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前項では恋愛ができないことという、仕方のなさそうな問題を取り上げた。その際にも少し触れたが、現在では恋愛が結婚や性行為の前提条件とされている。いわゆる性・愛・結婚の三位一体であるが、性と結婚との結びつきは近年ではなくなりつつあり、愛(恋愛)と結婚及び性との結びつきが残っているのである。このことが、恋愛のできない苦しみの中心を成しているのかもしれない。
 そこでまずは結婚とセクシュアリティの簡単な歴史を、恋愛との関係という観点から記述したい。
 まずは結婚について考えよう。そもそも恋愛は結婚と対立することはあっても、不可分のものとされることはなかった。恋愛の起源とされる宮廷恋愛では、水野に従うと、恋愛が、貴族制の産物である結婚とは基本的に対立していた(水野 2006: 45)。貴族ではない一般の人々は恋愛ということさえ考えなかっただろう。日本においても明治以前の農村では共同体の中で気の合う者同士が結婚する形が多かったと推測できる。明治に入りもともとは貴族階級のものであった見合い結婚が一般化する。そうすると結婚が恋愛とは対立する事態も発生した。ところが、井上俊の考察によると、1970年代までには、恋愛と結婚とが結び付けられる傾向が強くなり、恋愛結婚が一般化した(井上 1973)。山田の言う「恋愛と結婚の結合戦略」(山田 1994: 126)である。ちょうど恋愛の意味合いが「深く魂より愛する」ものから主観的な欲求へと、つまり恋愛が激烈で制御できないものから飼いならすことができるものへと移行してきたことと並行している。国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、1960年代後半には恋愛結婚の割合が見合い結婚の割合を上回り、それ以降も恋愛結婚は増加して今日では圧倒的な割合を占めている(国立社会保障・人口問題研究所 2006)。さらに、小谷野によると、見合い結婚に含むべき結婚相談所でさえも恋愛をしていると思わせる仕組みになっているそうである(小谷野 2005)。加えて、現在結婚していても恋愛を感じなくなったら、つまり相手に欲求を引きつけられることがなくなったら、特にほかに恋愛を感じる人がいればなおさら、離婚することが正当化される傾向にある。
 それでは次にセクリュアリティについて考えよう。先にあげた柳父による恋愛の定義からも窺えるように、日本においてはおよそ明治以前には、セクシュアリティについてさほど論じられていなかったように推測される。
 明治以降の様子については赤川学に詳しい。彼によると、明治期には1875年に出版された『造化機論』を始めとした、開化セクソロジーが導入される。そこでは解剖学的な知識が紹介され、正規の夫婦内での生殖が持ち上げられていた(赤川 1999: 104)が、恋愛とは関係なかった。その後「性欲」という用語が広まり、性欲は本能であるので何らかの方法で満たさなければならなく、どのようにして満たすのがよいかといった「性欲のエコノミー問題」が論じられるようになる(赤川 1999: 179-202)。ここでもセクシュアリティ(性欲)と恋愛とは分離させられている。1970年代以降には人々の関心の中心は、この「性欲のエコノミー」から、「親密性パラダイム」へと移行することになる(赤川 1999: 376)。赤川の言う「親密性パラダイム」とは、「あらゆる性行動の領域において、その当否を判断する基準として「愛」や「親密性」が大きな位置を占めるようになってきていること」(赤川 1999: 382)であり、「アンソニー・ギデンズいうところの「親密な関係性」ないし「純粋な関係性」に近似する概念」(赤川 1999: 382)である。赤川はまた、「親密性パラダイム」では「愛さえあれば婚姻外セックスも同性愛も婚前セックスも肯定され、同様に愛がなければ、婚姻内のセックスであろうとも否定される」(赤川 1999: 383)としている。赤川は続けて、現代では「親密性パラダイム」の一人勝ちといった状態であり、それに勝てるような展望は開かれていない(赤川 1999: 383-4)としながらも、誰もが愛や親密性を求めて生きなければならない「親密性パラダイム」の息苦しさを指摘している(赤川 1999: 390-1)。現代ではセクシュアリティと恋愛とが密接に結びついているのである。
 「愛さえあればどのような性行為をしてもよい」という「親密性パラダイム」の裏を返せば、愛が認められないような親密性に欠ける行為は非難される。「セクハラ」などは当然非難されることに加え、あらゆる倒錯的行為が市民権を得つつある現在でさえも、本人の同意が認められない小さい子どもを相手とする性的な行為は糾弾されるのである。「おたく」が、いくら宮崎勤の連続幼女誘拐事件があったとはいえ、ペドフィリアとあまりに強く結び付けられがちなのはこのためかもしれない。どちらも相手の同意を問うことができないという点で共通しているので、相手の欲求を引きつけて同意を得ようと努力している人たちから非難されると考えることができる。
 ここまで、結婚とセクシュアリティの、恋愛に対する関係を見てきた。両者とも1970年代から恋愛との結びつきが目立つようになり、現代では恋愛抜きでは結婚も性行為も認められないほどにまでその結びつきが強まっている。赤川は「親密性パラダイム」という言葉をもっぱらセクシュアリティとの関連で用いていたが、結婚に関しても、「親密性パラダイム」が支配していると言えよう。本論文ではこれ以降、「親密性パラダイム」という言葉をセクシュアリティだけでなく、結婚にまで拡張して用いる。
 現代では極めて強い影響力を持っている「親密性パラダイム」では「恋愛(愛)」が要請される。しかし、恋愛の内実は不確かであり、実際に愛情生活を営むためにはあまり高尚なものを求めるわけにもいかず、恋愛が「相手の同意を得ること」程度の意味しか持っていないように感じられる。そうして恋愛が、前項で紹介したような、「特定の相手と心理的、身体的コミュニケーションをとりたい欲求」ほどのものでしかなくなる。
 恋愛が「深く魂より愛する」のではなく「コミュニケーションをとりたい欲求」に拠っているのなら、その相手はある特定の人でなければならないわけではなく、交換可能である。実際、雑誌やテレビで組まれている恋愛特集では不特定多数の相手が想定されている。さらにただ交換可能であるだけではなく、序列化される。コミュニケーションをとりたい欲求を多く引きつける人と、あまり引きつけない人との差が発生するのである。こうして人々に商品価値が付与され、いわば恋愛市場が成立するのである。それゆえ、エコノミストである森永卓郎の次のような記述が、ある種の描写としてそれなりの説得力をもつ。

散弾銃方式で撃ち落とすことのできた女性[女性の集団に手当たり次第に声をかけ、いわば散弾銃の雨を降らせた結果脈があった女性]を口説くときには、「こんなことを言ったら逃げてしまうのではないか」などとあれこれ考える前に、「ボクと付き合ってください」と気軽に言ってしまうことだ。そして、女性に断られたら、「失礼しました」とサッと身を引き、絶対に深追いをしてはいけない。すぐに意識を切り替えて、次の女性に向かうのである。それでもダメな場合は、また散弾を放てばいいだけの話だ。(森永 2003: 178)

さらに、インターネットの出会い系サイトが、実際にどれほど真剣に利用されているかはともかくとして、こういった事態を端的に示している。携帯電話やインターネットの普及が、恋愛の自由化を促進しているのである。
 ここまでで論じてきたように、現代では愛情生活における自由化が進行している。「親密性パラダイム」という言葉で表現されるように、結婚やセクシュアリティに恋愛が必要不可欠とされる。そしてその恋愛は「コミュニケーションをとりたい欲求」ほどのものでしかなく、相手の人格を深く尊敬することなどよりも、相手を物と見なしていかに多くの欲求を獲得するかが重視される傾向にある。こうした一連の変化に伴っていくつかの問題が目立つようになってきている。
 第一に、結婚やセクシュアリティに恋愛が必要とされることによって、恋愛ができない場合の不具合が非常に大きくなっている。このような状況で恋愛ができないということは、結婚や性行為もできないことを導くので、結婚や性行為を望む人にとって非常に大きな問題になる。
そして第二に、恋愛が相手にコミュニケーションをとりたい欲求でしかないなら、そこでの争いは避けられない。欲求と欲求がぶつかり合うと争いが生じる。例えば、AさんはBさんとコミュニケーションをとりたいと思っているが、BさんはAさんとコミュニケーションをとりたいとは思っていない場合を想像しよう。AさんはBさんに恋愛感情を抱いているが、BさんはAさんに恋愛感情を抱いてないということである。恋愛が絶対的な価値を持っており、そのほかに二人の関係を調整するような規範がないとするなら、争いが発生しがちである。AさんがBさんの上司であったりすると、Bさんは「ストーカー」や「セクハラ」で苦しむかもしれない。逆にBさんのほうがAさんより強い立場にあるなら、「ストーカー」や「セクハラ」だとして、AさんはBさんの身の回りから排除されるかもしれない。「セクハラ」や「ストーカー」といった問題は、当事者の内面を基準にしているので、原理的にはどちらが正しいかを決めることができないのである。もちろん、実際の裁判などでは、外的な行為も考慮される。現実的には「ストーカー」や「セクハラ」を甘受する事例が多く、現在のようにそれらを訴える道が開かれたことには歴史的な意義がある。しかし、「ストーカー」や「セクハラ」に対して敏感になりすぎて、少しでもその疑いがあれば相手を排除しようとするのも問題である。
外的な規範や制度ではなく、恋愛という内面が重視されるために争いが生じやすくなるのである。恋愛感情があるからといってそれを相手に押し付けるのも問題であり、恋愛感情がないからといって相手をひどく扱うことも問題である。後者の問題は本章で紹介した本田透の事例に見られる。恋愛に関してすべてが内面の欲求に還元され、外的な基準が衰退していったために、恋愛が困難になっているのである。そのことを山田は次のように表現している。「現在恋愛が難しくなっているのは、何が恋愛かという主観的構成の規則に対する合意が失われつつあるからだ」(山田 1994: 120)。
 第三に、恋愛が商品化されること、言い換えると、恋愛市場が現れることによって、恋愛ができる人とできない人とに二極化する傾向にあるのではないだろうか。商品化されるということは、一つの量的基準によってその人の価値が量られることである。そうすると価値の高い人と低い人との差が発生する。商品化されていないと価値を比べることができない。本田透が主張しているように、「おたく」は、この恋愛市場に反対しているのではないだろうか。その恋愛市場で不利益を被る人たち、つまり「モテない」人たちが「おたく」になりやすいということもうなづける。こうした弱者でなくても、恋愛が商品化されることに反感を覚える人たちもいるだろう。
次に恋愛の自由化によって目立つようになったこれらの問題に対する対策を考えよう。
恋愛が結婚や性行為に必須とされること自体が悪いとは主張しづらい。「親密性パラダイム」という言葉を作った赤川も、その息苦しさを指摘していた。とはいえ、必ずしも恋愛があるわけではないような、いわば友愛結婚のような形態もあってよいだろうし、恋愛と切り離して性行為そのものを楽しむのもよいかもしれない。
しかし、恋愛がコミュニケーションをとりたい欲求に還元され、それが絶対的な基準とされることには反対したい。社会生活を営む上では欲求を我慢することも必要である。したくてもしてはいけないことがあり、したくなくてもしなくてはいけないことがある。それは考えてみれば当たり前のことである。してよいこととよくないことの基準を決める際に参照される価値観はいろいろ考えられるだろう。しかしその基準を内面の欲求にすることは、結果的に強い人に加担することになるだけで、何の基準も示していない。女性の発言力を高めるという政治的意義は否定しないが、上野千鶴子の言う「したいときにしたい相手とセックスする自由」(上野 1998: 29)などは否定すべきである。
 恋愛の商品化に伴い弱者が生まれるという問題は深刻である。「おたく」のように、恋愛市場の外へ出ようとするのも一つの手ではある。
最終更新:2007年05月14日 11:22