護送される H1692a 1692年 備前岡山の漁民、朝鮮多太浦に漂着 H1692b 1693年 安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される R1693a 1693年 安南国王、漂流民送還を謝す H1693a 1693年 讃岐の船、浙江定海県に漂着 H1692c 1693年 長門の船、広東陽江県に漂着 H1693b 1694年 清国船、中永良部島に漂着 H1694a 1694年 清国船、甑島に漂着 H1694b 1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 H1695a 1695年 江原道蔚珍県の漁民、出雲神門郡鷺浦に漂着 H1695b 1696年 朝鮮人、蝦夷に漂着 H1696a 1698年 寧波の商王懋功ら、肥前五島多多羅島に漂着 H1698a 1701年 ダンピア、アスンシオン島付近で難破 H1701a 1704...
  • H1190a
    邦人、宋の泰州に漂着 1190年(H1190a) 建久元(1190)年、邦人(姓名人員不詳)宋の泰州に漂着す。宋主常平、米を給して之を賑恤す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1610a
    メキシコ船、東国に漂着 1610年(H1610a) 慶長15(1610)秋、新スペイン国の船(案ずるに今アメリカ州メキシコ国是なり)、東国に漂着す。修繕を加え薪糧を給して、其国に還す。(案ずるに、欧南遣使考に曰く。スペイン国人、風に漂うて、我西陲に抵る舳艫悉く壊る。官命じて繕治し薪糧を給して還らしむ。本文と東西地を異にす。孰れ(いずれ)が是なるか知らず) これも、ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)と酷似。「東国に漂着」はサン・フランシスコ号、「西陲に抵る」はサンタ・アナ号とも読める。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1600a
    ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a) 1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。 1588年、メアリ・ヘンと結婚。 1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。 1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。 1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿) 慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。 (外交...
  • H1695a
    1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 伝兵衛(デンベイ):父は大坂の商人ディアサ。伝兵衛は同じ大坂商人のアワスディヤ(淡路屋?)マタヴィン(又兵衛?)の店に出入りする2人の子を持つ妻帯者。大坂谷町あたりに在住。淡路屋又兵衛の上乗役として乗船した。15人乗船。なお、伝兵衛は日本に帰らなかったため、日本側には一切記録はない。すべてはロシア側の記録である。 1695年8月、ウラジミール・アトラソフ、アナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された 元禄8年11月初め?(1695/12/初め?)、12艘(一説に30艘)の船団で、大阪を出帆し江戸に向かう。難破し帆柱を切り倒したとき、2名が海に落ちて死ぬ。 伝兵衛の供述(1702年1月)の中に、「彼、伝兵衛が大阪を出版してから今、7年目である」(А как он, Ден...
  • H1692c
    1693年 讃岐の船、浙江定海県に漂着 元禄6(1693)年8月、暹羅の船、我讃岐の漂民7名を長崎に送り来る。去年(1692年)、讃岐那賀郡盬飽島の民14人江戸に至り将に帰らんとす駿河田子浦にて風に逢い、漂蕩数月鮫鰐の難を経て是歳(1693年)2月浙江定海県補陀山に到り此に至て帰国す(華夷變態) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1695b
    1695年 江原道蔚珍県の漁民、出雲神門郡鷺浦に漂着 元禄8(1695)年1月、江原道蔚珍県の漁民7名、出雲神門郡鷺浦に漂着する。対馬に命じこれを本国に送る 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1693a
    1693年 安南国王、漂流民送還を謝す 元禄6(1693)年5月、安南国王、書を長崎鎮臺に寄せ前年広南の漂民18人を送還するを謝す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1698a
    1698年 寧波の商王懋功ら、肥前五島多多羅島に漂着 元禄11(1698)年1月、寧波の商王懋功ら6人、肥前五島多多羅島に漂着して破船す。長崎に護送し其船を修復して帰らしむ。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1692b
    1692年 備前岡山の漁民、朝鮮多太浦に漂着 元禄5(1692)年5月、備前岡山の漁民13名、朝鮮多太浦に漂着する。朝鮮これを対馬に送る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1696a
    1696年 朝鮮人、蝦夷に漂着 元禄9(1696)年、朝鮮人、蝦夷に漂着する。松前、これを長崎に送り、対馬に致して本国へ送還する 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1692a
    1692年 薩摩の漂流民、長崎に護送される 元禄5年3月(1692/4~5月)、広東高州府の船頭游伝孚ら、薩摩の漂流民11人を護送し、長崎に来る。是より先、薩摩山川の民、海上風に逢い、漂流して、広東雷州に着し、その救護を得、高州に至り、游伝孚の船に駕し、高州を発し、福州海山に至り、大風に逢って6名を失い、是歳正月再び船を整え、是に至て送致す。(長崎志) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1693b
    1693年 長門の船、広東陽江県に漂着 元禄7(1694)年7月、暹羅宋腒勝の漂船我長門の漂民12人を長崎に送る。即昨年12月洋中風に逢い本年正月広東陽江県に漂到し清人の扶助を受け寧波に送られ補陀山より暹羅の舶に駕し此に至て帰ると云。(長崎志) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1609a
    ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 1609年(H1609a) ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年生まれ。メキシコ生まれのスペイン人。 1595年、サン・フアン・デ・ウルア城塞守備隊長兼市長となる。 1597年、タスコ市長となる。 1599年、ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官となる。 1608年、フィリピン臨時総督として派遣される。 1608年(慶長13年)、家康の使節であるウィリアム・アダムズ(H1600a)と会見。アダムズを通じて家康に親書と贈り物を託し、間もなくスペインとの交易が始まった。 1609年、メキシコへの召還命令を受ける。 1609年7月25日、サン・フランシスコ号でマニラを出帆。日本人ケン同乗。 ケン:蜂須賀家の雑兵として関ケ原の戦いに参戦し、敗残兵として堺へ落ち延びる。のちに、ルソンへの渡航を果たし、水夫の...
  • H1617a
    大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)...
  • H1601a
    ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 1601年(H1601a) 慶長6(1601)年秋、ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着す。乃ち(すなわち)会て、伊豆加茂郡伊東に於いて唐船に擬し造る所の船を与え其国に帰らしむ。 ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)に酷似。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1637a
    米子の漁師、蔚山に漂着 1637年(H1637a) 寛永14(1637)年、米子の村川市兵衛門仕立てで弥三右衛門、與七郎等36人が鬱陵島での漁を終え帰国に向かう途中で漂流し朝鮮の蔚山魴魚津へ漂着した。当時既に漁の対象はアシカに移行していた。 弥三右衛門等は3月鬱陵島に行き、6月末本国へ向う途中遭難し蔚山に漂着した。 8月、対馬藩に引き渡される。 大谷家と隔年で鬱陵島へ出漁した村川家は「家譜」によると始祖は尾張の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斎である。正斎はある事件で1581(天正9)年切腹している。その子正員は母に従って米子に来住、母の実家が村川姓だったので彼は村川甚兵衛正員と名乗った。正員から3代目が市兵衛正純で大屋甚吉(H1617a)と懇意で共に町年寄であったという。その市兵衛正純が家督を市兵衛正清に譲るのは1656(明暦2)年とされるから村川市兵衛船の朝鮮への...
  • H1616a
    美保の漁師、朝鮮に漂着 1616年(H1616a) 元和2(1616)年、雲州三保関ノ人七名竹島ニ至リ漁猟シ風ニ逢ヒ朝鮮ニ 漂着ス。朝鮮礼曹参議書ヲ宋(宗)氏ニ与テ之ヲ護送ス(竹島紀事)。漂着地は江原道平海と推察されている。 帰還は元和4(1618)年。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1634a
    慶尚道の漁民の石見に漂着 1634年(H1634a) 寛永11(1634)年10月、慶尚道の4人の漁民の石見に漂着(朝鮮側資料では1635年)。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1666b
    隠岐の漁民、江原道三陟に漂着 1666年 寛文6年7月12日(1666/8/12)、隠岐の漁民1名、江原道三陟にこの日漂着。H1666aと一緒に送還される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1602a
    ポルトガル船、土佐に漂着 1602年(H1602a) 慶長7(1602)年秋、ポルトガルの船1隻、土佐に漂着す。国主山内一豊をして之を守らしむ。既にポルトガル船大砲を発し逃れ去る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611b
    薩摩の商船、媽港に漂着 1611年(H1611b) 慶長16(1611)年、薩摩の商船安南に赴かんとし洋中風に逢い、漂流して媽港に至る。媽港は葡萄牙人のの居留地なり。葡人為に舟楫を理す。 慶長17(1612)年7月、之を肥前五島に送る。島津義久、書を贈て之を謝す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1605a
    有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される 1605年(H1605a) 慶長10(1605)年、肥前高来城主、有馬晴信、人を遣わし、交趾に通せんとす。風に逢うて媽港に漂着し、舟楫を整理するの際、土人と争闘し遂に為に悉く殺さる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1643b
    ポルトガル人、筑前大島に漂着 1643年(H1643b) 寛永20(1643)年5月、ポルトガル人8名、筑前大島に漂着す。之を検するに耶蘇教の徒なり。「ショセイフカウロ」なる者あり。後、我邦、俗に化し改名して岡本三右衛門と称す。小日向の邸に居り天寿を以て終る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1615a
    カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間(H1615a) 元和中(歳月未詳)、柬埔寨国 (カンボジア)の舟、筑後柳川に漂着す。藩主、田中吉政、其の臣、三宅弥治左衛門に命じ、送って其の国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1637b
    ポルトガル船、琉球に漂着 1637年(H1637b) 寛永14(1637)年8月、ポルトガル船1隻、バテレン6人、琉球に漂着す。在番の薩摩士人捕えて長崎に送る。鎮台之を検して其宗教を弘めんとするを知り之を獄に下す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611a
    ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる 1611年(H1611a) イギリスの海洋探検家ヘンリー・ハドソン|Henry Hudson(生年不詳)は、1607年から 4回にわたり北アメリカ東岸を北上した。最初はバレンツ海を北緯 80°23′まで進んだ。 1609年の第3回にはハドソン川をさかのぼり,河口から 240kmの地点のオルバニーに至る。探検を委託したオランダ東インド会社がその河口に植民地を建設したのが今日のニューヨーク市である。 1610年、イギリス商人の依頼で最後の航海に出て,初めてハドソン海峡を通過,ハドソン湾を発見。 1611年、ハドソン湾で越冬後,部下に置去りにされて行方不明となった。
  • H1643a
    オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けて...
  • H1710a
    1710年 サニマ(日本人)、カムチャツカに漂着 宝永6年11月(?)(1709/12月)、サニマ、日本を離れる。紀州出身説もあるが、東北地方南部の出身説も。 1710年4月(?)、サニマ、カムチャツカの太平洋岸、ペテロパウロフスクの北方のカリギル湾ボブロヴォエ海岸に漂着。10人の仲間とともに上陸するが、カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕虜になる。間もなく、カムチャダール人とロシアのコサック兵との戦闘が起こり、その戦闘でさらに日本人2名が死に、残るサマニら4名がロシア人の捕虜となる。ロシア人はサマニらをカムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行き、代官のピョートル・チリコフに引き渡した。 ピョートル・チリコフに引き渡された4名の日本人は、1708年にカムチャツカに漂着した別の日本人(H1708a)で、サマニらは4人がカムチャダール人に殺され、6人がコサックの...
  • O1790a
    1790年 ラジシチェフ、シベリアに流刑 1749年、ラジシチェフ|Aleksandr Nikolaevich Radishchev(ラジーシチェフとも表記)、モスクワの貴族の家に生まれる。 1766年、ドイツのライプチヒ大学に留学(~1771)。 1771年、帰国して元老院に勤務。 1773年、軍法会議の法務官に転じた。 1777年、商務省に勤務。 1780年、ペテルブルグ税関の副長。 1783年、頌詩 (しようし)《自由》 を著す。ロシア最初の革命詩。 1788年、自伝的小説《 F.V.ウシャコーフの生涯》を著す。 1790年5月、奴制を激しく批判した「ペテルブルグからモスクワへの旅」を自宅の印刷所で印刷,出版したが,ただちに発禁となり,彼も逮捕され,死刑を宣告された。「ペテルブルグからモスクワへの旅」は、一旅行者の手記の形で,農奴制下の農民の...
  • H1669a
    阿波国勘左衛門船、無人島に漂着 1669年 寛文9年閏10月28日(1669/12/21)、阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門、水主の安兵衛、彦之丞、三右衛門等を雇い、11反帆船で浅川浦を出帆。 寛文9年11月初旬(1669/12/下旬)、宮崎に着き、同地の藤代長左衛門の蜜柑を積み入れ、運賃銀830目で江戸に廻漕すべき約を定める。 寛文9年11月15日(1670/01/06)、勘左衛門、長左衛門共々都合7人(?)乗り組み宮崎を出帆。宮崎を出帆して7、8日を経て伊勢国阿濃津に着船し、12、3日日和をまつ。 寛文9年12月6日(1670/01/27)、早天に阿濃津を出帆するが、内海をでたところで暴風にあい漂流する 寛文9年12月28日(1670/02/18)、糧米をすべて食べつくす。のちは蜜柑を食べて食いつなぐ 寛文10年1月中旬(1670/03/上旬)、風が東北に変わる 寛文10年1...
  • R1693a
    1693年 安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される 元禄6年3月17日(1693/04/11)、大谷家の船が鬱陵島へ上陸すると、再び大勢の朝鮮人がアワビを採る姿に遭遇した。話を聞こうと思ったが言葉が通じず、別の浦へ船を回すとそこにも10人ほどの朝鮮人がいた。なかに日本語を話す者がおり、もう一人の朝鮮人とともに船に乗せ、事情を聞きだした。男の話によると、「自分の名前はアヒチャンでもう一人はトラヘ」とのこと。「官命によってアワビ採りに出たが、昨年、この島に漂着したものがたくさんのアワビやコンブを持ち帰ったことから、鬱陵島へやってきた」と来島の経緯を語った。大谷家の船頭たちは2人をそのまま米子へ連れ帰る。 元禄6年4月20日(1693/05/13)、隠岐島福浦へ到着。隠岐島在番の松江藩役人によって2人への尋問が行われた。朝鮮側の記録では安龍福は「朝鮮人が自分の領土に入っただけなの...
  • H1680a
    1680年 バタン船、日向に漂着 延宝8年5月17日(1680/06/13)、日向国(宮崎県)の伊東出雲守領の沖へ異国船が1隻漂着。バタンの漁船で、出発時25人乗り込み、長さ10m、幅3m。出発直後に難船し、琉球に1度上陸。琉球で2人死亡。その後また難船し、日向国に漂着した。漂着後5人死亡し、残りは18人となる。 延宝8年6月17日(1680/07/12)、長崎奉行のもとへ送られる。十善寺御薬園所に召し置かれ、御薬種苗手入れ役をしている水野小左衛門にお預けになる。ここで、12人死に、6人となる。 延宝8年9月(1680/11月ごろ)、オランダ船に引渡し、バタンへの送還を依頼した。オランダ船は、バタビヤまで連れて行って、生活の手段を与え、便船があるときにバタンへ送ることになる。6人ともバタビヤで結婚し、1人は左官になり、残りは鍛冶屋手伝いになる。 参考文献 荒川秀俊,...
  • H1644a
    越前国の廻船、韃靼に漂流 1644年(H1644a) 竹内藤右衛門(越前国三国浦新保町の船頭) 、竹内藤蔵(竹内藤右衛門倅)、国田兵右衛門ら総勢58人で3隻の船に分乗して、寛永21年4月1日(1644/05/07)、越前三国浦を船出。能登舳倉島着、15日ほど日和待ち。それより佐渡着。20日余り日和待ち。 (寛永21年4月29日(1644/06/04)、李自成が北京を退去する。このとき、北京に火を放つ。) (寛永21年5月2日(1644/06/06)、睿親王ドルゴン、満軍を率いて北京に入城する。) 寛永21年5月10日(1644/06/14)、佐渡出帆。その夜から大風に遭い漂流。 寛永21年6月1日(1644/07/14)ごろ、日本海北岸の無人境(第一漂着地)に漂着す。爾来10日余りこの地に滞留し、船底および船具の破損を修理す。 寛永21年6月15日(1644/07/...
  • H1460a
    朝鮮人、豊後に漂着 1460年(H1460a) 寛正元(1460)年、朝鮮人、豊後に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1270a
    日本船(?)がマウイ島に漂着 1270年(H1270a) 1270年、マウイ島のカフルイに船が漂着。日本船か?男3人女2人乗船 参考文献 松島駿二郎, 1999. 鎖国をはみ出た漂流者―その足跡を追う. 筑摩書房.
  • H1060a
    高麗の漂流民4人を送還(H1060a) 康平3(1060)年7月、対馬に命じて高麗の漂流民禮成ら4人を送還する。 漂着時期不詳。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1200a
    邦人、宋の平江に漂着 1200年(H1200a) 正治2(1200)年、邦人(姓名人員不詳)、宋の平江に漂着す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 荒川秀俊, 1962
    荒川秀俊, 1962. 異国漂流記集. 吉川弘文館. 異国物語 H1644a 尾張国知多郡大野村孫左衛門船漂流帰国之事 H1677a 漂人談話 H1712a 浙江漂流帰帆 H1752c 宝暦7年丑9月志州鳥羽浦船頭漂流一件 H1757a 異国漂流人之次第 H1764a 異国江漂流仕候陸奥国の者4人口書 H1793a 能州羽咋郡塵浜村清兵衛異国漂流口書写 H1830b 呂宋国漂流記 H1841c 漂客談奇 H1841a 漂流奇談 H1841a 栄寿丸漂流口書 H1841b 漂流記 H1850a 無人嶋ヨリ帰国之者御調書上留 H1719a, H1739a, H1785a 無人嶋漂流記 H1785a
  • H1570a
    ポルトガル船1隻、肥前に漂着、長崎を視察 1570年(H1570a) 元亀元(1570)年、ポルトガル船1隻、肥前に漂着す。長崎の地勢、湾環港内深奥なるを以て、互市場と定め明年を約し去る。(外交志稿) 元亀2(1571)年、大村純忠、長崎を開港し、マカオから定期船が来るようになる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1728a
    1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) 享保13年11月上旬(1728/12月上旬)、17人の日本人を乗せた御用船「若潮丸」が薩摩から大坂に向けて出帆。積荷は大坂の薩摩屋敷への御用米のほか紙・絹織物・紫檀など。 ゴンザ 若潮丸の楫取の子で、出帆時10歳(一説11歳)の少年。水主見習の炊役。 ソウザ 商人の子。父の死後跡を継ぐ。出帆時35歳(1693年生まれ)。上乗役。 ほか15名乗船 享保13年11月8日(1728/12/08)、嵐に遭遇 8日間も悪天候の中、風波にもまれる。 享保14年6月7日(1729/07/02)、6ヶ月と8日の漂流の末、カムチャツカ半島の南端ロパトカ岬付近の東海岸に漂着。一行は小船で上陸して仮小屋で過ごしたが、そのうち親船は嵐のため流出してしまう。 1729/07/05頃、コサック50人長アンドレイ・シュティン...
  • H1667a
    尾張孫左衛門船、馬丹島に漂流 1667年 寛文7年9月(1667/10月か11月)、尾張国知多郡大野村の商人孫左衛門、15人乗りの船に材木を積んで江戸に送る。 寛文7年10月中旬(1667/11月末~12月始め)、江戸着。 寛文7年10月下旬(1667/12月前半)、尾張大納言の品物をはじめ、千賀志摩守、同与八郎の荷物を積み、飯米2石ほど積み込んで、江戸を出船。 寛文7年11月4日(1667/12/18)、下田を出て、三河国沖合いまできたとき、西風が強くなり、尾張国に寄せることができず。11月5日(1667/12/19)、大王崎のあたりで西風がますます強くなり、東へ流される。11月8日(1667/12/22)朝、帆柱を切り捨てる。11月14日(1667/12/28)晩、風が変わる。11月15日(1667/12/29)、帆げたを帆柱にし帆走。西に向かう? 寛文7年...
  • 石井研堂. 1892
    石井研堂. 1892. 日本漂流譚 1. 学齢館. 越前の人韃靼に漂流し、明韓を経て故郷に帰る H1644a 阿紀の人無人島に漂流し、一板に縁りて故郷に帰る H1669a 尾張の人馬丹嶋に漂流し、土人を欺きて故郷に帰る H1677a 志摩の人、台湾島に漂流し、清国船に因りて故郷に帰る H1757a 筑前の人保爾尼に漂流し、万死を出でて故郷に帰る H1764a
  • O1160a
    源希義、土佐へ流される(O1160a) 1160年、義朝の弟源希義(みなもとまれよし)、平家のために駿河国(静岡県)でとらえられ土佐へ流される。希義は土佐の長岡郡介良荘(介良村)に住んだので介良冠者(けらのかんじゃ、または土佐冠者)といわれた。 治承4(1180)年、源頼朝は東国に兵をあげたが、平家は希義が頼朝に呼応することに不安をいだき、蓮池家綱(はすいけいえつな)、平田俊遠(ひらたとしお)に命じて希義を討たせた。 参考文献 山本大, 1969, 高知県の歴史. 山川出版社.
  • H1644b
    天草耶蘇教の徒、漂流に託して朝鮮に逃れる 1645年 正保元(1645)年、天草耶蘇教の徒、漂流に託して朝鮮に逃れるとの情報があったため、宗義成に命じ、朝鮮に報じて窮捕させる。 正保元年は寛永21年12月16日に改元された。一般に寛永21年は1644年であるが、正保元年12月16日は、グレゴリオ暦に直すと、1645年1月13日となるため、厳密にいえば、正保元年はグレゴリオ暦の1645年に完全に含まれることとなる。「外交志稿」がそこまで厳密なのかどうかという問題もあるが、ここでは、正保元年は1645年であるとした。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1269a
    高麗済州の漂流民を送還 1269年(H1269a) 文永6(1269)年5月、高麗済州の漂流民を送還する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1653a
    オランダ船、朝鮮全羅道に漂着 1653年 承応2(1653)年、オランダ船発航して長崎に至らんとす。風に逢うて覆溺し28人を失い36人朝鮮全羅道に漂着する。 寛文6(1666)年、オランダ人8名、肥前五島に漂着す。藩主之を長崎に送る。(上記の36人のうちの8名。朝鮮から逃れてきた)8名余は皆彼地に在り。使を遣わし事由を糺し其人を請い併せて之を本国に還す 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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