たゆたえども沈まず





題名:たゆたえども沈まず
著者:原田マハ
発行:幻冬舎文庫 2021/9/10 7刷 2017 初版 
価格:¥750



    • おれはアルルへ行く。そこに、おれの「日本」があるんだ。

 原田マハの描くゴッホと言えば、2021年、『リボルバー』を読んでいたのだが、もう一作、別のゴッホ作品があったことを本書で知ることになった。『リボルバー』は、画家で言えばゴッホとゴーギャンの二人に焦点を当てていたのだが、本作はゴッホを主題とした単独作品である。

 ちなみに本作中にもリボルバーという銃器は登場する。この頃に後作のアイディアが既にあったのか、孵化したばかりだったのかは不明だが。

 本作の目線に浮上するのは、ゴッホだけではない。実は当時知られざる日本の、知られざる美術である浮世絵が、世界的に評価をされ始めた時代でもあり、本書では、日本美術を世界評価に繋げる動きに貢献した人物として、パリの実在の美術商・林忠正が描かれる。

 作者の創造した愛すべきキャラクター加納重吉が、林忠正の影響を受けパリにゆき経験してゆく物語が一つの縦軸であり、もう一方の縦軸は、テオを中心とした物語として、不遇な兄であるファン・ゴッホとの深い兄弟の絆を描く。本作で最も心が許されるのはテオの兄へのあまりに献身的な人生であるかもしれない。

 重吉とテオの物語は時々交錯しつつ、パリの美術界と、その歴史的推移となるエポックとしての日本画・また新しい印象派の画家たちの登場による美術界の価値変革が、セーヌの流れの如く雄大に描かれてゆく。

 後半になり、『リボルバー』と重なる時期が描かれる。アルルに画作の新天地を見出したファン・ゴッホと、彼の狂気にも似た耳切り事件が描かれる。

 ゴーギャンとの共同生活。その後の耳切り事件。ゴッホは、孤独とニヒリズムを抱えながら、熱情を絵筆に変え作品を作り出してゆく。彼の生きている間には認められることのなかった強烈な個性と才能をカンヴァスに叩きつけてゆく。それをパリから見守り、無心に援助する弟テオの愛情が、とにかく心に痛い。物語でありながら現実に即した事実でもあるからこそ、なお。

 ぼくはパリのセーヌ河畔やアルルの跳ね橋の辺りなどを、この物語で語られた歴史的事実を事前によく知らぬまま、旅情ばかりを胸に抱いて訪れたことがある。折々のガイドによる説明を聞きながら、片耳のないゴッホの胸像を見つめた。真に生きた人間ゴッホ、またその弟テオの物語として、そのとき眼にしたものが今、蘇る。

 本書はパリという町やセーヌ河畔の活気を美しく描きながらも、恵まれぬゴッホの生涯と狂気を、また恵まれ過ぎたかもしれない弟テオとの兄弟愛とを描きつつ、世界の美術が大きな転換点を迎える時代、評価され始めた日本美術の存在などをぐいぐいと読ませる力作である。

 原田マハという稀有な作家の<読ませる力>は、凄い。日本作家でありながら世界を駆けるスケールの大きな物語を、元キュレイターという作家自身の体験と歴史的事実の上に積み上げて読ませる作品力が、何とも頼もしく感じられる一作であった。

(2022.10.05)
最終更新:2022年10月05日 21:55