カメレオンの影




題名:カメレオンの影
原題:The Chameleon's Shadow (2007)
作者:ミネット・ウォルターズ Minette Walters
訳者:成川裕子
発行:創元推理文庫 2020.04.10 初版
価格:¥1,400


 実に5年ぶりのお目見えとなる作品。値段の割に邦訳が遅いのが気になる。この作家を思い出すのに、以下の前作『悪魔の羽』についての我がレビューを少し振り返りたい。

(以下前作レビュー)
{ 中編集『養鶏場の殺人・火口箱』を読んでから、少しこの作家への見方がぼくの方で変わった。≪新ミステリの女王≫と誰が呼んでいるのか知らないが、この女流作家はミステリの女王という王道をゆく作家ではなく、むしろ多彩な変化球で打者ならぬ読者を幻惑してくるタイプの語り部であるように思う。

 事件そのものは『遮断地区』でも特に強く感じられるのだが、時代性と社会性を背景にした骨太のものながら、庶民的な個の感情をベースに人間ドラマをひねり出し、心理の深層を描くことにおいて特に叙述力に秀でた作家なのだと思う。}
(以上)

 本書はイラクの戦場の砂塵のうちにスタートする。いきなりの爆破。本作ヒーロー、アクランド中尉の顔の左半分が、左目と共に失われる。ハンサムな若者は異形の帰還兵となって世界からスポイルアウトされる。そして連続殺人事件の容疑者としてマークされる。

 アクランド中尉の個性、あるいは負傷によって変容してしまったかもしれない個性、が何よりも本書の読みどころであった気がする。何しろ、事件の捜査が動的に移ろいゆく中で、負傷兵としての、あるいは戦場の英雄としての彼は、さらに移ろいやすい存在であるかに見える。しかしむしろ真逆の頑迷さと不変性に鎧われた迷いなき強靭な意志の持ち主のようにも。

 禁欲的で、口数が少なく、時に発作に見舞われる後遺症持ちの戦場帰り。こういうキャラクターをミステリの中心に据えて、彼に寄り添うのが、アーノルド・シュワルツェネッガーのような恰好をした巨体の女医師ジャクソン。捜査の中心となる冷徹なベテラン警視ジョーンズ。それぞれにキャラの立った個性的で存在感溢れるバイプレーヤーたち。

 さらにロンドンの犯罪の温床みたいな暗闇に蠢く、薬中、ホームレス、男娼、そして謎に満ちた孤独な被害者たち。暴力と犯罪の匂いに満ちた街を、アクランド中尉とその周囲を回遊する人間たちの目くるめく深夜。中尉の元彼女はユナ・サーマン似のコケティッシュな美女として、アクランド中尉とのどうにも掴みにくい距離感を往還する。

 迷宮のようにしか見えない国家と個人との隘路を辿る捜査の背景に見えてくる病的な社会と時代を、名手ミネット・ウォルターズはまたしても不思議なメスさばきで、解体してみせる。物語にオフビートなリズムを交えながら、あくまで個性的な物語を紡ぐ作者のペンの切れ味にただただ酔うばかりの一作である。

(2020.04.24)
最終更新:2020年04月24日 17:28