この密やかな森の奥で



題名:この密やかな森の奥で
原題:These Silent Woods (2021)
著者:キミ・カニンガム・グラント Kimi Cunningham Grant
訳者:山崎美紀
発行:二見文庫 2023.11.20 初版
価格:¥1,300


 本書は、わけあって森で隠遁生活を送っている父と娘の物語。前半はほぼ森の生活の描写に費やすが、父と七歳になろうとする幼い娘との森の中の隠遁生活はメルヘンのようだ。不思議な独り暮らしをする森の隣人以外、誰もいない世界で父は娘を育てている。

 それにはもちろんわけがあって、主人公は特殊部隊の兵士という過去を持ちその経験は誰にも言えない。当時の部隊仲間だった友人ジェイクだけが年に一度膨大な食糧や生活必需品を携えて彼らのキャビンを訪れる以外、人に会うことはない。7歳になろうとする娘の生きるパワーと父娘の愛情、そして森という生命に満ちた舞台そのものが作品の前半を組み立てるが、ミステリー的要素はさほど感じないまま、ただただ不穏な父の胸の内が明かされぬまま、美しくも孤絶した日々が過ぎてゆく。

 主人公である父の独白で続く本書は、時に過去を振り返る。中東の戦争に特殊部隊チームとして加わってきたこと。その悲惨な結末から帰国してきた地で巡り合った女性との恋。未婚のうちに娘が生まれ結婚を予定していた時に妻にならぬまま失われてしまった女性の命。残された娘とその定まらぬ定めへの反抗から、犯罪行為を起こしてまで連れ去ってしまう父親。彼と娘が選択したのは戦友の持つ森の中のキャビンとそこでの隠れた生活だけだった。

 以上のアイディアと徐々に証されるその真相がまた凄いのだが、この森の生活という静かな日々にある事件が持ち込まれるところから父子の生活が壊れてゆく雪崩のような後半部が凄い。彼らの生活に紛れ込んできた写真好きな少女と、森に育った娘が出会ったことから父と子の秘密の生活は崩れてゆく。ゆったりとした森の日々を描く前半部のたゆたいのようなリズムから一転して、後半部は一気読みに近い形で最後まで読み切れてしまう。波濤のような心と状況の変化に、父と娘は運命の翻弄に身を任すことを余儀なくされる。

 どっちに転ぶのかというスリリングでデリケートなプロットももちろんだが、それに至る前半の仕掛けも素晴らしい。さらに仕掛けは仕掛けとしてそれを上回ってゆく父と子の葛藤とあまりに深い愛情や心の繋がりがたまらない。なるほど『ザリガニの鳴くところ』のイメージ。ネイチャー派の作品としての共通項はあるかもしれない。少女小説という意味でもどこか。ただ、先述したように、父の独白文体やそこで使われる<おれ>という一人称からも暴力に携わってきた過去を持つ危険な印象を持つので、どこでそれらが爆発するのだろうかという導火線的意味合いを感じさせる点は『ザリガニ……』に比べると取り扱い注意であるぴりぴりした雰囲気が強いと思う。

 しかしクライマックスで見せる父、子、さらに意外な人物の意外な決断という読者をいい意味で裏切ってゆくエネルギッシュなエンディングは冒険小説読者であるぼくのような人間にはある意味、見どころである。しかし、何よりもそこまで引っ張ってゆく丁寧で美しい文章によって綴られた作品密度が素晴らしい一冊であるとも言える。予想のつかない作品であり、予想のつかない感動が最後に待っていることを請け合いたい。

 最後の最後の章のみ一人称の書き手が変わる。大切な転換点と言えるので、ページ飛ばしの先読みは絶対に厳禁。そして読後の感慨は、作者のあまりに豊か過ぎるサービス・ページでさらに増幅するということを約束します。

(2024.02.03)
最終更新:2024年02月03日 17:37