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新-080

 いつもなら眠るにはずいぶんと早い時間。ラブはぼんやりする頭を冷やしながらベッドに潜り込む。
 すっかり元気になったなんて嘘だ、ホントはまだちょっぴり熱っぽくてダルかった。
 枕元でリンクルンが鳴り響く。発信者は蒼乃美希、予想通りだった。


「もしもし、美希たん今日はゴメン! オーディションの服を一緒に選ぶって約束してたのに」
「いいのよ、それより風邪はホントに良くなったんでしょうね?」

「もうバッチリだよ。それで、こんな時間にどうしたの?」
「せつなのことよ。仲良くなれたのは良かったんだけど、少し気になることがあって」


 美希にとって、初めてのせつなとの二人きりの時間。始めは気まずくて、何を話したらいいのかもわからなかった。
 せつなは口数が少なくて、真面目で責任感が強くて、思ったことをズケズケと意見する子だった。

 なんとなく気になって祈里に聞いてみた。二人っきりの時、祈里にとってせつなはどんな子なのかって。
 可愛らしくて、少し天然なところもあって、いつもニコニコしていて、おとなしい子だって。

 そして、以前ラブにも聞いていたことを思い出したのだ。ラブと二人っきりでいる時のせつなは――――
 明るくはしゃいで元気いっぱいで、冗談もよく口にする自由奔放な子なんだって。


「確かに、アタシたちだって相手によって態度を変えることはあるわ。けど……」
「何が言いたいの? それじゃわからないよ美希たん」

「じゃあハッキリ言うわね。これ、本当に同じ子なのかしら?」


 まるで映し鏡。せつなは瞳に映る相手の印象を、自分自身に取り込むかのように振舞う。
 そして、一緒に居る人の数が増えるほどに個性は薄れ、どんどん存在感が薄くなり人々の中に溶け込んでいく。

 だとしたら、本当のせつなは一体どこにいるんだろうって。


「そんなことないよっ! 初めて会った時からせつなは素敵な子で、何も変わってなんかいないもの!」
「あっ、アタシ……。そんなつもりじゃなかったの。ただ、ちょっと心配になっただけで」

「こっちに来たばっかりで、どう振舞っていいかわからないんだと思う。力になってあげて、美希たん」
「変なこと言ってゴメン。もちろんよ! 一人にはしないって約束したものね」







 『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。四つ葉中学文化祭(中編)――』







 うなされるようにしてラブは目を覚ました。いつもの起床時刻までにはまだ一時間もある。
 部屋は少し寒いくらいなのに、下着はじんわりと汗をかいていた。
 べつに悪夢というほどの記憶でもない。なのに、なぜか心は不安に囚われる。

(どうして、今頃こんな夢を見たんだろう……)


 あの日、美希はせつなを優しいと表現した。優しいって言ってもらえたのは初めてだって、せつなは嬉しそうに話してくれた。
 美希が懸命にせつなを知ろうとしたように、それ以上に、せつなは自分を探していたんだと思う。
 自分の生き方を選ぶことすら許されなかった子。誰かを愛する自由すらなかった子。
 メビウスの僕という配役を、無理やり演じさせられていた子。
 生まれた時から、ずっと――――ずっと……。


(演劇なんてやらせたの、失敗だったのかな?)


 せつなが、この物語を作り話と捉えていないのは明らかだ。
 役になりきるだけではなく、自分の何かを投影させていることも伝わってくる。
 何も叶わない世界で生きてきた彼女には、この二人の境遇と生き様はどのように映るのだろうか。


(せつなは、どうしてシナリオを変えることを拒んだんだろう……)


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。それは、自分がどうすればいいのかってこと。
 変わらない。何があろうと――――それだけは絶対に変わらない。


(あたしはいつだって、せつなの想いを正面から受け止めるから!)


 せつながロミオになるならば、自分はジュリエットになろう。
 ただの一度だって、自分の心に背いたことなんてなかった。桃園ラブは、ずっとラブでしかなかったから。
 だから、生まれて初めて他人を演じよう。


(せつな、あたしもジュリエットになるよ。そして、ロミオとの愛を貫くんだ)







 刻は夜更け、舞台はキャピュレット家の庭園。その高い壁を飛び越えて人影が進入する。そのまま館に最も近い木立の影に身を隠した。
 ジュリエットに一目会いたくてたまらず、ロミオは危険を承知で宿敵の屋敷に忍び込んだのだ。
 息を潜めて二階を見上げるロミオ。その願いが天に届いたのか、ジュリエットは窓から顔を覗かせた。


「あれは何だ! まるで暗い闇に突然日の光が差したかのようじゃないか。
 ジュリエット、君こそは太陽だ。数多に煌く星たちも、その眩き光の前には全ての輝きを失う。
 大空が太陽のものであるように、僕の心の全ては君のものだ。たとえ焼き尽くされても構わない、僕は君に触れてみたい」


 ロミオがすぐ側にいることも知らず、ジュリエットは想いの丈を口にする。


「おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの? どうかお父様と縁を切り、ロミオという名をお捨てになって。
 私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ。モンタギューの名を捨てても、あなたはあなた。
 モンタギューってなに? 手でもないし足でもないわ。
 顔でもない。人間の身体の中のどの部分でもない。だから――――別のお名前に。
 そのお名前の代わりに、私の全てをお取りになっていただきたいの」

 小さな胸に秘めておくには、あまりにも切なすぎる想い。されど他人に口にすることは許されぬ想い。
 相手は宿敵モンタギューの息子なのだから。
 せめて、月に聞いてもらいたい。そんな乙女心からの囁きだった。
 まさか、愛する人に聞かれていたなんて。それが初めて交わす会話になるなんて……。


「おお、ジュリエット! 全て受け取りましょう。ただ一言でいいのです、僕を恋人と呼んでください。
 その言葉を洗礼に代えてロミオの名前を捨てましょう!」
「ロミオ様!? どうしてここに? 何のためにいらっしゃったの? 
 あなたはモンタギュー家の嫡子。もし家の者に見つかれば、命はないというのに」

「ジュリエット、どうか月にではなく僕に向かって言ってください。愛していると!
 もしもそれが叶わぬのなら、このまま見つかってしまいたい。
 あなたに愛されず空しく死ぬ日を引き伸ばすより、いっそ彼らの憎悪にこの身を引き渡しましょう」
「ああ、夜の闇に感謝いたします。恥ずかしさのあまり、きっと真っ赤に染まっている頬を隠してくれるのだから。
 呆気ない女、たしなみの無い女と思われたでしょうか? 物足りないと失望させはしなかったでしょうか?
 だって、しかたがないのです。まさか恋しい胸の内を、知らない間にすっかり立ち聞かれるなんて思いもしなかったのですから。
 そうでなければ、もっとつれなく見せたり、よそよそしく拗ねて見せることもできたでしょう」

「恋の駆け引きなど、真実の愛の前に何の意味がありましょうか?
 ジュリエット! 僕は誓言しましょう。あの美しい月の光にかけて――――」
「いけません! 一月ごとに形を変えてしまうような月になど誓われて、あなたの愛まで変わってしまっては大変です。
 どうしてもと仰るのなら、私にとって神にも等しいあなた自身に誓ってください」

「ならば、もし僕のこの想いが――――」
「ああ、待って! 奥で乳母が呼んでいる。今宵はこれまでです。
 ロミオ様、もしもあなたの愛が真実で、結ばれるおつもりがあるならば明日使いをやります。
 いつ、どこで式をなさるのかお言付下さい。
 そうしたら、私は全てのものを投げ打ってあなたの元に参りましょう」


 桃色のドレスに身を包んだラブが、身を翻して舞台から降りる。腰まで伸びた金色の髪が、歩くたびに揺れてキラキラと輝く。
 普段の快活さは鳴りを潜め、しとやかで可憐な身のこなし。まるで、生まれた時から貴族の令嬢であったかのように。
 せつなもまた、漆黒の礼装で闇に紛れるようにして走り去る。
 繊細で優美。洗練された一分の無駄もない動き。されど、その振る舞いは――――紛れもなく男性のものであった。


「こんな綺麗な子、うちのクラスにいたっけ?」
「馬鹿、桃園だろうが」
「わかってる。いや、わからねえよ。こんなに変わるものなのか?」

「すごいじゃない! ラブ。セリフも完璧! 情感もたっぷりで……何があったの?」
「何もないよ由美。ただ、なりきってしまえば――――覚える必要も、演じる必要もないって気がついたの」

「なるほど、スイッチが入ったって感じね」
「スイッチって?」

「時々、ラブってすごいもの。ホントにどこかにスイッチがあるんじゃないかしら?」
「きゃはは! やだやだ、くすぐったいったら! ないない、そんなのないって!」

「こらっ! 男子が真っ赤になって見てるわよ。真面目にやりなさい」


 軽く注意しながらも、せつなも嬉しそうに会話に加わる。足手まといと心配されていたラブの演技の突然の上達だった。
 セリフはよどみなく紡がれ、時に言葉に詰まっても、台本に劣らぬアドリブで乗り切ってしまう。
 詠うような流暢な会話の流れの中に、溢れんばかりの心情が篭っていた。

 こと、目立つという意味においては、ラブはせつなすら凌駕する。
 ミユキがラブに目を付けたのは、何も助けてもらった恩に報いただけではない。
 美希と一緒の撮影で、ぬいぐるみを着せられた本当の理由。テーマすらぶち壊してしまう圧倒的な存在感。
 理屈では説明できない魅力。ただそこに居るだけで、その場の空気すら変えてしまうほどのスター性がラブにはあった。

 スイッチが入ったと由美が形容した。ラブは心の輝きがそのまま外面に出る子だ。役になりきることで、本来の魅力が引き出されたのだろう。
 それはせつなも同じだった。ラブがスイッチなら、せつなはリミッターといったところだろうか。それが完全に外れていた。
 普段は優秀ながらも目立ちすぎないように抑えている能力が、余すところなく発揮される。

 せつなは大したメイクはしていない。ウィッグすら付けていない。ただあるがままに、男子たれと自分に言い聞かせているだけだ。
 彼女の強力な自己暗示は、心の持ち方だけに留まらない。言うなれば魂の変容であった。
 日頃のつぶさな観察によって蓄積された情報は、人々が抱く理想の振る舞いを体現する。そして清楚な少女は美麗な男性へと変貌した。
 男子のせつなへの憧れは一時的に失われ、同性への嫉妬に変わる。反対に女子の目はせつなに釘付けになり、恋に似た感情を抱く者すら現れた。

 ロレンス神父の導きの元、密やかに行われるロミオとジュリエットの婚姻の儀式。セリフが少な目で、瞳で語り合う一番難しいシーンだった。
 クラスの皆は、それが演技であることも忘れてその神聖な儀式を喜び合う。
 それほどまでに、ラブは嬉しそうだった。それほどまでに、せつなは幸せそうだった。
 出会ってわずか数日後の結婚式。まるで、何かに急き立てられるように惹かれ合う恋人たち。
 それは、物語の顛末を知らぬ者には滑稽なほどに不自然で――――知る者には悲しいほどに自然な心の動きだった。







 ヴェローナの街にて二人の男性が落ち合う。太守の親戚にしてロミオの無二の友、マキューシオとロミオの従兄弟のベンヴォーリオだ。
 キャピュレット家のティボルトがロミオに果たし状を送ったことを知り、代わりに受けて立とうと勇ましく語り合う。
 仮面舞踏会でロミオと衝突した因縁があり、それを晴らすつもりなのだろう。
 キャピュレットの甥で、ジュリエットの従兄弟にあたる人物だ。文武両道に秀で、特に決闘における強さは無双の剣士と謳われる。
 剣よりも女性の手を、戦いよりもダンスを好むロミオに敵うとは思えない。

 案ずる二人の前にティボルトが現れる。
 ロミオのことを聞き出そうとしたところ、マキューシオが立ちはだかる。


「語り合うなら女に限る。お前とは喧嘩が相応だ。ロミオより先に相手になるぜ!」
「落ち着け! マキューシオにティボルト、ここは往来の街中だ。落ち着いて話し合うか、さもなくば別れようじゃないか」
「そうだな、お前らと争っている暇はない。俺の相手が現れたんでな」

「ロミオ! なんてところに……。お前の運は女以外ではさっぱりだな」


 今にもティボルトに挑もうとするマキューシオと、ロミオに襲いかかろうとするティボルト。
 二人の鬼気迫る様子に対し、ロミオは全く戦意を見せようとしない。


「ロミオ、俺はお前を認めない。貴様は卑怯者の悪党だ」
「生憎だが、僕には君を愛さなければならない理由がある。僕は卑怯ではない。君は僕をまだ理解していないだけだ」

「そんな言い訳で、貴様から受けた数々の無礼が帳消しになると思うな! さあ剣を抜け!!」
「それも誤解だ、僕は無礼などしていない。信じてもらえないだろうが、君は僕にとって大切な人なんだ」
「ロミオ、なんて情けない命乞いだ。そんなご機嫌取りをする必要はない。俺が代わりに相手になってやる!」

「いいだろう、先に相手をしてやる! 来い!!」
「待て、双方とも剣を収めろ!」


 ロミオの友人、マキューシオとベンヴォーリオは、ロミオとジュリエットの関係を知らない。
 本来憎むべきキャピュレット家のティボルトも、ロミオにとっては愛しいジュリエットの従兄弟なのだということを知らない。
 ただ、モンタギュー家とロミオ個人に肩入れする者として、マキューシオはティボルトと剣を交える。

 ロミオは懸命に二人を説得した。どちらが倒れても、それは彼にとって悲劇しかもたらさないのだから。
 遂には身を挺して決闘を止めようとする。丸腰で両者の間に飛び込み、仲裁は成功したかのように見えた。

 しかし――――
 無双の剣士と名高いティボルトは、ロミオの腕の下のわずかな隙間からマキューシオの身体を貫いていた。


「しっかりしろ、マキューシオ。傷は……浅いぞ」
「たしかに井戸よりは浅かろうし、教会の戸口よりは狭かろうさ。だが、あの世に俺を連れて行く役目くらい十分に果たすだろうぜ。
 ちくしょう、あの野郎。まるで教本のような剣術じゃねえか。お前もなんだって止めに入りやがった? 連れの腕の下から刺されるなんてしまらねえ話だ」


 それ以降は口を閉じ、徐々に冷たくなっていく友人をロミオは抱きかかえる。


「マキューシオ……。僕にはかけがえのない親友だった。それが僕の不甲斐なさのために致命傷を負ってしまった。
 ティボルトの暴言は僕の名誉にも泥を塗ったが――――何より大切な人を奪ってしまった。
 ティボルトよ! ほんの一時間前に僕の縁戚になった者よ! 君はたった今から僕の仇になった。家柄としてではなく、僕個人の怨みとしてだ。
 おお、ジュリエット! 君の美しさが僕を弱くした。君への愛が僕の勇気を鈍らせたのだ」


 それは憎悪の声。友の死を悼み、ティボルトを憎み、何より自分自身を憎む魂の叫び声。
 やがてマキューシオは息を引き取る。嘆くロミオとベンヴォーリオ。そして彼はロミオに更なる不幸を知らせる。ティボルトが戻ってきたのだ。
 血に濡れた、剣を抜いて――――


「意気揚々と、得意顔で結構なことだなティボルトよ! マキューシオは死んでしまったぞ。
 もう僕も容赦はしない。悪党呼ばわりも叩き返してやる。冥土の土産に持っていくがいい。彼の魂はまだこの上に居る。道連れにちょうどいいだろう」
「道連れは相棒の貴様に決まっている。あの世で仲良くするがいい!」


 ロミオを演じるせつなの瞳に怒りが宿る。命の奪い合いの経験がある者のみが放つ、本物の殺気が周囲を震え上がらせる。
 幾多の試合を勝ち抜いてきた、ティボルト役の剣道部員の猛者ですら足がすくむ。

 レイピア――――決闘を前提にスピードを重視して作られた、刺突に特化した片手剣。まして、それは演技用に棒切れのように軽く作られていた。
 剣に心得のある者が振るった時、その太刀筋は目視できないほどの疾さとなる。
 何度かの稽古で、手順さえ決めておけば危険はないと確信していた。だがそれ以上に、彼女から受ける恐怖が自衛本能を呼び起こして剣筋を鋭くさせる。

 風を切る唸りをあげながら銀光がせつなを襲う。その全てをせつなは紙一重で見切って避ける。女子の何人かは悲鳴を上げて顔を覆う。
 剣先がせつなの髪を掠める。数本の髪を引き千切り、それが最後の攻勢となった。せつなの反撃がティボルト役を追い詰める。
 神技に近いタイミングでパリィが決まり、ティボルトの剣は大きく弾かれる。せつなの突きがティボルト役の子を貫く!
 実際には、高速の突きを更に超高速の引きで相殺しているのだ。トリックなど使わなくても、傍目にはそれでロミオの剣が相手を突き抜けたように見えた。

 ティボルト役の子はゆっくりと倒れる。ロミオの友人、ベンヴォーリオ役の子がロミオを逃がす。
 ここは俺に任せて姿を消せ、捕まれば死刑になるぞと。せつなは悲しみに満ちた表情で舞台から降りた。

 太守が衛兵を率いて現場に姿を現す。公平な太守はベンヴォーリオの語る経緯を信じ、ロミオの処分をヴェローナからの追放に留めた。
 死刑が当然の咎に対して、それは寛大すぎる処置であった。
 しかし、ジュリエットを愛するロミオにとっては――――それは死刑にすら勝る最悪の処分でもあった。


「大丈夫? 立てる?」
「あっ、ああ……ありがとう。東さん」


 シーンが終わっても立ち上がらないティボルト役の子に、せつなが遠慮がちに手を差し伸べる。
 先ほどとはまるで別人。その表情は女の子らしく可憐で、瞳はその子を気遣って不安に揺れていた。
 真近で見るせつなの顔はやっぱり美しくて、ミディアムレイヤーの髪からは表現しがたい甘い匂いが薫る。

 差し伸べられた手は驚くほどに華奢で白くて、その指は握っただけで折れてしまうのではないかと思うくらいに細かった。
 それでいて――――触れた部分から頭が、全身が、痺れてしまうほどにせつなの手は柔らかく、そして温かかった。
 真っ赤になってしどろもどろに礼を言う男子に、せつなは優しく微笑んだ。

「東さん、ちょっとやりすぎなんじゃ? 見ていて怖かったよ」
「由美、戦いは怖いものよ。そして、死は救いのないものよ。私はいい加減に扱いたくないの」

「でも、もし怪我でもしたら……」
「私は怪我なんてしないし、決してさせないわ。お願い、やらせて!」

「わかった。でも本当に気をつけてね」

「せつな……」
「さあ、次はラブの番よ。しっかり頑張ってね」







 ジュリエットは気ぜわしく部屋の中を歩き回る。まるでそうしていれば、少しでも夜の訪れが早くなると思ってでもいるかのように。
 出会って一目で恋に落ち、数日後の再開では将来を誓い合い、翌日には結婚式を済ませて、今こうして新婚初夜を迎える。
 こんなに短い間に女の幸せを駆け抜けた者が他にいるだろうか? それなのに、まだ足りぬとばかりにジリジリと時間の過ぎるのを待つ。


「ああ、恋の住まいし夜の闇よ、隙間なく帳を張りめぐらせて! 愛しいロミオ様が、人知れず私の元に飛び込んで来てくださるように。
 私はそっと部屋で待ちましょう。人に触れられたことの無い肌は震え、まだ膨らみも小さな胸は激しく高鳴る。
 それでも恋とは添い遂げるためにあるのだから、恐怖はやがて歓喜に飲み込まれることでしょう。
 今夜のために用意した縄梯子、かける瞬間を待ちましょう。夜の訪れ、ロミオ様の訪れを待ちましょう」
「お嬢様、大変でございます。ティボルト様がお亡くなりになりました。憎きロミオの刃にて、無残に殺されたのでございます」

「なんてことでしょう! いいえ、驚くほどのことではないのでしょう。彼はモンタギューの家の者で、街中で切り合うも珍しいことではないのだから。
 知っていたわ……彼が敵だなんてことは。それでも、彼は私に愛を囁いたのよ。これは何という裏切りなのかしら?
 おお、ティボルトよ、あなたはもう暗い棺の中。私と同じように、彼の美しき容姿の奥に潜んだ悪魔に喰われてしまったのね」
「その通りです、お嬢様。やっとお気付きになられましたか。モンタギューなど油断も隙もありません。性根の腐った悪魔の輩にございます。
 ロミオは追放となったそうでございます。結婚もお忘れ下さいませ。嘘吐きの悪党との誓いなんて、これっぽっちも意味など持ちませんとも」

「今、なんと言ったの! いいえ、乳母を責めるのはよしましょう。あなたの口からロミオ様の悪口を聞いたおかげで私の目は覚めたのだから。
 あのお方のなさったことならば、きっと何か事情があるのでしょう。世界の全てはあの方のためにあり、私はお側で跪くのみ。
 彼の行為は条理を外れて正義であり、それを批判した私こそ人でなしの恥晒しなのです」
「では、お嬢様はあのモンタギューの若僧を許すと仰るのですか?」

「口の利き方に気をつけなさい! ロミオ様にとって、モンタギューの血筋など尾ひれに付いた汚れに過ぎません。
 ああ、気をつけるのは私の方だわ。ティボルトは亡くなってもロミオ様が生きている。それはこの上ない喜びだと言うのに。
 私はどうして泣いていたのかしら? そう! この涙は別れの涙。愛する人との別離のために流れる涙なのよ。
 亡くなった者がティボルトでも私の両親でも……」

「――――っ……」

「……亡くなった者がティボルトでも私の両親でも構わない。誰が死のうと残った者は生きていられるのだから。
 でも、ロミオ様がいなくなってしまう。これ以上の苦しみはないわ! それは私にとって、世界が滅びるのと同じ意味を持つのよ」


 セリフの途中でラブが詰まってしまう。しばらくの沈黙の後、思い出したのか再び続きを紡いでいく。
 気を取り直して演技は続けられた。







 桃園家の二階のベランダに、せつなは一人たたずむ。物憂げな表情は夜景に相応しく、まるで演技が続いているかのようだった。
 そんな姿を見かけて、ラブも窓から出てきてせつなに並んで立つ。
 せつなは何も言わずにそっと頬を緩める。ありきたりの挨拶なんて要らない。
 ラブにとってはせつなの隣に立つのは当然のことで、せつなにとってはラブの隣にいるのは息をするほどに自然なことだった。

 会いたい人に、いつでも会える幸せ。ロミオとジュリエットに比べたらなんて贅沢なことだろうと思う。
 でもそれだって、かつてはキュアピーチとイースとして戦い、命をかけて紡いできた絆だった。


「今日は驚いたわ。ラブがあんなに演技が上手だなんて」
「たはは、最後でトチっちゃったけどね」

「あれは……セリフを忘れただけかしら? 私には言いたくなくて詰まったように感じたわ」
「すごいね、せつなは何でもお見通しなんだ。そうだよ、口にしたくなかったの」

「従兄弟や両親が死んでも構わないって部分ね。台本を書き直してもいいのよ?」
「それは駄目だってせつなが言ったクセに。でも、ジュリエットは好きだけど、そこだけはどうしても共感が持てなくて」

「自分の幸せとみんなの幸せ、両方ゲットするのがラブの願いよね。ジュリエットは自分の幸せしか見えていない」
「うん、それじゃあジュリエットだって幸せにはなれないよ」

「そうね。でも人を愛することって、自分にとって特別な人を作ることなんじゃないかと思うの」
「せつな?」

「全ての人を等しく愛することって、誰も愛さないことと同じなのかもしれない」


 そして等しく愛されることは、誰からも愛されないことなのかもしれない。と、せつなは続けた。
 人を寂しさから救うのは、他人を差し置いて特別に注がれる愛情なんだって。

 一息に口にしてから、自分の言葉に傷付いたかのように唇を噛みしめる。
 瞳に深い悲しみを讃え、長い睫毛は後悔に震える。


「そんなのせつならしくないよ。みんなを笑顔と幸せでいっぱいにするのがせつなの夢だって言ったじゃない」
「だからこそ、この物語のラストは変えちゃいけないの。このお話は悲劇じゃないわ。二人の死で両家の争いは収まり、街に平和が訪れるのよ」

「幸せになった上で、争いも収めればいいじゃない。犠牲なんていらないよっ!」
「あの二人は、犠牲になんてなってないわ!」

「せつな、どうしたの? 最近おかしいよ。今だって泣いてるみたいじゃない」
「なんでもないわ、もう寝ましょう。おやすみなさい、ラブ」

「うん……。おやすみ、せつな」


 灯りの消えた部屋にせつなは戻る。「ここからは一人」そう言われた気がした。その後姿に、ラブは未だせつなの心に残る闇の深さを知る。
 こんなに近くに居るのに、毎日一緒に居るのに、時々せつなは暗闇の中を一人で歩いているように見えることがある。
 ラブは部屋に戻り、秘密の小箱を開く。出てきたのは日記帳と、七夕の時に飾った二枚の短冊。
 あゆみからこっそりと託されたのだ。これはラブが持っておきなさいって。


“みんなで幸せゲットできますように” ラブ
“みんなの願いが叶いますように” せつな


 一見そっくりな願い事に見えて、実際には全然違う。ラブは文字通りみんなと一緒に幸せになりたいと思っている。
 みんなの幸せが自分の幸せを導いて、自分の幸せがみんなの幸せを招いて。
 そんな風に生きたいと思ってる。

 せつなは違うのだろう。せつなだって自分も幸せになりたいと思っている。でも、それは許される範囲と時間の中においてだけ。
 せつなは周囲の人全てが幸せでなければ、自分が幸せであることを許さない。


「じゃあハッキリ言うわね。これ、本当に同じ子なのかしら?」
「本当のせつなは一体どこにいるんだろう」

 今朝の夢が思い出される。誰よりもせつなを理解しているつもりなのに、時々わからなくなることがある。
 本当のせつなは別にいるんじゃないかと思うくらい、願望と行動が一致していないのだ。

 一人で占い館に行って、命と引き換えに不幸のゲージを破壊しようとした。
 あなたたちが居なくなることが一番怖いと言ったのに、一人でラビリンスに帰っていった。

 やっと、本当の家族を持てた。おかあさんと呼んで涙した。美希やブッキーとだって親友の絆を築いた。
 ダンサーの夢を追いかけた。精一杯頑張ってやり直そうとした。全部! 全部! 幸せになるためじゃなかったのか?
 笑顔の奥で泣いていたのだろうか? 全てを捨てて死ぬつもりだったのか? 幸せを思い出に変えて、別れる決意をしていたのだろうか?

 今、自分が見ているせつなは、本当のせつななんだろうか? ふと、そんな疑問が湧き上がり、その考えにゾッとする。

 イースだった頃もそうだった。仲間に先んじて総統メビウスの信頼を勝ち得る。そんな自分だけの幸せのために破壊活動を繰り返していた。
 あの時はそうするしかなかった。それだけがイースに許される、ささやかな幸せを得る方法。寂しさを埋める方法だった。
 それなのに、命を削ってまでナキサケーベを召還した。死んだら、何にもならないのに――――

 自分の幸せのために、みんなを傷付けていたイース。自分の幸せを後回しにして、みんなの幸せを望んでいるせつな。
 イースだったせつなと今のせつな。やってることは反対でも、どちらもせつななんだって思ってきた。
 でも、もし――――どちらも本当のせつなではないとしたら?


「メビウス様のためなら、他の者がどうなろうと構わない! たとえ、この命が尽きても」
「泣いているじゃない。本当は、命が尽きてもいいなんて思ってないんだよね!」


 かつて、コンサート会場の戦いで知ったイースの想い。
 イースが無理をしていたように、せつなも無理をしているのだとしたら?

 ふと浮かぶイメージ。光の差さない暗闇の中で、せつなはたった一人で膝を抱えてうずくまっている。
 心の声に耳を塞ぎ、自分を押し殺し、願いを諦め、恐怖を覚悟で打ち消して。
 辛さと寂しさに歯を食いしばりながら。

 それが本当のせつななのだとしたら――――帰って来た今でも、それは変わらないのかもしれない。

 どこまでも、自分の気持ちに正直に生きたロミオとジュリエット。それはせつなと対極の生き方。せつなの願望そのものなのかもしれない。
 だとしたら、せつながロミオとジュリエットにハッピーエンドを認めない理由は……。

 考えれば考えるほど深みにはまっていく。思い違いかもしれない。的外れかもしれない。杞憂なのかもしれない。
 だけど、放ってはおけない。確かに――――悲しそうな顔をしていたから。


(あたしはいつだって、せつなの想いを正面から受け止めるから!)


 そして、どれだけ時間がかかっても構わない! せつなの寂しさは自分が埋めるんだと誓う。
 ラブにとってせつなは、出会った時から特別な人なのだから――――



新-102
最終更新:2011年06月25日 03:22