深夜――俺はベッドで悶々と、昔の記憶をほじくり返していた。
マーちゃん――マグリフォンさんは俺の近所、正確に言うなら俺の家から川と山を少し挟んだところにある邸宅に住んでいた。そして俺たちの家の間にある山で、たまに遊んでいた――うん、ここまでは思いだせる。
いつも俺が彼女の家、あるいはその近くの山までこっそりといって待ち合わせ、という構図だった。だから俺と彼女がよく会っていたことを、俺の両親は知らなかったはずだ。というか今日お袋に聞いてみたが、知らないという答えが返ってきた――うん、大丈夫思い出せる。
今日、マグリフォンさんの言った絵本。それも憶えている。細かくは思い出せないが、たしかにキスをしようとして、大人にならないと云々というシーンはあったはずだ。っていうかそんなの女の子と二人で読むなよ、昔の俺――しかし、それも問題なく記憶にある。
でもなあ。
俺:次会った時キスしましょうなんて約束、したっけなあ……
なんせあっちからしてくるぐらいだから、大っぴらにしたんだろうなあ。それにしてもあの時の感触、心地よかっ――
やばい、なんかむらむらしてきた。これはいい傾向じゃないぞ。さっさと眠りましょう、そうしましょう。俺は無理矢理思考をシャットダウンして、もぞもぞとベッドで丸まる。
結局その日、俺は明け方近くまで起きていた。
それから一週間で、学園はマグリフォン=茜を発見した――とは生徒会長の言だ。彼女は中間試験で、途中転入というハンディにも関わらず学年の中でも上位の成績をおさめた。同時にフェンシング部に入部、同じに日にレギュラー入りを確定させたらしい。そして何故だかとても頼りになるという噂が立ち、クラスの女子何人かはすでに彼女にかなり深い恋愛相談をしたとかなんとか、本当かどうかは知らないがそういった話まで聞いた。
しのぶ:君もがんばんなさいよ!
俺の背中を叩くしのぶ先輩。
俺:ってなにをですか。
しのぶ:ほら、彼女ってけっこう噂になってるから、男だってわんさか寄ってくるわ。ちゃんとアタックしないとダメよ?
俺:アタックって古いなあ……それにそういうのじゃなくて、ただ大昔ちょっと顔見知りだったってだけですよ。
しのぶ:ふーん、でなんでキスまでしてたの?
キス、から先を囁くように言うしのぶ先輩。気を使ってもらってサーセン、でもそんなの、
俺:知りませんよ。
本当に知らんのである。
俺:っていうかそろそろホームルーム始まるのに、あんたはなんでここにいるのかのほうが気になりますね!
俺がしっしと追い払う動作を見せると、先輩はひらひらと教室をでていった。なんだか忙しいのか暇なのかわからん人だなあ。
まあ、そういったわけで先生登場。はいはい、先生来た、これで会つるっと。いつもの学校生活の始まりである。
どっちにしろ俺と彼女の接点はそれほど多くない。例えば、蔵人のやつが一緒に帰れなくて、俺がぶらぶらと帰路を歩いていると、偶然にも一人ぼっちのマグリフォンさんと会う、みたいな――つまり、例えば今みたいな。
茜:ごきげんよう。
俺:――こ、こんにちは。
いかん。どうも萎縮してる気がする。
マグリフォンさんは俺の隣立つと、歩幅をあわせるでもなく、俺よりはやい速度ですたすたと歩き始めた。俺はとりあえずそれにあわせようと、大またになる。
沈黙が下りた。――胃がきりきりする沈黙だ。
俺:ちゅっ、中間試験……学年でも上のほうだったんだって? す、凄いじゃないか。
なんで上ずり気味なんだ、俺の声。横目でマグリフォンさんの反応を確認する。彼女は小さく頭を振った。
茜:駄目ね。七教科で十問、間違えたわ。
俺:それは十分凄いことなんじゃないかなあ……
それで駄目って言われると、俺なんか言葉もでないレベルな気がするが。
茜:駄目よ。
そう言ったマグリフォンさんの声は、いつものものとは少し違う、妙な響きだった。つまり、何だか切実な――そして、彼女は歩を止める。俺が振り向くと、こちらをいつものように変化のない表情で見た。
茜:その十問は、私の中の欠けた部分なの。
俺:欠けた部分?
彼女は肯いた。そして自分の胸の辺りを押さえ、ほんの僅かに熱を帯びた声で続ける。
茜:私の欠落よ。次はちゃんと直さないと駄目ね。遊佐君もそう思わない?
俺:そう――なのかな、よくわからないな。そりゃあ、直したほうがいいと思うけど……
茜:そう、直さないと駄目なのよ。私はそうやって生きるしかないから。
俺はなぜだか、彼女の言葉に反抗しないといけないような気がした。
俺:でも、マグリフォンさんは凄い人じゃないか。
部活動でだって、活躍したんだろ?
茜:あれは昔からやってたから、あれぐらい普通よ。
俺:同級生にだって頼られてるんだろ?
茜:――わからないわ。わからない。
マグリフォンさんは頭を振る。それから、視線を地面まで逸らした。彼女は消え入りそうな声で言う。
茜:でも、まだ駄目……欠けたところばかりだわ。
俺:誰だって欠点ぐらいはあるだろ?
茜:かもしれないけど、それじゃ駄目なのよ。――私には。
――そういうマグリフォンさんの表情はどこか、泣き出す直前の幼子のようにも見えた。
それは錯覚だったのかもしれない。顔を上げたときの彼女はいつものように欠落のない表情で、氷のような瞳で、俺のことを見ていた。
茜:ごめんなさい、変なことを言ったわね。
淡々とそう言って、早足で俺の脇をすり抜ける。俺は一瞬だけ迷って、それに続いた。彼女と別れるまで会話はなく、ただまだ日も高い夏の午後の中で、俺たちはひどい静寂をまとって歩いていた。
家に帰って、今日もじっとマグリフォンさん――マーちゃんのことを回想する。
彼女はとても泣き虫だった。背丈は俺と同じぐらいで、綺麗な金髪だったはずだ。いつも二人で絵本を読んだり、中途半端に駆けずり回ったり――半分ぐらい、彼女が泣いてる周りを俺がぐるぐる走ってた気がするが。
そうだ、絵本のなかでたまに難しい表現があると、わざわざ彼女の家までいって字を聞いたんだ。いつもは彼女の両親、あとは彼女のお姉さん。お姉さんはわりと年上だったので、ちゃんと漢字を教えてくれた――ちょっとわからないときもあったけど。
なんだ、結構思い出せるじゃないか。俺は自分で自分を褒める。
でも、キスしましょうなんて約束、したっけなあ?
それだけが気がかりだった。
最終更新:2007年01月22日 03:06