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2-672

 今でもはっきりと覚えている。

 わたしが暗い闇の中で泣いていた時、差し伸べられた彼女の手。

 その手は、とても温かくて。

 きっと彼女の心も、こんな風に温かいんだろうなって、思った。

 それからも、ずっと。

 何度も泣きそうになったり、挫けそうになったわたしを、彼女はその手で助けてくれた。

 彼女とわたしのいる光景は、いつまでも変わらないと思っていたのに。

 ―――でも、それは、あっけなく壊れてしまった。


 ――――彼女はもう、わたしに手を差し伸べてはくれないだろう。

                    1

「…カオルちゃん!この新作のドーナツ、ちょー美味しいよ!!何個でも食べれちゃいそう!!」
「ラブ、口の周りにクリームいっぱいついてるわよ…ほら、ハンカチ」
「……全く…子供じゃないんだから。もうちょっと落ち着いて食べられないの?」
「ふふ、ラブちゃんよっぽどお腹空いてたのね」

 夏の日の夕方。
 ダンスレッスンの終ったわたし達4人は、カオルちゃんのドーナツ屋さんで、恒例になりつつある、練習後のおやつパーティをしていた。……程々にしないと、太っちゃうかな……。

 それはいつもの光景。
 わたしたちの、ずっと繰り返されてきた変わらない日常。

「あれ?美希たん、ドーナツ食べないで、何飲んでんの??」
「……パインジュースよ。あたしはモデルだから、ラブみたいに食べ過ぎたりしないの」
「へえ、美味しそうね。ねえ美希、一口だけ飲ませてくれない?」
「―――――…ヤだ」

 せつなちゃんの言葉に一瞬動きを止めたあと、それを断わり、美希ちゃんはまたストローでパインジュースを啜る。珍しいな。いつもなら飲ませてあげそうなものなのに。
 ……わたしだったら、喜んで飲ませてあげるのにな…そ、それにか、間接キスって事になるし…。

「……それはそうと、やっぱりその帽子、似合ってるじゃない、せつな」

 そう言うと、美希ちゃんは左隣に座ってるせつなちゃんのかぶっている帽子へ目をやる。

「ええ、素敵なものをありがとう、美希」

 大きな赤いリボンのついた、広つば帽子。
 この間の大雨の日、無理を言って美希ちゃんに付き合ってもらって、買ってきたもの。
 せつなちゃんがクローバー、そしてプリキュアに入った記念、って彼女にプレゼントしたものだけど、実際かぶっている所を見るのは今日が初めて。
 ……思った通り、すごく良く似合ってる。
 わたしは内心、自分が選んで贈ったものをせつなちゃんが身に付けてくれたことが嬉しくて仕方なかった。
 ほんの少しでも、彼女の傍に近づけた気がして。
 いつでもせつなちゃんの近くに、わたしが存在しているような気がして。

「……お礼はあたしより、ブッキーに言ってあげて。あたしは選ぶのに付き合っただけだし。…大体、元はと言えば、プレゼント贈るって言い出したのもブッキーだしね」

 美希ちゃんは素っ気なくも見える感じで言う。…今日の美希ちゃん、何かいつもと違う感じ…?それともせつなちゃんにお礼を言われて照れてるだけなのかしら…?

「そうだったの…ブッキー、本当にありがとう…」
「そ、そんな、お礼なんて……でもその帽子、きっと似合うって、わたし信じてた……」

 真っ直ぐにわたしを見つめて、真剣な顔でお礼を言うせつなちゃん。
 わたしは嬉しいような、くすぐったいような、そんな感じで彼女の顔から目線を外して。
 でも…喜んでもらえたみたいで、良かった……。
 何か贈り物をしたわたし自身が、せつなちゃんに幸せな気持ちをプレゼントされたみたい……。


「―――ホントありがとうね、ブッキー!せつなにこんな素敵なプレゼントしてくれて!!」


 一瞬、わたしの思考が止まる。

 ―――なんで、ラブちゃんが、ありがとうを、言うの?

 そんなわたしの気持ちに気付く訳も無く、ラブちゃんは明るい声で続ける。

「良く似合ってるよ、せつな~!なんかお嬢様っぽくて、イメージぴったり!」
「ふふ、ラブ、そんなに褒めると逆に嘘っぽいわよ」
「ウソじゃないよ!まあせつなは何でも似合うけどね。なんたってデキが違うもん!」
「……もう、あんまり言われると恥ずかしいわよ……」
「へへ…でもホントのホントに、せつなは何着ても、何つけても可愛くて、あたしの自慢だよ!」

 わたしの中の幸せな気持ちはかき消えていた。
 心の中に、代わりに嫌な思いが霧のように広がっていく。

 ―――わたしのプレゼントは、ラブちゃんにあげた訳じゃないのよ……?

 ―――あなたの恋人を着飾らせて、あなたを満足させる為じゃないのよ……?

 ―――どうしていつもせつなちゃんとわたしの間に入ってくるの……?

 ―――わたしのささやかな幸せすら、あなたは許してはくれないの……?

 ―――わたしは……

「……ちょっと!惚気るんなら家に帰ってからにしてくれない?……正直、一緒にいるこっちが一番恥かしいんだけど!」

 美希ちゃんが、呆れたような少し強めな口調で、二人をたしなめる様に言った。

「タハハ…ごめ~ん、美希たん。そんなに怒んないで~」
「ご、ごめんなさい、美希……」
「……ったく。少しは周りの目を気にしたらどうなの?」

 そう言って、美希ちゃんはチラッとわたしの方を見る。
 ―――え?
 なんだろう、今の……。
 もしかして、わたし、嫌な思いが顔に出てたかしら……?

                    *

「……とにかく、今後そういった行為は慎むように!いいわね、二人とも!」
「は~い……」
「精一杯、慎むわ……」

 二人の反省した様子に、さすがに美希ちゃんも言い過ぎたと思ったのか、気まずそうにジュースを飲む。
 ラブちゃんとせつなちゃんも、無言でドーナツを口に運んで。
 わたしはといえば、さっきまでの嫌な霧が、美希ちゃんの言葉のおかげか、ちょっと薄れてきた事にホッとしていた。

(ありがとう、美希ちゃん……)

 心の中でお礼を言う。危なくまた自己嫌悪になるところだった。
 せつなちゃんと一緒の場所に立っている事で満足しようって決心したのに。

 ……まだわたしは完全に想いを振り切れてはいない。
 ……せつなちゃんにプレゼントなんてしたのがその証拠だ。

(……しっかりしなきゃ)

 自分に言い聞かせる。このままじゃわたしだけじゃなく、ラブちゃんまで嫌いになっちゃいそうだから。
 わたしの勝手な片思いで親友まで失うなんて、最低だ…。
 自分のせいで、この光景を壊したくない……。

 そう考えながらラブちゃんとせつなちゃんへと目を向ける。

「…あれ?せつなちゃん、口にドーナツついてるよ?」

 上品に食べる彼女には珍しく、せつなちゃんの唇にドーナツの欠片がついている。

「あ、や、やだ……ちょっとボーっとしてたから……。ラブ、さっきのハンカチ……」
「―――いいよ。動かないで、せつな」

 そう言ってラブちゃんはせつなちゃんの顔に自分の顔を近づける。

 一瞬の出来事で、わたしは目を逸らす事も出来ず――――。



 せつなちゃんとラブちゃん。

 チュッ

 という軽い音と共に。

 二人の、唇が重なった。



 あまりの衝撃に、わたしはただ茫然とする事しかできなかった。


 顔が、離れた。
 せつなちゃんもラブちゃんの行動にビックリしたらしく、目を見開いたままで。
 その顔が、どんどん赤くなっていく。

「……これで取れたよ。せつな味のドーナツ、GETだね!」

 ラブちゃんは屈託なく言うと、唇をペロッと舐めた。

「ラ、ラ、ラブ!人前ではやめろって美希にさっき言われたばっかりじゃない!」
「あ!そうだった!!ご、ゴメンね、美希たん!」

 よっぽど動揺したのか、彼女らしくなく慌てた様子のせつなちゃん。
 さすがのラブちゃんも、怒られたばかりなのを思い出したのか、焦って美希ちゃんに謝る。

「…………」

 かなり怒っているのか、美希ちゃんは無言。

 わたしは、衝撃が去って行くのと同時に、どんどん悲しみが溢れてきて。
 このままだと、それが瞳から流れ出してしまいそう。
 そう思って、それを見られたくなくて、俯いた。 

 ギュッ。

(え……?)

 俯いたわたしの右手を、美希ちゃんの左手が握り締める。
 まるで、わたしの涙の栓を止めようとするように。
 美希ちゃんは相変わらず、無言のまま。
 わたしはそんな彼女を、伺うように上目遣いで見た。

「…………」

 美希ちゃんは何も答えず、少し遠い目をして、ジュースを口に運ぶ。

 チュッ

 っという音と共に、彼女はストローに軽く口をつけた。

                    2

「まったく、ラブにも困ったものだわ……ブッキーからも何か言ってあげればいいのよ。あの子、あたしが何か言ったところで、もう慣れちゃってて効きやしないんだから」

 こんな事言っている美希ちゃんの顔も、わたしにとって昔からの光景の一つ。

 練習からの帰り道。わたしは「新しい香水作ったから、感想くれない?」っていう美希ちゃんの誘いに応じて、彼女の部屋へ遊びに来ていた。……一人でいたら、さっきのラブちゃん達のキスシーンを思い出して、また暗い気分になってしまいそうだったし……。
 それに……。

「ま…まあラブちゃんだって悪気があってやってる訳じゃないんだし……」
「悪気が無かったら許されるってものじゃないの!天真爛漫だろうと、純粋無垢だろうと、周りに迷惑な行為をしてる時点で反省……ううん、猛省すべきなのよ」

 子供の頃から、ラブちゃんが何かする度に、美希ちゃんはこうやって呆れたような、それでいてちょっと諦めたような口調でわたしに言うのだ。もっとも、わたしは彼女の言うようにラブちゃんに意見した事など一度もなく……大抵、今みたいに少し困った顔で微笑むことしか出来ないのだけれど。

「……あ、折角来てくれたのにゴメンね、ブッキー。今飲み物持って来るから」

 そう言って美希ちゃんは部屋を出て行った。
 わたしは小さな溜息をついて、心の中で尋ねる。

(……どうしてさっき、わたしの手を握ってくれたの?)

 わたしの心の中を読んだかのように、握られた手。
 泣き出しそうだったわたしを、支えてくれた、手。
 小さな時からずっと変わらない、差し伸べられた、あの温もり。

 その答えを聞きたいのもあって、わたしはここに来たのだけれど。
 美希ちゃんの勢いに押されて、何も言えなかった。
 いや―――それだけじゃない。
 怖かった、んだ。

(美希ちゃんは、知ってるの?……わたしの、せつなちゃんへの想いを……)

 それを確認するのが、怖い。
 自分の邪な恋に、彼女は気付いているのだろうか。
 女の子に、しかも親友の恋人に対する哀れで、報われない恋に。
 だとしたら、きっと、美希ちゃんに嫌われてしまう―――。
 ……もしかしたら、もう軽蔑されているかも……。

(それは…それだけは、嫌だ……) 

 わたしの中の美希ちゃんは、気高くて、真面目で、潔癖な女の子のイメージで。
 わたしの歪な恋など、許してはくれそうではない。
 だから……たった一言が、聞けなかった。
 彼女を失いたくないから。
 隣に彼女のいる光景を、失いたくないから。

(美希ちゃんが、いなくなっちゃう……)

 その想像が恐ろしくて、思わず自分の肩を抱く。

(聞けないよね……やっぱり……)

 今度は深く、大きな溜息をわたしはついた。

「お待たせ、ブッキー。紅茶で良かったわよね?……どうかしたの?」

 美希ちゃんが飲み物の乗ったお盆をもって戻ってきた。

「あ、う、ううん!な、何でもないの!気にしないで!」
「……本当?なんかこの世の終わりみたいな顔してたけど……?」

 慌てて首を振るわたしを怪訝そうに見る美希ちゃん。

「……何かあるなら相談してよね。……友達、でしょ?」

 彼女は少し淋しそうに言う。
 その言葉と表情が、わたしの胸を締め付ける。
 でも……。

「わたしなら大丈夫だから……。そ、それより美希ちゃんの新作の香水に興味あるんだけど!?」

 ……わざとらしく話題を変える。
 今なら……答えが聞けたかもしれないのに。
 臆病な子だ、わたし……。

「…そう―――分かったわ。ちょっと待ってね」

 美希ちゃんはお盆をテーブルに置くと、ドレッサーの引出しから、黄色い小ビンを取り出した。
 そのままベッドに腰を下ろす。

「こっち来て、ブッキー。つけてあげる」

 言われるがまま、彼女の隣に座る。
 彼女はわたしの左手を取ると、手首に香水を、シュッ、っと軽く吹き付けた。

「……試してみて」

 わたしは手首を顔に近付け、その香りを吸う。

 不思議な香りだった。

 甘酸っぱくて、ほろ苦くて、なぜか胸が切なくなる……。

「……変わった香り……。美希ちゃん、これ何か効果とかあるの?」
「効果……は特に無いと思うわ。ただテーマを決めて作っただけだし……」
「テーマ?」

 聞き返そうと顔を上げると、美希ちゃんの顔がすぐそばにあった。
 彼女は、少し驚いているわたしの両手首を握ると、そのまま押しかかってくる。

(―――あれ?)

 そう思ったときには、わたしは彼女に覆い被さられるように、ベッドの上に倒れていた。

                    *

 視界の中には美希ちゃんしかいなくなっていた。
 澄んだ青い瞳。すっと高く整った鼻梁。そして、綺麗な…唇。
 それらがスローモーションのように近付いてきて。

 羽毛が舞い落ちるように、柔らかく、静かに。



 唇同士が、触れた。



 一瞬、わたしの頭の中が真っ白になった。
 何が起きているのか、まるで理解できない。
 その行為を拒否する、という当たり前の選択すら思いつかなくて。
 ただ甘んじて彼女の唇を受け入れていた。

 そんなわたしの無抵抗ぶりを、了承の印とでも思ったのだろうか。
 最初はただ、わたしの存在を確認するだけみたいに、軽かった彼女の唇の感触が、変わる。
 ただがむしゃらに、わたしの唇に押し付けてくるものへと。

 それは、奪う、って言葉が相応しいように、強引で粗暴な、圧力。
 そのうちに、それにも飽き足らなくなったのか、彼女の舌が、わたしの内へと侵入してきた。
 それすらも、放心してるわたしに拒む事は出来ず。 

 わたしの口内を、手探りでなぞるように、彼女の舌が這い回る。

 やがて、わたしの舌を見つけたそれは、歓喜したかのように絡み付いてきて。
 その動きは、まるで暗闇ではぐれた恋人に、やっと会えたかのよう。
 激しくて、一方的な抱擁を、わたし達の舌はずっと交わし続ける。


 まるで軟体動物の交尾みたい……。


 わたしは、ただそんな事を考えていた。



 どれくらいたったのだろう。
 視界の中から、美希ちゃんが消えていた。
 ただ荒い息遣いだけが、わたしの左耳から聞こえている。

 ちょっと、重いな。美希ちゃんって軽いイメージだったんだけど。あ、でも、わたしより身長あるし、こんなものなのかしら……。それとも―――もしかして太った?
 そうだとしたら、やっぱりカオルちゃんのドーナツ屋さんに行き過ぎなのがいけないと思うのよ。美希ちゃん、ドーナツ食べなくてもジュース飲むから…。それだって、結構カロリーあるわけだし……。
 モデルさんなんだから、そういうとこも気をつけなくちゃ。烏龍茶とか、そういうのにした方がいいんじゃないかしら?余計なお世話って怒られちゃうかもしれないけど。

 明日、言ってあげよう。

 明日。

 変わることの無い光景の中で。

「……喉、渇いちゃったね……。ブッキー、紅茶、飲む?」

 美希ちゃんは疲れたような口調でそう言うと、わたしの上から身を起こした。


 ショックで飛んでいた思考が戻ってきた。


「………………」 

 声が、出ない。
 身体が、美希ちゃんがどいたのに、まだ重さを感じている。
 彼女の方へ顔を向ける事すら出来なくて、わたしは、ただ天井だけを見つめていた。
 そこで初めて頬に違和感を感じる。
 濡れてるんだ……知らないうちに泣いてたみたい。

 今までの事が、現実なんだって、徐々に認識する。
 悪い夢でも見ていたと思っていたかったけど。
 ―――だって、こんな事あり得る筈が筈が無いから。

 美希ちゃんがわたしにこんな事をするなんて、あっていい筈がないから。

 わたしの心の光景の中で、子供の頃の美希ちゃんが微笑んでいる。
 その彼女なら、わたしに手を差し伸べて、ここから起こしてくれる筈。
 何よりも、私の事を心配して、大切にしてくれる筈。

 でも、そう思う一方で、分かってもいた。
 その光景は、もう砕かれてしまったんだと。
 もう修復する事の出来ないくらい、粉々に。
 他ならない、彼女自身の手によって。


 新しい涙が、頬を伝い、流れる。


 わたしの心になど気付かないように、彼女は続ける。

「その香水ね、良かったらあげるわ。元々その為に作ったものだから。……せつなにプレゼントあげたのに、ブッキーは何も貰ってないでしょ。……だから、あたしからの、プレゼント」

 美希ちゃんは淋しそうに、ちょっとだけ笑った。

 違うよ、美希ちゃん。
 わたしが聞きたかったのはそんな言葉じゃない。
 わたしが聞きたかったのは――――。

「―――『片思い』がテーマなのよ。それ」


 わたしは何も言わず、ノロノロとベッドから起き上がった。
 そのまま、置いてあった鞄を持ち、ノブを回し、部屋のドアを開ける。
 その間、わたしが彼女を振り向く事も、彼女がわたしに何か言う事も無かった。
 後ろ手にドアを閉める。
 なぜか見ていないのに、美希ちゃんも今のわたしと同じ表情をしてる事が分かった。
 悲しい、顔を。


「……やっぱり、知ってたんだね。美希ちゃん」


 わたしはそう呟いて、重い足を引き摺るように、彼女の家を後にした。

                    3 

 あれはいつの事だったろう。
 ……確か、小学校に入ったばかりの事だったと思う。

 近所の子供達と遊んでいて、草むらの陰にあった小さな―って言っても子供には充分大きくて深い―穴に落ちてしまった事があった。
 這い上がろうとしても、湿った土のせいで滑るばかり。助けを呼んでも誰も来てくれなくて。
 泣き疲れて、幼いながらに、わたしはここで死んじゃうのかな、って思った。
 そのまま、日も落ちて辺りも暗くなりかけた頃。
 彼女の―――美希ちゃんの声が聞こえた。

「ブッキー、そこにいるの!?」
「……み、ミキちゃん!」
「ちょっとまってて!」

 少しして、古びたロープがわたしの前に下ろされる。

「それつかんで、のぼってきて!!ここまできたら、あたしがひっぱってあげる!」

 わたしは必死に、そのロープを掴んでよじ登った。
 そして、わたしの前に差し伸べられた、彼女の手。
 それに縋って、わたしは穴から出た。

「……だいじょうぶ!?どこもケガしてない!?」

 わたしに声をかける美希ちゃん。
 その姿を見たとき、逆にわたしの方が不安になった。

「ミキちゃんこそ……ボロボロじゃない!!」

 おそらくわたしを探してる最中、転んだり、引っ掛けたりしたのだろう。
 いつもオシャレだった彼女の服はあちこち破けてボロボロで。
 身体も、いたる所擦り傷や切り傷だらけ。
 とても、将来モデルになりたい、って夢を持っている子の姿ではなかった。

 それでも彼女は、わたしの手を握り締めたまま言ったのだ。

「いつもとかわらないよ!あたし、かんぺき!!」

 ……いつもそうだった。
 わたしが不安そうにしていたり、怯えたりすると彼女はいつもそう言って、笑う。

「でも、ち、でてるし……おようふくだって……」
「こんなのいたくないよ!ふくだってっこれしかないわけじゃないし!」
「でも……」

 なおも心配するわたしを、彼女はギュッっと抱き締めた。

「ブッキーがぶじなら、いいの!それがあたしの、かんぺきなんだから!」

 そんな彼女の目は、わたしを探している間ずっと泣いてたのか、真っ赤に腫れてて。
 わたしはそれを見て、また泣き出した。

「なかないでよ、ブッキー……。」
「……だって……」
「あたし、ブッキーのわらってるかおがみたくて、がんばったんだから。だからわらって。これからだってブッキーがなきそうになったら、いつだってたすけてあげる。だから……」

 わたしは涙を拭うと、心配そうな彼女に笑いかけた。

「……うん!わたし、しんじてる!」


 その約束は、破られる事は無かった。

 彼女は、それからも、いつもわたしを守ってくれていた。
 辛いときや悲しいとき、真っ先に駆けつけて手を差し伸べてくれるのは美希ちゃんだった。
 幼い頃からわたしにとって、彼女は何より頼れる存在であり、憧れであり、親友だったのに。

                    *

「あら、お帰りなさい、祈里。早かったのね。美希ちゃんのとこに寄って来るんじゃなかったの?」
「……ただいま……お互い練習で疲れてたから、帰ってきちゃった……」

 涙の跡をお母さんに見られないように、と顔を伏せたまま、わたしは自分の部屋へと入った。
 背中でドアを閉め、崩れ落ちそうになる足を懸命に動かし、明かりも点けずベッドへと飛び込む。

「…………」

 頭の中がグルグルと回っている。
 美希ちゃんはどうしてわたしの想いを知っていたのか?
 なぜそれでも彼女はいつも通りに振舞っていたのか?
 わたしを嫌いになっていないのか?
 ……疑問ばかりだ。なんの答えも浮かばない。

 (それに―――)


 どうして、わたしに、キス、したの?


 一番大きくて厄介な疑問。
 それを考えた時、何故だか可笑しくなった。
 キス、なんて言葉が今まで思い浮かばなかった事に。
 それは―――あまりにもかけ離れすぎていたから、だと思う。
 わたしの中での、キス、ってイメージと。
 した事は無いけど、それはもっと甘くて、ロマンチックで、素敵なものだと思っていた。

 ……今日見たラブちゃん達みたいに……。

 ――わたしは頭を振ってその影像を打ち消すと、美希ちゃんと交わしたそれを思い出す。
 あれは…違う。最初こそ優しいものだったが、その後の荒々しさはまるで嵐のようだった。
 乱暴で、いやらしくて、深い――――――。

(……蹂躙、って言うんだっけ)

 あの行為には、その言葉が一番しっくり来る。
 そうじゃなければ、略奪、だ。
 涙が滲んでくるのが分かる。
 まだ残っているあの感触を消し去ろうと、左手の甲で唇を擦る。

(……どうして、こんなヒドイ事……)

 わたしの知っている彼女は、こんな事をするような子じゃなかったのに。

(……美希ちゃんがわたしを泣かせた事なんて、あの時だけだったな……)

 わたしの信頼は裏切られてしまったんだろうか。


 ―――違う、わたしが彼女を裏切っていたんだ。


 自分の許されない恋を、彼女に告げずにずっと隠していた。
 一番最初に相談すべき相手なのに、それも出来ずに。


 ―――だから美希ちゃんは怒って、わたしにあんな事したんだ。


 だとしたらこれは―――美希ちゃんを傷付けた分、わたしが負うべき、罰。

(―――もう、美希ちゃんに会えない………)

 それを考えた時、なんともいえない喪失感を感じた。
 胸に……埋める事の出来ない大きな穴があいたみたい……。

 プリキュアも、クローバーも、今後一緒にやって行く事は……出来ない。
 彼女の隣に、わたしが立つ事も。
 彼女の前に、姿を見せる事も。
 ……きっと美希ちゃんは許してはくれない。

「…ごめんね、美希ちゃん……ごめんなさい……」 

 わたしの目から、また涙が零れ始めた。


                    *

 その時、左手首から、フッ、と香水が香った。



『―――『片思い』がテーマなのよ。それ』



 美希ちゃんの、淋しそうな声。

 その声が、もう一つの意味をわたしに教えてくれる。

 混乱して見失っていた、最初に思いつくべき真実に。






「―――美希ちゃん、もしかしてわたしの事…………」





 そう思った途端、全ての疑問が氷解していく。


 美希ちゃんはどうしてわたしの想いを知っていたのか?
 ―――彼女は、見ていたんだ。いつでも、わたしだけを。


 なぜそれでも彼女はいつも通りに振舞っていたのか?
 ―――彼女もわたしと一緒で、必死に想いを隠していたから。


 わたしを嫌いになっていないのか?
 ―――有り得ない、だって・……。




 どうして、わたしに、キス、したの?
 ―――………好き、だから。




 なんでそれに気が付かなかったのだろう。


 ……わたしが彼女の方を見ていなかったから、だ。
 わたしには、せつなちゃんしか見えてなかったから……。

 そこまで思い至った時、嫌悪しか感じていなかった彼女との行為が、胸の痛む、愛しいものへと変わる。
 抑えていた感情を爆発させたような、不器用で、哀しいキス。
 もしせつなちゃんに……キス……するような事があったら、わたしも同じようにするかも知れない。
 一瞬でも永く、強く、自分の存在を相手に焼き付けるために。

「……美…希…ちゃん………」

 暗い部屋の中で、わたしは美希ちゃんを今までないくらいに近くに感じた。
 ずっと『親友』って枠の中に入れていたから分からなかったんだ。
 美希ちゃんもわたしと同じように苦しんでいた事に。
 こんなにすぐ傍にいた事に。

「……………」

 自分の左手を、見つめる。

 今でもはっきりと覚えている。

 わたしが暗い闇の中で泣いていた時、差し伸べられた彼女の手。

 その手は、とても温かくて。

 きっと彼女の心も、こんな風に温かいんだろうなって、思った。

 それからも、ずっと。

 何度も泣きそうになったり、挫けそうになったわたしに、彼女はその手で助けてくれた。

 彼女とわたしのいる光景は、いつまでも変わらないと思っていたのに。

 ―――でも、それは、あっけなく壊れてしまった。



 ――――彼女はもう、わたしに手を差し伸べてはくれないだろう。



 ――――――……だったら。



 ―――――――だったら今度は、わたしが手を差し伸べる番なのかもしれない。



 同じ闇の中で迷っている今のわたしに、可能なんだろうか。
 でも、おそらくそれが出来るのは、わたしだけなんだ。
 子供の頃に彼女がしてくれたように、わたしが彼女を引き上げてあげたい。

 わたしは涙を拭いて、ベッドから起き上がった。
 ―――美希ちゃんに会わなければいけない……。
 どうすればいいのか、何を言っていいのかも分からない。
 でも―――。
 リンクルンを取り出し、彼女の番号を押す。


 変わらないと思っていた、今までの光景は壊れてしまったけれど。

 ここからまた新しい光景が作られていく事を……わたしは、信じたい。


 リンクルンに彼女が出るのを、暗闇の中、わたしはずっと待ち続けた。






                                了

4-136へ続く
最終更新:2011年07月25日 19:32