勿忘草◆GO82qGZUNE
よどみに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて
久しくとどまりたるためしなし
▼ ▼ ▼
西暦2198年2月13日―――その日『天使』は運命と出会った。
高度一万mの空の上。培養漕の透き通った壁を隔てて、少女は生まれて初めて少年と出会った。
外の世界を何も知らなかった『天使』に、少年は様々なことを教えた。それは薄暗い培養漕と無機質な瞳を投げかける研究者以外の世界を知らなかった『天使』にとって、どれほどの救いとなっただろうか。
『天使』は自らの運命に対し諦観していた。殺されるために生み出された自分は、ただ己の意思もなく死んでいくだけなのだと。そう諦めていた。
けれど、差し伸べられた少年の手は、人形であったはずの『天使』に一つの意思を芽生えさせた。
西暦2198年2月20日―――その日『天使』は一つの決断をした。
永遠に晴れない灰色雲に覆われた天蓋の中、世界でただ一つ本当の青空を見上げることのできる、天穹の彼方の塔で。
『天使』の少女は、自分を助けようと他のみんなを切り捨てようとする『悪魔』の少年と向かい合った。
交わす言葉は、別れだった。
少女は生贄だった。1000万人の明日を生き永らえさせるための、『天使』などとは名ばかりの機械部品だった。それを許さず、認めず、自分と共に生きていこうと手を伸ばす少年に、少女はただ拒絶の言葉を告げた。
その拒絶は、生まれる前からプログラムされていた誰かの都合でもなく。
顔も知らぬ1000万人という他人のためでもなく。
少年と出会い、触れ合い、そして彼を愛しいと感じた。他ならぬ『天使』の少女の内から湧き出た意思の現れだった。
それが、少女の決断だった。
ただ言われるがままに諦めて、死の運命を受け入れるのではない。少年のために、自分が大切だと思う人々のために自ら進んでこの命を差し出そう。
自分が死ぬのは見ず知らずの他人のためなんかじゃない。自分はただ、あの人が笑顔で日々を過ごせるというのなら、それでいい。
だから。
「だから、私はいいです……。あの街があそこにあって、みんなが笑って生きていけるならそれでいい。だから……」
『天使』の両腕が、少年の背にまわされた。そのまま少年の肩に頭を押し付けるように体を預ける。少年はそんな『天使』を抱きとめることもできずに、ただ茫然として。
「……だから、あなたは生きて。一日が終わって、次の一日が来て、一年経って何年も経って歳を取って、泣いて笑って悩んで苦しんで、誰のためでもない、自分のために生きて……
そして、時々でいいから私のことを思い出して」
あくまで穏やかな声だった。穏やかな表情だった。ただそれだけでいいのだと、他ならぬ少女自身の言葉が告げていた。
その言葉が、その笑顔が。誰かを傷つけないようにと、優しい『天使』が必死で創り上げた偽物であることを知らないのは、『天使』の少女ただ一人であった。
そうして二人は別れを告げて、分かたれた二つの道は交差することはなく。
―――少女の手に、白色のトランプが舞い降りた。
―――それは少女の過去を暗示するかのような、何の不純物もない白紙のトランプであった。
▼ ▼ ▼
赤土色の荒野が、広大無辺に広がっている世界だった。
周囲一面、見渡す限りずっと同じ景色が続いていた。地面には草木の萌芽の一つもなく、動物たちの気配はおろか骨の一つも存在せず。地平線の向こうから山系の彼方まで、赤く焼けた土が敷き詰められた風景が世界の果てまで続いているのだった。
「くだらぬ連中であった。片輪の土人形どもめ!」
そんな、時間さえもが死に絶えるとさえ思えるような無謬の死世界に、その男はいた。
憤激の感情のままに声を荒げる男だった。自らが為した千の偉業を憎み、自らの生み出した万の創物を悔やんでいるかのような激情を、男は湛えていた。
男の声は無謬の荒野にあって、ただ一つの動あるものであった。嚇怒の絶叫は喉を引き裂かんばかりに揺れ、しかしそれは大気を揺らすことさえなく空しく宙へ溶け消えていく。ここでは、既に風すらもが死んでいるらしい。
「その欲望は果てしなく! 互いが互いを食らう!
己が欲するところのみを求め争う人獣どもめ! 智慧と繁栄を血で濡らす理性の嘲笑者どもめ! 自身を滅ぼす悪徳がそんなにも恋しいか!」
男は、人々を律しようとした。
世界に原初の緑もなく、荒野には草花も芽吹かず、地上における神々の玉座たる山麗は剥き出しの肌を露わにして、青き清浄の海原すらもがその姿を見せていなかった頃。
男が土くれを混ぜ合わせ創り上げた生命は、あまりにも不完全に過ぎた。
不完全であるが故に、人々は愚かしく、野蛮であった。
人間は自分たちを造り出した神を顧みることはなく、ただひたすらに殺戮と欲望の宴に明け暮れた。安息と安寧など夢物語にすら語ることはなく、我欲を満たすがためだけに人々は戦乱の世を生み出した。
不完全であるが故に、人々は容易く生まれ、そして容易く死んでいった。
弱きものは種の存続のために多くの子を成す。下等な虫けらのように、魚群のように。多く群れ欲望のままに相交わり、いっそおぞましいほどに繁殖を繰り返す人間は、男の目には虫のわき出る苗床にさえ見えた。
男は怒った。己の似姿たる人間の、堕落した姿が許せなかった。
男は憎んだ。そのことに気付いた時、男は世界に蔓延る悪意を、己が悪意で滅ぼした。
男は嘆いた。男が最も人に理解してほしかったもの、それは慈悲や慈愛といった類であった。しかし人々はそれら理性の産物を嘲笑い、何を顧みることはなかった。
「まことに、醜い」
そして何より、男は疲れてしまった。
ずっと見てきた。人間が生まれ、営み、死んでいく姿を。永い時をかけて、ずっと。
だからこそ、男は分かってしまった。自分の生み出した存在は、その生まれからして間違っていたのだと。
自分のやったことは全て無駄だった。あらゆる試行は徒労でしかなかった。
けれど。
「この星は呪われているのだ。もっと、もっと。よりよい星を目指そう」
自らのあらゆる可能性を試し失敗に終わった男は、だからこそ"外"に手を伸ばした。
この星は駄目だった。自分の生み出した命は救われなかった。しかし、自分ではできなくとも他の可能性があるとするならば。
「他にも星があるはずだ。我の同種が存在するはずだ」
その可能性に、男は一縷の望みを託した。
その時から、男の探求が始まった。それは砂漠に紛れた一握の砂を探すに等しい無謀であった。大海に落とした一本の針を見つけ出すに等しい苦行であった。
それでも、男は可能性を諦めはしなかった。理由は男自身にも分からなかった。もしかすると、男は信じたかったのかもしれない。
自分の生み出した命たちは生まれから間違っていた。けれど、それはあくまで自分の不徳であったがためで、命という存在そのものが間違っていたわけではなかったのだと。
ただ、そう信じたかったのかもしれない。
根源の分からぬ衝動に駆られるがままに、男は探して、探して、探して―――
「ようやく見つけた! 我の同種を!」
歓喜に打ち震える男が叫ぶ視線の先にあったのは。
遥か白亜の大地に立つ、男と同じ気配を持つ一人の女の姿であった。
………。
……。
…。
「あれから何千年経ったろうか。変わり映えのしない日々だ」
「フフ。わたくし達しかいないからですよ、この悠久の日々は」
粉雪の降りしきる、白くどこまでも続く大地で。
茫洋とした男の声に、答えるのは女の声であった。
美しい女だった。星の誕生以来、連綿と降り積もった白雪を人の形に押し込めたならば、石炭から生まれる金剛石のごとく、この女の顔になるかもしれない。
女は、男へと静かに笑いかけていた。
男と女は、永遠の存在だった。何も変わらず、変わる必要もなく、悠久の時間を過ごせる稀人であった。
彼らは特異な存在であった。だからこそ、彼らは唯一無二であり、自分以外の同種と出会うのは、これが最初で最後であったのだ。
彼らの語らいは幾度となく、それこそ何千年と続けられてきた。男は、女の存在に安らぎを感じていた。例え自分たち以外が存在しない世界であったとしても、それでもいいかもしれないとさえ思っていた。そしてそれは、女も同じ気持ちであった。
けれど。
「そろそろ打ち明けてもいいでしょう」
女の口から放たれた、その言葉は。
「■■■、わたくしをアンバロの短剣で貫いてはくれませんか?」
千年の閉塞を打ち破る、思いもよらぬ一言だった。
「……お前を、殺せというのか?」
男の声は呆然としていた。意味、恐らく理解できていない。
いや、理屈は分かる。アンバロの短剣とは男や女のような存在の肉体から作り出される短剣で、男や女のような永遠の存在はその短剣でのみ傷つけられる。
けれど、いいやだからこそ、男は何故女がそれを望むのかを理解できなかった。
「いいえ。死ぬのではない。生きるのをやめるのです。
わたくしは胎だけの存在となる。そして、生き物たちを生き永らえさせる」
「生き物? どこにいるというのだ」
二人のいる大地は、どこまでも、どこまでも、白く雪の降り積もった風景が続くだけの、寂寥とした地だった。
空も、大地も、風も、水もそこにはあった。けれど、命の気配だけはどこを探そうとも見つかることはなかった。
「まさか、今から作るとでもいうのか。
無駄なことだ。土をこねて造り出した生命は不完全だ。我は一度失敗している」
今更言う必要もないことであった。何故なら、そんなことはこの千年で幾度となく伝えている。
如何な男や女のような存在であろうとも、単独では不完全な生物しか造り出すことができない。土をこねる、水で清める、そうした方法では所詮片輪の人形しか生み出せない。
「分かっています。だから、創るのです。あなたと共に」
「わたくしを解体して、ね」
その言葉は、どこまでも静謐なものだった。
「たなびく髪は、空を舞う鳥。
白き顔は人間。
両の腕はひらひらと泳ぐ魚」
「腹部からは虫が湧き出で。
陰部は海の諸々の生き物に。
両の脚は有蹄類に」
「そしてこれらの生命が地上での生を終えた時。
わたくしの胎内で第二の生を送るのです。悠久に……」
表情は変わらない。女の横顔はいつもと同じ嫋やかな笑みを湛えている。
しかし、その内実には意を決したような意思の強さが秘められているのだと、男は誰に言われるでもなく悟ることができた。
「お前は下等な生き物どもの永遠を望むのか。我々が如き永遠を!」
「ええ、そうです。だからわたしを、アンバロの短剣で……」
女の頼みは、今や嘆願にさえなって。
男は何かを思うかのように、静かに一つ息を吐き。
「フン。言っても聞かぬのがお前の性格」
「よかろう。我の肋骨も四肢も胴体もくれてやる」
「顔の皮もくれてやる」
水をぶちまけるかような音が、白い大地に響き渡った。
………。
……。
…。
「グーリエ。お前の犠牲は尊い」
「我々が共に作った生命だ。今度こそ―――」
「今度こそ、生き物たちが正しい道を歩めるよう、信じるよ」
▼ ▼ ▼
文明華やかなりし二十一世紀。鉄と排煙に包まれた鉛色の時代はとうに過ぎ、高度な経済成長の後押しを受けた社会はより良き未来を目指して物質的な富を人々へ供給し続けている。スノーフィールドも例に漏れず近代化と開発を繰り返し、今や一地方都市としては中々の発展を遂げていた。
そんな中央区某所、所属するミドルスクールを去り、少女が帰宅したのは17時を過ぎた頃だったか。
道を歩く少女は、端的に言えばかなり目立った外見をしていた。金糸を梳いたような金色の長髪に、エメラルド色の双眸。白磁の肌は薄茶の制服の生地に映え、整った顔立ちはまるで良くできた人形のような美しさとあどけらしさを湛えていた。
道行く少女が辿りついたのは、大きな邸宅だった。庭付きの一軒家はアメリカの宅地住宅に相応しく洒落ており、手入れもよく行き届いていた。家人の趣味か、あるいは人を雇っているのか。どちらにせよ、裕福な家庭であるのは間違いない。
夕陽が差し込む玄関を、少女は慣れた様子で開けた。蝶番の軋んだ音が小さく鳴る。
「ただいま帰りました、おばあさま」
「ああ、お帰り、フィア」
帰宅を告げる少女に、答えたのは老いを感じさせるしわがれた女の声。
その声の持ち主は、窓際の安楽椅子に腰かけていた。しわがれた声と「おばあさま」という呼び名に相応しい、壮年を通り越した老女の姿がそこにあった。白髪混じりの頭はそれだけ年を感じさせ、落ち着いた雰囲気は人生経験の重みを表しているかのようだった。
「どうだったねフィア、学校は楽しいかい」
「ええ。皆さんとても良くしてくださいますし、私も色々なことを経験できてとても充実しています。本当にありがとうございます、おばあさま」
「そんな畏まるのはおよしよ。おまえの世話を見るのは当然だし、何より好きでやってるんだからね」
老女の言葉に嘘はなかった。「心」を読めば、それが内心の思考と全く同じ言葉であるのだとすぐに分かる。
かつてはその本心を知ることを恐れ実行に移せなかったことを、しかしこの場においてフィアと呼ばれた少女は躊躇なく実行した。何故ならば、この老女はフィアの知る「本物」ではない故に。
「この街におまえが来て、そろそろ一月といったところか。どうだい、友達はできたかい?」
「……えっと、どうなんでしょう?」
「おやおや、そんな弱気でどうするんだい。これじゃあ男を捕まえてくるのも当分先になりそうで、私は今から不安だよ」
「もう、おばあさまったら」
靴を綺麗に脱ぎ揃え、フィアと老女は他愛もない会話に興じていた。内容には少々下世話なものも含まれていたが、それも併せてフィアにとっては楽しく、そして幸せなものだった。
フィアにとって、この老女との会話は現状、世界で唯一安らげる時間だった。それは、この見知らぬ世界における偽物の彼女であっても変わることはない。
「それではおばあさま、一度お部屋に戻らせてもらいますね」
「おや、ついつい引きとめてしまったか。悪いことをしたねフィア、もうお行き」
「はい」
数分の会話の後、フィアはいそいそと部屋を出て突き当りの階段を昇った。フィアの自室は二階にある。階段を昇って正面の部屋、そこがフィアに割り振られた自室だ。
「フィアの部屋」と可愛く装飾されたプレートが掛かった扉を開き、中へ入る。小奇麗に整えられた、やや殺風景な室内がフィアを出迎えた。
フィアは鞄を机に置き、いそいそと制服から着替えて壁のハンガーに吊るした。一連の作業が終われば、訪れるのは空虚な沈黙。
静かにベッドに腰掛け、息をひとつ。そうしてフィアは、振り絞るように呟いた。
「……おばあさま」
その呟きは。
残酷な、無慈悲な運命に対する。
やり場のない憤りにも似た、声だった。
フィアはこの時代の人間ではなかった。
21世紀どころか、次の世紀の更に終わりの頃。彼女はおよそ200年後の未来に生きた者だった。
何故自分がこの時代に存在するのか、それはフィア自身もよく分かっていなかった。誰も立ち入らなくなって久しい軌道エレベーター、その一角にひっそりと落ちていた白紙のトランプを拾った瞬間から、元の世界における彼女の記憶は途切れている。
I-ブレインの記憶領域に書きこまれた情報でしか知らないはずの、200年前の情景はあまりにリアルだった。生活水準や生活環境も自分の元いた場所とはまるで違う。行き交う人々は魔法士なんて存在はおろか、情報制御理論の片鱗すら知りはしない。
そして何より、この空だ。
見上げた空には、あり得るはずのない青が一面に広がっていた。燦々と輝く太陽、突き抜けるような青空、風に流れる白い雲に、夕陽の赤さや星の瞬き。それらはフィアのいた未来では決して見ることのできない代物で、故に彼女がタイムスリップしてしまったと考えるのは当然の帰結と言えた。
けれど、単なるタイムスリップだとすると不可解な事象もあった。それが、先ほどフィアと会話していた老女―――七瀬静江の存在だった。
彼女もまた、フィアと同じ時代の人間だった。孤独に俯いていたフィアの拠り所となり、その心を支えてくれた恩人。そんな彼女が、何故かこうして「21世紀のアメリカに籍を置く日系人」として存在している。
最初、フィアは彼女もまた自分と同じ境遇にあると考えた。そしてその考えのもとに、フィアは自身の有する「同調能力」によって静江の記憶野を詳細に読み取った。
結論から言うと、この時代に生きているという静江の言葉に嘘はなかった。静江の数十年分の記憶は間違いなくこの時代を生きたものであり、200年後の未来のものではなかった。次にフィアは、静江に何らかの記憶処理が施されているのではないかと考えたが、これも違った。脳内を隅から隅まで探査しても、それらしい痕跡は一切見受けられなかった。
それだけならば、まだ疑いようもあったかもしれない。しかしこの世界に組み込まれたのは静江だけではなく、フィアもだった。フィアにはスノーフィールド中央区のミドルスクールに通う学生という身分が何故か与えられていて、静江は血のつながらない後見人という立場にあった。
この時点で、フィアは自分の記憶こそが間違っているのではないかと錯乱寸前にまで至った。もしかしたら夢なのでは? という儚い現実逃避は長く保たなかった。脳内に表示される現在状態が、ここは現実であるとはっきり告げていたのだから。
元々いた世界、2198年の未来において、フィアはとある少年と最後の再会を果たしていた。放置された一室の天蓋、そこに植えられた人工の花畑。そこで待っていた少年へ、今生最期の別れを告げたのだ。
その別れは、本来のものとは違う意味で訪れたらしい。死すべきだった自分は、しかしこうして異世界へと転移させられてしまったのだから。
もしかしたら、自分はとっくにロボトミー処置を受けてマザーコアとなり、意識とか魂とか、ともかくそういうものだけが天国やあの世に行ってしまったのかとも考えたが、どうやら違うらしい。
現状に戸惑うフィアの前に現れた「サーヴァント」が、それを教えてくれた。
彼の言葉を聞くことによって、フィアはようやく自分の置かれた状況というものを把握することができたのだ。
「さて、十分な時間が過ぎたが、お前さんの意思は変わらんかな」
静江に勝るとも劣らないほど老いた声が部屋に響いた。ベッドに腰掛け俯いていたフィアは、その方向へ顔を向ける。
老人がそこにいた。仕立てのいいスーツを纏い、白く口髭を蓄えた様は微塵の汚らしさもなく気品として成り立っている。深い皺は年輪の如く、彼の持つ知性を感じさせるようだった。
「はい。最初に言った方針は変わりません。
私は元の場所に帰ります。そして、マザーコアとしての役目を果たします」
そう語ったフィアの声は、自分でも分かるほどに震えていた。
それは暗に込められた嘆きでもあって、嗚咽でもあった。けれど、フィアはそれを声以外に出すことはない。
フィアは、静かに笑っていた。不安を感じさせないように。
この老人こそが、フィアに与えられた、この世界で唯一の道標であり、力でもあるサーヴァントだった。その好々爺な風貌に違わず、彼は時折フィアとの対話を望み、幾度か言葉を交わす間柄となっていた。
既に彼には話してある。フィアの来歴も、身の上も、定められたその末路も。
「お前さんが望むなら、わしが従うのも吝かではない。
しかし、聞かせてはくれんかな。何故そうまでして、お前さんは自分の命を捨てようとするのか」
老人の言葉は静謐なものだった。憤りも悲嘆も、そこにはなかった。
「簡単なことです」
対するフィアも、ただ静かに微笑むだけだった。
「私には大切な人たちがいます。こんな私でも、守りたいって思える人ができた……それだけのことなんです」
彼女が元いた世界―――2198年の地球は生物根絶の瀬戸際に立たされていた。北極と南極に一つずつ設置された大気制御衛星が謎の暴走事故を起こし、干ばつ対策用の遮光性気体を撒き散らし、世界が終わらない冬に閉ざされたのは今から12年前のことだった。
永久凍土に覆われ死に絶えた世界。日光を遮る暗黒雲により地上からは一切の光が失われ、世界の平均気温は零下40℃を下回った。如何に寒冷に強い植物であろうとも陽の光なしでは生きてはいけず、それはエネルギー供給の90%以上を太陽光発電へと移行し始めていた人類も同じことだった。
当時の世界情勢は、それは酷いものだったと聞く。人類は僅かに残された地熱・風力発電プラントの利権を争い、次第に戦争状態へと移っていった。そして引き起こされたのは第三次世界大戦。人類は僅かな資源を湯水のように消費し、勝者が生まれるはずもない不毛な戦いへと身を投じていった。
文字通り世界全土を巻き込んだ戦争は、2年に渡って行われた。核融合炉の暴走によってアフリカ大陸は地図からその姿を消し、失われた人命は198億人にものぼった。最終的に人類に残されたのは、たった7つのシティと2億人足らずの世界人口。血で血を洗う戦いの果てに、人類が得たものは何もなかった。
それでも、滅びに向かうしかないはずの人類は、仮初の希望を無理やりに造り出した。
陸生生物が悉く絶滅するほどの過酷な環境下で、碌な資源もなく疲弊した人類がそれでも生き残れたのは、何故か。
その理由は、マザーシステムという機構にこそ存在した。それは「とあるもの」を核とした第二種永久機関であり、人類に残された最後の希望とも呼ぶべき代物だった。
大戦前は「人道的な」理由から使用を断念されたこの機構に、しかし大戦を経て疲弊した人類は我先にと縋りついた。そのための犠牲を「必要なことだ」としたり顔で受け入れて。
マザーシステムの核は、マザーコアと呼称された。
それは、魔法士と呼ばれる特殊な人間の、脳髄だった。
「それが、お前さんの死ぬ理由か」
「いいえ、死ぬんじゃありません。生きるのを止めるだけです。私の脳はシティとその周辺の街を生かし続けるでしょう。
だから、私はいいです。あの街があそこにあって、みんなが笑って生きていけるなら、私はそれでいい」
つまるところ、少女は生贄にも等しい存在だった。
マザーコア特化型魔法士『天使』。ただ殺されるためだけに生み出され、予定通りに死ぬ行くだけの儚い命。
けれど、それでも救いはあった。
本来、彼女は殺されるだけだった。誰かの都合で生み出され、誰かの都合で死んでいくだけの消耗品。そこに彼女の意思は介在せず、運命に流されるだけのはずだった。
そんな、人間未満の人形でしかない彼女は、しかし最期に守りたいと思える人々に出会うことができた。
だから、これは悲劇などではないのだ。誰かに無理やり死を押し付けられるのではなく、彼女は自分の意思でその道を選んだのだから。人間未満の人形が、それでも大切の人々を助けることができたなら、それは祝福とさえ呼べるだろう。
「聖杯を使う、という選択は取らないのかね」
「……使えません」
使わないのではなく、使えないと、少女は言った。
「私は世界が好きです。人間が好きです。誰にも泣いて欲しくないし、みんなに幸せになってほしいです。だから、誰かの願いを踏み躙るようなことは、できません」
少女は、フィアは笑顔のままだった。その裏に潜む感情を、彼女は見せることがない。
あくまで穏やかな声だった。穏やかな表情だった。優しい少女が、人を傷つけないために作り上げた笑い面。
自分自身でも気付いていない、ボロボロの仮面だった。
「……昔、お前さんとよく似た女と会ったことがあるよ」
ぽつり、と。
サーヴァントの老人は語った。それは昔を懐かしむような、失ってしまった何かを思い返すような声で。
「そやつはグーリエと言ってな、傍にいるだけでなんとも心安らぐ女だった。そやつもまた、皆が安らぐ世界を夢見ておったよ」
「その、グーリエって女の人は……」
「死んだよ。お前さんと同じような道を選んで、我が身を犠牲にして死に絶えた」
それは遠き星のおとぎ話。かつて永遠を生きて、しかし他我の永遠性をこそ尊んだ一柱の女神の物語。
彼は語って聞かせた。グーリエと呼ばれた女の話を。自らの生ではなく生き物たちの未来を望み、それ故に彼が刻まなければならなかった過去を。
フィアは黙ってそれを聞いた。いや、あるいは自らの境遇と重ねたのかもしれない。
何故ならグーリエという女の選択は、フィアの選ぼうとしているそれと限りなく近く、同時に限りなく違ったものであったから。
「あなたは、グーリエという人の選択を間違っていたと思いますか?」
「……いいや。彼女は何も間違ってなどいなかった。彼女の創り上げた世界は歓びに満ちていた。間違っていたのは、わしのほうだったよ」
「それなら」
そこで、フィアは笑った。
それはとても眩しく、あまりにも尊いものだったけど。
心からの笑みではなく、それはやはり、仮面の笑みだった。
「それなら、私も同じです。みんなに、あの人に、生きてほしいと願う私の心は。
決して、間違ってなどいないのですから」
けれど。
例えそれが悲しみに満ち溢れていようとも、百劫の罪に引き裂かれんとする少女の嘆きであろうとも。
想う心は本物であった。誰かに今を生きて欲しいと、願う光は偽りなどではなかった。
「……お前さんの決意は尊い。だからわしも信じよう。お前さんの救う命たちが、今度こそ正しい道を進めることを」
故にこそ彼は、呪われた永遠の放浪者は願う。
いずれこの少女の悲しみが、シューニャの階梯へと至り「かなしみ」に昇華されることを。
遠き空の果てであろうとも、星海の芥粒の一つであろうとも。
人はこうして悲しみを胸に抱き、いつかシューニャの空へと至る。
できるとも、この少女ならば。
こんなにも自分を責め、こんなにも人の死に心を狂わせる彼女ならば。
生の終わりを垣間見て、その想いが成就することがあれば。
犠牲でも逃避でもない第三の選択肢を選び取ることも、また。
だからこそ、彼は告げるのだ。
肯定するでも否定するでもなく、ただ少女の未来を見据えて。
いずれ訪れるかも分からぬ、果て無きものを見つめて。
「生きよ、一切のかなしみと共に。お前さんの旅路の終着点が歓びで満ちることを、わしは祈っている」
例え定められた終わりが迫ろうとも、ただ、今を生きるのだと。
そう、アハシュエロスは告げたのだった。
【クラス】
クリエイター
【真名】
アハシュエロス@シューニャの空箱
【ステータス】
筋力D 耐久D 敏捷B 魔力A+ 幸運E 宝具A+++
筋力A+ 耐久A+ 敏捷B 魔力EX 幸運E 宝具EX(宝具発動時)
【属性】
秩序・善
【クラススキル】
創造:-
かつてクリエイターは星における地上の一切を創造し、人類種を作りだし、その歴史の趨勢を三度に渡って観測した。
しかし彼は一度は人類の文明圏を破壊し、二度目も同じ道を歩みかけ、三度目は真に独力で創造することもなく、現在では神格・クリエイターとしての権能はほぼ失われている。
なお、クリエイターは文字通り人理の破壊者であるため「デストロイヤー」のクラス適性を内包する。このクラスで呼ばれた場合、状態が神格で固定となり、属性が反転する。すなわち召喚は不可能。
【保有スキル】
魔術:A+(A+++)
万物を創造した者として、多種多様な魔術を扱うことができる。原初の混沌の内に光を生み出すことも、一瞬にして巨大な城や天を覆うほどの巨剣を作り上げることも、大地を逆巻き割れさせることも彼には容易い。
宝具発動時においては()内のランクに修正される。
神性:-
既に彼は神であることを捨て去っている。人の似姿であるアハシュエロスは元より、神であった■■■でさえも、かつてとある情景を目にした瞬間に神であることを「止めて」しまった。
本来は神霊にして星の最強種であるクリエイターをサーヴァントとして召喚することは不可能なのだが、このスキルの消失に伴い、霊格と存在規模を極限まで低下させ「似姿」たる人の殻を被ることにより辛うじてサーヴァントとして現界するに至った。
プルシャの悟り:B
無人称の盲目な意思、シューニャへ至る階梯を観ずる者が纏う守り。
対粛清防御とも類似したスキルであり、物理攻撃・概念攻撃・次元攻撃を無条件で一定値削減する。また、精神干渉であるなら100%シャットアウト。
【宝具】
『永遠が我らを別離つとも(アンバロ)』
ランク:A+++ 種別:対神宝具 レンジ:1 最大捕捉:1
簡素な造りの古ぼけた短剣。
この宝具の正体は、半神の娘の遺骸より作り出された星作り/星殺しの剣。神が星の為、そして星に生きる遍く全ての存在のために創造した、自身を含めた神格を殺傷するに最も相応しい性能を誇る剣という、矛盾した神造兵装。
ランクに見合った相当量の神秘を内包するだけに留まらず、神性スキルを持つ者やそれに類する存在に対し特効の効果を発揮する。この宝具を所持した者は無条件でEXランクの神殺しスキルを取得し、該当サーヴァントにおいて防御に関わるあらゆるスキルや宝具による体質・耐性・加護・補正を無視して切り裂く。
また、クリエイターはこの宝具を任意で他者に譲り渡すこともできる。そしてこの宝具はクリエイターの死後も残り続ける。
かつてクリエイターが愛した者を切り裂くために使われ、そしてクリエイターが愛した者より生み出された、彼の愛憎の変遷を象徴する宝具。
『反存在・星殺しの嘲笑者(アンチビーイング・アースキャンサー)』
ランク:EX 種別:奉神宝具 レンジ:0 最大捕捉:1
反人間、反存在、人類の嘲笑者にして神殺しの神格。アハシュエロスのかつての姿を限定的に顕現させるのがこの宝具である。
真名解放に際してクリエイターの姿は皮を剥された巨大な顔面へと変貌し、ステータス及びスキルランクの修正を受ける。
この宝具の本質は、星殺しにして神殺しの神格に近づくと同時に生前の逸話を色濃く反映するものであるため、天もしくは星の属性を持つサーヴァントに対し極めて有利な補正を得るが、三度人類種に敗れた逸話により人の属性を持つサーヴァントに対しては逆に極めて不利な補正を取得する。
クリエイターは進んでこの宝具を使うことはない。何故ならこれは、彼にとって最大の過ちを犯してしまった時の姿であり、そして愛する者を二度に渡って失ってしまった喪失の象徴であるからだ。
【weapon】
バロスの杖
【人物背景】
「この人が一体誰であるのか。この人は一体何をしたのか。
私にはもう体がないから、彼に会うことはできないけど。でも語るとするなら一つだけ。
それはいにしえのうた。遠き空の向こうからやってきた神さまのお話。
その昔、この星に神さまがいた。人を生み出し自然を愛した神さま。
だけどその神さまは殺され、彼女の子宮が死後の世界になったんだって」
「この星の原祖神はある者に殺された。そのある者は人々を虐げた。
何百年何千年も人々は絶望に打ちひしがれた。
やがて世界は諦念に包まれ悪徳が支配した」
「神殺しのある者は遠く遠く空の果てからやってきた。
かつてはどこかの神さまだった。だけど……
その星の人々は神さまを顧みず、殺戮と欲望の宴に明け暮れ……
怒った神さまは星を滅ぼした。
悪意を悪意で滅ぼした時、深淵は深淵に呑まれたの。
荒れ果てたふるさとを捨てた神さまはこの星に目をつけ、人々を苦しめ続けたの」
「怒れる神殺しの神はこの星の勇士に倒された。
彼は原祖神の胎内で永劫の罰を受けている。
原祖神の名はグーリエ。かつてこの星の命を生み出した偉大な母神。
神殺しの神の名はドグマ。遠い遠い星を治めた唯一神。
これでいにしえのうたはおしまい」
彼の者は"かなしみ"に生きた。
彼の者は自らの行いに無自覚的であった。愛憎の果てに自らの肋骨を、手足を、胴体を、顔の皮を彼の者は捧げた。
彼の者は己の内に矛盾を見た。ソフィアとフィリアを作り出し、二律背反が癒される日を願い、神と人のかすがいをこの世に生み落した。
彼の者は変容を目指した。すなわち彼の者は人間を目指した。娘は死んだのだ。彼の者は死すべきものになりたかったのか。自らを打ち破った人間、その不可解を理解するために。
真実を知った者は去らねばならない。娘は死んだ、そして神も死ぬ。
「お前と共に再生したこの星は、歓びに満ちていた」
「総てが失われる今、初めて知った……娘よ、我はお前を愛していた」
【サーヴァントとしての願い】
最早この身に願いは無い。
ただ、叶うのならば。
娘は安らかに逝けたのか、それだけが知りたかった。
【マスター】
フィア@ウィザーズ・ブレイン
【マスターとしての願い】
元の世界へ帰り、マザーコアとしてこの身を捧げる。
【weapon】
なし
【能力・技能】
魔法士:
大脳に生体コンピュータ「I-ブレイン」を持ち、物理法則を改変して戦う生体兵器。マザーコア特化型の天使である彼女は戦闘能力に乏しい。
同調能力:
自身を中心とした一定の半径内に情報的な支配領域を広げ、領域に触れた対象の全存在情報を取り込み、情報の側から支配する。人を取り込んだならばその動きの一切を封じ、物質を取り込んだならば原子配列の変換を初めとした自由度の高い操作が可能。
ただし支配領域は球形上かつ触れる者全てを無差別に取り込むため、遠隔の対象を選別して取り込むことには向かない。また、領域内の情報量があまりに多くなると自動的に発動がキャンセルされる。取り込み限界は常人やNPCならば20人程度。空間や無生物ならば無尽蔵。
魔力によって構成されるサーヴァントに対しては上手く働かず、同調して取り込むことはできない。
【人物背景】
全てが崩れ去った未来において、生に縋る人類が生み出した希望のための生贄。ただ殺されるためだけに生み出された『天使』の少女。
原作一巻、軌道エレベーター内で錬と再会した直後より参戦。
【方針】
帰りたい。誰かを傷つけることは、したくない。
最終更新:2017年05月14日 00:59