シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』。その台本をせつなは静かに閉じる。
もう、練習目的でこのペ-ジを開くことはないだろう。今後は思い出の品となって宝物の一つになる。
四つ葉中学校文化祭、三年生のステージのラストを飾る演劇。その本番を明日に控え、今夜は早く休むことにした。
せつなは机の引き出しを開く。赤い字で“SETSUNA”と書かれたプレート。その横に四つ葉のクローバーが添えられている。
イースが最期に見つけた四つ葉のクローバー。それをラブが持ち帰って、押し花にして飾ったものだ。
せつなはそれを宝物にして、机の中に大切に保管してしまった。
今、部屋にかかっているのは二枚目のプレート。ラブが慌てて作り直したものだった。
せつなはそっと胸に手を当てる。“幸せの素のペンダント”今ではもう――――その感触も思い出せない。
空しく戻した拳を固く握り締める。
とても大切な物だった。支給される物ではなくて、初めてせつなに贈られた物。最初にして、最高の宝物だった。
その後悔から、それ以後の思い出の品を大切にするようになった。
美希からもらったアロマ瓶。祈里の手書きの犬のしつけ方ノート。ラブ手製のルームプレート。そして、あゆみの贈り物のブレスレット。
明日の劇が終わったら、この台本もここに加えようと思った。
とても悲しいお話だから、決して楽しいだけの思い出ではないけれど、忘れられない大切な記憶になると思えた。
「待って! 私が演技なんて……。やったことがないわ」
主役に抜擢された時、とっさに口にした言葉を思い出す。フフッっと、小さく笑った。
本当は逆なのにと思う。演技をしたことが無いんじゃなくて、演技しかしたことが無かったんだと。
ラビリンスに生まれた瞬間から宿命付けられた配役。総統メビウスの僕であること。それを精一杯演じてきた。
幼くして四大幹部の一角にまで登り詰め、決められた道、敷かれたレールの上を最速で走り抜けてきた。刹那の名のごとく。
自分の心の声に耳を塞ぎ、他人に悲鳴を上げさせて――――
不自由な身の上であったとは思う。多分、ロミオやジュリエットよりもずっと。
それでも、自分にこの二人の半分の勇気でもあったなら、強い意思があったなら。そう思わずにはいられなかった。
イースは結局、運命に逆らうことなく果てた。命を賭してでも、否、自ら断ってでも想いを遂げようとした二人となんと違うことだろうか。
ラブはラストを変えようと言った。二人を救ってハッピーエンドにしようと。
せつなは衝動的にそれを拒んだ。言葉にできるほど確かな理由があったわけではない。ただ、それは二人の生き様への冒涜であるような気がした。
ジュリエットは、あの時のイースと同じ十四歳で死んだ。短かすぎる命。それでも果たして彼女は不幸であったのだろうか。
自らの意思で運命の呪縛を断ち切って、どんなに長生きした人にだって負けない永遠の愛を手に入れたのだ。
それを、可哀想なんて理由でその決意ごと否定してしまっていいのだろうか。
幸せの素すら手にすることなく死んだイースに比べて、手にする資格もないまま与えられた東せつなに比べて、――――この二人はどこまでも眩しくて、憧れの存在だった。
文化祭の二日目にして最終日。体育館にて、最大の見所である三年生によるステージが開催される日。
前日を超える、凄い人数の来客で広い学内の敷地が埋め尽くされる。
「せつな、いよいよ次だね。こんなに人がいっぱいで緊張してきたよ」
「おとうさんとおかあさんが観に来てるわ。美希とブッキーも少し離れたところに」
「あっ、ホントだ! 美希たんとブッキーはどこだろう?」
「右から四列目の真ん中辺りよ。――って、どうして正おじ様や尚子おば様、レミおば様まで来てるのかしら……」
「お店休んじゃったとか? 美希たんもブッキーも学校違うから出ないのにね」
「東さん、よくこんな中から見分け付くわね」
「とにかく、ここまで頑張ってきたんだもん。必ず成功させようね!」
「「ええ!!」」
もうすぐ自分たちの劇が始まる。もちろん、メイクや衣装の支度は済んでいて後は開始を待つばかりだ。
準備期間こそ短かったものの、皆、集中して圧倒的な稽古をこなしてきた。
その日々と共に培ってきたクラスメイトとの絆。それが自信となって表情に宿る。見渡す限り不安そうな者は一人もいなかった。
ステージでは、隣のクラスの出し物『桃太郎と一寸法師』の楽しいお芝居が盛況だった。
ついに鬼が島の鬼を打ち倒した桃太郎。お話はそこから始まった。
しかし、平和な世も束の間、再び各地で鬼が跳梁跋扈しはじめる。原因は出雲の国にある白連洞に開いた大穴だった。
国で一番深い洞窟が、突然地獄と繋がってしまったのだ。
さすがの桃太郎も、自分と動物のお供たちだけでは対処しきれず都に援軍を求める。応じたのは、一寸法師と名乗る精悍な若者が率いる侍衆であった。
背の丈は桃太郎より一回り大きい。腰に差すのは日本刀ではなく、縫い針に似た形状の刺突用の直刀だった。片手剣であり、もう片方の手には小槌を携えていた。
彼らと協力して各地を巡り、鬼どもを洞窟に追い返すことに成功する。しかし、このまま閉じ込めてもすぐに封印を破って出てきてしまうだろう。
動物と侍衆を見張りに残し、桃太郎と一寸法師はたった二人で地獄の鬼王に挑む。
激しい戦いの末、ついに鬼王を打ち倒す。そして一寸法師は、打ち出の小槌で岩を大きくして地獄の穴を塞いだ。
こうして、今度こそ本当の平和が訪れたのだ。
とことん楽しさを追求したお話だった。鬼のお面もどこかコミカルで、下手な作りの衣装もユーモラスで。
殺陣の動きも、せつなたちと違ってゆっくりで大振りで、いかにもお芝居って感じでこれはこれで素晴らしかった。
鬼王はベニヤ板で作った高さ四メートルもあるハリボテだ。ゴトゴトゴトと大きな車輪の音を響かせながら舞台に現れる様子は、リアリティこそ無いが迫力満点だった。
「くすっ、くっくっ……」
「せつなが笑ってる!?」
「東さんが笑ってる!?」
「なによ、私だって笑うことくらいあるわよ」
「だって、せつなが嫌いな戦いのシーンだよ?」
「これは娯楽でしょ、一緒にしないで!」
「シェイクスピアだって、本質的には娯楽だと思うんだけど……」
「せつな、文化祭楽しい?」
「ええ、とっても楽しいわ」
「よかった! よかったね、せつな」
「きゃあ! ちょっとラブ、離して……」
ラブが嬉しそうにせつなに抱きつく。感情をストレートに表現するラブにとっては、特に珍しい行為ではない。
教室でもよく見かける光景なのだが……。
主役の豪華な衣装を着た二人の抱擁は、あまりにも人目を引いて――――
「コホン。お二人さん、劇の開幕はもう少し先ですよ?」
「あっ、ゴメン、せつな。つい……」
「もう、恥ずかしいでしょ。謝らなくていいけど……」
軽く茶化しながらも、由美は寂しそうにそんな二人の様子を眺めた。
ラブには敵わないな、やっぱり。そんな独り言を聞こえるはずのない小さな声でつぶやく。
「東さん、ごめんね。わたしたちもあんな風に楽しいお芝居にすれば良かったね」
「ロミオとジュリエットは素敵な物語よ。私、演じられて良かったと思ってる」
「もうじき開幕ね。その前に、由美にお願いがあるの」
「わたしに?」
「由美がいてくれたから、私は楽しく学校生活を送れたんだと思う。もっと仲良くなりたいから、私を名前で呼んでほしいの」
「せつな……さん?」
「せつなでいいわ。私をそう呼ぶのは、ラブと美希に続いて三人目ね」
「うん! せつな、いい舞台にしようね」
「ええ! 精一杯がんばりましょう」
「でも、ロザラインの由美はせつなに振られちゃうんだけどね」
「そうだった……。って、ラブったらひどい!」
「あはは、ごめ~ん」
「全くもう……」
そうこうしてる内に盛大な拍手が体育館中に鳴り響き、舞台の両側からカーテンが閉じていく。
楽しいお芝居のラストを、クラス全員の喜びの踊りで飾りながら。
「いよいよだね。あたしたち、みんなで幸せゲットだよ!」
『おぉ~~!!』
ラブ、せつな、由美、そしてクラスメイトのみんなが、それぞれの持ち場に向かって勢いよく駆け出す。
ついに文化祭の最終ステージ――――演劇『ロミオとジュリエット』の幕が開いたのだ。
ナレーションが終わり、舞台のカーテンが左右に開いていく。
先ほどのお芝居は賑やかで楽しかった。次はどんなに派手で、美しい舞台装置が用意されているのだろう?
大勢の観客が期待に胸を膨らませて、幕が開くのを今か今かと待ち構える。
しかし――――そこには何も無かった。
繋ぎ合わせた画用紙で描かれた背景もなく、板や角材なんかで組み立てられた屋敷もなかった。
登場人物すら姿を見せず、光すら差し込まず、ただ闇があるだけだった。
いや、――――居た!
音楽と共に、スポットライトが闇に紛れていた一人の人物を照らし出す。ロミオだ!
華麗に舞いながら、切ない己の胸の内を明かす。
もう一人、今度は美しい女性が照らし出される。ロミオの憧れの人、ロザラインだ。
ロミオは美辞麗句を並べながらロザラインを口説く。しかし、まるで相手にしてもらえない。
つれなく去っていくロザラインと、悲しみに暮れるロミオ。
そんな様子を見かねて、友人のベンヴォーリオはロミオにロザラインを諦めるように諭す。
彼の強い勧めで、ロミオは敵地であるキャピュレット家で催される仮面舞踏会に参加するのだった。
どこまでも飾り気の無い、シンプルな演劇だった。
時々挟まれるナレーションと、効果的に流される音楽。それ以外は、本当に何も無かった。
ただ、見る目のある人なら驚愕したはずだった。
彼らの衣装や装飾品の精巧さに。絶妙な位置でライトを当てる照明係の腕の鮮やかさに。
そして、歩き方一つ、話し方一つ、表情一つ、それら演技力の全てが、素人の範疇を超えていることに。
もう一つ、舞台を見ずに客席を注視する者がもし居たなら、やはり気が付いたはずだった。
始めは失望し落胆していた観客たちが、息を呑み、拳を握り、身を乗り出すようにして舞台に夢中になっていく様子に。
仮面舞踏会が始まる。ステージ上の全ての照明が点灯され、舞台を煌々と照らし出す。
やっぱり、何の飾り付けも無い舞台だった。でも、そんなことを気にしている者は既に誰もいなかった。
クラス全員で踊るダンス。楽しげな笑顔と、洗練された動き。それらがありもしない美しい背景を、幻想という形で観客に見せるのだ。
一際目立つ女性が進み出る。金色に輝く、そんな形容が似合う太陽のような少女。
桃園ラブが演じるジュリエットだった。瞳に不思議な力を宿す少女。その娘が会場を見渡した時、観客全てが自身がロミオになったかのような感覚に囚われる。
まるで魅了の魔力でもあるかのように、ロミオと一緒にその姿に釘付けになるのだった。
ジュリエットが太陽の姫ならば、ロミオは月の貴公子。互いの対照的な魅力は、一緒に居る時ほど際立って輝きを放った。
男性の観客はジュリエットに惚れ、女性の観客はロミオに恋心を抱いた。
ジュリエットの切ない胸の内の告白。人目を忍ぶロミオとの逢引。見ているだけで痛いほどに伝わってくる、互いを愛して求め合う二人の情熱。
そして、ロレンス神父の導きによる秘密の婚姻の儀式。
結婚式と呼べるほど豪華なものではない。どんなに貧しい者でも、もう少しはマシな式を挙げることだろう。
互いに街を二分するほどの家柄に生まれながら、祝福する者の一人すらいなかった。
それでも嬉しそうだった。これ以上幸せな者なんて世界中に一人もいない。ロミオもジュリエットも、互いにそう信じて疑わなかった。
その笑顔が悲しくて――――その想いがいじらしくて――――この先の運命が痛ましくて。
早くも涙を流す観客がいた。
どうして、演劇の経験のない二人にここまで真に迫る演技ができるのか? 不思議に思うお客さんも少なくなかった。
答えは簡単だった。ラブもせつなも、始めから演技などしていないのだから。
本心から愛していた。本心から喜んでいた。本心から求め合っていたのだから。
その意味を知るものは、大勢の観客の中でも美希と祈里の二人だけだった。
ラブは知っていた。大切な人が冷たくなっていく絶望を。最愛の友が手の届かぬ世界に旅立ってしまう寂しさを。
せつなは知っていた。生きては決して結ばれぬ運命があることを。己の死を知って、最期に一目会いたくなる。そんな気持ちを――――
どんな名優の演技ですら、真実の想いに敵うはずなどないのだから。
やがて、物語は悲劇の終盤へと進んでいく。
マキューシオとティボルトの決闘。ロミオの制止も空しく失われる親友の命。そして、激しく燃え上がるロミオの怒り。
観客が息を呑む。まるで女の子のような(事実なのだが)、美しい貴公子だったロミオの突然の豹変。
ロミオの身体を纏うオーラの質が切り替わる。会場中に叩きつけられる、鋭利な刃物のような殺気。眠れる獅子の目覚めに観客は震え上がる。
小鳥のように囀る口は固く噛み締められ、女性の手を取るしなやかな指は、剣を握るためだけにあるかのように冷酷な動作を行う。
先ほどのお芝居のチャンバラなどとは全く違う、生々しい殺し合いが目の前で繰り広げられる。
誰が想像できるだろうか? これも演技ではなく本当の姿だと。わずか十四の少女が、その人生の大半を戦いに費やしてきたなどと。
どう見ても、真剣としか思えない精巧な作りの模造刀。それが照明の光を反射して濡れたように光る。
目視できないほどの高速で振われ、剣と剣がぶつかり合うたびに金属音が鳴り響く。
無双の剣士と謳われたティボルトが、ロミオの一撃に貫かれて倒れる。
会場のあちこちで悲鳴が上がる。最期の瞬間まで見届けた女性客が果たしてどれほど居たろうか。
従兄弟のティボルトの悲報を聞いて、一時はロミオを恨むジュリエット。幼い頃から兄妹のように育てられ、彼女にとって身体の一部のような存在になっていた。
そんな悲しみの涙すら、ロミオへの愛の前には朝日を浴びた露のように消え去ってしまう。
ジュリエットにとって最大の悲しみはロミオの追放であり、その絶望の大きさの前には全ての不幸は霞んでしまうのだった。
その頃、ロミオはロレンス神父の元に身を隠していた。
「追放? どうして死罪ではなく追放なのですか? それは死よりも恐ろしいもの。
ヴェローナの外に世界はありません。そこに追放されるとは、死を賜ることに他なりません。
短剣で貫いてもいい。毒薬だってあるでしょう。その方がよほど一息で楽になれましょうに!
追放? そんな心を殺すような手段で死の苦しみを永遠に与え続けようとは、それが人間のすることですか!」
「いいから私の話を聞くが良い。お前の苦しみを和らげる教えを授けよう。追放の身に大きな安らぎとなるであろう。
二人もの命が失われたのに、お前もお前の愛する人もどちらも生きている。死刑で当然の法ですらお前を生かそうとしている。
これは大変な幸運なのだぞ。黙れ! いいから聞くのだ! お前は今すぐジュリエットの元に行け、そして慰めてさしあげるのだ。
その後、日が昇る前にマンチュアに発て。私が時を見てお前達の結婚を発表し、両家の憎しみを和らげ、太守の許しを得てお前を呼び戻してやろう」
ちょうどそのタイミングで、ジュリエットの使いの乳母が彼女の様子を伝えに来る。
神父の言葉を信じ、ロミオはジュリエットに別れを告げるべく屋敷に急いだ。
事情を包み隠さず話し、ロミオはジュリエットに謝罪する。彼女は全てを許して彼の無事を喜んだ。
そして、初めての夜。最期の一夜を共にする。固く再会を誓いながらも、心は永遠の別れを予期していて――――
「もう発たれるのですか? まだ朝には間があります。あれは夜に鳴くナイチンゲール。朝を告げる雲雀ではありません」
「いや、あれは雲雀だ。東の空をご覧、雲の割れ目から光が零れているだろう?」
「いいえ、あれは朝の光ではありません。あれは――――」
「ならば、もう僕は捕まってもいい。殺されてもいい。僕だってどれほどこのままでいたいか。
朝よ! 来るなら来い! 僕は逃げも隠れもしない。さあジュリエット、死が二人を別つまで語ろうじゃないか」
「やっぱり……あれは雲雀です。ああ、朝の光が差し込んでくる。思えばあなたと過ごしたのは夜ばかりでした。
許されぬ愛とは承知していても、朝日の祝福すら得られないのでしょうか?」
「明るさが増すほどに、翳るのが僕たちの幸せだ」
「待って! 私たち、もう一度会うことはあるのでしょうか?」
「もちろんある! その時には、この苦しみも楽しい思い出の一部になっているだろう」
せつなの表情が苦しみに歪む。いつも、このシーンで。
あの時、「また、会えるよね?」そう尋ねたラブにせつなは返事をしてあげられなかった。
ラブもまた、それ以上問いかけをしなかった。嘘でもいい、どうして必ず会えると言ってあげなかったんだろう?
今度同じことがあったら、どんな返事をしてあげられるのだろう?
ラブの表情が悲しみに翳る。やっぱり、このシーンで。
あの時、「それがせつなの夢なんだね!」そう言って笑顔で送り出してあげた。
せつなははっきりと頷いた。それが本当にせつなの幸せなら、止めない! その気持ちは今でも変わりない。
本当のせつなの、本心からの願いなら――――
揺れる二人の心は観る者の心を打つ。プロの演技ではない。大げさな身振り手振りもなく、声色を変えて朗々と語ることもない。
でも、その分だけ真実があった。純粋な愛があり、悲しみがあった。
みんな懸命に耳を傾け、舞台を見守った。ただの一言も聞き逃すまい、一瞬たりとも見逃すまいとするかのように。
ティボルトを失った悲しみに暮れる、キャピュレットとその夫人。彼らはモンタギューへの復讐を固く誓う。
そして、同じく気落ちしているであろう娘のために素晴らしい縁談を用意する。
相手の名はパリス、太守の親戚に当たる青年貴族だ。家柄、人柄、武と学問の全てに秀でており、市民からの信望も厚い。
男性として理想の人物でありながら、モンタギュー家と街を二分するキャピュレット家の立場においても、またと無いほど良い話だった。
しかしジュリエットは頑として頷かず、あまつさえパリスの悪口まで言い出す始末だった。
キャピュレットは怒りのあまり、この縁談を受けないのなら勘当すると言い渡す。
ジュリエットは母親にすがるが、彼女も夫に同調し、パリスとの結婚を拒むならもう娘とは思わないと切り捨てる。
相談役と心の頼みにしていた乳母に話してみたものの、彼らと同じくロミオのことは忘れてパリスに嫁げと迫るのであった。
全てに絶望したジュリエットは、ロレンス神父の元に相談に行くことにする。
これで駄目なら、命を断とうと決意して――――
「神父様、どうかお知恵をお授けください。パリス様が嫌いなわけではないのです。私の全てはロミオ様のものです。
ロミオ様と立てた誓いを守り通せるならば、何も恐れるものはありません。どんな苦難にも耐えるつもりです。
それでも何も手段が無いと仰るのなら、私は今すぐこの短剣で全てに始末をつけましょう」
「良い方法など何も思いつかぬ。だが、死の覚悟すらあるのなら、あるいは一つだけ希望がないでもない。
今すぐ家に帰って、嬉しそうにパリスとの結婚を承諾するのだ。そして明日の夜は一人で眠ること。朝まで誰も近づけてはならない。
寝る前にこの瓶の中身を飲み干すのだ。
たちまち呼吸は止まり、脈も打たず、身体は冷たくなり、命の兆しの全ては失われるであろう。
その仮死状態は四十二時間続き、その後は何事も無かったかのように目を覚ますのだ。
そなたの身体は実は生きたまま墓場に埋葬され、事前に連絡しておいたロミオの手によって掘り出される。
そして、彼と共にマンチュアに旅立つのだ!」
「ありがとうございます、神父様。危険は承知です。短剣で断つつもりだったこの命、死んでも気後れなどするものでしょうか」
「ならば行きなさい、これが薬瓶だ。私はマンチュアに使いを出そう。ロミオへの手紙を持たせてな」
パリスとの結婚を受け入れたジュリエットの様子に、両親は心から喜びあった。嬉々として結婚式の準備に駆け回る。
厳しいことを言っても、何より娘の幸せを願って用意した縁談であった。
そして約束の夜、ジュリエットは一人きりの寝室で瓶を開ける。
もしこの薬の効果がなければ、短剣で死ぬしかない。効き過ぎて本当に死んでしまうかもしれない。
あるいは早く目覚めて、墓地の中で窒息してしまうかもしれない。上手く行く保障なんてどこにも無い。それでも、これが再び彼と会うための唯一の手段だった。
一息に瓶の中身を飲み干し、そのまま意識を失った。
次の日の朝に家族が見たものは――――冷たくなって横たわる、愛しい娘の最期だった。
キャピュレットと夫人、そしてパリス。その他大勢の人々の嘆きと悲しみの中、ジュリエットの告別式は滞りなく行われる。
祝いの花束を、別れの花束に変えて――――
マンチュアに身を隠すロミオの元に、彼の従者が早馬で悲報を知らせに来る。
「大変に悪い報告がございます。今朝方、ジュリエット様がお亡くなりになりました。
私はお嬢様がキャピュレット家の墓地に埋葬されるのを確認してから、こうして参った次第でございます」
「どうやら僕は悪魔だか死神だかに、ジュリエットと同じくらい愛されているらしいな。
おお、ジュリエット! 君を一人にしたのは僕の最大の過ちだった。あのまま部屋に居れば、せめて後数時間は一緒に過ごせたものを。
それは、この先の君が居ない何十年という月日など比べ物にならない価値があったろうに!
待っていてくれ、今夜からは君と一緒に眠ろう」
ロミオは命を断つ方法として毒を選んだ。マンチュアに住む貧しい薬屋に目を付ける。
毒薬の販売は見つかれば死罪だという。しかし、今にも餓死しそうな貧しい薬屋ならそうも言っていられまい。
渋る薬屋に大金を握らせて強力な毒薬を手に入れる。そして、その足でヴェローナへと急いだ。
ジュリエットの眠る、暗い墓地を目指して――――
ロレンス神父の元に、ロミオに送ったはずの手紙が舞い戻る。従者がトラブルに巻き込まれて届けられなかったのだ。
ジュリエットが目を覚ますまでに後数時間しかない。ロミオが来れないと知ったらどれほど嘆くだろうか?
いや、それどころではない。早く掘り出してあげなければ墓の中で本当に死んでしまう。
再びロミオに手紙を出して、彼が到着するまで彼女は自分がかくまえばいい。そう判断して神父は墓場へと急いだ。
ジュリエットの死を悲しむパリスは、彼女の墓を守ろうと寝ずの番をしていた。
高貴な家柄の者は、生前身に付けていた装飾品などを遺体と一緒に埋葬する習慣があった。
そのため、埋葬されてからしばらくは墓守を付けるのが常であった。彼女を深く愛するパリスは、自らその役を買って出たのだ。
しばらくして、闇に紛れて墓に近寄る者が現れる。ツルハシを持った墓荒し、それはロミオであった。
「貴様はモンタギューのロミオだな! ジュリエットの従兄弟の命を奪い、その悲しみにて彼女を死なせた極悪人め。
この上、遺体まで辱めようとは――――恥を知るがいい! 今度こそ追放では済まさぬ。彼女への愛にかけて、私はお前を生かしておかぬ!」
「その通り、生きてはおれぬからこそ墓地に参ったのだ。聞け! 僕のような狂人に構うな。もっと命を大切にするんだ。
誓って言うが、僕は僕自身よりもよほど君のことを大切に思っている。僕を殺す役目は僕のこの手が引き受けた。僕の理性が残っている内に早く立ち去れ!」
「それは脅しか? それとも命乞いか? どちらも聞けぬ! この場で引っ捕えてやろう!」
「邪魔立てする気か? ならば死ぬがいい!」
ジュリエットの無念を晴らそうとパリスは決闘を挑む。腕には覚えがあった。負けるとは思えなかった。
相手が、ロミオでさえなければ――――
ティボルトすら打ち負かした剣の腕。最愛の人を失った行き場の無い怒りと、死を恐れない捨て身の戦いぶり。
パリスは己の判断が間違っていたことを、腹部に走る火傷のような痛みとともに知る。
しかし最期まで、ジュリエットが愛したのはロミオだと気付くことはなかった。
パリスは最後に、ジュリエットの墓に自分も一緒に埋葬してほしいとロミオに頼む。その想いに打たれ、彼の願いを聞き届けることにした。
彼女の想いがたまたま自分に向いただけ。彼と自分の間に何の違いがあるのだろうと。
近くに眠っているであろうティボルトにも謝罪する。彼もまた、ジュリエットを家族として愛し、案じていた者だった。
彼女はきっと、全てのものに愛されすぎていたのだろう。死神にも、彼女を招きたいと願う天上の神にまでも。
「ジュリエット! 今、君の元に!」
ロミオは毒瓶を飲み干し、息絶えた。
彼女の身体の上に、折り重なるようにして――――
ロレンス神父がジュリエットの墓に到着した時、全ては終わっていた。
救出すべきジュリエットは既に掘り起こされ、今にも目覚めようと呼吸を再開していた。
彼女の側には血まみれの剣が二本打ち捨てられている。
その側にはパリス伯爵が、そしてジュリエットに重なるようにしてロミオが、それぞれ彼女よりも冷たい身体を横たえていた。
「目が覚めたか、ジュリエットよ。墓場の目覚めに相応しい、最悪の事態が起きてしまった。
夜ごとうなされる悪夢ですら、もうちょっとは救いがありそうなものだ。しかもこれは全て現実なのだ。
さあ、グズグズしていてはお前の身まで危うくなる。今はとにかくここを離れるのだ」
「ロレンス神父様、今までありがとうございました。どうかお一人でお帰り下さい。そして、私のことはお忘れになってください。
酷いですわ、ロミオ様。その毒瓶、一滴でも私に残しておいてくだされば同じ方法で死ねたものを。
懐にあるのは――――私の短剣? 良かった、これがあればあなたの元に行けます」
ジュリエットは短剣の鞘を投げ捨てる。心の臓、左胸に狙いを定めて振りかぶる。
最後に一目ロミオを見ようとして、そして――――
そこで動きが止まった。
(やっぱり……こんなの、嫌だよ!)
ラブは震える手を開いて短剣を落とした。床にぶつかって乾いた音を立てる。
涙ぐんで舞台を見ていた観客がザワつく。観客だけではない。他の出演者、いや、クラスメイト全員に動揺が走る。
ジュリエットは短剣で自らの胸を貫き、ロミオと共に息絶えるはずだった。それで両家は反省し、仲直りし、エンディングを迎えるはずだった。
こんなシナリオは――――筋書きにない!
ラブはせつなの上体をそっと両手で抱き寄せる。せつなの演技は完璧で、首も、腕も、ダラリと力なく垂れ下がる。
呼吸はしているのだろうが、息使いがまるで感じられない。身体が温かいことを除けば、本当に死んでいるかのようだった。
ラブの脳裏に甦る、イースの死。その絶望的な想い。
たとえお芝居でも、もう――――二度とせつなを失うなんて耐えられなかった。
「いや……。――――こんなの、嫌。ねえ、目を覚ましてよ? ロミオ、ロミオ――――!!」
ラブの絶叫が会場中に響き渡る。それでクラスメイトも覚悟を決めた。シナリオは――――たった今、変更になったのだと。
ならば、アドリブで乗り切るより他はない!
騒ぎを聞きつけた夜警の者がジュリエットを取り囲む。ジュリエットは自分に短剣を突きつけ、近寄らないでと警告する。
側に居たロレンス神父が夜警に事情を話して説得する。唯一無事な娘だけでも、まずは家に帰そうと。
家に帰っても、ジュリエットはロミオの側から離れようとしなかった。二人だけにしてくれと言って、誰も部屋に入れようとしない。
本来はこんな我がままを許すキャピュレットではない。しかし、ロレンス神父から経緯を聞き、その想いを知った今となっては引き離すこともできなかった。
ジュリエットは短剣を肌身離さず持っている。刺激すれば本当に命を絶ってしまうだろう。
娘に先立たれる絶望を繰り返す勇気は、さしものキャピュレットにもなかった。
(どうして? どうして二人は救われちゃいけないの? 悪いことをしたから? 自分勝手な愛情を貫こうとしたから?)
ラブはせつなの手をとって胸に当てる。自分の心がせつなの心に届くように。
そして、自分の心臓の鼓動で、ロミオの鼓動を呼び覚まそうとするかのように。
自分の気持ちに正直に、真っ直ぐに生きた二人。その生き方は、せつなの抑圧してる願望そのものなんじゃないだろうか?
二人に救いを認めないのは、せつな自身の幸せを認めない気持ちの裏返しなんじゃないだろうか?
せつなの表情に変化はない。この展開を、どんな気持ちで受け止めているのかもわからない。
持ち上げられた腕はいかなる筋肉の働きも見せず、ラブの手に見た目以上の重さで圧し掛かっていた。
ラブとせつなの意地の張り合いだった。このまま目を覚まさなければ、本来の結末と大きくは変わらない。彼女はそのつもりなのだろう。
動きのないシーンが長時間に渡って続く。クラスメイトは成す術もなく、ただ冷や冷やしながら進展を待つより他なかった。
観客は固唾を呑んで見守った。退屈したり、不満を口にする者はいなかった。
ラブの小さな体から、深い悲しみと強い決意が伝わってくる。絶対に――――あきらめないと!
(あたし、馬鹿だ。ただの演技にムキになって、みんなのお芝居をメチャクチャにして……。でも――――)
ラブのせつなを握る手に力がこもる。きっと、せつなは自分の過去と未来をこの物語に見ていたはず。
ずっと、様子がおかしかったから。
(本当のせつなは一体どこにいるんだろう)
かつての美希の問いかけが、再びラブの脳裏によぎる。
ラビリンスに生まれ、イースとして振舞った。四つ葉町で生まれ変わり、新しい生き方を探した。
ラブに、美希に、祈里に、彼女たちの中に、新しい自分を探そうとした。
それは――――自分の意思で生きたことのない子の、悲しい性だったのではないのか?
(初めて会った時からせつなは素敵な子で、何も変わってなんかいないもの)
あの日から、ずっとせつなを見つめてきた。
瞳に宿る――――悲しさを。胸に隠した――――寂しさを。心に秘めた――――渇望を。
ロミオとジュリエットの恋が許されぬように、それが運命であるように、せつなに幸せは許されないのだろうか?
(そう、何も変わっていない。本当のせつなはいつも心の隅っこで、いろんなものを我慢しながら震えているんだ)
イースも、せつなも、パッションも同じ。メビウスの前でも、ラブや美希や祈里の前でも同じ。せつなは何も変わらない。
いつだって自分を押し殺して、こうあるべき、こう生きるべきだって、自分に言い聞かせて――――
(ねえ、せつな、わがままを言ってよ。こうしたい、あんなことがしたいって、夢を聞かせてよ)
家に来たのは、おかあさんが勧めてくれたから。美希や祈里と仲良くなれたのも、彼女たちが受け入れてくれたから。
ダンスを始めたのだって、祈里がダンスウェアまで作って誘ってくれたからだった。
せつなは、ただの一度だって自分の幸せを求めたことはなかった。
「みんなを笑顔と幸せでいっぱいにしたい」
別れの日にせつなが語った夢。それがせつなの幸せ? 違う! それは――――みんなの幸せのはず。
なりたい自分を思い描いて、その夢を実現させる。それが自分の幸せのはず。それこそが生きる意味のはずだった。
(これ以上、我慢なんてさせない。あたしは――――せつなの人生に悲劇なんて認めない!)
ロミオとジュリエットが運命に殉じたように、せつなも自分の運命に殉じる覚悟でいるのなら、
ここで二人の死を認めてしまったら――――
またいつか、せつなは自分の幸せや、命まで投げ出す日が来るかもしれない。
だったら――――変えてみせる。運命すらもねじ伏せて!
(どうしたらいいだろう? 確か物語では……)
御伽噺のセオリー。寝ている王女を起こす方法。この場合は王子だけど――――
本来は、この舞台でも数箇所で用意されていたシーン。恥ずかしくて、結局全部カットしてしまったシーン。
だけどもう、これしか方法がないから――――
(きっと、お互いにファーストキスだよね。ごめんね)
ラブがせつなに顔を寄せる。一瞬だけ躊躇して――――唇をそっと重ねた。
予定していた演技ではなくて、あたたかい、本物の……。
ビクン! とせつなの身体が震える。ロミオが倒れてから初めての反応。
ラブはそのチャンスを見逃さない。
「動いた! 動いたわ! ロミオ様のお体が、今――――確かに!」
ラブは両手を広げ、大きく宣言する。ロミオは死んではいなかったんだと!
様子を見守っていたクラスメイトが視線を交わして行動に移す。予測された展開の一つだった。
キャピュレット家に、ロレンス神父と共にみすぼらしい薬屋が姿を現す。
ジュリエットと、ベッドに眠るロミオの姿を認めて膝を突いて謝罪する。
「私は嘘を付きました。お金に目がくらみ、かと言って毒薬を売って死罪になるのも恐れ、偽りの薬を売りつけました」
一昔前のこと。貧窮し、ヴェローナで違法の薬を売って捕まった彼は、そこでロレンス神父と出会う。
その時、神父からある秘薬を受け取ったのだ。もし、この先毒を飲んで死にたいと願う者が現れたらこの薬を渡しなさいと。
自殺志願者の説得は難しい。でも、一度本当に死んでしまえば、その愚かさに気が付くだろうと。
もうじき四十二時間が過ぎる。ロレンス神父の言葉の通り、ロミオの頬に赤みが差す。
呼吸が戻り、指先から腕に、腕から肩に、そして両足に力が戻る。
静かに起き上がり、無言でジュリエットを見つめる。
やがて状況が理解できたのか、あるいは理由なんてどうでもよくなったのか、駆け寄ってジュリエットを抱きしめた。
「おお、ジュリエット! これは夢だろうか? それとも天国で再会でもしたのだろうか? どちらでも構わない。夢なら覚めなければそれでいい。
もし現実であるならば、今すぐここを出よう! 今度こそ僕は二度と君を離さないと誓おう」
「行きましょう! そこがマンチュアでも世界の果てでも構いません。ロミオ様のいる場所こそ私の唯一の世界なのですから」
「「その必要は無い!!」」
「その通りだ。ロレンス神父から全て聞かせてもらった」
現れたのは、ジュリエットの両親キャピュレット夫妻と、ロミオの両親モンタギュー夫妻。
そして――――ヴェローナ太守、エスカラスその人であった。
「どちらが間違っていると思う? 憎みあう両家の間で育まれた愛か? それとも、我が子の幸せすら許さぬ両家の争いか?」
「許せ、ロミオ。お前の親友のマキューシオの命を奪ったのも、ジュリエット嬢の従兄弟ティボルトを殺したのも我らだ」
「すまなかった、ジュリエット。前途あるパリス伯爵の不幸も、私たちの不毛な争いが生んだ悲劇。罪は我らが被るとしよう」
「それには及ばぬ。裁きは既にロミオに下っており、それは覆らぬ。しかし、ロミオは一度死んだ。死者にこれ以上被せる罪は非ず!
両家が心を改め、禍根を忘れ、これ以上争いを行わぬと誓うなら――――太守エスカラスの名において全てに恩赦を与えよう」
ロミオとジュリエットは初めは呆然と、そして、事情が飲み込めてからは抱き合って喜びの涙を流した。
太守の宣言した恩赦はロミオ個人に留まらず、投獄されている囚人の中で、非道な者を除く全ての囚人に適用された。
その者たちの多くは、モンタギューとキャピュレット家の争いに加担した者や巻き込まれた者であった。
時を置かずして、ヴェローナの街を挙げてのお祭りが開催される。改めて、ロミオとジュリエットの盛大な披露宴が行われたのだ。
いたるところで楽士が歌い、飲食店は支給されたお金で無料でご馳走を振舞った。
モンタギューとキャピュレットは屋敷で静かに酒を酌み交わし、ベンヴォーリオは墓石に酒を吸わせた。
マキューシオだけではなく、ティボルトやパリスにも。
それぞれの墓には、美しい花束が二つづつ供えられていた。
「恨み言は俺が代わりに聞いておいてやる。幸せにな、ロミオとジュリエット」
マキューシオの墓にもたれかかり、酒を煽るベンヴォーリオ。彼の語りとともに、静かに舞台は幕を閉じた。
“スタンディングオベーション”
観客の総立ちによる、割れんばかりの拍手とともに――――
桃園家の二階のベランダ。お風呂上りのせつなが、秋風に吹かれながら夜景を眺める。
ミディアムレイヤーの美しい黒髪がサラサラと流れる。その表情は穏やかで、いつもより楽しげに見えた。
ラブがそっと隣に立つ。
「お疲れ様、せつな」
「お疲れ様、ラブ。でも、いくらなんでも強引よ! びっくりしたんだから」
「ごめん。せつなの顔を見てたら悲しくなって、耐えられなくなっちゃったの……」
「もういいわ、私も意地になりすぎてたもの。ごめんなさい」
ラストの変更は、計画段階から予定されていたものだった。それを拒否して原作通りの結末にこだわったのがせつなだ。
与えられた環境、決められた役割の中で精一杯頑張るのがせつなのスタイルだ。今回は確かに自分らしくなかったと反省する。
「でも、みんなよく合わせてくれたわね。一つ間違えると大変なことになってたんだから……」
「少し前のあたしたちなら無理だったよ。演劇を通じて、クラスのみんなが一つになれたからやれたんだと思う」
「それをどの口で言うのかしら?」
「ひゃい、いひゃいよ、せつな。はにゃして……」
「いたた……。せつなの口に合わせた口でだよ?」
「こらっ! それもびっくりしたんだから。あんなやり方ズルイわ!」
ひとしきり追いかけっこしてから、ラブが真剣な表情でせつなを見つめる。
「ねえ、せつな。あたしは自分の幸せも、みんなの幸せもゲットしたい。せつなはどうなの?」
「ええ、私もそれが望みよ。幸せになるために、この街に戻ってきたのだから。でも――――」
「どちらかしか選べないなら、私は迷わないわ」
「やっぱりね……。そう言うと思ったよ」
ラブはゆっくりと距離を詰めて、せつなに被さるようにして抱きつく。
少し湿った髪からシャンプーの匂いが薫る。
「だったら、せつながみんなの幸せを選ぶなら、あたしはせつなの幸せを選ぶ」
「みんなで、幸せゲットするんじゃなかったの?」
「大丈夫だよ! せつながみんなの幸せを選ぶなら、それであたしたち全員幸せゲットできるじゃない」
「だから、そんなこと言うのズルイわ……」
「一緒に夢を探そうよ。幸せは自分から、あたしたちから広げていくものだよね?」
せつなはそれ以上何も答えなかった。ただ、頬を滑る一滴の涙が、何かをせつなの心に届けたのを教えてくれた。
冷たい秋風も、身体を寄せ合う二人を冷やすことはできない。より一層に互いの温もりを引き立たせる。
困難は、乗り越えた時に大きな幸せを導いてくれる。
そう――――教えるかのように。
最終更新:2011年07月17日 18:35