現代若者については様々なことが語られており、「フリーター」、「ニート」、「おたく」といった新奇なキーワードが生み出されている。あまりに多くのことが語られ、混乱を覚えるほどである。その一例を挙げると、2007年元日より、朝日新聞紙上で「ロスト・ジェネレーション」と題した特集が組まれており、そこでは若者の生活がいろいろな側面から描かれているが、まとまった見解は示されていない[*1]。本論文では、現代若者についての一つのまとまった特徴を描き出すことを目指す。
ここで本論文で扱う対象を明確にしておく。場所については、日本に限定して話を進める。とはいえ本論文での議論が他の地域と全く関係がないわけではないだろう。時代については、「現代」の目安を示しておく。本論でも触れるが、バブルの崩壊や、冷戦構造の解体が時代の転換点となっているので、およそ1990年以降を現代とする。「現代若者」はその時代に、職業や愛情に関して大きな決定をするであろう若者であった人たちのことであるので、若者の上限を30歳と仮に決めるなら、現代若者の上限は、2007年現在で47歳までの人となる。下限は特に定めない。これはかなり広くとった場合であり、現代若者の中心は、25~35歳くらいである。先に挙げた朝日新聞での「ロストジェネレーション」はこの25~35歳の世代を指している。もちろん、この基準はあくまでも目安である。
また、本論文では単に「若者」としたが、主に男性を想定している。ジェンダーの視点を取り入れるべきではあるが、筆者の手には負いきれず、今後の課題とする。
現代社会がどれほど複雑になってきているように見えようとも、人々がそこで生活していることを思い起こすなら、人間の営みはそれほど大きくは変化していないことに気づくだろう。おそらくいつの時代であっても職業生活と愛情生活が人生における重大な問題であることに変わりはない。とりわけ若者の間ではそうである。先ほど挙げたキーワードもそれら二つの領域に関わっている。
第1部では職業生活と愛情生活とに二分して、現代若者の様相について論じる。
職業生活を論じる第1章では、「フリーター」や「ニート」といった新しい言葉の定義を確認する作業を通して、制度上仕方のない失業がいまだ大きな問題であることを確認する。それにもかかわらず若者の意識の変化によって全てを説明しようとする言説が根強い。それは各種の自由化によって努力の可能性が広がったためだと推測できる。
愛情生活を論じる第2章は「おたく」から話を進める。「おたく」の既存の定義は本論で確認するが、本論文では「おたく」を「虚構のキャラクターを愛する人々」と定義する。「萌え」という言葉を最近よく耳にするようになり、その言葉については日本文化の現れであるなど言われたりするが、単純に虚構のキャラクターへの愛情を表しているのではないだろうか。「おたく」をこのように定義すると、そこからこぼれ落ちるものが多々あるだろう。しかし、現代の「おたく」と呼ばれる人々にとって、この「虚構のキャラクターを愛する」という側面は非常に大きいと思われる。このように「おたく」を定義すると、その特徴は一般に「おたく」とされる人たちだけに関係するのではなく、多くの人にも関わる。というのも、実在の人物を愛する際も、一人でその人のことを思い浮かべている姿を想像すればわかるように、「虚構のキャラクターを愛する」という側面があるからである。こうした側面は、本論文での定義に従い、「おたく」的であると言える。
「おたく」たちの虚構のキャラクターへの愛情は、現実世界における愛情生活での不具合を補うものではないだろうか。というのも、現代では、当人同士の同意があれば何をしてもよいという「親密性パラダイム」が極めて優勢になってきているからである。逆に言うと、相手の同意を獲得できないと何もできない。しかし、社会制度で恋愛が妨げられているわけではなく、努力の余地があるので、恋愛ができないということは本人の責任にされがちなのである。
つまり、現代若者は、あらゆる可能性に開かれているがために絶えざる努力が要請され、うまくいかない場合は当人の自己責任ということにされるという状態にあるのである。別の言い方をすると、あらゆる可能性を実現し、自己決定をできるような「強い主体」が想定されているのである。
ここで「強い主体」について説明しておこう。金子勝は「強い個人」について次のように述べている。
「強い」あるいは「弱い」という概念は、個人の性格を表しているのではない。もちろん、よく使用される社会的強者か弱者かという分類でもない。理論の出発点として仮定される人間像に、どれだけ高い負荷がかけられているか否かという意味である。「高い負荷をかける」とは、現実の人間の行為として、持続的に取ることのできない現実離れした仮定を置くということだ。つまり高い負荷に耐えられる人間を「強い個人」、そうでない人間を「弱い個人」と考えるのである。(金子 1999: 1-2)
金子はそのうえで、経済学の新古典派理論が前提としている、利益を合理的に計算でき、他人に関わりなく自己利益の最大化を追求できるという人間像は、「強い個人の仮定」であるとしている(金子 1999: 12)。本論文での「強い主体」という概念は、金子の言う「強い個人」とほぼ同義である。ただし、金子は「強い個人」に「弱い個人」を対置させ、あくまでも他者から区別された個人という枠組みを維持するのに対し、本論文では「個人」という用語を採用せずに、そもそも「主体」には他者性が深く刻み込まれていると主張する。
第2部ではこの「強い主体」をめぐる議論を展開し、そのようなものは存在しないと主張する。
第3章では、対象を現代若者に限らずに、自己決定にまつわる事柄を考察する。自己決定にまつわる問題は医療や生殖の分野でしばしば語られるのだが、そこでは「強い主体」の想定が生み出す問題が先鋭化している。人間は「強い主体」ではなく、本来的に他者性が深く関わっていると考えればそれらの問題は解決する。
ここまでは社会学的な議論であった。第4章では、人間主体にいかに他者性が入り込んでいるかを精神分析の観点から論じる。精神分析が誕生するきっかけとなった神経症患者は、当時すでに支配的であった「強い主体」という想定の反証であると考えることができる。その神経症の治療から出発し、無意識の概念を一般化してゆく精神分析は、そもそも「強い主体」という前提に反対していたのではないだろうか。精神分析の創始者であるジークムント・フロイト(Sigmund Freud)、及び彼の理論を発展させたジャック・マリー・ラカン(Jacques Marie Lacan)の双方とも、「強い主体」を否定している。主体には他者性が深く入り込んでいるのである。ラカンの用語を使ってもう少し詳しく言うなら、小文字と大文字の二種類の他者が関わっている。その二種類の他者を、精神分析理論における、欲求、要求、欲望、欲動との関連で論じる。
最後に結論として、現代では、大文字の他者が見えづらくなっているのではないかという仮説を提起する。大文字の他者が見えづらくなっているために、「強い主体」の想定が広がっていると説明できる。しかし、それでも大文字の他者は消えてしまうことはないのである。大文字の他者などとは関わらない「強い主体」の想定と、それでも大文字の他者が存在するという実情との間で、「フリーター」、「ニート」、「おたく」といった現象が出現しているのではないだろうか。
[*1]
ここでの「ロストジェネレーション」は、25~35歳を指している。特集の各日の見出しは次の通り。
- さまよう2000万人(『朝日新聞』2007.1.1朝刊)
- 世直し世代 地方議員めざす(『朝日新聞』2007.1.3朝刊)
- 仮面世代 就職難の果て…(『朝日新聞』2007.1.4朝刊)
- 自分探し世代 終わりなき異国の旅(『朝日新聞』2007.1.5朝刊)
- 消耗世代 何も残らない(『朝日新聞』2007.1.6朝刊)
- 起業世代 ネット黎明期(『朝日新聞』2007.1.7朝刊)
- 難婚世代 合わないなら1人で(『朝日新聞』2007.1.8朝刊)
- 愛国世代 信頼できぬ会社・政治(『朝日新聞』2007.1.9朝刊)
- 脱レール世代 自分試しへ(『朝日新聞』2007.1.10朝刊)
- まじめ世代 気づけば、うつ(『朝日新聞』2007.1.11朝刊)
- 創造世代 権威に背向け僕らの生き方(『朝日新聞』2007.1.12朝刊)
最終更新:2007年05月02日 18:25