新-859

半ズボンのポケットにあるものを時々触って確かめながら、
夕暮れが近付く通りを、少年は黙々と歩く。

物心ついたときから、母は一緒に暮らす人、父は外で会う人だった。
幼い頃は母に連れられて、小学校に上がってからは一人で、父に会いに行った。

何でも我儘を聞いてくれ、高価なおもちゃも簡単に買ってくれる父。
その代わり、会いに行っても一緒に過ごす時間はごく短いものだった。
それでも以前は、父と一緒によく遊んでいたような気がする。
キャッチボールの合間に見せる、誇らしそうな笑顔。
オセロで負けて悔しがる自分をなだめる、オロオロした顔。
実に楽しそうに遊んでくれる、父の表情が大好きだった。

しかし大きくなるにつれ、外野の声が耳に入ってくる。
母が自分のせいで、心通わせた人との再婚に踏み切れないでいるのだと。
父が自分に優しいのは、将来、会社の跡取りにしたいと考えているからだと。

親はただ自分の親であるだけでなく、それぞれ一人の人間だということ。
自分は必ずしも、彼らの一番ではないのかもしれないということ。
幼くしてそれを知った時、心のどこかに、冷たく静かな自分だけの場所が生まれた。

ひんやりとしたその場所にたった一人、膝を抱えて座り込む。
母が再婚して新しい父が出来れば、今の父とは会えなくなるかもしれない。
父の跡取りになることを受け入れれば、もう母とは暮らせなくなるかもしれない。
そんなどうしようもないことを、考えてしまう自分が嫌で。
そんなことを考えながら、親たちの顔を見る自分がもっと嫌で。
母にわざと我儘を言って、困らせることが多くなった。
父の家を訪れても父を避け、ゆっくり話すことなどなくなった。

早く大人になりたい。
父に縛られず、母を縛らず、誰にも頼らず生きていける大人に。
たった一人でも生きていける、強い大人に。今すぐにでも。
そして、それが出来ないのなら・・・。

少年は歩く。
わずかに伸びた影を従え、
しんと冷えた心の景色を、その瞳に宿らせて。



  桃源まで、東へ五分 ( 第4章:未来へハイタッチ! )



 四つ葉町の街外れに広がる森。ここだけは、二十五年の歳月を跳び越えても少しも変わっていないように、せつなの目には映っていた。
 木々の枝葉が傾きかけた陽光を遮り、せつなとタルトの影を消す。上から降ってくるざわざわという音は、まるで森がひとつの意志を持ち、ここでは自分が主だと主張しているように聞こえる。
 イースだった頃は、ここを通るたびに、自分の心が森に見透かされているような気がして、ざわめく木の葉をぐっと睨みつけたものだった。
 そんなことを思い出して拳を固く握ったせつなを、タルトが走りながら心配そうに見上げる。
「パッションはん。大丈夫かぁ?」
「平気よ。そろそろ追いつくかしら。」
 せつなが過去の記憶を振り払おうとでもするように、なお一層足を速める。タルトも負けじと、彼女に追いすがった。



 森の中を、二つの影が歩いていく。大きな影と小さな影。南瞬の姿をしているサウラーと、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ、あの少年だ。やがて大きな影が立ち止まると、それを見て、小さな影もその歩みを止めた。
「さぁ、ここだ。約束通り、渡してもらおうか。」
「ここってどこ?マシンの姿を拝んでからじゃなきゃ、渡せやしないよ。」
 深い森の中で突然立ち止まったサウラーに、少年は不安そうにきょろきょろしながら、それでも言葉だけは勇ましく言い返す。
「ほほぉ。なかなかしっかりしているね。いいだろう。スイッチ・オーバー!」
 サウラーが、おもむろに本来の姿に戻り、そこに立っている巨木の幹に右手を当てる。すると、その手を中心に次元の扉が開き、タイムマシンがその姿を現した。
「うわっ、こんなところに隠してたんだ。」
「誰かに盗られないとも限らないからねぇ。さあ、部品を渡してくれるかい?」
 ニヤリと笑って右手を差し出すサウラーに、少年は一歩後ずさり、意を決したように、その顔をまっすぐに見据えた。
「その前に。約束、ホントに守ってくれるんだよね?」
「無論だよ。信じられないかい?」
 少年が、サウラーの冷たい瞳を覗き込む。
「じゃあその証拠に、先にマシンの中を見せてくれない?」
「お好きなだけ、どうぞ。」

 少年がマシンの前扉を開けて操縦席に乗り込むと、サウラーはその扉を押さえたままで中を覗き込み、ごちゃごちゃとした計器類を指差した。
「これが今の時間。そして隣りにあるのが、行き先の時間だね。そしてこっちで場所を設定するようだ。一度跳んだらノンストップだから、タイムトラベルを止めるためのブレーキは無いようだね。」
「・・・なんだか他人事みたいな言い方だけど、おにいさん、これに乗ったことあるんだよね?」
「勿論あるとも。だが、操縦したのも、これを作ったのも、僕ではないんでね。まぁこの程度の機械なら、見ただけで扱える。要は、車とほとんど同じさ。ま、多大なエネルギーが必要ではあるようだが。」
 自信たっぷりのサウラーに、ふぅん、と気のなさそうな返事をして、少年はじっとマシンの計器を見つめる。そして何気ない様子で、そのつまみに手を伸ばした。
「今から九年前の、19××年。えーっと日付は・・・今日と同じでいいや。」
「おいおい、君。何を勝手にマシンをいじっているんだい?」
 サウラーの呆れた声に、少年はニヤリと笑って振り返る。
「だって、約束通り俺を過去に連れて行ってくれるんだろ?だったら先に、目的の時間を設定しておこうと思ってさ。」
「ふぅん、手回しがいいねぇ。」

 サウラーは落ち着いた表情でひょいと身を引くと、マシンから離れた。その様子をじっと窺っていた少年も、ゆっくりと操縦席を離れ、外へ出る。
「さぁ、今度こそ渡してくれるかい?」
 三度促された少年は、今度は素直に頷くと、ズボンの右ポケットの中から、丸くて銀色に光る鏡のような物体を取り出した。
「よぉし、良い子だ。取り付け位置はここだな。」
 サウラーは少年から部品を受け取ると、ちょうど車で言うところのフロントガラスの真ん前、ボンネットの付け根あたりにある小さなくぼみに、その部品をはめ込んだ。
「これでよし。さて、出発するとしよう。」
「うん。」
 少年が、マシンの後部座席のドアに手をかける。と、その手をサウラーが掴み、マシンから引き離した。
「君には感謝しなくちゃいけないねえ。僕が帰る手助けをしてくれて、礼を言うよ。」
「・・・!」
 サウラーが少年の肩を軽く突き放す。それだけで、少年は後方へ弾き飛ばされ、もんどりうって地面に転がった。
「よし。・・・これで本当にさよならだな、イース。」
 口の中でそうつぶやきながら、サウラーは素早く操縦席に乗り込む。計器のつまみをいじり、マシンのエンジンをかけ、エネルギー増幅器のレバーを引き絞ると、さっき取り付けた部品の鏡のように丸い面から、見る見るうちに金色の光が溢れ出した。
「そのまま未来へ。・・・なに!?」

 突然、サウラーの顔が驚愕に歪む。
 部品の表面から真っ直ぐな軌道を描いて飛び出した金色の光は、行くあてもなく森の木にぶち当たり、生木の表面に黒い焦げ跡と一筋の煙を残しただけで、力なく消えてしまったのだ。
 慌てて操縦席から飛び降りるサウラー。その背中に、やけに冷静な声がこう呼びかけた。
「甘いよ、おにいさん。人との約束をいとも簡単に破っておいて、自分だけ未来に帰れるとでも思ったの?」

 怒りを宿した少年の瞳が、きっとサウラーを睨みつける。
「おのれ・・・。一体何をしたと言うんだ!」
 焦ってもう一度部品を見なおしたサウラーは、ボンネットの付け根にもうひとつくぼみがあるのを発見し、舌打ちをしながら少年の方に向き直った。
「わかったぞ。部品はもうひとつあったんだな!」
 もうひとつのくぼみに同じ部品を取り付ければ、二枚の鏡が相対するような格好になる。その間でエネルギーを増幅させ、アンテナに飛ばしてタイム・リープの跳躍力を得るのだろう。
「ご名答。でもおにいさん、気付くのが遅いや。残念ながら、おにいさんにはもう渡せないしね。」
 少年はそう言いながら、その場から逃げだそうと身構える。ところがサウラーは少年に迫る気配も無く、ほぉっと大きな息を吐くと、力なくこう呟いた。
「ふん。今更部品を渡してもらっても、もう後の祭りだよ。」
 その感情の籠らない、そしてそれだけに真に迫った言葉に、少年はドキリと視線を動かした。
「ど、どういうことだよ。」
「君のせいで、貴重な燃料を無駄にしてしまったのさ。この時代には無い、高性能な燃料だ。僕はこのマシンの燃費を知らないがね。下手したら、このマシンはもう過去へも未来へも、跳ぶことは出来ないかもしれない。」
「そ・・・そんな・・・。」
 へなへなと膝から崩れ落ちる少年。暗い瞳のサウラーが、ゆっくりと彼に近付く。
 そのとき。目にもとまらぬ速さで、ひとつの影が二人の間に飛び込んだ。

「イースか。」
「サウラー!この子に何をする気!?」
 両手を広げ、少年を庇うように立ちふさがるせつなに、サウラーは相変わらず感情の籠らない声で呼びかける。
「ふん。何をする気か、その子に訊いた方がいいみたいだね。君もその子のせいで、もう元の時代へは戻れないかもしれないよ。」
「なんですって?」
「おねえちゃん・・・おねえちゃん・・・ごめんなさい・・・。」

 少年は、涙ながらに話し始める。
 マシンがこの時代に現れてトラックの上に墜落したとき、偶然、対になった部品を二つとも拾ったこと。後から大切なものらしいと知って、部品を渡す代わりに、自分も過去に連れて行ってもらうことを思いついたこと。部品をひとつしか渡さなかったのは、サウラーを信用していなかったため。部品を渡してタイムマシンの構造や操縦方法を聞き出し、後からせつなとタルトを連れて、マシンを奪いに来るつもりであったこと・・・。
「まったく、そんな無茶な計画を・・・。そんなにまでして、過去に戻りたかったの?」
「・・・父さんと母さんに、頼みに行きたかったんだ。離婚なんてやめて、って。家族三人で、ずっと一緒に暮らしたい、って。」
 今のままでは、父か母、いずれはどちらかを選ばなければならなくなる。でも出来ることなら、自分は父とも母とも、一緒に居たい。
「ダメなんだ。俺はまだ子供で・・・どうしたって、父さんにも母さんにも迷惑をかける。こんな俺のこと、父さんも母さんも、本当は持てあましているに違いないし。
 だから・・・早く大人になりたい。でも・・・でも、そんなことは無理だから・・・。もし、父さんと母さんが別れる過去を変えられないんなら、俺なんか・・・」
「そうだね。そんなくだらないことを考えるくらいなら、君は生まれて来ない方が良かったかもしれないね。」
「サウラー!なんてこと言うの!」

 マシンにもたれかかり、口の端を斜めに上げながら腕組みしているサウラーを、せつなは厳しい目でにらみつけた。サウラーは少年をひたと見据えたまま、なおも言い募る。
「なんの力も無い子供である君は、誰か大人の庇護を受けなければならない。この世界では、そう決められているんだよ。
 ならばそれ以上のものを望まず、自分の運命を受け入れて生きていくのが、まともな人間のすることなんじゃないのかい?
 それが出来ず、自分の過去はおろか庇護者の過去まで変えたいなどと言うヤツは、最初から生まれて来ない方がマシさ。」
「違う!生まれて来ない方が良かった人間なんていないわ!」
「ほぉ。同病相哀れむというヤツかい?イース。君だって、ラビリンスのイースだったという事実からは逃れられない。その姿が何よりの証拠じゃないのかい?
 運命を変えたつもりになっているのかもしれないが、過去はどうあがいても、変えられやしないのさ。」
 勝ち誇ったようなサウラーの声に、少年は深くうなだれる。しかし、すぐ目の前から聞こえて来た、静かだが力強い声に、再びその顔を上げた。
「いいえ。変えるのは過去じゃない。未来よ。私はみんなから、そう教わったわ。」

 夕闇が迫り、さらに暗くなりかけた森の中。せつなの銀髪が淡い輝きを放って、涙で濡れた少年の目に映る。
「サウラー。あなただって同じよ。未来の全てが決められているわけじゃない。あなただって、そう望めば・・・」
「ふん、よしてくれ。僕は君と違って、メビウス様のお傍にお仕えすることこそが喜びだ!」

 サウラーの拳が、せつなを襲う。咄嗟に少年を突き飛ばしたせつなは、間一髪で攻撃を回避したものの、バランスを崩して転倒した。そのはずみで、リンクルンがケースから飛び出し、草むらの中へその姿を消す。
「あっ!」
「ふふふ。まずはここでプリキュアを一人倒しておけば、メビウス様もお喜びになるだろう。帰る算段は、その後だっ!」
「おねえちゃんっ!」
 そのとき。

――べちょん!
――バシン!
――ゴンッ!

 立て続けに響いた三つの音。その後に、何かがドサリと倒れる音が聞こえて、せつなはそろそろと顔を上げた。
 マシンを背にして、サウラーが仰向けに倒れている。どうやら倒れる時に、開けっぱなしにしていたマシンのドアで、後頭部をしたたかに打ちつけたらしい。
 その顔の辺りに落ちているのは、中身が散らばった赤い手提げカバンと、何やら白っぽい塊。その塊がむっくりと起き上がり、イタタ・・・と小さく声を上げた。
「タルト!」
 せつなと少年の声が揃う。ぴょこんと立ち上がって、得意げに親指を突き出そうとしたタルトは、そこで慌てたように口に手を当てると、急いで木の陰に隠れた。
「ん?」
 小首をかしげたせつなは、つかつかとサウラーに歩み寄る人影を見て、あぜんとする。
 肩で息をしながら手提げカバンを拾い上げ、散らばった中身を手早く元に戻して、せつなにニコリと笑って見せたのは――あゆみだった。

「うっ・・・。」
 サウラーが小さく呻く。せつなは急いでリンクルンを拾い、身構えた。
「あゆみさん。危ないから、こっちに来て。」
 しかし、あゆみは手提げカバンを握りしめ、サウラーの顔を見つめたまま、動こうとしない。
「あゆみさん!」
「うっ・・・イース・・・!」
 跳ね起きようとしたサウラーの体が、ぐらりとよろける。彼はそのまま地面に手を付くと、今度はよろよろと起き上がった。そんなサウラーをじっと見つめていたあゆみが、恐る恐る声をかける。
「あなた・・・お腹空いてるんじゃない?」

 せつなはハッとしてあゆみを見た。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。サウラーがこの時代の人々の助けを何も借りていないのであれば、彼はこの時代に来てから丸二日、何も口にしていない可能性が高いのだ。その状態で、マシンの部品を探して炎天下を歩きまわったり、あろうことか自分と格闘したりしていた。いくら体力のあるサウラーでも、ふらふらになって当然だ。
 遠征中のラビリンス幹部の食事は、基本的に本国から支給される。また、この世界の金銭も、日常生活に必要なくらいの少額ならば、支給されている。
 しかしここは二十五年前の世界。いくら現金を持っているとはいえ、貨幣自体が変わっているのでは、使いようがない。変わっていないのはごく一部の小額コインのみ。これではほとんど現金を持っていないのに等しい。
 自分は、少年やあゆみや源吉に助けられ、この二日間を何不自由なく過ごすことができた。そのことに改めて感謝しつつ、自分が全く気付くことができなかったサウラーの状況にひと目で気付いたあゆみを、せつなは驚きと羨望の眼差しで見つめた。

「ふっ。何を言ってるんだ、君は。」
 強がりを言う傍から、サウラーのお腹がグーッと派手な音を立てる。
 あゆみは急いで手提げカバンの中を探ると、可愛らしいピンクのリボンで結ばれた、ビニールの包みを取り出した。
「これ、お父さんへのお土産だったんだけど、あなたにあげるわ。友達が作ったクッキーで、凄く美味しいの。あ・・・ごめんなさい。さっきカバンをぶつけたから、少し・・・いや、かなり割れちゃったけど。」
「なっ・・・こんなものっ!」
 あゆみに対して圧倒的な力を持っているはずのサウラーが、口ごもりながら後ずさる。あゆみは臆することなく彼に近づくと、その手にクッキーの包みを握らせ、自分はくるりと踵を返した。
「そんなんじゃとても足りないわよね。あと、飲み物もいるし。待ってて、すぐ持ってくる!」
 急いで駆け去っていく少女の後ろ姿を、サウラーはクッキーの包みをしっかりと握ったまま、ただ呆然と見送った。

「良かったわね、サウラー。これだって、あなたにとっては決められた未来じゃなかったはずでしょう?」
「う、うるさいっ!何なんだ、あの女はっ!」
 クッキーの包みを握り潰さんばかりに力を込めるサウラーに、せつなが冷静な一言を浴びせる。
「食べておいた方がいいわ。また元の時代に戻って、私たちと相対したいのならね。」
「そんなこと・・・出来ると思っているのか。」
「やってみなければ、わからないでしょう?」
 じっと見つめるせつなの視線から、サウラーが目をそらす。そして、森の巨木の一本を見上げると、音も無くその枝へと跳び上がった。

「わっ、逃げたんか?」
「さすがに私たちの前じゃ食べにくいでしょ。」
 せつながタルトの言葉にニコリと笑うと、まだそこに座り込んだままになっている少年の顔を覗き込む。
 少年は、ズボンの左のポケットをごそごそと探ると、さっきと同じ鏡のような部品を取り出して、せつなの手に押し付けた。
「ありがとう。」
 せつなが再び、ニコリと笑う。その視線を受け止めきれずにうつむいた少年は、そのままギュッと細い腕に抱きしめられて、驚きに目を見開いた。
「・・・おねえちゃん?」
「ごめん。ごめんね。あなたが何かを抱えていることに気付いてたのに、何も聞いてあげられなくて。私たちが来たことで、あなたを追い詰めてしまったのかもしれないわね。」
「そんなこと・・・。」
「本当は、お父さんと仲良くしたいんでしょ?忙しくてなかなか一緒に居られないけど、もっといろんな話をしたいんでしょ?」
 少年の瞳に、涙が盛り上がる。
「だったら、あなたからそう言えばいいのよ。あなたから、いろんな話をすればいいの。そうやってお互いに歩み寄って・・・」
 そこでせつなの声が途切れたのを、少年は一瞬、いぶかしく思う。が、すぐにまた、落ち着いたアルトの声が静かに響いてきた。
「・・・お互いに歩み寄っていけば、きっとお互いの気持ちがもっとわかるようになるわ。そうすれば、一番いい方法が見つかるはずよ。だって・・・」
 そう言って、せつなは少年の体を離すと、微笑みを湛えた目で、彼の目を見つめた。
「だって、家族なんだから。」
 その言葉に、少年は照れ笑いのような笑みを浮かべながら、しっかりと頷いたのだった。

「おねえちゃん。」
 少年が、サウラーが消えた梢をちらりと見上げてから、改めてせつなに向き直る。
「あいつ、おねえちゃんのこと、『イース』って呼んでた。それがおねえちゃんの名前?」
 少し伏し目がちになったせつなが、それでも微笑を失わず、静かにかぶりを振る。
「それは、私がかつて呼ばれていた名前。今は違うわ。
 ある人と出会ってね、私の未来は変わったの。ううん、未来なんて持っていなかった私が、新しい未来をもらったの。」
「新しい・・・未来?」
「そう。まだ何も描かれていない、何ひとつ決められていない、眩しいくらいにまっさらな未来。そんなものを手にする日が来るなんて、思ってもいなかった。」
 せつなはそう言って立ち上がり、一層暗くなった森の奥に目をやる。
「過去ばかり見つめているとね。そんな未来が眩しすぎて、どうしていいかわからなくなるの。だから、私は決めたの。今を精一杯がんばるって。これから先のことなんてまだわからないけど、今を少しずつ積み重ねていくことで、未来を作っていこうって。」
「・・・僕にもあるのかな?新しい未来。」
「もちろん。あなたの中には、未来がいっぱい詰まってるわ。」
 せつなは、少年が自分のことを、背伸びした「俺」という言い方ではなく、いつの間にか「僕」と言っているのに気付いて、柔らかな笑顔を浮かべた。
 少年の方は、そんなせつなの顔を見て、何か違和感を覚えていた。何だろうと首をかしげて、その正体に気付く。
 薄明りに淡い光を放っていた銀髪が、今は光を放っていないのだ。一層暗くなった周囲に溶け込むように、少女の髪が黒々と見える。
 少年はそれを、日暮れとともにますます濃くなる闇のせいだろうと、また一人で勝手に納得した。

「さあ、もう遅いから家に帰って。お父さん、心配するわよ。」
「うん・・・。おねえちゃんは、どうするの?」
 少年の質問に、せつなは少し考え込む。
「あゆみさんが戻ってくるかもしれないから、待ってるわ。この部品をマシンに取り付けて、状態も確認しておきたいし。」
「・・・。」
 マシンと聞いて再びうつむく少年の顎に手をかけ、せつなはグイとその顔を上向かせる。
「大丈夫よ。私、精一杯頑張るから。それに・・・」
 そう言って、せつなは少年の耳に口を寄せた。
「・・・いい考えが、無いこともないわ。」
「ホント?じゃあ、大丈夫なの?」
 少年の顔が、わずかに明るくなる。
「ええ。だからあなたは安心して、あなたがやるべきことをやって。」
「・・・わかった!」

「なんや、急に元気になったみたいやな~。」
 せつなの後ろから、タルトがおどけた顔を覗かせる。
「返すの忘れとった。これ、あんさんのやろ?」
「あっ、そうだったわ。ごめんなさい。」
 タルトが、手に持ったものを少年に差し出す。それは、少年が昨日せつなに貸した、野球帽だった。
「あゆみはんがサウラーにカバンを投げ付けた時、中から飛び出したみたいや。ここで渡せて良かったで~。」
「ありがと、タルト。タルトも元気でね。」
「うっ・・・あんさんもなぁ!」



 涙もろいタルトの懸命の笑顔に手を振って、少年は森を後にする。街外れの通りまで来た時、彼はかぶっていた野球帽を脱ぐと、その内側に書かれたマジックのイニシャルに目をやった。
(K.T。・・・カオル・タチバナ。)
 近い将来、もしかしたら自分の苗字は、橘ではなくなるかもしれない。それでも、自分にとって父は紛れもなく父であり、母は紛れもなく母だと、今は確かにそう思えた。
 少年は、再び野球帽をかぶり直すと、今度は立ち止まらず、父の家までぐんぐんと駆けた。もしも父が家に帰っていたら、まずは父とまた、オセロで勝負するところから始めてみよう・・・そう思いながら。



 せつなは気付いていなかったが、せつなとタルトが、もう少年とは呼べなくなった彼と出会うのは、それから二十四年と半年ほど後のこと。せつながまだ、まっさらな未来をその手に掴む前のことである。


~第4章・終~


新-884
最終更新:2012年01月23日 21:26