裁量の遂行性を求めるこうした論理は、おそらく多くの点に関して、特に社会・経済的領野における矛盾に関しては、首尾一貫したものではあり得ない。すなわち、この論理に従えば、(生産コストを下げるためには)より少ない労働が、そして同時に、(非就労人口の社会福祉経費を緩和するためには)より多くの労働が必要とされるのである。そして、マルクスの時代とは異なって、このような論理の破綻に対する救いを将来に期待できないところにまで、われわれのメタ物語に対する不信感は至っている。(10)
このように社会・政治的な正当性を問う仕方は、新しい科学の態度と結び付いている。すなわち、主人公の名は民衆であり、その正当性の表徴はコンセンサスであり、その規範化の様態は議決である。(79)
今日の文化・社会――すなわちポスト・インダストリーの社会、ポスト・モダンの文化――においては、地の正当化についての問いは全く別の言葉によって表されなければならない。大きな物語は、そこに与えられた統一の様態がどのようなものであれ、つまり思弁的物語であれ、解放の物語であれ、その信憑性をすっかり喪失してしまっているのである。(97)
しかしながら、科学的知の言語行為が伝統的あるいは神秘的な様々な知が占めていた場所を奪うにつれて、証拠を提出する必要はますます強く感じられるようになる。すでに、『方法叙説[ママ]』の末尾で、デカルトは実験室のための予算を要求している。ここでは、次のように問題が立てられる。すなわち、証拠を提出するために人間の身体の遂行能力を最適化するような装置は、余分な消費を要求するということである。つまり、お金がなければ、証拠はなく、言表の確認もできず、そして真理もない。科学の言語ゲームは富める者のゲームとなる。もっとも富める者が、正しく在る最大のチャンスを得る。富裕と効率と真理とを結ぶ方程式が描かれるのである。(114)
最終更新:2007年03月30日 17:33