ざわめく傷痕




題名:ざわめく傷痕
原題:Kisscut (2002)
著者:カリン・スローター Karin Slaughter
訳者:田辺千幸
発行:パーカーBOOKS 2020.12.20 初版
価格:¥1,360


 本書はグラント郡シリーズ『開かれた瞳孔』に続く第二作である。現在の人気シリーズであり今も続くウィル・トレントのシリーズに、三作目から登場しレギュラーとなっている医師サラ・リントンの過去の、それも二十年前ほども前の過去シリーズなのである。このグラント郡シリーズは、第一作『開かれた瞳孔』が先年改めて再登場したということで、過去シリーズも改めて翻訳されるようになった珍しい運命を持つシリーズなのである。

 年間、二、三作品の勢いで、過去作と新しい作品が邦訳出版されている海外作家は、あまり思い当たらない。翻訳作品は、売れる見込みがなければ打ち切られることの多い現在、一作限りで過去に打ち切られたこのグラント郡シリーズが改めて見直され、商品価値を上げ、こうして市場に再登場、二作目以降も新訳されて新たにお目見えするとは、甚だ頼もしい限り。

 他社が打ち切ったシリーズの翻訳権を、新たに入手しては邦訳し、文庫化してくれるハーパー・コリンズ・ジャパンという世界レベルの出版社の日本進出は幸運であった。価格も既存の出版社に比べ非常にリーズナブルである。心強い限り。

 さてニ十年近く前の本書、サラ・リントンとその妹、そして前夫であるジェフリー・トリヴァーのアメリカ南部トレント郡という、アメリカの片田舎を思わせるローカルな場所で展開される、見た目には地味めの事件、ある少年に銃口を向けて引き金を絞ろうとしている少女を、ジェフリーがやむを得ず撃つ、というシーンで幕を開ける。

 なのでミステリー要素は、フーダニットではなく、むしろホワイダニットに近いミステリー。しかし少女の亡骸には悲劇的な忌むべき傷痕が残されていた。ショッキングな導入部である。

 本書はミステリーであると同時に、サラ・リントンや、被害者(or加害者)少年少女など、それぞれの家庭環境を描くシリアスなホームドラマであるかにも見える。いくつもの家族の物語であるかに。

 同時に、前作でサイコパスに囚われの身となり、過酷な運命を強いられた女刑事レナ・アダムスは、本書では再生の物語を歩まねばならない。己れを取り戻すために傷だらけの道を歩みつつ、育ての親であもる叔父ハンクとの疑似父娘愛ともいうべき愛情を、苦しすぎる葛藤と共に徐々に取り戻してゆかねばならないゆれに、レナは本書ではもう一人の主人公なのだ。

 壊れてしまうものと、繋がり続けるもの。それらのありさまを、家族というかたちで様々になぞらえて、苦しみ・信頼・裏切りといった過酷な渦に投げ込んでみると、こんなにも冷たく残酷、あるいは熱く苦しい、様々な人間模様ができるのだ、と提示されてみたかのような、見た目は地味でありながら相当な力作なのである。

 冒頭で撃たれ死んだ少女が辿った悲惨な家族環境や、レナ・アダムスを襲った過酷な事件からの苦しすぎる再生、別れた夫婦であるサラ&ジェフリーの今も続くデリケートな距離感と迷い。見えない未来。おぼろげ過ぎる希望。そして壊れた家族がもたらす、あまりにも残酷な、見えざる犯罪への彼らの怒り。

 家族という不透明な防壁を破壊し、白日の下に曝け出す。そんな地道で辛抱強い捜査の中での人と人のぶつかり合いを、いつも通り描き切るスローター節。ミステリーというだけでは収まらない、人間たち葛藤のぶつけ合いが本領発揮される本書。人間はここまで獣になれるのか、という残酷なまでの真相に唖然とさせられる作品。それでいてなぜかページをめくる手が止まらない。作者の怒りの叫びのような血まみれの作品。さすがの迫力、一流の語り口である。

(2021.5.21)
最終更新:2021年05月30日 11:33