新-493

耳に心地好く響くせつなの声。
それは、まるで心を内側から羽毛で撫でられているよう。
美希を優しいと言うせつな。
たぶん、面と向かって美希をそんな風に評したのは
せつなが初めてではないかと思った。
優しく無い、とは今までも思われてはいないとは思う。
しかし、それは美希を表す単語としては、必ずしも上位にある言葉ではない。
上に来るのは、しっかりしてる、大人びてる、気が強い。
親しい相手には、案外抜けてる、なんて言われる事もある。
しかし、情には厚い方だと自分で思っていたりもするが、
『優しい』なんて丸く柔らかいイメージは持たれていない。
他ならぬ、美希自身がそう振る舞って来たのだから。
そんな言葉が似合うのは、いつもふんわりとした微笑みを浮かべている祈里。
いつもお節介なくらいに他人の為に走り回っているラブだ。
美希の役回りは叱ったり励ましたり。
どちらかと言えば喝を入れてしょげた相手を奮い起たせる方だ。
上手くは行かない時もあったけれど。


「アタシは優しくなんかない。せつなはあんまり優しくされた事ないから、
アタシなんかでも優しく見えるだけよ」
「…それも随分な言い方よね。私の感じ方なんて当てにならない?」
「でもっ、それは、せつなの見方が変わっただけでしょ?
アタシのやった事は何も変わってない!」
「それのどこがいけないの?」
「だって!そんなのっ……」
「美希だってそうでしょ?」
「……?!」
「私だって、変わってないわ。美希の見方が変わっただけ」
「…………」
「今の私を見てるから、昔の私も引っくるめて、親友だって言ってくれる。違う?」
「…じゃあ、せつなは?なんでアタシを親友だって言うの?
アタシ、せつなにそんなに好かれるような事、した?」


言ってて気が付いた。
本当にそうだ。自分は、親友だと言いながらせつなの為に何かした事があっただろうか。
口だけだ。一人にはしないなんて。
いつだって、せつなの為に必死になっていたのはラブだけだ。
自分はラブに引きずられていただけ。
ラブがこんなにも想ってるんだから、そう、美希はラブの為に走り回っていただけ。
せつなの為では無かった。
それを思うと、たとえ傷付け汚しても、剥き出しの想いをぶつけた
祈里の方が真摯にせつなに向き合っていたようにすら感じる。
結局、自分の事しか考えて無かった。
居心地の良かった棲みかを追われる事に脅えていただけだった。
これ以上せつなに傷付いて欲しくない、そう言いながら、
四人でいるのを望んでいるのは自分自身だとせつなの口から聞かされ、
その事に膝が砕け、崩れ落ちたくなるくらいに安堵していた。


「今、こうして、一緒にいてくれてるわ」


止めどなく溢れる美希の涙を指先で拭いながら、せつなは一語一語を
はっきりと句切るように美希に告げる。


「自分が辛い時に、一緒にいる相手に私を選んでくれた。
そんな風に感じるのって自惚れてるかしら…?」
「………せつな…」
「いつだって、美希は必死に考えてくれてた。どうすれば、みんなが
笑って過ごせるのか。勝手にしろってそっぽを向く事だって出来たのに」

半ば呆然とせつなを見つめる。
せつなの中の美希はどんな姿なのか、未だに美希には掴めない。
だけど、優しい、と言う評価に少しだけ意地悪を言ってみたくなった。
今まで美希に付いてまわった評価では、優しい、と言うのはあまり記憶に無いから。


「ねえ、せつな。せつなは知らないかもだけど、こっちの世界では
『優しい』って、結構ビミョーな評価なのよ?」
「どう言う意味?」
「あのね、毒にも薬にもならないって言うか、いい人だけど
他に魅力が無いって言うか…」
「…………」
「なんて言うの?他に誉め言葉が思い浮かばない時に使う、
ある意味便利で無難な言葉だったり、酷い時だと優柔不断を
紙一重でマイルドにした感じ?…」
「………こちらの言葉の使い方って複雑なのね……」

せつなは呆れたようにため息をつき、改めて真っ直ぐに美希に向き合う。
至近距離で見つめ合っても、およそ欠点など見つけられない完璧な笑顔。
美希はぼうっとしたまま、今の自分はかなり間抜けな顔を晒しているのに、
そんなに可愛く微笑むなんて不公平だ、などと緊張感の無い事を
思わず考えてしまった。


「いい?美希は優しいわ。少なくとも、私はこれから先、美希以外の人に
『優しい』って言う表現は使いたくない」
「………」
「そのくらい、美希は優しい人だって思ってる」


同じくらい、寂しがり屋だとも思ったけど。
そう言いながら、美希の濡れた頬に唇を寄せた。


もう、駄目だ………。


美希はせつなにしがみ付き、声を上げて泣いた。
物心付いてから、声が枯れそうな程、こんなにも泣いた記憶は無いくらい
大きな声で泣いた。
せつなの言う、優しい人。それがどんな意味合いを持つのか。
美希はせつなに意識して優しくした覚えは無かった。
ただ日々せつなを見つめ、共に過ごす内に芽生えた愛しさを
隠す事はしなかっただけだ。
ラブはせつなに出逢った瞬間から、抗い難い運命の様な物を感じたのだろう。
祈里は自分でも気が付かない内にせつなに魅入られ、堕ちて行った。
自分はどうだったのだろう。
最初は、ラブの後をちょこちょこと控え目について行くだけだったせつな。
少しずれた世間知らずな言動や、それとは裏腹な時には突拍子も無い程の行動力。
空気は読まない、お愛想代わりの世間話すら出来ない。
美希は手のかかる妹分がまた一人増えたようなつもりでいた。
それがいつの間にか、こちらが頼る場面すら増えてきた。
妹扱いしようにも、せつなの方が美希を『お姉さん』とは微塵も感じていない。
それが最初は居心地が悪くて、でも不思議と嫌ではなくて。
せつな相手には何も飾る必要がない。
と、言うより、飾った所でせつなは美希が気取っていようがすましていようが、
逆に子供のように拗ねたりしても気にもしない。
いつしか、せつなとは一番目線が近いような気すらして、
それがなんだか嬉しかった。


美希の脳裏にふとした思いつきが浮かぶ。
試してみてもいいだろうか。しかし、単なる思いつきで頼むのも失礼な気もする。
それに、物は試し…が変な方向に転がったら。
凄まじい勢いで色んな思いが駆け巡る。
もう、せつなには何でも言えるし、せつなも何を美希が言っても
驚かないだろう。
ここまでさらけ出してしまったら、もう取り繕う箇所は殆んど無い。
しゃくり上げる胸を落ち着かせ、何とか息を整える。
大きく深呼吸して、下手をしたら多大な誤解を招き兼ねない一言を口にした。


「ねえ、せつな……キスしても、いい…?」


ようやく涙が落ち着いて、やっと口に出した言葉がこれだ。
さすがにまともに顔を見る勇気は持てなかった。
せつなも咄嗟に反応を返せないのか、無言のまま。

「いいかな…?」

おずおずと顔を上げ、上目使いに何とか視線を合わせる。


せつなは、しばらく美希の表情を窺った後、驚くでも茶化すでもなく、コクリと頷いた。
目を閉じ、軽く顎を上げる。
美希の口付けを待っているのだ、と理解し、自分で言っておきながら
美希は微かにたじろぐ。
ゴクリと喉を鳴らし、何とか手の震えを抑え、せつなの肩に両手を添える。


濡れた唇が軽く触れる。
ビリッと電気が走り、髪の毛も含めて全身の毛が逆立った気がした。
信じられないくらいの柔らかさ。心臓が跳ね上がる。
そして少し躊躇った後、しっかりと唇を押し付ける。
蕩けそうな感触。
こんなに柔らかいものに触れたのは生まれて初めてだと思った。
どこまでが自分の唇で、どこまでがせつなの唇なのか分からなくなる。
頭の芯が熱い。
逃げ出したいような、いつまでもこうしていたいような。
そして、物凄くドキドキしているのに、やっぱり『違う』と感じる。
この鼓動は胸の高鳴りとは別物だと、頭のどこかが言っている。
早鐘を打つ胸は、緊張と、こんな事をしてせつなにどう思われるだろう、
と言う不安。
少なくとも、もっと先に進みたい、もっと触れたくてもどかしい。
そんな欲望は微塵も涌いて来ない。
甘い匂いと柔らかな感触には、うっとりといつまでも
酔い痴れてしまいそうな心地好さはある。
でも、それだけだ。


「……どう、だった…?」


触れていたのは、ほんの数秒だろう。
それでも、唇を離すまでは時間が止まっているようだった。
温もりと柔らかさがすっと遠退くのが名残惜しいような、
ホッとしたような。
離れた瞬間から夢か幻だと言われても信じそうなくらい、
一瞬にして現実感がどこかへ行ってしまった。


「…しょっぱいわ……」
「あのねぇ…」


ペロリと唇を舐めたせつなが呟くように漏らす。


「美希、涙で顔中ベタベタなんだもの…」
「色気のカケラも無い感想ね……」
「美希に色気なんか感じてどうするのよ」

ぷっ…、と二人同時に吹き出した。
そのまま額をくっ付け、笑い合う。


「よかった……」
「何が…?」
「せつなにドキドキしちゃったら、どうしようかと思ったわ…」
「何よ、それ。実験?」
「そーよ、実験。やっぱりアタシには無理だわ」
「そんな事の為にわざわざ唇奪ったの?」
「何よ、奪ったって。合意の上じゃない、人聞きの悪い」


クスクスと笑いながら囁き合う。
馬鹿馬鹿しい、けれど、真剣な実験。
二人はこれからも親友。何があっても。
大好きで大切だけど、閉じ込めて一人占めしたいなんて思わない。一人占めしている誰かに嫉妬もしない。
だって、想い合う場所が違うから。
運命の人でも、欠けた魂の片割れでもない。
だけど、かけがえの無い、一番の友達。


「美希が好きよ。大好き。何度でも言うわ」
「…せつな」
「ラブみたいには想えない。それに、ラブと美希を比べたら…
比べたくなんかないし、比べちゃいけないんだろうけど、
やっぱり比べたら、私はラブが大切って答える」
「………うん」
「それでも、やっぱり美希の事が大好き。大好きで、美希にも、私を好きでいて欲しい…」
「うん……」


それでいい。ううん、それがいい。
美希も、せつなから欲しいのは、ラブに向けているような愛情ではない。
それがはっきり分かったから。

出逢った瞬間、恋に落ちる。何もかも振り捨ててでも、たった一人の
人を求めずにはいられない。
そんな相手に巡り会える人なんて滅多にいないのだから。
多くの恋人達は、いくつもの出合いと別れを繰返し、結ばれた後も、
本当に自分の相手はこの人なんだろうか…?
そんな不安を抱えているのも珍しくはないのだろう。
永遠の愛を誓った後でさえ、気持ちが変わる。
美希の両親がそうだったように。

せつなの中の美希。せつなの親友。誰よりも優しい人。
それが本当に自分の姿なのか。
たぶん、せつなにとって美希がどう思うかはあまり関係ないのだ。
ただ、せつなは今目の前にいる美希を抱き締めてくれている。
初めて出来た、無二の親友として。

人によって、その心に住み着く人間の姿は違う。
しかし、その人そのものは何も変わらない。
月が日々姿を変え、満ち欠けしても、月である事が変わらないように。
月は太陽の光を受けて輝くだけの、冷たい石。
近くで見れば、命の影すら無いクレーターだらけの暗い塊。
しかし、人が月を思い浮かべる時、それは夜空に輝く豊かな光を湛えた姿だろう。
月が自分はただの石くれだと言ったところで、地表から眺める者の瞳には
眩い程に美しく、魅惑的に映っている。
それは、月が自分では輝けない事実を知っていても変わらない。
そんな事は、見上げる月の美しさを損ねるものではないと分かっている。


「美希、一つだけ聞かせて…」
「なあに?」
「……私に、会えて良かったと思う…?」
「…せつな」
「私、ほんの少しでも、美希の幸せの一部になれてる?」
「せつなは……?」
「………?」
「せつなはどうなの?アタシに会えて良かった?」
「当たり前じゃない!」
「だったら、そんな事聞くまでもないわよ!」


途端に、せつなはくしゃっと顔を歪めた。
その顔を見て美希は密かに安堵する。
ああ、やっぱり。せつなだって不安だったんだ。
美希の気持ちを受け止めようと、精一杯頑張ってくれてたんだ。
今度は美希がせつなの頭を胸に抱き込む。
あやすように髪を撫で、体を揺する。


「あなたに出会えてよかったわ」


本当に、本当に。
色んな事があって、これからもまだまだ色んな事が起こるだろう。
だけど、もう自分を嫌いにはならずに済みそうな気がしていた。
今までも、たった今も、出来る限りの事をやってきたと思うから。
せつなに、美希は優しい人だと言ってもらえた。
それで、自分のしてきた事は無駄では無かったと感じられたから。


「アタシ、このままでいいわよね。今のまんまのアタシで」
「うん…。このままの、美希でいて欲しいわ…」
「そうね。これから、変わる事もあるかも知れないけど、
中身はいつだってアタシのままよね」
「ええ……」


たぶん、次に祈里とラブに合うとき、二人は気まずい思いをしてるだろう。
だから、アタシから笑おう。
そうすれば、きっと二人もぎこちなくても笑顔を返してくれる。
アタシは変わらない。
祈里とラブの中のアタシだって、きっと変わってない。
ほんの幼い頃、三人並んで手を繋いでいたあの頃と変わらない自分達が
まだ胸の中にいるはずだから。
そこにせつなが加わったって、幼馴染みの絆は変わらない。
そう、信じよう。
そして、せつなの温もりを抱き締めながら、改めて思う。
この子はかけがえの無い親友なんだと。
幼い頃を知らなくても、育った世界が違っても。
ラブや祈里にも話せない事も打ち明けられる、特別な存在だと。

結局、回り道しただけで行き着く場所は同じだった。
その回り道は辛くて、先が見えなくて、それでも、今まで知らなかった
様々な道を教えてくれた気がする。

大切な人は、やはり大切だった。失う事も、別れ別れになる事も考えられない。
そんな当たり前の、それでいて忘れてしまいがちな事実を確認できたから。

そして、せつなもきっとそうなのだと思いたかった。
ラブと祈里とせつな、この三人にしか分からない想い。それぞれの胸の内。
それを美希は窺い知る事は出来ない。
せつなが幼馴染み三人の歴史には過去に遡って入れないと知っているように。
だけどそれは、異なる二つの世界があり、お互いに重ならない訳ではない。
より大きな世界となって、美希もせつなもそこにいる。
その世界はこれからもどんどん変化し、広くなったり狭くなったり、
境界線がはっきりしたり、曖昧になったり。
そして行き来出来る場所がどれほど増えても、決して踏み込めない
場所があるだけだ。

満月の裏側が暗闇であるように。
そして、その暗闇は隠すものでも、怯えるものでも無く、当たり前に存在するものなのだ。

静かな闇は穏やかな安らぎを与えてくれるから。




新-925
最終更新:2012年02月10日 23:42