影の王国
題名:影の王国
原題:Kingdom of Shadows (2000)
作者:
アラン・ファースト Alan Furst
訳者:黒原敏行
発行:講談社文庫 2005.8.15 初版
価格:\800
ハンガリアンであるアガタ・クリストフの『
悪童日記』がフランスでフランス語によって書かれ、これが日本で出版されたときの衝撃は、少なくともぼくの周辺では凄まじいものがあったように記憶している。
ナチスに国民を売った国という題材で作られた映画にしてはあまりにも静寂の目立つひたすら生真面目な作品『ハンガリアン』を見たのは、完成後まだ間もない頃のシネマスクエアとうきゅうだったろうか。
そうしたハンガリーという国に課せられた第二世界大戦前夜の宿命は、ハンガリー国民にとってあまりにも重苦しく、ヨーロッパ各国に散って(避難して)、ドイツ軍とヨーロッパの成り行きを見守る人間たちはその内的懊悩を無言の中で行動によって世に解き放っていったのかもしれない。
この書は、2000年度のハメット賞受賞作品であり、『
ミスティック・リバー』や『サイレント・ジョー』を抑えての受賞が凄いのだと版元はアピールする。だが、それらミステリーという殻を破って、文学の領域にまで踏み込んでいるかに見える、それでいて風変わりな視点に基づくスパイ小説であるという事柄が、どこか出版界の持つ価値観とは全然マッチせず、その辺りが作品の持つ自立性という観点から言えば、非常に面白い感じがする。
作者はハンガリー系アメリカ人であり、英語で書かれたヨーロッパ小説という空気そのものが、先に挙げた
アゴタ・クリストフのイメージを呼び覚ます。母国語ではない言語で故国の物語を紡いでゆく作家。
物語は、パリ在住の優雅な暮らしを満喫する独りの青年を中心に回転するが、彼の叔父がスパイマスターであるゆえに、ちょっとした仕事を依頼される。この本は、その使命ひとつひとつが連作短編集のように纏め上げられ、それでいてそれぞれが連関し、最後にはひとつの長編小説のような趣を持つ、いくぶん意表を突いた構成で組み上げられたものである。
ナチスの攻撃を受け始めようとしているチェコスロバキアへの危険な旅。スパイ同士の暗闘が展開されるブダペストへの旅。
殺し屋の移送。ハンガリー秘密警察とパリ市警の癒着。ヒットラーに魂を売り渡した男たちと、反ナチの地下活動。どれもが第二次大戦を予感させる暗雲の下で繰り広げられてゆくのだが、リリカルでシックな文章が、主人公モラート・ミクローシュの内面を描き、非常に輻輳した、奥行きのある作品となっている。
驚くほどに素っ気なく、呆れるほどに調査の行き届いた、それでいて唯一無二の個性を持った本物の小説が、こんなところに転がっていた。作者は何篇も同様の作品を書いているらしい。ハメット賞を受賞していなければ、この優れた作品にぼくらが出会うことはなかっただろう。
今ではすっかり懐かしくなってしまった
ポール・アードマンの『
暗号名スイス・アカウント』を娯しく読めた読者には、是非ともセットで読み比べて頂きたい。この時代がいくらでも小説になるのは、人間が世界から最後の選択を迫られ命を賭さねばならなかったからかもしれない。そんな狭間の闇に幾多ものミクローシュのような存在が、戦までの間のわずかな時間をひとしきり駆け抜けてみせたからなのかもしれないのだ。
(2005.05.29)
最終更新:2007年07月15日 16:26