夢の中で、それが夢だと自覚できる感覚は奇妙なものだ。夢特有の全能感のなかで、俺は冷静な視点を維持していることに気づいていた。
――これは夢なのだ。
俺は十何年前にいて、あの家の裏山で、マグリフォンさん――マーちゃんと遊んでいた。
これは夢なのだ、と考えている俺の思考をよそに、俺は彼女と駆けずり回っていた。
ねえ、えほんをよみましょう、と彼女が言う。
うん、と俺は答える。
このじ、よめないね、と彼女が言う。
そうだね、よめないね、俺は言った。
俺たちは裏山を抜けて、彼女の家のすぐそばまでいく。
背の高い女の人がそこには立っている。
ねえ、おねえちゃん、このじはなんてよむの――彼女が言った。
それはね、とその人は答えた。
――そこで夢が終わった。
俺:うーん……
目を覚まし、布団のなかで天井を見上げたまま、俺は唸る。――どうせなら、もっとその頃のことを思いだすまで、夢のなかにいたかった。
過去、そう過去だ。俺の頭に昨日から圧しかかっているのは、俺自身の過去だった。マグリフォンさんが覚えていて、俺の覚えていない過去。
キスの約束、ブランコの話、飼っていた犬。他にも、細かいことで俺には憶えのないことを、彼女は言った。
俺:うーん……俺、交通事故にでもあったかなあ……
それで記憶喪失になっているのかもしれない。恐ろしいのは、そうであるのなら、それすらも憶えていない可能性があるということだ。
でも。
俺:マーちゃんのことを憶えてないわけでもないんだよなあ……
うだうだ考えていると遅刻しそうだ、と俺は布団からのそのそ這いだした。
今日も暑くなりそうで、ウンザリだ。
昼休み。マグリフォンさんは何人かの女生徒に囲まれて、リフレシュティーを振舞っている。俺の前には間抜け面で口をあけ、弁当を頬張る蔵人。
会うときはいつも一人同士、ねえ――
五限。彼女に変わった様子はない。相変わらず暑くてぐだぐだした空気のなかで、マグリフォンさんはじっと背筋を伸ばし黒板を見つめている。あ、でも汗が少し垂れた――やっぱり暑いんだろうなあ。
こつん。俺の頭になにかが当たった。そのなにかは、俺の机の上に着地する。――どうやら紙を丸めたもののようだった。
振り向くと、蔵人が親指を立てて歯を光らせていた。
丸まった紙を直す。そこには汚い字で、『女の子を見てにやにや笑うな。●0点』と書いてあった。
うるせえよ。
で、やっぱり一人同士だった。
蔵人は生徒会の手伝い――雑務を押しつけられたとかで、先に帰ってくれよと言っていた。なんだか悪いので俺も手伝おうかと申しでたが、なぜか全力でそれを否定。なにか気持ち悪かったが、別に追求する理由もなく、校門をでようとすると、また呼び止められたというわけだ。
俺:あれ、マグリフォンさん……それなに?
彼女は両手に大きなビニール袋を抱えていた。
茜:本よ。
それだけ答え、マグリフォンさんはビニール袋を両手に踵を返す。のろのろと二、三歩あるき――ふらついた。
俺:ちょっ、俺が持つよ。
彼女は重みでふらふらしながら振り向き、こちらをじっと見つめる。
茜:いいわ、悪いもの。
こういうときは男のほうが悪いと思っちゃうんだよなあ。口でなんとか言うと、どこまでも断るであろう彼女の性格を見越して、俺はなかば強引にビニール袋を両方ひったくった。
茜:あ……
俺:ほら、いこうぜ。
ビニール袋を持って、今度は俺からすたすた歩き始める。――結構重いんだけどね。気合と根性だ。
茜:ごめんなさい、
ありがとう。
呟くように言って、マグリフォンさんは俺と並んだ。
俺:そう言えばマグリフォンさんの家ってどこなの?
茜:えっと。
彼女は自分の家までの簡単な説明をする。
俺:うん、わかった。
それっきり会話はない。斜めに差してくる眩しい陽光のなかで、俺たちは歩いていた。二つの影がどこまでも伸びていって、それもやがて日が落ち始めて消える。
マグリフォンさんの家は結構大きかった。門を潜り、玄関まで歩く。彼女は鍵をあけると、振り向いた。
茜:ありがとう。少し寄っていくかしら――?
そういったわけで俺は生まれて初めて、女の子に誘われて家へと入ったのだった。その割には、緊張の質がなんだか普通とは違う気もするが。
リビングに案内され、マグリフォンさんは先ほど俺たちの潜った扉に消える。そして、二、三言声が聞こえ、玄関の扉が閉じる音。
――俺がリビングの椅子に座って、高いところにあるシャンデリアやら壁にかかった風景画やら窓の下にある暖炉やらを眺めていると、マグリフォンさんが再びリビングに入ってきた。手にはお盆。俺の前にソーサーを添え、それからお盆の上にあったカップを置いた。
彼女は同じように対面の席の前にカップを置くと、その席に座る。
頭を下げて、カップを手に取った。なかの紅茶を、ずず、とすすってみる――熱くて味がわからん。
でもとりあえずこっちをじっと見つめているマグリフォンさんに笑いかけといた。彼女はさっと視線を外すと、自分のカップを手に取る。
二人同時に、ずず、と紅茶をすすった。
茜:昨日――
俺:え?
俺はカップのなかの赤い液体から、マグリフォンさんへと視線を移す。
茜:昨日のこと、申し訳ないと思ってるわ。
俺:昨日のこと――?
茜:私が昔の話ばっかりするってことよ。でもね、それには理由があるの。
マグリフォンさんは目を細めて、カップのなかを見ている。まるで死んだような瞳だった。彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
茜:遊佐君は、運命って信じる?
俺:運命? ……信じないなあ。
茜:私はね、信じているわ。――信じざるを得ない、というべきかしら。運命のなかでは、人はどんなことをしても無駄なのよ。
俺:そうなのかなあ。
よくわからない話だ。
俺:でもそれじゃあ、人の努力なんて無駄になるよな。
茜:かもしれないわね。特に私はね。――ずっと追われてると思ってたわ。
俺:追われてる?
茜:ええ。いつも逃げても、運命が追いついてくるの。
マグリフォンさんはまだ死んだような目で、ここではないどこかをカップのなかに見ながら、ゆっくりと言った。
俺:――運命、ね。俺はそんなの見たことないけどね。
俺は努めて明るく言った。その言葉で、マグリフォンさんが顔を上げてくれることを期待して。でも、彼女に変化はない。欠落のない、まっ更な表情で言う。
茜:私は見たことがあるわ――運命は過去の形をしていたの。
マグリフォンさんは顔を上げ、俺を見据えた。その凍りついた瞳を見て、俺は言葉を失う――沈黙が、質量を持って辺りに膨れ上がった。
ふいに、マグリフォンさんは表情をそれとわからぬほどやわらげた。そして、不思議そうな目で辺りを見回し、再び俺を見る。
茜:ごめんなさい、もしかして私……変なこと言ってたかしら?
俺:え――えっと、いや、そんなことないよ。
俺はあわてて言うと、カップのなかの液体に口をつける。
十分ほど取り留めのない会話をして、それから俺はマグリフォンさんの家をでた。玄関口で手を振るマグリフォンさんは、やはり何も変わらないように見えて、少し安心する。
彼女が家に入り、俺は踵を返し――ふと向こうから恰幅のいい、外国人の中年女性が歩いてくるのに気づいた。彼女は俺を見ると、小走りになってこちらへくる。ちょっと身構えた俺に、女性は言った。
女性:あれ、あなたもしかしてお嬢様のお知り合い?
俺:えっと、お嬢様って――マグリフォンさんのことですか?
俺は先ほどまでいた家と、女性を交互に見比べて言った。
女性:あら、じゃああなたがお客様ね! もう帰っちゃうの、早いわね。
元気がいい人だなあ。
女性の自己紹介によると、彼女はラールリックさんと言って、マグリフォンさんの家のお手伝いらしい。――お手伝いを雇うって、金持ちなんだなあと俺は素直に感心した。
ラールリック:それにしても茜お嬢様が殿方を家に招くなんて、感動したわあ。
俺:感動って……
ラールリック:本当、一時は結構塞いでらしたのよ、あれでも。
俺:塞いでた?
ラールリック:ご存じないの?
俺:えっと、なんの話だか……
ラールリックさんは声をひそめた。
ラールリック:アタシは向こうで雇われたんだけどね――あ、向こうって言うのは、お嬢様の一家がここにくる前住んでた国よ――で、アタシが雇われた一年後ぐらいかしら? 茜お嬢様のたった一人のご姉妹の、紅子様が病気で亡くなったの。
初耳だ。彼女の姉妹――たまに字を教えてくれた、あの人のことだろうか。
ラールリック:ご姉妹は大変仲がよくて、それだから茜お嬢様は大変ショックをお受けになっていたわ。本当、一時は食事が喉を通らないぐらいだったんだけど……貴方みたいな頼りになりそうな殿方を見つけたところを見ると、きちんと人とつき合えるまでになったのね。
俺:そんなことがあったんですか――
俺のことは多少、というか多く誤解されてる気がするが。とにかく、あのマグリフォンさんのお姉さんが死んだなんて、俺としても結構ショックだった。
ラールリック:あつかましいお願いかもしれないけど、こっちにアタシと二人できたのだから、ぜひ茜お嬢様とは仲良くしてあげて頂戴ね。
俺:二人?
ラールリック:お嬢様のお父様とお母様は、今もあっちにいるのよ――お仕事の関係でね。でも、茜お嬢様たっての願いで、こちらにきたってわけ。ご両親も心配したけれど、紅子様が亡くなって塞いでいた茜お嬢様のご気分がよくなるならっていうことで、お一人でこちらにくることを許してくださったのよ。
ラールリックさんもまた、真剣な表情で言った。
ラールリック:長々と話して申し訳なかったわね。でも、茜お嬢様のことをよろしく頼むわ!
笑って、俺の肩をどかどか叩く。
俺はラールリックさんと別れて、帰路に着いた。
その間中、ずっとマグリフォンさんのことを考えていた。俺は急速に彼女のことが気になっていることに気づき始めていた。――それはただの同情かもしれないから、すぐに振り払うべきだ。そう考えて頭を振るも、俺の頭のなかをずっとでていく気配はない。
ずっと、ずっと。その日、眠りに落ちるまで。
最終更新:2007年01月23日 06:35