• 「おたく」と「腐女子」の話(160-4)
 男女の非対称性を示す例として、僕がよく挙げるのが、「おたく」と「やおい」の存在だ。解説は不要と思うけど、念のために簡単に説明しておこう。「おたく」というのは、主に成人のアニメファン、ゲームファンを指している。彼らが好きなものを細かく見るなら、ほかにもアイドルとかパソコンとか鉄道とかいろいろあるけれども、そちらはひとまず措くとしよう。アニメやゲーム、つまり本来は子供のための娯楽を、大人になってからも愛好し続けること。さらに言えば、アニメなどに出てくる虚構のキャラクターを性愛の対象にすること。もっと身も蓋もなく言えば、そのキャラクターのイメージで自慰行為ができること、これが僕なりにリサーチした「おたく」のイメージだ(詳しくは『戦闘美少女の精神分析』太田出版)。
 こうした「おたく」のイメージは、「やおい」にも当てはまる。ただし、「おたく」は男に多いから、当然愛好するキャラクターも美少女キャラが多くなる。ところが「やおい」は、ここから先がまるで異なってくるんだね。彼女たち(「やおい」のほとんどは女性だ)は、美少年キャラクターを愛する。「おたく」が美少女を愛するのと一緒だって? いや、問題はここから先だ。「おたく」も「やおい」も、自分が好きな作品のパロディなどを載せた同人誌を作る。両者の趣味嗜好の違いは、この同人誌を見ればはっきりする。「おたく」の性愛イメージは、もちろん愛する美少女と男性キャラの異性愛であり、主にその男性キャラに同一化して、擬似的な恋愛なり性交なりを楽しむというものだ。しかし「やおい」は違う。「やおい」の性愛イメージは、なぜか美青年、あるいは美少年同士の、男性同性愛なのだ。
 びっくりしただろうか。でも「やおい」のことは知らない人でも、いわゆる少女漫画のひとつのジャンルに少年愛ものがあることくらいは知っているよね。僕はあんまり詳しくないんだけど、それでも竹宮恵子『風と木の詩』や萩尾望都『トーマの心臓』といった有名どころはさすがに読んだ。やや新しいところでは吉田秋生『BANANA FISH』なんかも、この系列に入るだろう。少女漫画で、なぜこれほど繰り返し、少年愛が描かれるのか。この謎に対して、十分に納得のいく答えを、僕はまだ知らない。
 この話は、じっくり展開すると大論文になってしまうので、さわりだけにしておこう。詳しく知りたい人は、今度出る予定の『網状言論F改』(共著、太田出版)という本を参照してほしい。で、ざっとした説明をするなら、ここにこそ、男女の享楽の非対称性があらわれていると、僕は考えている。これにもいろんな考え方があるけれど、そのひとつは「享楽の主体をどこにおくか」という問題だ。
 一般的に、男性は自分の立ち位置をしっかり定めてからでないと、何事も享楽できない。アニメの美少女を愛する場合にしたって、自分の立場を投影できる男性キャラがいて、はじめて安心して享楽することが可能になる。これは別に「おたく」に限った話じゃなくて、男性全般にそういう傾向があるね。楽しむにしても仕事するにしても、まず大切なのは自分の立場。けっこう男性諸君は思い当たるんじゃないだろうか。
 いっぽう、女性については、この点はそれほど決定的じゃない。つまり、立場にこだわる女性もいるけれども、そうでもない女性もたくさんいる、ということだ。で、「そうでもない」あり方のきわみが「やおい」だと僕は考える。どういうことだろうか。
 女性一般にそういう傾向があるけれど、とりわけ「やおい」は、「関係性」を重視する。彼女たちは、虚構作品に出てくるキャラクター同士の関係性が、次第に性愛的なものに変化していくダイナミズムを楽しんでいるらしい。このとき、もはや彼女たちは、みずからの立ち位置なんか、どうでも良くなってしまっているBむしろ自分の存在を完璧に消し去れるほど、享楽も大きくなるようなのだ。だから、自分の立場を投影する女性キャラの存在なんて、邪魔なだけだ。そんな「日常」っぽい不純物が紛れ込んだら、享楽の純粋さが汚されてしまうから。
 「おたく」は作品を分析したり、語りたがったりする傾向があるけれど、「やおい」にはそういう傾向はほとんどない。彼女たちは作品を読み、あるいは作ることを本当に「享楽」しているので、それを語ったり分析したりしたがらない。そういう行為は、やはり享楽の完璧さに傷をつけてしまうのだ。
 このようにみていくと、さきほどは説明しきれなかった2種類の「享楽」について、もう少しちゃんと説明できそうだ。男性の享楽、つまり「主体の立場」を定めたうえでの享楽こそが「ファルス的な享楽」なんだ。これに対して、「主体の立場」を完全に抹消してはじめて受け止められる享楽こそが「他者の享楽」じゃあないだろうか。もちろんこれは、僕なりの、独自の解釈だ。でも、そんなに大きく外してはいないと思う。
 「おたく」や「やおい」は虚構を愛しているだけだから、参考にならないって? そりゃ違うよ。性愛がそもそも幻想だって話をしたのは、そういう区別が無意味であることを示すためでもあるんだ。相手が生身の人間だろうと、アニメや漫画のキャラクターであろうと、性愛の構造はまったく同じ。つまり、どちらも幻想の構造を持っているという点ではね。むしろ、生身の恋愛は複雑すぎて、なかなか綺麗に分析できないことが多いんだ。その点、相手が虚構の恋愛は、幻想の構造も比較的シンプルに浮き上がってくる。その意味で、精神分析はもっと「おたく」や「やおい」に注目すべきだと思うんだけどなあ。
最終更新:2007年02月17日 16:06