• 女性おたくが少ない理由
しかしながら、少女マンガと少年マンガを読み比べる限り、そして周りにいる男女を観察する限り、この欲求、他者によって自分の存在を保証してもらいたいという欲求は、はるかに女性の方が強いように思われる。これは女性の方がずっと選別の目に――しかも実力本位というよりは他者に気にいられるかどうかという選別の目に――さらされ続けていることと無関係ではあるまい。中島梓が言うように女の子におタクが少ないのもそのへんの事情と関係していそうだ。女の子によっては実は、私だけのための世界をつくり、そこに閉じこもっただけでは自我は安定しないのだ。そこには常に傍らにいて、「そこはあなたのためにあけられた場所なんだよ」(石塚夢見『ピアニシモでささやいて』)という呪文を囁き続けてくれる他者が必要とされるのである。(104)

  • 完全両性愛社会
「ねえ! まさか異性しかダメな人じゃないわよね」
「今どきまさか……、そんなヘンタイじゃないさ」(秋里和国「ルネッサンス」)(129)

  • レズビアンコミック
しかしレズビアンコミックではそう[二人が結ばれてハッピーエンドに]はならない。それは一つには、それが、「誰かに自分を肯定してほしい」という精神的な飢えは満たし得ても、異性による自己肯定のもつもう一つの機能――それがこの社会の成員としてのパスポートとなるという機能――をもたないからである。
そして一つには、それが少女マンガである以上、主人公たちも、そして読者も、責任をもった人生の選択としてレズビアンを選びとるだけの条件づけをまだされていないからである。なにしろ、
「いつか私のすべてを救ってくれる男性が現れる」
ということを信じていられる間というのが「少女」マンガの真髄なのだから。それに対し、絶望の中で、
「男は私を救ってくれない」
ということに気づいた時、人は自立するか、男には社会的保証と性の快楽のみを求めるレディースコミック的心性に移行する。(192-3)

  • もはや性を怖れない少女たち
かつて私は、性というのは女の子によってはまず一番に”怖れ”であり、少女たちが過激な性を描く時必ずといっていいほどそれを少年の姿に仮託して表現するのは、その痛みを自分から切り離してコントロールしたいからだと言った。しかし、ここには、すでにそうした操作を必要とせず、性をまっすぐに、あるいは純粋な快楽として捉えることのできる女の子が存在している。つまり女の子にとっての性はすでに、第一義的に怖れであることをやめ、それと同時に性は、否応なくその人格を深く冒してくるものではなくなってきているのである(もちろんそれが援助交際等にもつながっているともいえるが、それはまた別の議論である)。
……そう、女であることはもはや、マイナスの記号であることをやめたのだ。近年見られるレズビアンものの繚乱は、まさしくその現実の反映であったのである。(220-1)

  • 女が戦い、男が自問する時代
そして考えてみれば、<美少女戦士>セーラームーンが世の人気を席捲したということ自体が、そうした時代の始まりを象徴しているのかもしれない。ストレートに「愛と正義のために」闘うセーラームーンの一方で、少年ものの雄たる『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジは「なぜエヴァに乗るのか?」と自問自答し続けているのだから。(222)

  • 女性総合職
第一、ちょっと過激な言い方を許してもらえれば、仮にも総合職試験に合格するような女性にとって、「たいていの男は私より無能だ」というのはそれまでの人生ですでに証明されてきていることではないのか。もし闘うべきものがあるとすればそれは、男が男であるゆえに上げ底されている男社会の結託(「女とは仕事ができない」というゆえなき排除)であって、男が男であるゆえの有能さなどではない。要は自分がやりたい仕事だから、また働かないと食べていけないから頑張っている、ただそれだけのことだろうに、と思う。(258-9)

  • 少女マンガの社会性
少女マンガが繊細さと同時にこうした社会性を持ち始めたということは、やはり九〇年代に入っての大きな変化だったのである。(308-9)

  • 『エヴァ』の問い
言い換えれば『新世紀エヴァンゲリオン』とは、今まで三〇年間、少女たちが問い続けてきた「私の居場所はどこにあるの?」という問いを、今では少年たちも自分に問うてみずにはいられない――そういう時代の到来の象徴でもあったのだ。そして、少女たちの「居場所」が、誰かに愛されることで確保されると感じられていたとするならば、少年たちの居場所は、社会の中での責任を引き受け、それに付随して起こってくるさまざまな問題と闘い続けていくことで確保されるのだった。そしてその「社会」こそはこれまで少女に対しては閉ざされてきたものであり、少女たちがその三〇年の闘いを通して、これまで彼女たちを拒絶し続けてきたその「社会」と闘い、「現実」と闘い、自分自身の力で自分の居場所を確保するための一歩を踏み出そうとしている、まさにその時に、一方で少年たちは、責任から降り、闘いから逃れたい、という欲望に抗しきれないでいるというわけだった。(315)
最終更新:2007年03月30日 12:52