その日は大変な猛暑になった。
人々は溶けかかったアスファルトに己が足跡を刻印しつつ歩いていた、ひどく暑い、というやつである。
高いところに太陽がある昼、世界を焼く熱はまさに絶好調で、そんな中を冷房もない教室でろくな身動きすらとれずペンを手にしている学生という身分を、軽く恨む。
教室内はだらけきった空気が漂っており、教師ですらウンザリという本音を隠しきれないようだった。
そうは言っても授業は授業、だらだらと進んでいくのだが。
――それにしても暑い。
俺は滴り落ちてノートにシミを作った額の汗を無駄とわかりつつ拭い、それから溜息をつく。
ふと、マグリフォンさんのほうを見た。彼女もさすがに汗は浮かべているが、表情は涼しそうで、じっと黒板を見つめている。
同じ人類とは思えなかった。
だらだらと進んだ授業も、やがては終わる。先生がそそくさと消える――昼休みだ。
さすがに教室で昼飯を食う気はしねぇなあと、俺は蔵人に言った。
蔵人:とは言え、学食はクソ込んでるだろうし……屋上?
俺:屋上ねえ。
同じことを考えてるやつが何人もいそうだ。
蔵人:――ん、あっ!
自分の鞄をごそごそ探り、それから机の中も探り、そして素っ頓狂な声をあげる蔵人。
俺:なんだ、どうした。
蔵人:五限ってなんだっけ?
俺:五限? ……社会だろ?
蔵人:レポートの締め切りは?
俺:締め切り? ……今日だろ?
蔵人:それを家に忘れた俺はどうなる?
俺:忘れた? ……説教だろ?
蔵人:ザッツライト! とってくる!!
なにがザッツライトだよ、という受け答えをする間もなく蔵人の姿は教室外へ。たぶん、昼休み中には戻ってこないだろうなあ。
――さて、どうすっかね。
茜:……一緒にお昼でもどうかしら?
俺:ぬおっ!?
思わず仰け反った。その仰け反った俺に、いきなり現れたマグリフォンさんは涼しげな視線を向ける。
茜:駄目なの?
俺:いや、その、別に駄目じゃないけどね。
茜:じゃあ、いきましょう。
そういって、マグリフォンさんは踵を返した。あれ、これって誘われてんだから、ついてくべきなんだよなあ。
あまりに速い展開に間抜けなことを考える俺の脳。――を、無視して歩き始める俺の足。
あくまで一定の速度を保って、彼女は淡々と廊下を歩く。その後ろを、こそこそついていく俺。どう考えても妙な光景なんだろうが、しかし、なあ。仕方ないよね、と誰にともなく言い訳をする。
彼女は非常に強引だし、そんな彼女だからこそ逆らえないのだ。
って、マグリフォンさんって昔からそんな感じだっけ? 俺は記憶を辿ってみるが、セピア色のマーちゃんは強引な女の子というよりはむしろ、弱気な女の子なわけで。
人間変われば変わるもんなのかなあ、と俺は彼女の背中を見ながらぼんやり考える。いや、彼女自身の言葉を借りれば、直れば直るものか。
躊躇いもなくマグリフォンさんは昇降口から外にでると、俺のほうを一度も振り向かず、学校裏手の森を少しいき、木陰にあるベンチへとたどり着いた。
――初めてきた場所だった。森林の中だからなのか、風の通りがいいのか、ひどい暑さが和らいでいる。辺りには人の姿も声もなく、ただ学園のほうでした生徒たちの声が、まるで遠い過去からの音みたいに耳に届いた。実際のところ、ここにマグリフォンさんと二人でいるこの景色は、二人とも現世から隔絶された未来にいて、二人以外は過去へと飛んでしまったような錯覚を受ける。
彼女は滑らかな動作でベンチに座ると、俺のほうを見て、それから自分の隣を見た。
俺はほんの一瞬だけためらってから、マグリフォンさんの隣に腰掛ける。
彼女はもそもそと鞄から弁当箱を取り出すと、膝の上で広げ始めた。現れたのは何か見たこともない食材が入っている、異国の手作り弁当。
マグリフォンさんはこちらに視線を移した。
茜:遊佐君、昼食は?
俺:ああ、うん――
俺は肯くと、鞄から朝買ってきたコンビニの袋を取り出す。焼そばパンをがさごそ取り出し、封を破る。口をあけて、食べようと――
俺:ん……どうしたんだ?
じっとマグリフォンさんが、俺のほうを見つめていた。
茜:それ、何かしら?
俺:え?
俺は彼女が焼きそばパンを凝視してることに気づく。
俺:焼そばパンだけど――知らないの?
茜:えっ?
今度は彼女が、ほんの少しだけ驚いたような声を上げた。
茜:知らないわ。ごめんなさい――変かしら、知らないって。
俺:いや、ずっと外国にいたんだから変じゃないと思うよ。
茜:でも、普通は知っているんでしょう……?
俺が仕方なく肯くと、彼女はちょっとだけ真剣な表情で言った。
茜:少し見せてもらえないかしら、それ。
焼きそばパンを手渡す。彼女はそれを真剣な表情で袋越しにためつすがめつし、陽光にかざし、匂いを嗅ぎ――それはちょっと変な光景で、俺は思わず笑ってしまった。
マグリフォンさんは目を細めてじっと見つめていたが、ふいに俺のほうを見る。
茜:ちょっとだけ、食べていい?
俺:どうぞどうぞ。
そんな真剣な表情でお願いされて、断れるわけがない。
彼女は焼きそばパンの端っこを手でつまみちぎると、ふもっと口の中に入れた。まるで実験をする研究者のように真剣な表情を浮かべながら、もぐもぐしている姿が変に可愛らしい。
茜:不味いわ。
咀嚼してして、ぽつりと言った。
俺:そりゃ、周りが暑いんでぬるくなってるしなあ。
俺はマグリフォンさんから焼そばパンを受け取って、食べてみた。うん、不味い、ぬるい。
俺が焼きそばパンを食べ、彼女が弁当に手をつけている間、会話はなかった。俺はパン屋の袋から続いてメロンパンを取り出し、封を破る。口をあけて、食べようと――
俺:これはメロンパンね。
茜:それは知ってるわ。
再びこっちをじっと見つめるマグリフォンさん。
俺:ちなみにメロンは入ってないよ。
茜:えっ? 入ってない――?
不思議そうな表情を浮かべる。
俺:安いやつだからメロンの香料が入ってるだけだよ。あと形からメロンを連想するんじゃないかな。
インターネット掲示板からの受け売りに、マグリフォンさんは感心したように肯き、手の中のメロンパンを観察している。食べるに食べられない。
茜:――あんまり似てないわね。
主観的に長いと言えるほどの時間が経って、彼女はぽつりと言った。
俺:たしかに似てねぇよなあ……
俺は認める。特に、それから俺にむしゃむしゃと食われて欠けたメロンパンは、もはやメロンではない。
――俺がメロンパンを食べていて、彼女が弁当に手をつけていて、会話はなくなった。
昼飯が終わった。時計を見ると、まだ結構時間がある。パン二個の俺と同時に昼飯が終わったということは、マグリフォンさんはひどく小食なんだなあと、どうでもいいことを考える。
ごそごそとマグリフォンさんは鞄を探り、細長い水筒を取り出した。メタリックに輝く魔法瓶だ。その脇には紙コップ。
彼女は無言で紙コップを俺に手渡すと、水筒の中身を注いだ。
茜:特性のハーブティー。よければ、飲んで。
俺:ああ、うん。
恐る恐る、というわけではないが、ゆっくりと口をつけてみる。唇を湿らせ、冷たい液体を嚥下――
俺:あれ、美味しい。
大したオチもなく、普通に美味しかった。紙コップの中を飲み干して、もっと飲みたくなったぐらい。
茜:そう、嬉しいわ。
彼女の表情がつかの間、和らいだ。――ような気がした、実際のところあまり変わりはないんだけど。
俺:ちなみにこれ、なんて名前なの?
茜:リフレシュティーよ。
なんか安っぽいって言うか、そのまんまだなあ。
俺とマグリフォンさんはお互いリフレシュティーの入った紙コップを手に、また沈黙の中すごした。なにか過去めいた感覚がさらに広がって、あるいは狭まっていくのを自覚する。
茜:ねえ、遊佐君?
俺:うん?
茜:昔のこと、思い出せた?
俺:――んあ、ん――
茜:あの頃のこと、私はずっと憶えていたわ。凄く楽しかったから。
俺:うん……
なんだか彼女には悪いけど、俺はあまり昔のことを憶えてない。
茜:あそこに――よく遊んだ裏山に、ブランコがあったの、憶えてる?
俺:そう、だっけ……?
茜:ええ。それでね、遊佐君が凄く高いところまで漕げるのが羨ましくて、私やり方をしつこく聞いたら、遊佐君凄く怒ったじゃない。
俺:――ああ、んん?
そんなことあったっけ――俺は自分の記憶を手探りで引き上げようとするが、それはマグリフォンさんの肩と俺の肩が触れる感触なり、左耳に飛び込む彼女の柔らかな声なり、かすかな気のせいかもしれない彼女の匂いであったり、つまり圧倒的な現在という壁に阻まれて、うまくいかなった。
マグリフォンさんはそうではないようだ。
茜:それで、私が泣くと、遊佐君が優しい声で言ってくれたわよね。マーちゃんはにぶいから、ブランコでたくさん漕ぐと危ないって。
マグリフォンさんは淡々と、しかしいとおしむように、過去の話を続ける。ふいに俺はなにか、彼女と俺の間に一つの亀裂があり、それが少しずつ広がっていくのを感じた。彼女のほうを見る。言葉をつむぎ続ける唇が、かすかに動いている。目はじっとここではないどこかを――とうにどこにもなくなった場所を、まだ見続けている。
俺:――――あ、その、
俺の次の言葉は、遠くで鳴るチャイムによって阻まれた。――昼休みの終わりだ。
マグリフォンさんは立ち上がる。
茜:無理を言ってつき合わせてごめんなさい。ありがとう
その声も、俺を見るその視線も、数秒前のそれとは打って変わって、怜悧そのものだった。
俺:いや、全然無理じゃなかったよ。うん。
茜:……その、
彼女は少し躊躇う。
茜:またご一緒できるといいわね。
俺が何かを言う前に、彼女は鞄を手に取ると、さっさと歩き始めた。その背中が消えるまで、俺はそこに立ち尽くしていた。
ベンチに座ったまま温くなった紙コップの中身を一気に飲み干し、じっと考える。
彼女がいとおしそうに語ってくれた過去。たしかに、それは存在していたものだ。
しかし、多くは彼女の中には残っていて、俺の中には残っていなかった。
彼女は覚えていて、楽しかったと言ってるのに、俺のほうはほとんど覚えがない。
罪悪感のようなものが、少し痛む。
その痛みを転がしながら、俺はじっとベンチに座っていた。
ひどく暑い日、まだ太陽は空高くにあった。
ちなみに五限には遅刻した――蔵人と共に。
その結果は――ザッツライト、説教タイムである。
最終更新:2007年01月23日 03:04