新-463

カーテンの隙間からベッドの上に揺らめく歪な縞模様。随分月が明るいようだ。
美希はそっとカーテンを捲る。浮かんでいるのはまろやかなカーブを描く三日月。
薄く鋭い刃物の様な姿なのに、驚くほど豊かな光を湛えている。
三日月がこんなにも明るく光る所を美希は知らなかった。


「綺麗ね…」

下から聞こえる静かな声。

「…ゴメン、起こしちゃった?」

せつなが眠っていない事は分かっていた。
多分、彼女は自分が起きている限り眠れない。
美希を信用していない訳ではなく、彼女の意識がそれを許さないのだろう。
祈里に気を許し過ぎた結果がもたらした、取り返しのつかない過失。
勿論、それはせつなの所為ではなく、責められるような過失でもない。
しかし、ほんの少し前のせつななら。
イースなら絶対に犯さなかった過ちだろう。
他人に出された物を警戒もせずに口にし、その結果意識を失うなど。
恐らく、せつなはこれから先に二度と他人よりも先に眠りにつく事はしないのではないだろうか。
ただ一人、ラブの側を除いては。

「美希、眠れないの?」

少し心配そうに見つめられ、美希は大丈夫、と言うように首を振る。
心は波立っているが、せつなの所為ではない。
自分の心の在りかを探しあぐね、どこに気持ちを持って行っていいか掴みかねている。
今日は随分色々な自分の気持ちと向き合ったつもりだったが、どうやらまだ足りないみたいだ。

「せつなは綺麗ね……」

心に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。
唐突だとか、脈絡が無いとかは考えない。考えたって仕方ない。
初めてせつなと二人きりになった時の事を思い、美希はくすぐったくなる。
盛り上がる話題を見つけようと必死になる美希。会話を繋げる、と言う意識すらないせつな。
一人で気を回して、一人で気疲れして。
でも、そのお陰で教えてもらった。

話す事がなければ無理に話さなくてもいい事。
会話なんて無くても心地好く過ごせる相手もいる事。
恐いって言ってもいい。守ってもらってもいい。
みっともなくたって笑われたりしないって事。
お姉さんでいなくても大丈夫なんだと思えた事。
浮かんでは消える飛沫のような思いを、思い付くままに舌に乗せる。
幼馴染みの二人なら、自分の言葉にどんな反応を返すかはいつも大体予想が付く。
付き合いの浅い友人には、初めから相手が反応に困るような言葉は使わない。
せつなには、そのどちらとも違う。どんな言葉や態度が返って来るのか予想が付かない。
それが少し不安で、とても楽しみで。
そしてそんな事が出来るのは、せつながとても正直だから。
自分の欲しい答えでなくても、せつなからもらう答えには、
何かしらの真実が含まれていると思うから。
親友の顔を見つめながら美希は改めて嘆息する。
どうしてこの子が異様な目立ち方もせず、学校の人気者程度のポジションにいられるのか。
どうすれば、あんなに周囲に溶け込めるのか。
これ程美しく生まれつき、立ち居振舞いにも隙がない。
他を圧倒する美貌と頭脳、存在感を持っているはずなのに、同時にそれらを覆い隠すベールをも併せ持っている。


自分には、とても出来なかったのに。
人より少しばかり美しく生まれついただけの普通の人間の美希でさえ、
いつもジロジロ見られ、遠巻きにヒソヒソと噂され、時には異物として排除されそうになった。
美希がどんなに普通に振る舞おうとも、周りはいつもどこかに壁を作っていた。
モデルになると言う夢を持ち、尚且つ、いつも変わらぬ笑顔で側にいてくれた
ラブと祈里と言う幼馴染みがいなければ、美希はどれほど孤立していたか。
美希が普通の子供として、楽しい思い出に包まれていられたのは、ラブと祈里と言う稀有の親友、
そしてこの町の飾らない気風のおかげだったのだろう。

改めてせつなを見る。
月明かりの中に浮かぶせつなは本当に綺麗だと美希は思った。
イースが鋭いナイフの様な三日月なら、今のせつなは柔らかな
光を湛えた満月だろうか。

「本当に、綺麗よ。せつなくらい綺麗な子、滅多にいないんだから」

「…知ってるわ」

軽く驚いたような顔をした後、苦笑いを浮かべて答えるせつな。
美希は少し目を見開き、そしてなるほど、と思い直す。
せつなは自分が容姿に恵まれている事を自覚していない訳ではない。
興味が無いだけだ。
以前なら見た目の美しさを餌に相手を油断させ、罠にかける。
そんな風に策謀の手段にする事はあったかも知れない。
しかし今はそんな必要は無くなった。
この世界を容姿を武器に渡って行くつもりなどない。
出る杭は打たれ、平均から外れた物は良くも悪くも排除されかねない。
そんな世界ではずば抜けた美貌は却って邪魔なくらいなのかも知れなかった。
何もしなくても華やかな顔立ちや、均整の取れた肢体は隠し様がない。
だからこそ、少し野暮ったいくらいの服装。大人しやかな仕草。控え目な言動。
可愛いんだからもっとお洒落すればいいのに、そう思われるくらいが丁度いい。
埋もれ過ぎず、目立ち過ぎず。それくらいが一番生きやすい。
分かっていても、自分の武器を敢えて隠しながらそんな事が出来る人間なんて
滅多にいないだろうけど。

「美希も綺麗よ。とても」

美希の隣で月光を浴びながら囁く声。
少しからかい気味に言われても、美しい同性から受ける賛辞は時に
異性からの言葉よりもずっと価値がある。

「それはどうも」
「あら、真剣に言ってるのに」
「分かってるわよ。そりゃ、アタシは努力してますから」

そう。努力してる。
美希にとって容姿を磨く事は生きていく為の手段であり、目的だ。
これからの人生を左右する程の。
一流のモデルになる。それが目標であり、夢だから。
その夢を諦めてもいいと思った事もあったけれど。
以前、一生に一度かも知れないチャンスを棒に振った。
ギリギリまで迷ったけれど、そうしても良いと思った。
それくらい、あの二人は大切な存在だったはずだった。
そして、あの二人も同じように自分を大切に思ってくれていると信じていた。


「…どうしてかしらね……」

どうして、せつなを嫌いになれないのだろう。
せつなを憎めたら、どんなに楽になれるだろう。

「ねぇ、せつな。アタシって何?」
「…美希……?」
「アタシ、一人で馬鹿みたいだと思わない…?」
「…………」
「蚊帳の外で右往左往して。アタシに出来る事なんか無いのにね」
「……………」
「それでもね……アタシ、やっぱりみんなと一緒にいたいみたいでさ…」

そっと頬を撫でられた。
下らない言い種だとは分かっている。
仲間外れにしないで。結局、それだけの事なのだから。
美希以外の三人にはどれほど深刻な悩みでも、当事者ではない美希には理解出来ない。
それでも、置いてきぼりは嫌だ。
もう居場所を失うのは嫌だ。
居場所なんて自分で見付けて築き上げるものだと言う事は分かっている。
自分の足で、誰とも手を繋がずに立てなければそんな場所は見付からない。
だけど………

(……ねえ、美希ちゃん。わたしって昔から結構いい子だったと思わない?)

あの日、朝の公園での祈里の声が頭に甦った。
自分の欺瞞を嘲笑うかのような祈里の顔。
自分の言葉で自らを切り刻んでいるようだった。
いい子なんかじゃなかった。
優しくなんかなかった。
そう、泣き笑いで天を仰いでいた祈里。
ほんの少し、あの時の祈里の気持ちが分かるような気がしていた。
いつだってお姉さん役だった自分。
そして、そのポジションに満足していた。
一番しっかり者のつもりだった。
一番大人に近いつもりだった。
一番広く世界を見ているつもりだった。
具体的な将来の夢を持っていると言う点では祈里と同じだったが、
既に仕事をこなし、金銭を得ている分、ずっと自分の方が先に行っていると思っていた。
ラブや祈里を子供扱いするつもりは毛頭無い。
しかし、もし仮に三人の輪が崩れ、それぞれ道が別れる事になったとしても。
一番最初に閉じた世界から出て行くのは自分だと思っていた。
美希は夢にも思った事が無かったのだ。
まさか、この自分がラブや祈里に置いて行かれる立場になる事など。
置いて行かれるとしても、「一人にしないで」なんて、縋るような気持ちになるなんて。
両親が離婚した時ですら、決してそんな気持ちを人前では見せなかったのに。
綺麗で、自信に溢れていて、自立した自分。
仕事にしても、恵まれた容姿だけに胡座をかかず、
両親のコネにも頼らず、努力を惜しまない。
常に完璧を目指し、自分を磨く。それが当然だった。
そうありたいと思い、そんな自分が好きだった。

でも少し違ったのかも知れない。
自分がそうありたいのではなく、周りからそう見られたかっただけなのではないか。

寂しいと泣いて、一人で頑張る母に負担をかけたくなかった。
周りから可哀想だと同情されたくなかった。
同世代の子供の中では飛び抜けた美しさの為に、子供達からは悪気無く
距離を取られたりもした。
その事を寂しく思っている事を知られたくなかった。
みんな何でもない事。傷付くような事じゃない。
だって、アタシは完璧だから。みんなにも、そう思って貰えるように。


ラブも祈里も、こんな気持ちを味わったんだろうか。
今までの自分が崩れて行くような感覚。
信じて疑いもしなかった自分像が歪み、溶けて、流れ去り、
見たことも無い自分が浮かび上がって来るような、恐怖にも似た感覚。
せつなに出会わなければ、ずっと心の奥底に閉じ込めていられただろう、
醜くおぞましい自分の一面。


「せつな、アタシ、分からなくなっちゃった。アタシってこんなに何も出来ないヤツだったのかな……」
「…美希」
「ねえ、教えて。アタシ、せつなにはどう見えてる?」


「美希は、私が『美希はこう言う子よ』って言えば安心するの…?」
「……分からない。でも、聞きたい」


今までの美希を知らないせつなに。
初めて、幼馴染み以外で出来た親友のせつなに。
親にも見せた事の無い、情けない姿も知っているせつなに。
聞いてみたい。意味なんか無くても。単なる自己満足でも。
美希自身、もう自分が分からないから。
美希がせつなにとっても親友だと言うなら、それはどんな姿をしてるのか。
最愛の人であるラブや、そうなりたくて叶わなかった祈里とはどう違うのか。
それを知れば、この波立った心も少しは凪ぐかも知れないから。


「ねぇ、美希。美希は出会った頃から、私を警戒してたわよね」
「……?……うん」
「胡散臭いって。何かおかしいって。私がラブに近づくのを快く思ってなかった」
「…うん」
「でも、美希は何もしなかったわよね」
「……え…?」
「私の事、疑ってるのに、ラブを私から遠ざけようとはしなかった」
「…それは……」


何もしなかった訳ではない。
それとなく、警告めいた事を口にした事はあった。
ただ、ラブには伝わらなかっただけだ。
ラブがせつなに夢中になっているのは一目瞭然だったから。


「正直に言うわね。私、美希の事なんて眼中になかったわ」
「……はっきり言ってくれるわね」
「ふふ、ごめんなさい。でも、美希にも分かってたでしょう?私がラブしか目に入ってないの」


最初は、軽く美希を警戒したのは確かだ。
おっとりとした雰囲気の祈里と違い、聡そうな瞳をした美希を。
開けっ広げにせつなを受け入れようとするラブと違い、明らかに異物を
眺める視線を送る美希を。
しかしすぐに興味を無くした。
何も仕掛けてくる気配が無かったから。
ラブの様子を見ていれば、自分と関わり合う事に注意を促されては
いないという事も分かった。
ラブの性格なら、もし親友である美希に付き合いを制限する様に言われたなら、
それを態度や表情に表さず隠す事は難しいだろうから。
そして、その頃のせつなは密かに失笑した。
所詮、そんなものなのか、と。

このまま関わりが深くなって行けば、いずれラブは傷付く。
そう、美希は予感していたはずだ。
にも関わらず、ラブに注意を促すでも、せつなに釘を刺すでもない。
そんな美希を臆病者とすら感じた。
親友だと言いながら傷付くのを黙って見ているだけ。
頭は良くても自分の手を汚すのは嫌な事無かれ主義なのだろう、と。
ならば放って置いても問題はない。どうせ何も出来はしない、と。


「美希、こっち向いて」

話が進むにつれ、どんどん項垂れていく美希の顎に指をかけ、上を向かせる。
涙を溜めた美希の瞳を見つめながら、せつなは困ったように息を付く。

「だから、言ったでしょ?最初はって。今は違うから。泣かないで」
そうは言われても心が抉られる。全部本当の事だったから。
せつなを怪しいと感じながらも、その疑問を軽く口にする事しか出来なかった。
嬉しそうにせつなと話すラブ。それを眺めながら、不安を募らせるだけで何もしなかった。
トリニティのライブ会場で倒れたせつな。
そのポケットにラビリンスの証を見つけたのに、ラブとせつなを
二人きりにさせていた。

『せつなは敵よ。せつなはラビリンスだったのよ』
その台詞を口に出したのすら、せつな自ら正体を明かした後だった。
とうの昔に気付いていたのに。
せつなの言う通りだ。自分は臆病で日和見な事無かれ主義の卑怯者だ。

「もうっ!ちゃんと最後まで聞きなさいよ」
「…いいの、本当の事だもの……」
「違うから!」
「何が!」
「だからっ、今はそんな風に思ってる訳ないでしょ!」
「…でもっ」
「でもじゃないの」

駄々を捏ねる子供を慰めるように、せつなは微笑む。

「美希だって、今は違うでしょう?私は美希の友達なんでしょう?」
「…………」
「最初は……ラブのおまけだったかも知れないけど…」
「ちょっと、せつな…」
「だって、そうでしょ?美希、私と二人きりになっても話す事が無くて困ってたじゃない」


分かってたのか。


「今は違うんでしょ?私と二人きりでも平気。
私の事を好きになってくれたって、思ってもいいのよね?」
「……当たり前よ」
「よかった。それって、美希だって私への印象がいい方へ変わったからでしょう?」
「でも……アタシ自身は何も変わらない。せつなは頑張って変わったじゃない」


周りに溶け込む為に。過去を償う為に。
そして、すべてを受け入れた上で幸せを掴む為に。


「本当に、そう思う?私は昔と変わったって」
「……………」


そう言われると自信が無い。だってせつなの過去なんてほんの一部しか知らないから。
イースとして目の前に現れ、敵として戦った。
イースの心の内なんて考えた事も無かった。
美希が知っているのは、今、目の前にいるせつなだけだ。
イースとしての過去を知ってはいても、それが今のせつなを構成している物の
一部だと分かってはいても、心のどこかでせつなとイースを分けて
捉えている部分を否定できない。


「あのね、せつな。アタシ、前にラブに言ったの。
『せつななんて子は最初からいなかったのよ』って」
「…上手いこと言うわね……」
「…ごめんね。アタシも、あの時はラブしか大事じゃなかった」
「……………」
「アタシだって、せつなの事なんてどうでも良かったんだと思う。
ただ、ラブが辛い思いするのを見たくなかった」


ごめんね………


「私も、今はそう思ってるわ」
「………?」
「美希は、ラブに傷付いて欲しくなかった」
「…うん」
「だから、不安でも、信じたかったのかな…って」
「……誰を…?」
「私を……」


思わず顔を上げてせつなを見る。
そこには、少し憂いを帯びたような大人びた表情のせつな。


「全部取り越し苦労であって欲しい。私はただの変わり者の女の子で、
ラブを裏切ったり悲しませたりしないって」
「……せつな」
「今なら、そう思うの。美希は優しいから。信じていた相手に
想いが届かない事がどれだけ辛いか知ってるから…」
「………」
「だから、私がラブを悲しませるような存在じゃないかって。
そんな事、私を疑うような事を言うなんて、ラブに言うには
苦しかったんだろうなって」
「…………」

ラブが目を輝かせて新しい友達の事を話す。
その瞳を曇らせてまで、確証の無い疑念を口にしてもいいのか。
単なる杞憂に終わるかも知れない。そうであって欲しい。
半ば祈るような気持ちでいた。


「だから、美希は…何も出来なかった。違うかしら」

ぽたり、と雫が落ちる。
違う。そうじゃない。自分はそんなに深く考えてた訳じゃない。
ただ、確証も無い事を口に出す自信が無かっただけだ。
無責任にせつなを貶めて、何も無かった時に後で非難されたくなかっただけだ。優しくなんてない。
そう、喉まで出かかっている言葉が声にならない。
優しいから、なんて言われて泣くなんて。
どれだけ心が弱っているのか。みっともない、そう思うのに涙が止まらない。


(……そんな訳ない。アタシはそんなにイイコじゃない…)


せつなはアタシを買い被り過ぎている。
そう思うのに、湧き上がって来る嬉しさ。
せつなの言葉に溺れたくなる。
綺麗な言葉を浴びせかけられるのは本当に肌触りが良くて。
でも、そんな甘い言葉をそのまま受け入れるのは躊躇われた。
目の前に出された餌に飛び付くようなみっともなさを感じてしまう。
つまらないプライドなのだろう。
反論を試みずにはいられない、天の邪鬼な自分。
そして、その裏側にある、それをも否定して欲しいと言う甘え。


(お願い、せつな……)


これから美希の言う言葉を否定して欲しかった。
美希の行動が、優しさ故の臆病さだと言うなら、それを納得させて欲しい。
せつな自身の言葉で。美希が、己の卑怯さや小ささも引っくるめて、
自分をまっすぐに見据えられるように。




新-493
最終更新:2011年10月22日 23:44