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動く標的



題名:動く標的
原題:The Moving Target (1949)
作者:ロス・マクドナルド Ross Macdnald
訳者:田口俊樹訳
発行:創元推理文庫 2018.3.23 初版 2023.2.10 再版
価格:¥1,000


 生まれる前に出版された小説を読むということは、最近ではなかなかない。本書を読み始めるに当たっては、その意味でいつもと少し異なる緊張感を覚えていた。

 この一作前に読んだ『凶悪の浜』は、自分の誕生年である1956年に米国で原作が出版された作品である。日本人ロス・マク・ファンは、だいぶの時差の後に生まれていったに違いない。いずれにせよ古典に類する作品の代表的探偵リュー・アーチャー。そのシリーズ第一作を、田口俊樹訳という理由だけで手に取ったのが、ぼく自身の今回の読書機会となった。

 読み終えて思ったのは、何よりも作品に古さを感じないということである。未だ一般家庭にテレビも電話も普及していない時代(アメリカはどうなのだろう、少なくとも敗戦国日本の一般家庭では、そんな余裕はどこにもなかったろう)なのだが、本書の背景にあるのは、富裕層に群がる欲望と犯罪、そこに集中し群がる悪党ども、そして我らが正義の探偵リュー・アーチャーというわけだ。

 ぼくはポール・ニューマンが探偵役を演じる映画を学生時代に劇場で一本観ている。それは『新・動く標的』で『動く標的』に続くポール・ニューマン主演の探偵アクション映画である。副題では『ハーパー探偵シリーズ』とあったが、今思えば映画版『新・動く標的』の原作は『死のプール』であり本書ではない。しかも映画はロス・マクのリュー・アーチャー探偵シリーズを基に作られた作品ということであり、ぼく自身は原作を知らぬまま、ポール・ニューマンの演技を純粋に愉しんだという、それはそれで鮮烈な記憶だけが今も印象的に残っている。あの映画の原作がロス・マクドナルドの小説『死のプール』であり、原作の探偵リュー・アーチャーの名は映画ではハーパーとなっているということは知っていたものの、原作についぞ触れることなくそのまま半世紀が過ぎ去ったという次第。

 20歳前後で観た映画の、原作になったわけではない本来の『動く標的』を70歳になった現在、改めて読むという経緯に今回は相成る。映画版ポール・ニューマンの『動く標的』の方は、どこかの時点で観ているのかもしれないが、記憶に残ってはいないので、今回、小説を読むにあたってのデジャブも支障もなかった。いささか前段が長くなったが、本書はぼくが生まれる7年前、アメリカ本国で出版された1949年作品である。

 本書はハードボイルドの先駆的作品の一つであり、驚いたことに今読んで何ら古さを感じることはない。終戦後さして年月が経っていないのだが、戦勝国アメリカの私立探偵は自家用車を乗りこなし、バーで酒を飲みつつ、豪邸に住む人々やホテル住まいの美女らとの交流の中で事件の真相を探ってゆく、というやたら余裕のある存在である。敗戦国の元兵士であった今は亡きぼくの父親が読んだら、直ちに本をぶん投げそうな米国人生活の余裕っぷりである。

 行方不明の富豪と担当弁護士。富豪の子女と、先妻・後妻などを交えた複雑な人間関係を背景に発生した誘拐事件が、探偵の眼に(無論、読者にも)迷路の厄介さを示すが、そのさなかで(今なら普通に活躍してくれる携帯電話もインターネットもない戦後間もない繁栄のなかで)人間同士の接触と会話のみにて捜査を繰り広げる世界だけが奥行きの深さを見せてゆく。

 しかし今、この作品を読んでみてもいささかも古さは感じさせない。これぞハードボイルド小説の神髄と思われるところである。探偵と周囲の人間たちとの駆け引き、そして交わされる互いの騙し合いを通して感じられるのが、アメリカン・ジョークをも含めもった会話のセンスであり、西海岸という舞台で車を駆使した探偵の行動力と金銭面での豊かさなどの所以であろう。

 日本でここまで洒落て洗練されたハードボイルドの出現は、大藪晴彦を待たねばならず、それもだいぶ出遅れてのことである。敗戦国の日本には、本書の作中人物たちのようには金も余裕も時間もなかったことだろう。そんな羨望すら感じながら戦後アメリカの豊かさと、そこに蛆のように湧いてゆく欲や傲慢という名の悪意に、読者はスリリングな思いをしながら、リュー・アーチャーの個性的な動きやセリフに感嘆して過ごすという時間を与えられることになる。

 端的にページ数をまとめつつ、登場人物たちの個性や内容を犠牲にしないばかりか、場面場面では恐ろしいほどの洒落っ気を見せてくれたりする本書。このような、生まれる前の古い小説の良さを改めて愉しみつつ、懐かしくすら感じられるセピア色の時間を、ページとともに十二分に楽しみ、満足感とともに閉じた一作であった。田口様、もっとロス・マクを翻訳して頂けませんでしょうか?

(2026.10.17)
最終更新:2026年10月18日 16:14