三分だ。
残り時間はたった三分しかない。
それなのに単行本が何冊も続く漫画を、俺は知っている。
俺の中で、それは空想世界の中でしかあり得ない馬鹿げた時間の流れ方だった。
左手はそえるだけ――
なんて考えてるうちに三分なんて終わっちまうわ!
……とまぁ、それが今までの俺の考え方だ。
そして今……俺は『ひとつ』大人になった。
大人になるってことはなにも年齢を重ねることや、夢を諦めることじゃない。
釜の中に劇薬をぶち込んで、どんな化学変化が起こるか想像する段階が『若さ』だ。
そこから何かしらの結論を導き出すことを『大人になる』という。
だから、大人はゴールじゃない。結論を出すまではガキのままだ。
俺はその実何にも結論なんか出しちゃいなかったんだ。
なんちゃって高校生をやってるうちに真の大人をないがしろにして、カッコつけただけの半端な大人を意識していい気になっていただけなんだ!
ひとつ大人に近づいた今の俺ならば理解できる。
なぜたった三分で起こる出来事を描いただけで、単行本が何冊も続くのか。
試合を、終わらせたくないんだ。
俺でも……描ける。
俺なら単行本五冊……いや、一〇冊はイケる。
なんたって俺は今、単行本一〇冊を連ねようとも終わらせたくない試合ってやつを見てるんだからな!
無音。
音もなく、空気の胎動だけがフィールドを支配する。
それは極限の集中力だけが可能にしたランナーズ・ハイ。
最高のクライマックスを迎えるこのピッチの歓声の中で、空気の流れる音すらも聞き分けてしまう不思議な力。
俺はまさに、そんな感覚を味わっていた。
ゆっくり、ルークが地面から出てくる。
世界がその瞬間から色と時間の流れを奪った。
神のいたずらなのか……まるでフィルムネガにおさめてしまったかのように、すべての一連の動作が黒いセピア色になり一コマずつ流れていった。
アニメをスローで見ているみたいだ。
だが、これは、この演出は神のイタズラなんかじゃない。
現実なんだ。
ビシッ!
ブツリとテレビのチャンネルを変えられた時のように、突然世界が色を取り戻した。
ルークが完全に姿を現すころには、すでに別試合と言ってもいいほどに各選手はバラバラに散っていた。
遊佐「ッ!? 速いっ!」
まるで渋谷の交差点みたいな乱雑さで、縦横無尽にフィールドを駆けぬける選手たち。
だがそれぞれの人々が別の目的を持って歩いている渋谷の交差点とは明らかな違いがある。
今この場では、そこにいる全員がまったくたがえない同じ場所を目指しているのだから!
霞「方位SWにルーク確認! さぁみんな、突撃するよ!」
選手たちはその瞬間から冷酷なソルジャーとなる。目的はただひとつ。
ルークの奪取!
遊佐「南西方向か! ……あれだ、あのルークだ!」
実況席の目の前、田中学園長の正面にルークが現れていた。
田中学園長『こ、これはどういう運命のいたずらなのか? 私に目の前の出来事を実況しろと、神(和田)はそのような大役を私めに遣わされたのだろうか!?』
田中学園長『ならばこれは必然! 私のシナリオ通りだ! 脚本・田中弘道、主演・田中弘道といったところか! よーし任せなさい狩場増やしてソロ不可能な問題は回避しがふぉあぁ!?』
選手の一人が投げたCD‐Rが、風を切りながら田中学園長のおでこに直撃した。
コーンといい音がして田中学園長はバンザイキックしながら壮大に実況席から転げ落ちる。
そりゃまぁ、ある意味今のあんたは戦場カメラマンみたいなもんだからな……流れ弾が飛んできても文句は言えねえよ。
しかし、なぜCD‐Rだ。
遊佐「一体何埋めてんだよ。攻撃できそうなものならなんでもいいんかい!」
まぁいい。これで五月蝿いのが消えた。
???「せりゃ――!」
突然の大声に、俺とマグリフォンさんは思わずまったく同じ行動をとってしまった。
びくっとして一瞬肩をすくめた俺とマグリフォンさんは、反射的な動作でフィールドのほうに目を向ける。
長刀を上段に構えたゴリ顔の一年生の男子が気合とともに誰かに斬りかかっているところだった。
確かあいつ、
剣道部で見たことあるぞ。
見学に行ったときにゴツイ男がいるな、と思っていたけど、まさかあの顔で一年生だったのか!
茜「一応言っておくわよ。顔と技術は関係ないからね」
ごもっともで……ごめんなさい。
ゴリ顔が狙いを定めたひとりの少女は、彼の罵声にも動じることはなかった。
砂漠にたたずむ孤高なサソリのように、音もなくゆっくりと得物を構えるその姿は、まるで北欧神話のワルキューレのように勇ましく、そして美しい。
バランスのとれた長槍を己が手の延長のように使いこなす少女。
リューさんだ。
名実ともども、正真正銘、本物のエース。
村崎「グングニル……見ていてくれ!」
彼女の洗練された細かで強靭な筋肉がうなる。
そしてリューさんはひざをちょっと使って下から上に力を移動させ、軽くジャンプした。
遊佐「……」
さて。
何から説明しようか。
とりあえず、俺が説明すべきことはふたつだ。
ひとつめ。
俺の開いた口がふさがらない。
ふたつめ。
リューさんが大空へ旅立った。
遊佐「これは……現実か?」
その日、リューさんは道具なしの素飛びで身長ひゃくきゅうじゅうななせんちのゴリ男を飛んだ。
ゴリ男は――俺でもそうなっただろう――あんぐりと口をあけて上段の構えのまま、何が起こったかわからないといったように静止していた。
そして背後に悠々と着地したリューさんは、無防備きわまりないゴリ君の紙風船をツンツンとつついてわった。
遊佐「……マジか?」
茜「マジね」
マグリフォンさんは意外と冷静だった。
……
茜「鍛えれば誰でもできるわよ」
遊佐「できねーよ!」
わきあがる歓声に、リューさん親衛隊の黄色い声援が混ざっていた。
親衛隊『キャ――リューサ――ン!!』
キャーリューサーンってレベルじゃねーぞ!
一年生「ぎゃー!」
突然の叫び声があがる。
背筋に戦慄が走った。
また、どこかで一般人に犠牲者が……
一年生「た、たすけ」
自分が残す最期の言葉が悲鳴だとしたら――そんなこと、考えただけでもゾッとする。
だが今の悲鳴をあげた人物は、その悲鳴さえも口に出せずに逝ってしまった。
ああ、どうか彼の者に楽園の扉が開かれんことを……
っていうかさすがに死んでないよな。
……よな?
???「ふふふ。ごめんなさいね」
人の命をなんとも思わないのが死神だというなら……そんなことをできるのは『彼女』しかいないだろう。
遊佐「黒井先輩だよ……」
黒井先輩はゆっくり歩いている。
こんなにいい天気なのに、こんなに光に満ち満ちたグラウンドなのに、彼女は確かに笑っているのに……
彼女の周囲だけは炎さえ凍りついてしまいそうな闇に包まれ、その笑顔はさながら闇の世界の住人のように妖艶だった。
一歩ずつ、あどけない一年生の側に近寄る。
遊佐「俺だったら泣く自信がある」
あの笑顔は間違いなく、悪魔を背負っている。
黒井「何かを感じるのは最初だけ、ですよ。すぐに悩みも苦しみもない世界へいけますから」
一年生「ギャース!」
あれ、目の前が真っ暗に。
……
視界が晴れるころには、なぜか一年生の骸だけが転がっていた。
遊佐「あれ……俺は今一体何をしていたんだっけ」
どうしても思い出せない。
黒髪の女の人の優しそうな笑顔だけは思い出せるものの、その女の人が何をしたのか、どんな人柄だったのかだけが欠落していた。
遊佐「おかしいな……まぁ、いいか」
その時、この戦場には似つかわしくない道具を構える美しい女性を発見した。
どでかい竪琴だ。
贅沢に、そしてゴージャスに装飾された金色のハープが美麗な曲を奏でる。
その周辺には唾を呑んで彼女を見守る戦士たちがいた。
その勇士はさながら姫と忠誠を誓うナイトのように美しく、思わず指のキャンバスからその光景だけを切り取ってしまいたくなったほどだ。
???「あの……みなさんのお役に立てるかわかりませんが……聴いてください」
まるで清流をただようシルクのような、きめ細かで繊細な髪がふわりと舞う。
リューさんがワルキューレなのだとしたら、彼女は愛と慈悲を連想させるヴィーナスに違いない。
女性は優雅に弦を弾く。
遊佐「あれは……音羽さんか」
何だってあの人はこんな危険地帯に竪琴なんか持って来るんだ。
そんなことを考えているときだった。
エアコンの温風を直接顔に受けるみたいに、むわぁ、っとしたとても不快な風が俺のうぶ毛をさすった。
遊佐「な、何だ!? この異常な波動は!」
目を凝らすと……俺は見てしまった。
女神のような音羽さんの周りを取り囲むナイトたちの体からまがまがしいオーラが放出され、辺り一帯の空気を黒く歪ませているのを!
(音羽さん、綺麗だなぁ……)
(音羽さんのブルマ姿……)
(シャツをブルマん中にしまう派かよ! うおー好きだぁぁぁ!)
(わ、我輩もう……逝ってしまいそうでござる)
(俺、君のためなら死ねるYO!)
(音羽さん萌へぇぇぇぇ!)
ぎゃー! ナイトが変態に!
遊佐「ぐおぉ!! なぜか突然俺のシックスセンスが聞きたくもない心の声を大量にキャッチしてしまったぞ!?」
茜「?」
き、気をしっかり持て! 自分の感覚を信じろ!
俺が悶絶に近いうなり声をあげていると、音羽さんは弦から指を離した。
音羽「あ、あの……御清聴
ありがとうございました」
どうやら演奏が終わったみたいだ。
立ち上がってぺこり、と頭を下げる音羽さん。
音羽「『猛者のメヌエット』という曲です。古くは戦場に向かう戦士たちのために歌われた舞曲らしいのですが……何でも戦士を興奮状態にさせ、攻撃力をアップさせるとかなんとか……らしいです」
おぉ、と変態たちから歓声があがる。
変態D「そういえば確かに(主に下半身の)攻撃力が上がった気がするでござる――!」
ずるぅっ!
俺は頭からスッ転んでいた。
攻撃力アップもなにも、おめーら曲なんかまったく聴いてなかったじゃねえか!
遊佐「何だよ……こんなんばっかかよ。ちくしょう!」
馬鹿バッカじゃねえか!
誰だよこんな試合で単行本一〇冊でも描けるって言ったの!?(まぁ俺なんだが)
一体、俺はこんな中でどうやって戦えばいいんだ――!
最終更新:2007年02月18日 21:41