ある編纂者の主観的考察/生命の根幹
おや、見ない顔だな。お前さん、新入りかね?
……ほほぅ。成る程そうか、お前さんが件の。同僚から話は聞いてたよ。
ようこそ、此方側へ。年がら年中仕事しかない場所だが、歓迎しようじゃないか。
しかし、まぁよく此処のことを信じてあそこまで徹底したな。
何時ぞやに、書架の整理をした時に見たぞ。
あのままの人生を送っていても良かった筈だのに、中々どうして酔狂な輩もいるもんだな。
……ナニ? こうして仲間入りしたからには、早速知りたいことがあるって?
魔術だの
超能力だのの理屈がイマイチ良く分からん?
ふーむ。それについちゃ、あたしに聞くよりも適当なのがある。確かあすこに……ほれあった、これだな。
此処の物好きが書いた飛び切りの一文だ。その手のことについて何やらかんやらと綴ってある。
どうしても気になるなら、そいつを見てみることだな。
あたしァ、生憎と前の仕事は肉体労働だったもんで、聞かれても困る……って、もう聞いてないな。
まぁそれも良しか。此処には、無駄に時間だけはあることだ。どう使うかは各々の自由さね。
……どうだね? そっち側の君も、一つ見てみるかね?
些かなんてもんでなく奇妙で、全うともとても言えん代物と思うが、
少なくとも、此処の人間の立場から考えると、良かれ悪しかれ奇天烈で興味深い文章だと思うがね……
__科学的に見た時、生命体は、細胞の呼吸や光合成によって取り出される熱・化学エネルギーを用いて、
脳や筋肉、内臓などの器官を維持している。
そして、それが円滑に行われていれば健康に生きているのであり、働きが鈍くなると老いるのであり、
異常を来せば病気になり、停止してしまうことが、死と呼ばれるのだ。
しかし、そもそも何故、生命体は自己を護り或いは自己を保存する本能を持つのだろうか。
それというのは、全ての生物の源になった、遥か太古の海に浮かぶ泡の中を覗いてみると分かる。
其処には、激しい海流や落雷といった外因による化学反応が齎した、数多くの原子の結合体、
分子が、外部から隔離された状態で漂っている。
其処に、何らかの刺激が加わると、その分子は更に結合し、より大きな一つのものへと巨大化していく。
しかし、それを繰り返す内、余りにも膨張した分子群は不安定になる。
『そのままの状態で』自分を安定させることが難しくなる。
故に、それらはより安定した状態へ移ろうとするのだ。
外部からの働きかけがない状態では、物質は『最も無理が無く、容易な方法』によって安定へと向かう。
この場合、一番簡単な手段は、自身の結合の一部を緩め、その部分を切り離すこと。
斯くして、それらは自己を分裂させ、再び結合する事のない様に泡の外側へと排出する。
もしその排出した先が、また泡の中であったなら、分裂した分子は、
外部の環境によって元の自己と同じ道を辿るだろう。
これが、原初の生物の誕生。
膨れ上がる分子群は、即ち遺伝子の原型であり、
それを囲む泡は、やがて別の分子群によって形成される細胞の始まり。
純粋なる化学反応の連鎖が、生物の始まりなのだ。
その後に連なって発生したモノならば、例え高等に発達していたとしても、この性質は変わらない。
自己の安定化を図る性質が、一個の巨大な高分子構造物全体に働く時、
それは時としてエネルギーを生産し、時としてそれらを用い自己を維持し、時として自己を切り離す。
生存欲求とは、この働きを構造物が欲求する、科学的に極自然な現象であり、
恒常性(ホメオスタシス)とは、生存欲求が無意識的且つ不断に発揮される作用を指す。
そして生命力とは、その働きを為す全ての力……熱・化学エネルギーや筋肉などの運動エネルギー、
細胞間にある電位差等の総称なのだ。
ところで、樹形図に示された生物を見れば、源から遠ざかれば遠ざかる程、
一般的に高等であると認められる生物が多くなる。
最端に位置するホモ・サピエンス・サピエンスも、当然その中に含まれる。
そして、その高等生物の中には、上述の唯物科学的生存本能だけでは説明し難い行為を行うものもある。
人間の行う自殺は、その究極的なものである。
他のどの生物を見ても、本能ではなく自己の『意志』と呼べるものによって死を迎えるなどという、
一見非合理的な行為は見受けられない。
また、鼠の入った籠の隣に猫の入った籠を置いておくと、鼠が胃潰瘍になる……といった類の、
直接的な干渉無しに発生する身体の異変も、これに類するものかと考えられる。
天敵が直ぐ傍にいるという危機的状況下にあったとしても、直接危害を加えられなければ、
理論上身体に異常が出る筈はない。
では、生物をしてこれらへと至らしめるものは何か。
挙げるとするならば、それは、『精神』と呼ばれるものが最も相応しいだろう。
精神とは、万物の存在の感覚を司る『感覚質《クオリア》』であり、
また上位次元にある万物の本質そのものである『魂』と、
この四次元空間に生きる生命とを繋ぐ、『思考』の一分節である。
外界からの刺激を受けた際、それに対し身体を直接反応させず、一度何らかの処理を通してから、
改めて各器官へと情報を送り出すものを、脳或いはそれに類する器官、『脳器官』と定義する。
その存在理由は、各細胞が個々に行っていた刺激への反応を、
それ専用の処理を行う場所へ集約させ一元管理することで、
それぞれの細胞の恒常性維持を効率化することと考えられるが、
これにより、脳器官は大量の反応処理を担うことになる。
その過程は、受ける刺激が増え多様になる程に、相互に深く関わり合う複雑なものとなり、
単なる反射的反応を超えた処理へと変貌していく。
この複雑化した反応を、『思考』と呼ぶ。
思考によって行われるのは、構造物としての生命体が受ける刺激に対する『判断』。
思考という処理方法を効率良く実行出来る脳器官は、
凡その場合において、過去の情報を記憶として保つ能力を持っており、
それらを用いて、受け取った現在の刺激についてどの様な反応を器官にさせるべきかを決める。
その結果起こった外界の変化に対し、再び同じ手順を繰り返し、
それらを情報として蓄積していくと、実行の精度と速度は上がっていく。
これが学習と習熟のメカニズムであるが、此処では触れる程度に留める。
さて、此処までの段階で行われているのは、先にも書いた通り、
外界からの刺激の、脳器官での処理を通じての各器官への伝達である。
この処理というのは、飽くまでも、現在身体が恒常性維持の為に行うべき行動を判断する為のものである筈で、
維持すべき恒常性を絶つことになる死を選んだり、維持の障りになる症状を引き起こすというのは、
脳器官の存在意義から考えると有り得ない話だ。
しかし実際には人間は、恒常性を全く無視した、自殺などという非論理的な愚行に走ってしまう。
鼠は、それに襲われることがないと学習し、
それが行う凡ゆる行動によっては身体は不具合を持ち得ないのにも関わらず、猫の隣で胃を悪くする。
これらの現象は、刺激に対し科学的に裏付けられる以上のことを感じる、感覚質としての魂を定義し、
それが要因となって引き起こされているとすると、一つの論理の筋道が見えてくる。
即ち、生存を諦めたくなる、或いは積極的に生存を断絶したくなる程の何かを魂が感じ、
それに身体の生存欲求が打ち負けた結果が自殺であり、
魂が天敵の存在を恐れる余り、生存欲求との間に反発を起こして恒常性が異変を起こした結果が胃潰瘍なのだ。
だが、反発だとか打ち負けるだとかというのは、両者の間に接触が存在する場合にのみ使える言葉だ。
魂は肉体から離れた上位次元に存在しているのだから、これが肉体の働きの延長に過ぎない生存欲求と直接の接触を持つことは無い筈だ。
しかし、現に事象は起こっている。これは何故か。
そこで登場するのが、精神である。
先には、思考の一分節と書いたが、より具体的には、
『学習によって蓄積された、事象に関する好悪を判断したという記憶の集合、
或いは其処から思考を経ずして導き出される事象への反応を行う現象』を指す。
同じことを繰り返し経験すれば、それが自分の生存に好いものか悪いものか、というのは情報として蓄積される。
これが明確になると、逐一の思考による処理を待たずして、
直接好悪を脳器官が判断する様になる。これを精神と呼ぶのだ。
では、如何して精神が魂と身体の関係性に関わって来るかといえば、
それは此処で判断されているのが『好悪』という観念であることが主要因となっている。
好悪というのは、『身体にとって好ましい好ましくない』という意味合いでみれば極めて唯物的な観念だが、
実際のところ、我々が想起する好悪とはそれに留まるものではない。
『人を好く好かない』とは、自分がそう感じていることに過ぎない、というのは好例だ。
此処で注目すべきなのは、人の好悪は『感じる』ものなのだということ。
つまり、その意味合いに於いては、好悪は魂が決定するものでもあるということだ。
これを考え合わせると、好悪という観念を通じて、
魂と精神とは繋がりを持つものなのだ、という結論が導き出せる。
繋がりを持つとは、接触しているということ。
此処に至って初めて、魂が身体に影響を及ぼす理由が、
そして同時に、精神の存在故に身体は変調を来すという因果関係が明らかになった。
最終更新:2015年06月04日 22:24