その日も相変わらず暑かった。
セミの合唱が教室内の空気を混ぜっ返し、渦巻く熱気の中で三十人余りがつめられた個室は、さながらサウナだった。
――その日の授業が終わり、放課後になる。ホームルームも心なしか皆、生気がなかった気がする。俺もまた疲弊した身体を抱えながら立ち上がった。
蔵人:なあ、おい暑いよ……
俺:ミートゥー。
暑いって言って暑さがなくなりゃ、何万回も暑いって言うんだけどな。
校内放送:『二年B組の遊佐洲彬君、生徒会室まできてください。繰り返します――』
ふいに流れる放送。――俺だ、ピンポイントで俺を名指ししている。
蔵人:おい、呼んでるぜ。
俺:呼んでるなあ。
蔵人:……いかないの?
俺:いったほうがいいよなあ。
蔵人:いったほうがいいなあ。
俺:いったほうがいいよなあ……
蔵人:うん……
疲れのためか、大変だらけた会話であった。
そういったわけで、俺たちはそそくさと生徒会室まで移動する。とんとんとノックをして、どうぞ、と声が聞こえたので中へ。
中にいたのは会長と、ツインテールの女の子。
しのぶ:悪いんだけど中島君は外してくれるかなー? 長くはかかんないから。
蔵人:へーい。
素直に部屋をでていく蔵人。調教されてるなあ。
しのぶ:じゃ、梨香、お願いね。
梨香:はい会長。
梨香と呼ばれた少女は肯いて、同じように部屋をでていく。――生徒会室の中で、俺としのぶ会長は二人きりになった。机を挟んで、向かい合い座る。
外から小さく、運動部のかけ声が飛び込んできた。しかし、それも室内の静寂に溶けてすぐに消えた――ひどく静かだった。
俺:なんです、話って?
しのぶ:んー、つもる話しでもしようかなあとか、思ったり?
別につもってませんけどね、とは言わなかった。
しのぶ:君さあ、ずいぶんあのマグリフォンっていう転校生のこと――ふふ、まあ君も転校生なんだけど――仲、いいよね?
不意打ちだった。
俺:――そうですかね? でも彼女、知り合いも多いみたいだし。
しのぶ:でもさー、君といる時はいつも一人同士でしょ?
俺:そう……
そう、なのかな? 迷う俺を見て、しのぶ先輩はにやりと笑った。
しのぶ:それにこれはただの推測だけど、いつも君じゃなくて彼女のほうから、君と会いにくるんじゃないかな?
俺:……それは……
俺は今までの、マグリフォンさんとの接触を回想する。いつも、俺たちは二人きりだった。いつも、彼女から俺の前に姿を現した。
俺:――なにが言いたいんです、結局?
しのぶ:ふふ、なにが言いたいっていうとねー、つまり……
彼女は腕を組んで、その上に顎を乗せた。
しのぶ:君は危険だってことかな?
俺:えっ――?
しのぶ:君はね、危険なの。私から見てもね、遊佐君。君はフラット過ぎるんだよ。
俺には会長の言わんとすることがわからない。
しのぶ:君って誰とでも仲良くできるタイプなの。君自身は自覚がないと思うし、だから否定するだろうけど。たとえばこの世に平行世界があったとしたら、きっかけさえあればこの学園にいるどんな人とでも仲よくなってる可能性があるんじゃないかな。君って言う人は。
俺:――――
しのぶ:でもね君は結局、マグリフォンさんとの"道"を歩いているように、私には見えるんだよ。まるで彼女の中に"旗"を立てたみたいにね――言いたいこと、わかる?
俺は頭を振った。
しのぶ:つまりね、私は君に自覚をしてほしいの。君は簡単に人の心の中に、靴音鳴らして入っていける人間ってことを。それは悪いこととは言わないけど……でも、それを自覚して欲しいんだ。
組まれた指の上から見える先輩の視線は、真剣そのものだ。
だから、やはりその言葉に俺は、答えなくてはならないと思った。
俺:俺は――――
でも、それ以上言葉は続かなかった。
俺は頭を下げて、踵を返した。

生徒会室からでる。――蔵人の姿が見えなかった。
俺:帰ったのか? ……薄情なやつめ。
まあ仕方あるまい。鞄を片手に、ぶらぶらと昇降口へ。
校門をくぐるところで、いつものようにマグリフォンさんが立っていた。――偶然だなあ。
茜:ごきげんよう。いきましょう。
と、いきなり俺の隣にくる。その顔や仕草を見てると、俺と仲がいいなんて嘘なことがよくわかる。あまりにも淡々と、まるで台本通りの行動みたいに、隙がないからだ。
二人で歩き始め――五分ほど静寂が流れた。
茜:その――
俺:ん?
茜:たまには、夕食でも……どうかしら?
俺:――ん、ああ……うん、そうだな。
ちょっとだけ驚いた。結構突飛な人なんだよなあ。
そういったわけで、俺たちは財布の関係(主に俺の)で、ファミレスへと入った。
夕食時には少し早く、客の入りはまばらだ。俺とマグリフォンさんは向かい合って座る。俺は高菜チャーハン定食を、彼女はパスタを頼んだ。
料理がくるまで、会話がなかった。
高菜チャーハンを食べながら、時々パスタをくるくるとフォークに絡ませる彼女を見る。それを口に運ぶ姿は、とりたてて楽しそうでもなく、つまらなそうでもなく、なんと言うか――
いつもと変わらない。うん、これに尽きる。
俺:マグリフォンさん、それ美味しい?
俺に問われ、彼女はじっとフォークに絡まったパスタを眺めた。
茜:そうね、麺は素材はよくないけど、湯で加減はそれほど悪くないわね。ソースは少し味付け過多と言っていいわ。でも、きちんと最大公約数に訴えるような料理の仕方はされているし、値段を考えるとこんなものね。
巻かれたパスタを口に運ぶ。赤い舌が、唇についたソースを舐めた。
その姿をじっと見つめている俺と、彼女の目が合う。――妙に気まずくなって、俺は料理のほうに目を移した。
食事は淡々と進んだ。先に食べ終わった俺は、特に声をかけるでもなく、マグリフォンさんがパスタを食べる姿を見ていた。
機械的に、よどみなく、数分で彼女も食べ終わる。
しばし、沈黙が流れた。
茜:ねえ、その――
俺:ん?
茜:昔のこと、やっぱりあんまり思い出せない?
俺:――ああ。
そう答えた俺の声がなんだか強い調子で、俺自身驚く。――そう、なにか彼女が昔の話をしだすたびに、俺は心のどこかが苛つくのを自覚せざるを得ないのだった。それがなぜだか、俺にはうまく説明できないのだが。
俺:あんまり昔の話って、してほしくねーなあ。
茜:……なぜ? 昔の私が嫌いなの?
よくはわからかないが、マグリフォンさんにとってそれは重大なことらしい。彼女は席に身を乗りだし、こちらを見据える。
俺:マグリフォンさんのこと――嫌いじゃ、ないよ。
言ってから少し後悔。でも、言葉は止まらない。
俺:でも、っていうかだから、あんまり昔の話ばっかりしたくない。
自分でうまく解説できないロジックだ。しかし、それはなぜか俺の本心なんだとだけはわかる。
茜:そう。
マグリフォンさんはそう答えて、身を引くと両手で自分の肘を抱え、視線を落とした。彼女の深い瞳の中で、うねるように葛藤が広がっていく。それはどこか、彼女の中に二人のマグリフォンさんがいて、その二人が議論をしているようにも見えた。
茜:――そう。
もう一度、マグリフォンさんは言った。
茜:私も……私も、遊佐君のこと嫌いじゃないわ。
俺:それは俺が昔、君と遊んでいたから?
それは意地の悪い問いだったのかもしれない。
茜:えっ?
マグリフォンさんは、まるでそんなこと考えもしなかったとでも言うように、視線を上げた。
茜:そ、それは――
マグリフォンさんは俺のほうを見たまま、じっと考え込むように押し黙る。まるでその顔が今にも崩れて、泣きだしそうな錯覚を俺は感じる。
――だから、止めなくてはならない。具体的な手段も、確証もないまま、俺の中でその圧倒的な焦燥だけが広がった。
彼女は否定も肯定もしなかった。ただ、再び顔を伏せると、小さく頭を振る。
茜:ごめんなさい、わからないわ。わからないことがあってはいけない筈なのに――わからないの。
その答えを聞いて俺のなかで安堵が広がるのを自覚した。なぜ安堵したのか、俺もまたわからなかった。
結局、俺たちは無言で会計を済ませると、夜闇の中で別れた。
『仲、いいよね?』――そんなことはないです、会長。俺は彼女のことも、自分の気持ちも、わからないんですから。
最終更新:2007年01月29日 07:04